02 思い出せない過去の夢(2)
「宿駅?」
「貸し馬屋でもあるな」
宿駅は行商人や旅人たちが使用する宿泊施設だ。隣の馬小屋は貸し馬といい、次の宿駅まで馬を貸りられる仕組みになっている。
ヤシロは自分の馬を休ませたいときに、貸し馬を利用するそうだ。先程もその帰り。自分の馬を預け、貸し馬で村に行商に行って来たのだ。
ちなみに、私の顔を思う存分舐めてきたのはヤシロの馬だった。
「カナラを知っていたから、あんなに懐いていたんだね」
宿駅はこぢんまりとした内装だ。一階が共有部屋で二階が客室となっている。招かれた共有部屋には、丸テーブルと椅子が乱雑に用意されていた。各々好きなように使っているらしい。暖炉の前で毛布に包まり、コートのフードを被ったまま船を漕いでいるおばあさんがいた。セイクは人差し指を唇の前に立てる。彼女は朝の一仕事を終えて休憩しているそうだ。
暖炉には、おばあさんが用意してくれた鍋とやかんが鉤にかけられていた。本日の朝食は豆のスープ。やかんにはホットミルク。保存食用の固いパンがひとつ。朝食をセイクは慣れた手つきでテーブルに並べてくれる。手伝おうと席を立てば、いいから座っててと促された。
「マーガレットはお転婆だが、神経質なところがあるからな。知っている顔を見つけて安心したんだろう」
ヤシロの馬の名前は『マーガレット』。雌馬。
「私としては迷惑だったよ」
「動物に好かれるのは悪いことじゃねぇぜ?」
「そうかなぁ」
ホットミルクが注がれたカップは温かい。両手で包み込めば、掌にじわじわと熱が伝わってきた。口をつけようとしたところ、小瓶が置かれた。蜂蜜のラベルが貼られた小瓶に驚いて顔を上げれば、セイクが席に座った。
「それ、ヤシロの奢り。ホットミルクは初めて? 蜂蜜を入れたほうがおいしいよ」
「おい待て、セイク。いつの間に俺の商品を持ってきているんだ」
「そういえば、カナラも見たかな。牧草で走っていた一頭。あの馬は気性が激しくてね。そこで眠る彼女の夫、この店の店主である彼が落馬しちゃったんだよ。それで腰を痛めてしまって、ヤシロが村の医者に診せる仕事も増えたんだよ。あの馬、自由に走りたいだけだから放っておけば戻ってくるんだけどね」
ヤシロを無視して、私が来る前に起こった出来事を話し始めた。にこにこと話し続けるセイクに戸惑い、ヤシロに視線を送れば小瓶を指された。無視して飲めということらしい。
「セイクの悪い癖だ。ほっとけ」
スープを口に含むヤシロを見てから、私は小瓶の蓋を開けたのだった。
私の勘違い。セイクは宿駅の店員ではなかった。違うよと実にさっぱりとした返答だった。
「エプロンをつけて食事の用意に慣れていたから」
「あ、これね。これ。うん、そうか。エプロンってそういう効果があるんだね」
綺麗に完食したヤシロが苦々しい顔になる。
「こいつも俺と同じ、ここの客だ。今は大変ありがたいことに、旅の連れになっている」
「僕としては、一緒に旅をするなら女の子ほうが良かったんだけどね」
「俺も野郎なんざ願い下げだ」
仲がいいのか悪いのか、二人のやりとりを聞きながら残り少ないホットミルクを飲む。行商人のヤシロはまだしも、セイクの目的はなんだろう。商売がら、ヤシロは怪しまれないように身なりには気を遣っていた。いつも身綺麗にしている。話によれば、いざというときの一張羅もあるらしい。それに対してセイクはそこまで気にしていない。外見だけでも目立つのに、服装は明らかに使い古しのものだ。エプロンにはところどろ汚れがある。染みにしてははっきりとした色がついているあたり、絵の具だろうか。
「ねぇ、セイクは」
「そんなことよりも、僕はカナラの話が聞きたいな」
遮られたかと思えば、私に話題を振られた。会話からだいたい掴めてきた。セイクはあまり人の話を聞かない。
「ね、だめ。空の子?」
小首を傾げられる。『空の子』と呼び名までつけられていた。困った。どうしよう。ヤシロに助けを求める視線を送れば、頬杖を突いていた。ありありと面倒臭そうな表情をしている。
「カナ嬢。厄介な奴に好かれたな」
ヤシロの眼差しには同情が込められていた。
「こいつ、人じゃねぇぞ」
「えっ?」
「やっぱり気づいていなかったのか」
セイクを見返した。物珍しい白髪に薄紫の目。中性的で柔らかい端麗な顔立ちに、どこか抜けたような話し方。童顔の先生や吊り目のしー兄と違う清らかな雰囲気を纏っている。でも、それだけ。外見は人にしか見えない。
他種族の話は先生から聞いていたけれど、実際に会ったことはなかった。人以外の種族は減少しつつある。種族によっては希少種と呼ばれる存在もいるそうだ。
「ちなみに、そこにいる彼女は獣人だよ」
「えっ!」
おばあさんは静かに眠っている。おばあさんもセイクと同じ。人と変わったところはない。
「俺が行商に行った村は獣人の集落だ。良くいえば保守的、悪くいえば閉鎖的な獣人の集まりだな。余所者を恐れるが作物は売りたいし、物は買いたい。それで俺のような行商人が必要になる。村の外に宿駅を作り、交代制で管理しているんだ。ここら一帯はそういった獣人たちが点々といるな」
「でも、街道に線路が敷かれるんだろう。蒸気機関車が走るようになれば、国から宿駅の撤廃の命がくだる」
「行商を続けたい俺としても困るんだがな」
街道が線路になれば行商ができなくなる。駅舎が建たなければ村が孤立する。国は他の町や村に引っ越すよう勧告をしているが、嫌がる種族もいるのだ。
ヤシロは椅子の背もたれに腕をかけ、おばあさんに体を向けた。
「なぁ、婆さん。どうせ聞き耳を立てているんだろ。蒸気機関車が通ったらどうするんだ。そろそろ他種族と暮らす決心でもしたらどうだ」
返事はない。目を閉じ、ぴくりとも動かないおばあさんにヤシロは肩を竦めた。
「村まで運んだ爺さんにも同じ話をしたが、どいつもだんまりだ。今じゃどこも他種族と暮らすのは当たり前だろうに」
「滅ぶのを望んでいるからね」
穏やかに、淡々とも聞き取れる口調でセイクは続けた。
「生き残るための変化を受け入れる種族もいれば、それを受け入れられない種族もいる。人は変化する生き物だ。発展性があるからこそ、ここまで数を増やしてきた。その血を穢しながら」
焦げ茶の目が眇められる。
「何が言いたい?」
「僕は事実を言ったまでだよ」
二人に険悪な空気が漂う。肌に刺さるような雰囲気に落ち着かず、空になったスープ皿に視線を落とした。これは、大人の、子どもが入ってはいけない会話だ。口を固く結び、目の前で行われているのに黙ってやり過ごす。
この光景をどこかで知っていた。一度だけじゃない。それこそ何度も見飽きるくらいに。そのたびにこうしてうつむいて、目の前の出来事から知らないふりをした。大人の会話だから私には関係ない。自分に言い聞かせて聞こえないふりをした。
話していたのは誰だっけ。
いつの間にか、スープ皿に蝶がとまっていた。橋を渡っているときに飛んでいた翡翠色の蝶だ。淡い光を纏った蝶は幻想的だ。ほろほろと落ちる鱗粉にまた惹かれた。今度こそ捕まえようと手を伸ばす。静かに、そっと、気配なく。
そうだ。綺麗な蝶を捕まえれば、あの人だって。
「ねぇ、あなた聞いているの! この子はまた嘘をついたの!」
苛立った女性の声音。ちがうの。私の発言は許されない。何を言ったってあの人に否定される。それならいっそ、何も言わないほうが。
「カナラ!」
顔を上げた。ヤシロとセイクが心配げに私を見ている。
「どうした。ぼぅっとしてたぞ」
橋を渡ったときもそうだった。誰かの声が聞こえて、気づいたら知らない場所にいた。頭痛がする。引っかかっているのに思い出せない。夜の底を手探りでかき回しているような、見えないものを探しているような感覚。
「そ、そうかな」
私は今、どこにいるんだっけ。今朝の記憶を辿る。いつものように起床して、しー兄と水汲みにいって喧嘩をした。しー兄を悲しませてしまった。そうだ。しー兄に謝らないと。先生としー兄のところに帰らなくちゃ。
私の大切な家族のところに帰るんだ。
「空の子、ちょっといいかな」
返事をする前にセイクは席を立っていた。端麗な顔立ちが近づけられる。緊張のあまり、ヤシロに再び助けを求めようとしたが動く気配はなかった。
「セ、セイクの種族は何?」
「神使だ」
紛らわすために質問したところ、ヤシロから意外な答えが返ってきた。
「神使って」
「あ、空の子にとっては僕が初めての神使? 嬉しいなぁ。初神使だ」
穏やかな口調は変わらず、目が細められた。透き通った紫水晶の瞳に吸い寄せられ、その奥が揺らいだ気がした。
「紡ぎ唄うは水鏡。映し惑いて覗くもの」
魔法の唄が紡がれる。射抜かれたような痺れがあった。探られ、見られ、覗かれる気持ち悪さ。これ以上はいけない。知られてはいけない。暴かれてはいけない。隠さなければ。また底に沈めるの。わからないように見つからないように深い夜の底に落とすように。
「目を見てはいけないよ」
頭の中で優しい声が響いた。よく知る声、先生だ。目隠しをされたみたいに視界が暗くなる。焦燥感が消えていき、徐々に呼吸が整う。
「これは絡まっているね」
セイクの呟きが聞こえたかと思えば、両肩に手を置かれた。
「ねぇ、空の子は精霊を見つけるのが苦手?」
耳元で囁かれる。頷くと笑った気配がした。
「もう大丈夫だよ。目をお開け」
目を開けるってどういうことだろう。私の視界は暗いのに。首を傾げれば、セイクがあぁと納得した。
「そう、無意識だったんだね。カナラ、君は目を瞑っているんだ。瞼の開き方はわかるだろう。夜の底から戻っておいで」
瞼を開ける。先程の光景が戻ってくる。宿駅の共用部屋。丸テーブルと椅子が乱雑に並ぶ暖炉のある場所。セイクが傍に立ち、ヤシロは渋い顔だ。
「お帰り、カナラ」
「……ただいま」
反射的に答えれば、いい教育を受けているねと褒められた。
「セイク、何かわかったのか」
「魔法をかけられているね」