#2 竜は物語を語れない
「それで、『私』に何の用かな?」
「今日は父親の顔ではないのね」
「君に父親の顔を向けてもね」
魔女の赤い指先がテーブルに封筒を滑らせた。箔押しの質のいい封筒に男は訝しむ。差出人の名前はない。不器用な手つきで封を切り、手紙に目を通した。
「……シィラ」
男は深く息を吐く。声がわずかに震えていた。
「彼は、クオンは、この世界にいないんだ」
「だからあなたが継ぐのよ」
「私がやっているのは、彼の真似事だ」
手紙は学園都市からだった。内容は男が希望していた支援金の回答だった。
森での生活は、元々が村だったからこそできている。空き家を改装し、生活必需品を拝借した。精霊樹の守りの恩恵を受けながらひっそりと三人で暮らせている。自給自足であっても、ある程度のお金はいる。疑似家族ができるまで気ままに旅をしていた男には、大きな貯金はなかった。
男が魔法生物の採取を始めたのは、クオンの真似事だった。
彼がやっていたように論文を書き、魔女に見せたところ学園都市に送るよう勧められた。乗り気ではなかったが物は試しだと送ってみると、意外にも評価されたのだ。それから何度か論文を送り、冊子の掲載料をもらっていた。
学園都市から、授業を開いて欲しいと熱烈な手紙は何度かきていた。謎が多い魔法生物は数が少ない。たとえ採取できても育てるのが難しい。精霊樹の森だからこそ魔法生物の観察ができているが、どこに暮らしているかは公表できず偽名を使っていた。
学園都市に関わりがあった魔女を通して手紙や金銭の受け取りをしていたが、支援金を受けたらどうだと提案された。
「あなたの研究は面白いわ。魔法生物で暮らしを豊かにできないかって素敵じゃない。扱いがわからず偏見で淘汰されるよりも、よっぽどいいわ」
男は悩んだ末、学園都市に手紙を送った。講師はできないが、今まで通り論文と必要なら教科書の原稿を送る約束をする。研究成果を自分ではなく学園都市の功績とする代わりに、支援金を送るよう交渉したのだ。
それを認める回答の手紙が届いた。
「どうして」
あの時代、クオンは見向きもされなかった。それどころか竜を研究する彼を変人扱いし、馬鹿にし、侮蔑し、恐れた。彼に友人と呼べる存在はほとんどいなかった。
ところがどうだ。自分はあっさりと認められてしまったではないか。
「どうして、私なんだ……」
手紙を握る男の視界が滲む。クオンが男に最後に送った手紙は、走り書きの読みにくい字で男への心配と研究の後悔が書き連ねてあった。『竜殺し』というかたちで注目されるとは予想していなかった。『竜殺し』によって、男は多くの同胞を失い、クオンが残した大半の本は焼却されてしまった。
時は流れ、竜への偏見は徐々に解かれていき、今では保護対象になっている。
だが、いなくなってしまった友人は二度と帰ってこない。
男が見たかったのは、彼がいなくなった世界で讃えられた功績ではない。彼が生きている世界で、その功績を讃えたかった。
「泣き虫なのは、昔から変わらないわね」
「……すまない」
男は手の甲で目を拭う。眼鏡についた涙を白衣の裾で拭いた。
「ねぇ、『語らずの黒竜』」
「なにかな」
「あなたは、これからどうするつもり」
穏やかな魔女の問いかけに、男は眼鏡を押し上げた。
「今の私には、大切なものができたんだ」
「えぇ、知ってるわ」
「可愛い娘と自慢の弟子なんだよ」
クオンがいなくなってから、最初は死に場所を探していた。ふらふらと目的もなく旅をして、竜砂になるのを待っていたが長命種の命は燃え尽きなかった。
そして、あの閉鎖的な村で空色の少女に出会った。酷く懐かしい匂いをした少女は、この世界で失ったと思っていた純粋な人の子だった。
「私を先生として父親として、慕ってくるあの子たちの傍にいたいという欲ができてしまった」
こんなはずではなかったと男はぼやく。
「困ったなぁ」
男はへにゃりと笑った。
「目的もなく歩き回るよりはいいと思うわ」
「それは君が最も嫌う自由をなくすことだよ」
「わたしはあなたじゃないもの。わたしの自由はわたしが決めるわ」
男は視線をティーカップに落とす。薄紅のハーブティーに映るのは、童顔の男の姿。最近、顔の皺が増えてきた。笑わなくてもくっきり残るようになった。体を洗っていたら白髪を見つけた。抜いてみると白銀の砂になって霧散した。目が霞み、体が疲れやすくなった。重たいものを持ち上げると腰を痛めるようになってしまった。この姿はクオンを真似たものだ。だが、クオンにはなかった劣化が始まっている。それが人のいう老化だと気づいてから愕然とした。
「シィラ、僕の寿命はいつかな」
死に場所を探していたのに、いざ命の灯火が小さくなると不安になってしまうとは滑稽である。あの子どもたちの傍にいくらいたいと願っても、一度始まったものは止まらない。
「竜にしては早くくるわ」
男は目を伏せた。この精霊樹の森を囲いにする代わりに、男は森から離れられなくなってしまった。今のところ森付近の村までなら問題ない。だが、体が弱っているのは確かだ。そのうち出歩けなくなり、人の姿すら保てなくなるだろう。
「いくら適合しようとしても、やっぱり私はここの世界の存在ではないんだなぁ」
異世界から召還された竜が、少女にかけた魔法をこの世界は許さなかった。禁忌だとは知っていた。だが、少女の記憶を眠らせるしか心を守る方法が思い浮かばなかった。
その代償として、この世界の神は竜の望みどおり、命を早く摘み取るらしい。
「予言しましょう」
未来を見透かす魔女は宣言する。
「あの子の魔法が解けたら、あなたは死ぬわ」
驚きがなければ、嘆きもなかった。奇妙なくらい男は落ち着いていた。望んでいたものが望まないかたちで手に入ろうとしていても、それなら仕方ないと受け入れていた。
「竜は理想の象徴だといわれたこともあったね。私はあの子に夢を見せている。夢が醒めれば、全て消えて当然だ」
魔女の責めるような視線に男は苦笑した。
「あなたっていつもそうね。そういうところ、昔から嫌いだったわ」
「そうか。それは残念だ」
男はハーブティーのお代わりをしようとティーポットを持ち上げる。ぽとんと一滴、薄紅の滴が落ちただけだった。
「わたしは未来ばかり見ているけれど、最悪の未来より、最善の未来を見ていたいのよ」
「予見した未来に干渉するつもりかい。役割に反しているんじゃないのか」
「予見は絶対ではないわ」
男は静かに尋ねる。
「……君はどこまで知っているんだい」
「例えるなら、本の一ページぐらいよ。できるのは助言ぐらい。結局どうなるかは、登場人物しだいよ」
魔女は複数の物事から予見するらしい。気まぐれに神の託宣が降りる巫女とは違う。この風の国の神官はいい顔をしないが、魔女の予見に信頼をおいているのは確かだろう。それでも確実ではない。外れるときもある。公開されなかった予見もあるはずだ。魔女たちは神使とは違うかたちで、この世界を守ろうとしている。
「わたしは魔女よ。巫女でなければ神使でもない。わたしは誰にも仕えない。誰にも靡かない。『紅玉の魔女』は自由なの」
目の前にいる魔女はそういう友人だった。自由を愛し、束縛を嫌い、魔女の堅苦しいしきたりを嫌った。予見をどうするか決めるのは魔女ではないという教えがあっても、自由を求める彼女はいとも容易く破るのだろう。
「忘れないで『語らずの黒竜』。わたしは魔女であると同時に、あなたの友人よ」
魔女の心強さには昔から助けられてばかりだ。底に残ったハーブティーを飲み干す。生ぬるい甘酸っぱい味が、喉を通っていく。
「すまない、シィラ。ありがとう」
死から逃れられる方法は、ひとつある。
それはこの世界に適合することだ。世界に受け入れられるには、住人の血を得る必要がある。この地で暮らし繁栄してきた人の血。それも、魔法を得るために混ざってしまった血ではなく、純粋でまっさらな人間の血だ。
古い儀式だ。血を受け取り、与えた人間の生涯を守ると誓う。
それを、『契約』と呼んでいた。
人の血は妙薬だ。欲しくないといえば嘘になる。あの少女が人以外の種族に好かれやすいのは、その血からきているのだろう。だからこそ、守りたかった。
独占してしまえばいいと、魔女に何度か誘惑されている。だが、男は父親だ。仮初めの家族であっても、いつか巣立っていく少女を見送りたかった。ただ、竜からくる独占心も否定できない。濁った感情に、未だに心などに揺り動かされるのだと傍観している自分がいた。
物語の結末は、男にはわからない。
「最近、あの子は外にも関心を持ち始めてね。森に通り道でも作ろうと思う」
もし男がいなくなったとき、突然、外に放り出されるよりは、家族以外の人間と交流しておいたほうがいいだろう。
「子どもは親の知らないところで成長するって聞くからね。それに、いつまでもシィラを仲介にして手紙のやりとりをするのは面倒だろう。郵便配達や行商人や旅人が見つけたら、辿り着けそうな道を考えておくよ」
「とうとう子離れするの?」
「それはもうちょっと先」
即答した男に、「すっかり親ばかねぇ」と魔女は呆れた。
「この命が燃え尽きようとも、あの子の夢が醒めるまで傍にいよう」
繋いだ手を、離すまでは。