01 忘れてしまった夜の底(3)
あの夜を境に、眠るのが怖くなくなった。
先生の言うとおりに、眠る前にヘッドホンをつけ、回転式の目盛り盤を回す。零から一、三、五と奇数に順番ずつ。そうして一周して零に戻れば、これが妖精への合図となる。精霊石がぴかぴかと点滅を始めたら、私はいつものお願いをするのだ。
「妖精さん、妖精さん。私が眠れるように歌ってください」
布団に潜り込み、目を瞑る。かさこそと囁く声が徐々に歌声に変わっていく。けれど、その歌を私は知らない。起きたらどんな歌かも忘れてしまう。心地よかった。その感覚だけが残る。
これを十四歳になった今でも続けている。
妖精のラジオのおかげで眠れるようになったけれど、ヘッドホンをつけた状態はちょっと寝づらい。起きたら頭にないのは珍しくなかった。無意識に外していたのだろう。
今朝もそうだ。ヘッドホンは枕元に置いてあった。片方の耳に当ててみるが何も聞こえない。妖精は夜しか歌わない約束だからと先生は言っていた。
ベッド脇のカーテンを開ければ、眩しい朝日が目に染みた。空は私と同じ目の色をしている。今日も快晴だ。それでも春先の朝晩は冷え込む。一晩、体を温めてくれた湯たんぽはとっくに冷めている。布団に潜りたい誘惑を振り切り、ベッドから下りて壁に貼りつけた暦を確認した。日付の下に書かれた文字に、私はよしと気合いをいれた。
「おはよう、カナ」
「おはよう、しー兄」
しー兄は暖炉に火をつけていた。ちょうど魔法の唄を紡いだあとだったのだろう。火の面倒は人が見るより、精霊に見てもらったほうが長く燃える。火花が散る暖炉の中で精霊が仕事をしている。でも、私には見えなかった。
「しー兄、今日はヤシロが来る日だよ」
「もうそんな時期か」
ヤシロは定期的にやってくる行商人だ。二十代中頃の青年で、生活必需品はもちろん、時々珍品も持ってくる。旅の話やヤシロの国の話を私は楽しみにしていた。ヤシロはまともに勉強なんてしていないと言うけれど、先生としー兄と同じくらいに博識だ。森の外をあまり知らない私に外を教えてくれる。ただひとつ残念な点を上げれば、子ども扱いしてからかってくるところだ。
行商の旅は何があるかわからない。予定の日に必ず来るとは限らないけれど、できるだけずらさずに来てくれた。大幅に遅れるときは手紙を送ってくるあたり、根は真面目なのだ。
「ヤシロ、へんてこなものを持ってこないかなぁ」
「そうだな」
平坦なしー兄の返事。聞いているのか聞いていないのか、適当な相づち。しー兄はいつもそう。私がヤシロの話をするとつまらなそうな態度をとる。火かき棒で暖炉の様子を見るしー兄の横顔は、炎に当たっているのになぜか暖まっていないように思えた。
しー兄は、ヤシロに興味ないのかな。
「カナ。水汲みにいこうか」
振り返った顔は、いつものお兄さんぶったしー兄だった。
毎朝の日課は水汲みだ。
都や町には水道が引かれているけれど、残念ながら森にはない。ヤシロ曰く、田舎の水汲み文化だそうだ。
「しー兄、いる?」
「んー、こっちだな」
私はバケツを一つ持ち、しー兄はバケツを二つ持つ。二人並んで森を歩く。しー兄が探しているのは精霊だ。精霊に泉の在処を教えてもらっているのだ。水の精霊が好む泉は澄んでいる。ろ過の手間を省けて便利だけれど、勝手に移動してしまうのが厄介。だからといって雨水桶だけでは水は足りない。近い場所に泉がないか精霊を見つけて尋ねているのだ。
精霊は肉体を持たず、波紋の姿で認識できる。精霊を見つけ、唄を紡いで使役する。
それが、魔法。
魔法に必要な精霊を、私は見つけられない。
見つけられなくても精霊を入れた精霊石があれば、唄を紡いで魔法が使えるのではないかとしー兄が提案してくれたこともあった。
でも、試した結果は変わらなかった。
魔法は誰にでも使えるはずだ。十歳になる前には精霊を見つけられるようになる。才能がある人は生まれたときから精霊が見えるそうだ。
稀に十歳を過ぎても見つけられなくても、数年後にできるようになった話もあるそうだ。だから心配しなくていいと、先生としー兄は優しい言葉をかけてくれた。
けれど、私は十四歳。四年も過ぎている。
未だに魔法は使えない。
「カナ」
しー兄が私を呼ぶ。
「カナラ」
言い直せば、知っていると返された。だったらどうして名前で呼んでくれないの。
「そう、暗い顔をするな」
そんなつもりはなかったのに、無意識にしてしまったらしい。
「ごめん」
しー兄が足を止める。自然と私も止まった。
「カナはさ、やっぱり魔法を使いたい?」
返答に詰まった。
「みんなが使えるからか?」
みんなができるから。しー兄の言葉を反芻させる。そうじゃないと否定しているのに、そうだとも言っている自分がいた。
「……どうして、そんなことを聞くの」
ようやく吐けた声はか細かった。
「なぁ、カナ。魔法は危険だとも知っているよな」
そのくらい知っている。使い方を間違えれば命を落とす。簡単な魔法ならまだしも、高度な魔法は国の許可がいる。過ちを犯せば、神様から罰を受ける。
「だから、私が魔法を使えなくてもいいって言うの?」
しー兄はいつもそう。私に過保護で、心配性で、お兄さんぶって、子ども扱いして。魔法が使えなくても私は十四歳だ。十四歳で働いている子もいれば、学校に通っている子もいる。それなのに、私は森で暮らしている。
いつまでたっても、先生としー兄に守られている。
「カナ、そうじゃない」
「そうだよ!」
ふつふつと込み上がった怒りをしー兄にぶつけた。寂しそうな顔なんて見たくないのに、腹を立ててさらに冷たい言葉を吐いてしまう。
「しー兄は、精霊が見えるから! 魔法が使えるから! だからそんなことが言えるんだ! 私はできないの。何もできないの! 同じなのに、同じものが見えないっ!」
ないものねだりだ。駄々をこねたってできないものはできない。それをしー兄にぶつけても、どうしようもないのはわかっている。わかっているのに一度吐き出したら止まらなかった。
「カナ」
それは、私の名前じゃない。
私じゃない。
「もう、いい」
両手でバケツを二つ持ったまま、立ち尽くすしー兄に背を向けた。
「私、一人で泉を探すから」
「なに言っているんだ」
「こないで」
拒絶にしー兄が凍りついた気配がした。私は今、とても酷い顔をしている。妹らしくない言葉に態度だ。最低で最悪だ。優しい人を簡単に傷つけた。
でも、私たちは家族じゃない。
どうしてそんなに、優しくするの。
「精霊が見えなくても、泉くらい探せるから」
しー兄とは違う方向に進む。声をかけられる前に私は走りだした。がむしゃらに森の中を走る。早朝の冷えた空気が喉に流れ、ひりひりと頬に刺さる。次第に息が切れだした。走りから歩みに変わり、からんとバケツを落とした。転がったバケツに視線を落とす。バケツが、視界が、滲み始め、私は目をこすった。喋ったら声が震えているのがわかるだろう。誰もいなくてよかった。
どこにもいきようのない感情が私の体を巡る。この怒りは、不安は、誰かに話しても解決しない。解決しない問題をしー兄にぶつけてしまった。
私にできるのは、待つことだけ。
いつかが来る日を待つしかない。いつか、いつか魔法が使える日を。先の見えないいつかを黙って待つしかないのだ。
いつかって、『いつ』なんだろう。
春先の木漏れ日はちっとも暖かくはない。森の近くにある山には雪が残っている。
そして、やっぱり泉の在処を教えてくれる精霊なんて見えなかった。




