#2 最後のビスケットが一枚増えたら
少年は、合成獣にした二本足の彼らを恨んでいなかった。
精霊樹の種を飲み込んでいなければ、野垂れ死んでいただろう。彼らは飢えてやせ細っていた子どもに、毎日食事を与えた。清潔な衣服と地下室という寝床を提供した。まともな言葉を話せないと知れば、丁寧に教えられた。子どもはこれから新たな進化の過程を刻むのだと教育された。今思えば偏った思想だったが、子どもは心を躍らせた。自分が憧れたものになれると疑わなかったからだ。もう無力な存在ではない、力があるものになれると期待に胸を膨らましていた。
彼らが話す『進化』という実験が始まってから、子どもの体は変化していった。最初は激痛が走り、痛さに堪えきれずに転げ回った。二回目は意識が朦朧とし、高熱にうなされた。徐々に感覚が麻痺していき、記憶が混濁して自分が誰だったか少しずつ忘れていった。
『進化』が終わるたび、彼らは子どもにビスケットを渡した。口の中に広がる甘さを噛みしめ、自分は幸福なのだと妄信した。褒められた経験がなかった子どもにとって、ご褒美のビスケットは自分が認められた証になっていた。大人は従順な子どもが好きだ。おとなしく言うことを聞いておけば、ここにずっといられると思っていた。
けれど、その『ずっと』は続かなかった。
甘いビスケットは、なくなってしまった。
彼らの行いが魔法協会に見つかった。自分が作ったものを取り上げられるよりはと考えたのだろう。子どもは外に放り出された。行けと言われ、わけもわからずひたすら走った。走って見つかって追いかけられて、隠れては食べ物を漁った。無意識のうちに、合成獣になる前と同じ生活をしていた。
少女に出会ってから、ようやく安心できる場所を見つけられた。だが、この姿ではいつまでも隣にいられない。
「望めば人になれるよ。私と違って存在が希薄ではないからね。そのときは人の名前があったほうがいい。君の拠り所になるだろうから」
黒竜の助言により、少年は『シスイ』という人の姿を得た。その姿は、合成獣になる前の大きくなった子どもの姿だったのかわからなかった。
わかるのは、この疑似家族の一人であること。
「しー兄、また伸びた」
少年は棚から朝食用の豆が入った瓶を取った。不満げにこちらを見上げているカナラに渡す。
「なにが?」
「身長」
少年たちは地下の食料貯蔵室にいた。昨年の年末に黒竜が頼んだ食料以外の肉を買ってきたせいで、年末年始は毎日肉を食べるはめになった。残った肉は薫製と塩漬けにしたが残り少なくなってきている。バターやチーズ、塩や砂糖といった調味料と小麦粉に余裕はあるが、野菜は心許なくなっている。菜園の収穫はもう少し先だ。そろそろ狩りに行くか、川に魚用の罠をしかけたほうがいいだろう。
「カナラは俺より大きくなりたいのか」
「だって、早く大人になりたいもの」
「子どもでいいじゃないか」
少年は作り置きしたパンが入った容器を抱えた。暖炉の火は黒竜が点けている。せっかく汲んできた貴重な水を、鍋からこぼしていないか気がかりだ。
階段に上ろうとした少年に先回りして、少女が通せんぼした。
「しー兄は子どもでいいの?」
「俺はカナラから見たら大人だ」
「先生から見たら、しー兄も子どもなのに?」
少女を追い抜かそうとした足が止まる。
「しー兄は、私と同じだよ」
「いや、でも、俺はカナラのお兄ちゃんだから……」
兄というのは年上の兄弟だ。少女から見れば少年は大人のはずだ。しどろもどろに答えると、少女は「ふぅん」と理解したようなしていないような返事をした。
「じゃあ、しー兄は私のお兄ちゃんでなければ、なんなの」
「それは」
シスイという存在から、カナラの兄を取ったら何になるのだろう。答えられずに黙っていると、どういうわけか少女の機嫌がますます悪くなっていった。
「もういい!」
扉が勢いよく開けられる。駆けていく小さな背中に、ただ立ち尽くすしかできなかった。
「喧嘩でもしたのか」
家の傍にある小屋は、魔法生物の研究室だ。いくら片づけても散らかす黒竜に何を言っても無駄だと、この二年で少年は諦めていた。本が積み上がり散乱した狭い室内で、少年は椅子の上で膝を抱えていた。背中を丸め、瓶の中でせわしなく動く鍵ネズミをどんよりとした目で見ていた。
「してません」
声に張りはない。黒竜は薄いコーヒーを飲みながら、本に目を通していた。
「カナラがしたって言ってたよ」
「喧嘩じゃありません」
第一、喧嘩の理由がわからない。少女が一方的に怒ったのだ。朝食では口をきいてくれなかった。声をかけても「知らない」とそっぽを向かれる。
「俺、何か悪いこと言いましたか」
「うーん」
間延びした声は呑気だ。他人事だと思ってと毒づきそうになったが、代わりに溜め息を吐いて誤魔化した。
「そういえば、前にもシスイがこうなったときがあったね。ここに暮らし始めた頃かな」
「あれは、カナラについてくるなって言われたから」
家族になって間もない時期だ。魔法をかけたばかりの少女は、いつも何かに怯えていた。魔法が解けて思い出してしまわないか不安だった少年は、少女を見張るようについて回った。黒竜が夢食い虫を使い始めてから落ち着いたものの、少女が「ついてこないで」と泣き叫んだときは酷く落ち込んだのだ。
「シスイは過保護だなぁ」
「あんたがいいますか、それ」
竜の性質は知っている。一度心を許した者には独占欲が強くなる。物語にでてくる宝物を守る竜のように、宝物だと思ったものには異常な執着をみせるのだ。にこにこと毒気のない笑みをしているくせに、この森に縛られた村人の魂を解放していない。あの少女は面倒な存在に好かれたなとつくづく感じる。もっとも、面倒といえば自分も否定できないが。
「シスイが大切に思っているのを、カナラはわかっているはずだ。そういう質問をしたのは、兄以外の答えを聞きたかったからじゃないかな」
兄以外と言われても、少年は思いつかなかった。なにしろ『シスイ』の役割はカナラの兄だ。自分はそういう存在なのだ。
「ほら、君は僕の弟子でもあるのだし」
そういえばそうだったと少年は顔を上げた。
「あれは、仕方なく……」
黒竜が魔法生物を研究していたのは、クオンという友人の真似事なのだろう。黒竜なりに、彼の意志を引き継ぎたかったのかもしれない。精霊樹の種が同化してしまっているシスイを人に戻すのは難しいかもしれないが、性質が似ている魔法生物や幻獣について調べていけば何かわかるかもしれないと黒竜は話した。今更、人に戻りたいかは答えられない。
だが、この世界で少女の隣で生きていくためには、合成獣では不利だ。
黒竜が与えた知識は、少年にとって非常に興味深いものばかりだった。少年は齧るように本を読み耽り、黒竜の話を丁寧に書き綴った。捕獲した魔法生物を一日中眺めている日もあった。
「きらきらした目で、先生、もっと教えてくださいって言ってくれたときは嬉しかった」
「そ、それはっ、カナラがそう呼んでいたから、同じ呼び方にしただけです」
何かに秀でている人を『先生』と呼ぶらしい。認めがたいが、少年にとって黒竜は師であるのは確かだった。
シスイの上擦った声に、黒竜は和やかに目を細めた。
「最初、僕は自分を知ることから始めようと話したね」
「……そんなことも言ってましたね」
自分が誰か忘れていた少年は、過去を徐々に忘れていく少女とは反対に、緩やかに過去を取り戻していった。今は無力で無知な人の子どもでなければ、あの二本足たちに従うだけの合成獣でもない。
「今の俺はシスイです」
「うん、そうだね」
少女にそう答えればよかったのだろうか。
けれど、それでは何か足りないような気がした。
「カナラはね、今じゃなくてもっと先を見ているんだ」
少女は早く大人になりたいと言っていた。
「シスイとカナラはすぐに背が伸びるなぁ」
少女が大人になったら、自分はいらなくなるのだろうか。
「シスイには、何かなりたいものはあったか?」
昔、同じ質問をされた覚えがある。
シスイは口を閉じたまま、瓶の中で種を貪る鍵ネズミを見つめていた。




