01 忘れてしまった夜の底(2)
妖精ラジオは今日も囁く。
幼い頃、先生から妖精ラジオをもらった。
あれは、眠るのが怖いと相談した夜だった。
この家に来てまだ間もない頃、幼かった私はいろんなものに怯えていた。この国では珍しい黒髪と目を持つ先生の黒色が怖かった。見張るようについて回るしー兄が怖かった。夜の森の静けさが怖かった。扉のノック音が怖かった。ベッドの下に何かが潜んでいる気がした。窓の外に誰かが覗きこんでいると思っていた。
ただひたすら怖かった。
特に夜が怖かった。頭から布団をかぶり、瞼を閉じ、眠りを待つ。緩やかに眠気がきたかと思えば、夜の深い底に沈んでいく感覚に怯えて目を覚ました。私という存在が眠りで遮断される。明日になった私はカナラではなくなるかもしれない。私が『私』を忘れてしまう。夜の底に落ちて、自分が見えなくなって、闇夜に溶けて自分がどこにいるのかわからなくなってしまうんだ。
私はここにいるのに。
ここにいるはずなのに。
その夜も眠れずに、幼い私は階段を下りて居間に来た。掃除せずに石敷きの床に溜まった砂埃がじゃりと鳴る。暖炉の傍で安楽椅子に座って読書をしていた先生は、起きている私を見て中指で眼鏡を押し上げた。これは先生の癖。困ったときにやる動作。
「カナラ、どうしたんだい」
私を安心させようとしたのか、不器用な笑顔をつくった。子ども心に、この大人は子どもの扱いが苦手なんだなと悟った。
先生は器用ではない。教育者とはいえない。子どもみたいな大人だ。整理整頓ができなければ、料理の味付けは壊滅的。魔法生物の研究に没頭すれば人の話は聞かなくなるし、本にかじりつくのはもちろん、研究室から出てこないのは日常茶飯事。たまに森を散歩してくると出かけたと思えば、帰り道がわからなくなってしー兄と一緒に探し行くのは珍しくない。そのくせ、私としー兄にはとことん甘かった。実年齢は教えてくれないけれど、しー兄は結構老けていると言っていた。童顔のせいで幼く見えるのが悩み。一時期、髭を生やして威厳をだそうかと本気で考えていたけど、しー兄に似合わないからやめてくださいと一蹴されていた。
どうしようもない人。それが先生。私の義父。
あの日の夜は、先生の黒色が不思議と怖くなかった。暖炉の炎に照らされた横顔はわずかに疲労の色が滲みでていた。研究はもちろん、不得意な家事をしようとして失敗していた時期だ。幼い私は後悔した。先生は疲れている。迷惑なら部屋に戻ろうか。迷っていると、先生は本を閉じて自分の膝を叩いた。
「おいで、カナラ。僕とお話しようか」
先生の好きなところは、私を子どもだからといって見下さないこと。拙い私の話を真剣に聞いてくれるところ。温かい眼差しで、何度も頷きながら頭を撫でてくれた。眠るのが怖いと。自分を忘れてしまいそうで怖いと。怖いものがたくさんあると。ぽつぽつと不安を口にすればするほど、そのうちしゃっくりがでて、鼻水がでるようになった。目頭が熱くなった。頭がぼうっとした。これ以上、私を迎えてくれた優しい人たちに迷惑をかけちゃいけない。ぐっとお腹に力を込めて堪えれば、先生は私を抱きしめてくれた。
「カナラは、七つの童話を知っているかな」
「しらない」
首を振れば、そうかと柔らかい声で頷いた。
「神様がね、この世界に落とした童話なんだ」
どんな童話かと尋ねたら、『黒のお姫様』の物語を教えてくれた。
昔々、あるところにお姫様がいました。
そのお姫様はたいそうわがままで、欲しがりでした。甘いお菓子をたくさん食べたい。綺麗なドレスをたくさん着たい。ふかふかのベッドで眠りたい。その他にも魔法生物に触れたい、幻獣を見つけたい、精霊樹を独り占めしたいとたくさん王様にお願いしました。
お姫様が可愛い王様は、欲しがるものをなんでも与えました。
ある日、お姫様は白い月が欲しいと言いました。
王様はこの注文に頭を抱えましたが、可愛いお姫様のためならと、天にも届く高いはしごを作らせました。
お姫様は大喜び。すぐにはしごを登りましたが、白い月は空の明るさに隠れてしまいます。
それなら暗い色に空を染めてしまえばいいと、お姫様は絵の具をつくりました。その絵の具は黒に似て、よく見れば薄い青がかかったような不思議な色をしています。覗き込むと吸い寄せられるような色でした。
お姫様はこれなら空を暗くできるだろうと、はしごを登り、その絵の具で空を塗ったのです。
すると、どうでしょう。
白色の月が金色に輝きだしたのです。暗い色が苦手な太陽は隠れてしまいました。
びっくりしたお姫様に、月が語りかけます。
「夜をくれてありがとう。わたしは太陽に輝きをとられていたんだ。あなたはわたしを欲しがっていたね。わたしをあげよう」
欲しかった月が手に入る。お姫様は喜びましたが、あることに気づきました。欲しかったのは白色の月。金色の月ではありません。
「私が欲しいのは、あなたじゃない」
すると、月は怒りました。金色ではなく血のような真っ赤な色に染まったのです。
「わがままなお姫様だ。夜の底に落ちておしまい」
はしごが大きく揺らされ、お姫様は足をすべらせてまっさかさま。地上を通りこし、深い深い夜の底に落ちてしまったのです。
落ちた瞬間、お姫様の白色のドレスは黒に染まりました。それはあの絵の具と同じ黒色でした。
黒のお姫様は、今日も夜の底でひとりぼっちです。
夜の絵の具で空を塗りつぶした黒のお姫様は、夜を司る女神になった。生きとし生けるものに休息を与える時間をつくった。けれど、魔に属する自分の子どもたち、いわゆる魔物には夜に眠れとは命じなかった。
「どうして、黒のお姫様はそんなことをしたの?」
眠りの時間を与えるなら、魔物にも与えればいいのに。そうすれば、魔除けの精霊の家を夜に吊さなくて済む。疑問を口にすれば、先生は間延びした声を上げてから、穏やかな口調で答えてくれた。
「きっと、命が欲しかったからだと思うよ」
「いのち」
「そう、命」
私の胸を指し、先生は頷いた。
「それこそ、等しくあるものだ。始まりがあって終わるもの。それが命。どんなに長く生きたっていつかは必ず終わりはくる」
「ずっとはないの」
「うん、ないよ。どんなに望んでも。それはね、あってはいけないものなんだよ」
永遠はあってはいけない。永遠があれば終わりが怖くないのに。どうしてそんな話をするのだろう。理解できない私の頭を撫でながら、先生は話を続けた。
「黒のお姫様は寂しがり屋なんだろうね。だから、魔物に命を狩りとってもらって、夜の底に運んでくるよう命じているんだ」
なにしろ、黒のお姫様は今日もひとりぼっちだから。
「黒のお姫様に友達はいないの?」
「何しろ、わがままだからねぇ」
眼鏡の奥で先生は目を細める。
「神様は人々が忘れないために、七つの童話を落としたんだ。その一番目の童話が『黒のお姫様』。七番目の童話は、まだ見つかっていないらしいけどね」
自分を忘れてしまわないように。覚えていてもらえるように。黒のお姫様は、一番忘れて欲しくない誰かがいたのだろうか。
「けれど、人は忘れる生き物なんだけどなぁ」
質問しようと開きかけた口は、先生の呟きによって閉じてしまった。
「そうか、カナラは眠るのが怖いんだね」
先生は膝の上から私を下ろし、腰を軽く叩きながら立ち上がった。運動をしていないと凝るなぁと呟きながら、階段を上がっていく。先生の部屋から物を盛大に落とす音がしたかと思えば、妙なものを抱えて戻ってきた。
「これをあげよう」
先生が運んできたのは、回転式の目盛り盤が二つ付いた木製の四角い物体だった。箱の上部には覗き窓があり、鉱物が設置されていた。青白い光が瞬く。精霊石だろう。
始めて見るものに私は目を輝かせながら、テーブルに置いた先生の周りをぐるぐる回った。先生は箱に繋いであった黒色の耳当てを私の頭につけた。
「これはヘッドホン。ここから声を聞くんだ」
両耳がヘッドホンによって塞がれる。
「これなぁに」
「妖精ラジオ。妖精の声を聞く道具だよ」
妖精は幻獣の一種だ。絶滅しつつある生物。痕跡は発見されているが、人の目に滅多に触れられない存在。竜や一角獣等が該当する。ずっと昔はたくさんいたらしい。人に寄り添うように。目にする機会も多かったと先生が教えてくれた。
妖精は小人の姿をしていると図鑑で読んだ。幻獣の声が聞ける。嬉しさで跳ね上がる私の頭を撫で、先生は目盛り盤を回した。ヘッドホンからざーと砂が流れるような音がしたかと思えば、かさこそと囁く声が聞こえた。
「先生、これが妖精?」
先生はヘッドホンを外すと、膝を落とし、目線を合わせてくれた。
「眠りの妖精にね、カナラのためだけに特別に優しい夢を届けくれるようお願いしたよ。眠るのが怖くないように子守唄を歌ってくれるって」
先生の黒色の目が私を映す。黒のお姫様が塗りつぶした夜と似た色をしているのに、よく見れば煌めくような温かいな光が灯っているような気がした。
そうか。先生の目には星があるんだ。
「先生、ありがとう!」
「どういたしまして。ヘッドホンをつけてから、目盛りを回して妖精に合図を送るんだ。妖精にお願いしたあとに目を瞑れば、歌ってくれるよ」
わかったと頷けば、先生も一緒に頷いてくれた。
「ねぇ、先生」
「なんだい、カナラ」
「先生のめは、おほしさまがやどっているんだね」
一瞬、先生は何を言われたのかわからなかったらしい。それもそうだ。幼い子どもの脈絡のない発言に驚いただろう。先生は目を潤ませ、口を片手で覆った。童顔がさらに幼くなる笑顔になった。ぐしゃぐしゃと私の頭を何度も撫でた。
「そうかぁ、そうかぁ。うん、嬉しいよ。ありがとう。カナラを見守るお星様になれたらいいなぁ」
今思うと、嬉しいときにするへにゃりと崩した笑い方は、しー兄とよく似ていた。