05 それでも私は生きたいから(5)
一日だけ夢喰い虫を貸してくれた。先生も夢喰い虫の膨らんだお腹に気づいていた。夢を食べてもお腹は膨らまないのにと首を傾げていた。
「夢ではない何かを食べたかもしれないね。魔法生物は精霊を引き寄せるし、引き寄せられるんだ。もしかしたら、精霊石の欠片でもうっかり口に入れたのかな」
背中の鉱物の成長が進んでいないから、お腹が空いていたのかもしれない。もし、吐き出したら見せて欲しいと頼まれた。
先生と別れ、路地裏から出た。いつもは重い足取りが今日は軽い。家に帰ったら母が夕食を作っている。その間に寝室に忍び込み、母の枕の下にこっそり瓶を入れおく。悲しい記憶を食べてもらうよう、夢喰い虫にお願いするのを忘れないこと。一日だけだからほんの少ししか食べられないけれど、母が楽になるのならそれでよかった。
そうだ。母が元気になったら、父の悲しい記憶も食べてもらおう。前みたいに仲のいい二人に戻ってくれれば、家の空気も暖かくなるはずだ。
「嘘つきエリー!」
家に向かって走っていると、魔法の才能がある男の子と取り巻きの二人が私を見つけて追いかけてきた。相手にしちゃいけない。無視して走り続ける。
「お前。最近、変なことをしているだろ!」
「変な旅人と何しているんだ!」
取り巻きが叫ぶ。旅人が先生を指しているのだとすぐにわかった。閉鎖的な小さな村に、長く滞在している先生が奇異の目で見られないはずがない。先生は気にせず授業をして、面白いものがないか森に入っているけれど、私としては嬉しいはずがなかった。
「先生は変じゃない!」
先生を知らないくせに、変と決めつけるなんて許せない。言い返したら、男の子たちは憤った。
「エリーのくせに生意気なんだよ!」
あっさり追いつかれ、背中を突き飛ばされる。転んだ瞬間、瓶を落としてしまった。割れてはいない。ほっとしたのは束の間、魔法が使えるあの男の子が拾い上げてしまった。
「なんだこれ」
「返して!」
「うるせぇ!」
取り巻きの一人に蹴られる。一瞬、息ができなくなる。もう一人の取り巻きに髪の毛を引っ張られ、顔を上げさせられた。苦痛で動けない私に、にたにたと気持ち悪い笑みを見せた。
「だっせーの」
「止まらないのが悪いんだ」
「なぁ、この変な生き物の周りに、地の精霊がたくさんいる」
しまった。男の子に気づかれた。手を振りほどき、掴みかかる。けれど、体格も力も適わず、頭を殴られてしまった。
「いいことを思いついた」
再び倒れた私に、男の子は冷徹に言い放った。
「この虫を使って、エリーに魔法を使う。お前ら、地の魔法を見てみたいって言っていただろ。最近、覚えたんだ」
取り巻きが目を輝かせる。起き上がろうとした私を掴み、羽交い締めにした。
「悪い奴はおしおきしなきゃ。ママがよく言っているからな」
私には精霊が見えない。だから、どんな魔法を使ってくるのかわからない。恐怖で震える私に取り巻きたちが囁いた。
「魔法に当たれば、それがきっかけで精霊が見えるようになるかもしれないだろ?」
「そうしたら、エリーの母さんも喜ぶかもな!」
お母さん。私のお母さん。魔法が使えない、精霊が見えない私のせいで、お父さんとの関係がさらに悪くなってしまった。
もし、本当にこれで見えるようになったら。お母さんは笑ってくれるかな。悲しい記憶を食べてもらわなくても大丈夫かな。
いい子なら受け入れるべきなのに、私はいい子でいられなかった。
「……いや」
「あ?」
お腹の底からふつふつと沸騰するように湧いてきた言葉が、口を通して発せられる。声は震えても、男の子から決して目を逸らさなかった。
「何もできないくせに。魔法が使えないと何もできないくせに。それでしか自分を見てもらえないくせに。それでしか友達を作れないくせに!」
男の子が顔を真っ赤に逆上した。
「うるさい! 魔法が使えないくせに!」
「使えなくても、私は私だもの!」
そうだ。使えなくても、私は生きている。生きられる。魔法なんてなくても、私はちゃんと立っている。
「あんたみたいに、私は魔法で友達を作らない! 家族を作らない! 私は生きるから。生きてみせるもの!」
「黙れって言っているだろおおお!」
怒号が飛ぶ。唄を紡ぎ、熱風が発生する。怒りに任せた魔法に、取り巻きの二人が危険を察して私から離れた。
鋭い針に似た枝が、連なり、重なり、私を刺し殺そうと飛んできた。逃げられない。何もできない。それなのに、どうしてだろう。無力であるのがちっとも悔しくなかった。
目を瞑っても痛みはこなかった。やけに静かだ。夜が訪れたみたい。今はまだ夕方なのに。おそるおそる目を開くと、私の目の前に黒い大きな丸い影があった。影には枝がいくつも刺さっている。私を守ってくれたと気づいたときには、隣に唸り声をだすあの子がいた。
「なんで」
どうしてここにいるの。路地裏からでちゃだめって言ったのに。なだめようと背中に伸ばした手を止めた。
あなたに矢が突き刺さっているのは、なぜ。
「魔物だ!」
「エリーが魔物を呼び寄せた!」
先程と態度を一変させ、男の子たちが怯えた目で私を指す。
「違う、魔物じゃない!」
そんな恐ろしい存在じゃない。優しくて、いつも傍にいてくれて。いざとなったら、約束を破ってでも助けに来てくれる。
私の大切な友達。
「エリー!」
振り返ると母が走ってきた。弓矢や農具を持った大人たちと一緒だ。あの子が大人たちの前に立ちはだかる。牙を剥きだし、敵意を露わにしている。このまま刺激すれば、村人たちを襲うかもしれない。この子は大丈夫だって説明しなきゃ。
「お母さん! あ、あのね」
「嘘つきエリー」
冷たい声が降ってきた。
「どうして嘘をつくの? お母さん、いつも言っているでしょう? どうして魔物と一緒にいるの? 嘘はだめって言っているでしょう?」
「ちが、違うの、お母さん」
「私はあなたの母親なのよ!」
金切り声に肩が跳ね上がった。体がぴたりと動けなくなる。震えて、うつむいて、視界が滲んで、足元が不鮮明になる。
「泣けばいいと思っているの!?」
責め立てる声に頭が真っ白になった。。
「あなたが隠れて変な旅人といるぐらい、お母さんは知っていたわ。早くその汚らわしい魔物を渡して頂戴。それはあなたと一緒にいたらいけないの」
お母さんはいつもそうだ。私の話をちっとも聞いてくれない。
「どうして、信じてくれないの」
「あなたが嘘つきだからよ」
お母さんはいつもそうだ。私が何を言ってもちっとも信じてくれない。
「どうして、いつもそうなの」
「あなたが悪いからよ」
私が悪いから。全部、こうなってしまった。
私が、魔法を使えないから。
ぼんやりと視線を動かすと瓶が転がっていた。男の子があの子に驚いて落としたのだろう。瓶には夢喰い虫と楕円形の小さな物体があった。夢喰い虫が食べていたものを吐き出したのだろうか。精霊石の欠片だと先生は予想していたけれど、植物の種のように見える。種にしては、青や赤に黄色と様々な鉱物が混ざったような不思議な色をしていた。
自然とその種に意識が吸い寄せられる。
奥底で閉じこめていたものを、一枚ずつ剥がされていくような妙な心地よさを感じた。
「いらない」
ぽつりと私は呟いていた。
「エリーナ……?」
「いらない。そんなお母さん、いらない」
ゆっくりと顔を上げる。私はよっぽど酷い顔をしているのだろう。あの人の顔がひきつっていた。
「私を無視するお父さんなんていらない。魔法が使えないからって、いじめる男の子たちなんていらない。私の友達をいじめる大人なんていらない!」
「だめだ、エリーナ! それは精霊樹だ!」
呼び止める声が先生だと気づいたのは、叫んだあとだった。
「こんな村、いらない! だいっきらい!」
ぺきりと奇妙な音がした。
種が、割れてる。
地面が揺れた。あの子が私を支えようとお腹に潜り込み、咄嗟に抱きついた。地面に亀裂が走る。村に罅が入ったように、いたるところに亀裂が広がっている。私と母の間にも悲痛な音を立てて亀裂ができた。
「お母さん!」
私の声に放心していた母が反応した。
「エリーナ!」
亀裂から芽がでた。芽は急速に伸び、樹木になる。次々と亀裂から芽吹き、成長を遂げる異常な光景に呆然とした。私と母の間にも立派な樹木ができあがろうとしている。すぐさま母に手を伸ばした。
あと少し、あと少しでお母さんに届きそうなのに。
母の指が、ぼとりと落ちた。
「おか、あ、さん?」
落ち葉のように乾燥した指が落ちていった。指から腕へ、首から胴へと母の体が枯れていく。目を見開き、口を開け、私に手を伸ばした母は一本の木になっていた。血を流さない、母の形をした枯れ木になっていた。
揺れが収まった。周囲は静まり返っている。辺りを見回し、絶句した。
村の人たちが、全て木になっていた。
「なに、これ」
「エリーナ」
突風が吹き、影が落ちた。空を仰げば、太陽を塞ぐ巨躯が視界に映った。蝙蝠に似た翼を羽ばたかせ、夕焼けの光を浴びて漆黒の鱗が鈍く光る。振り下ろされればひとたまりもない鋭利な爪に恐ろしさを感じても、優しい黒い目には見覚えがあった。
「先生?」
私の声が届いたのか、黒竜が旋回した。首から尾にかけて鬣に似た白銀の体毛が生えている。風に吹かれて輝く姿は厳かだった。
黒竜は降りる場所を探していたようだ。家を潰さないようにと私から離れた場所に降り立った。あの子と一緒に駆け寄れば、黒竜はなるべく場所を取らないよう体を小さくさせて座っていた。
「ごめんね、エリーナ。大きくなったらこの姿を見せるって約束したのに、守れなかった」
申し訳なさそうに長い首を下に向けた。聞き覚えがある温かな声は、やっぱり先生だ。
「先生! おかしいの! お母さんが木になったの!」
先生に抱きつけば、頭を鼻で軽くこすられた。私が落ち着くよう撫でてくれたのだろう。
「精霊樹だよ」
「精霊樹?」
「まさか、夢喰い虫が食べていたものが精霊樹の種だとは思わなかったんだ。ごめんね。もっと早く気づいていれば、こんなことにはならなかった。ごめんね」
先生は悪くないのに謝ってばかりだ。
「精霊樹って何?」
「精霊を生み出す木だ。強力な魔法を作るものでね。そのひとつに、種が芽吹くと願いを叶えるといわれている」
「願いを?」
種が割れる前に、村がこうなる前に、私は何をしたっけ。精霊樹の種に自然と目がいって、なんでも吐き出してしまってもいいような気持ちになって、それから。
「……私のせいだ」
「エリーナ、違うんだ。あれは心を」
「私のせいだ!」
私はお母さんになんて言った? 村の人になんて言った? ここをなんて言った?
「いらないって言った!」
取り返しのつかないことをしてしまった。私が村を壊してしまった。お母さんを木にしてしまった。皆、木にしてしまった。
体が震えた。体温が一気に下がり、心臓が動いているのに止まっているような感覚がした。村は静かなままだ。私以外に無事な村人はいない。私だけ、私のせいで、私がこんなことをしてしまった。
「先生。どうすれば、みんな、元に戻るの……」
沈黙が流れた。ほんの短い沈黙が、今は重たくてどうしようもなかった。
「戻らない」
落とされた答えはそれ以上に重たくて。
「ここにいる村人は、精霊樹になったんだ」
このときの私には、理解ができなかった。
理解できるほどの心もなかった。
何かがぷつりと切れた音がした。今まで堪えてきたものが崩れる音がした。地べたに座り込み、声も上げずに涙が溢れだした。あの子が頬を舐めているのはわかっていても、顔を上げる気力すらなかった。
「……エリーナ。僕の可愛い生徒、僕の可愛い宝物」
傍にいるはずの先生の声がやけに遠い。
「君に魔法をかけよう。君の心がこれ以上壊れてしまわないように」
頬に柔らかな風が吹いた気がした。
「君の心を眠らせよう。君に夢を見せよう。君がいつか目覚めるまでは、安寧を与えよう」
強い眠気に襲われ、意識が霞んでいく。傾いた体を抱きしめたのは、竜ではなく人の姿をした先生だった。
「エリーナ、起きたら僕を怒っていいんだよ。物語の中では、竜はいつだって悪者だからね」
眼鏡の奥で先生は寂しそうに笑った。
「そういうのは、慣れているんだ」
先生の、嘘つき。