プロローグ 牡丹に桜に紅葉の赤(1)
「お前に相応しい剣技は決まったー!!」
だがしかし、ユグドラシル大鹿さんは逃げ出した。
指差したまま、レイジは一人ぼっちです。立ち尽くしていました。
なに、あの鹿さん。大きいの、速いの、そして超臆病なの……。ボクを置いていかないで?
俺は今、ホームカントリーから東側の隣国に来ていた。
海沿いである南を除いた東、北、西から押し寄せる魔王軍のうち、東の戦線を勇者様が打ち破り、国交が再開されたからである。
――――観光だ。新しい美少女を求めての観光だ!!
『おにーさん、大変です!! お隣の国的には大変な事態です!!』
『我が国的には?』
『どうでも良いことですよー? ただ、隣国の冒険者ギルドから形だけの支援要請が届きましたー。相手はユグドラシル大鹿。それは恐ろしい、大変に恐ろしい魔物なのですよー!!』
『ティータ先生。ぬめぬめさんと、どちらが恐ろしい魔物なのですか?』
『ぬめぬめにさん決まってますよ? ……また、獲りに行ったら除名ですよ?』
ぬめぬめの塩揉み、ティータちゃんの瞳に彩光が戻るまで、一週間かかったからなぁ……。
でも、その分、事務的にテキパキとロボットのように業務をこなしていたので、むしろ良いとティータちゃんのお父さんには好評でした。もはや、無我の境地に達したらしい。
『ユグドラシル大鹿。その危険度は極大です!! 重大すら越えた、国家存亡の危機!! なんと、魔王クラスの一大事なのですよー!!』
『なんと!? そんなに恐ろしい魔物がこの世界に存在するとはっ!?』
『ユグドラシル大鹿。体長は五十メートル前後。主な攻撃方法は食事と逃亡。普通の鹿は木の芽や木の皮を食べますが、この大鹿さんは木そのものをモリモリと食べます。するとですねー、棲家を失った魔物が人里に下りてくるんですよー。恐ろしいですねー? それから、身体が大きいので人間の作った道を好んで歩くんです。大きな鹿さんが通った跡はデコボコ道ですねー。そして、最も恐ろしい性質。それは……臆病なことなんですよー!!』
『は? 臆病だと何が恐ろしいのでしょうか?』
『人間などを見かけると、全力で逃げて駆け回り、交易路がボロボロなのですよー。お塩が運べません。ご飯も運べません。兵隊さんだって動きにくくなります。その上、棲家を失った魔物が人里に降りてきます。最悪、国が滅びます。国土拡張のチャンス到来ですねー!! ……お隣さんの国は、大きな鹿さんをこっちに追いやろうと頑張ってるみたいですけどねー?』
大きくて、重くて、速くて、臆病で、食いしん坊。だから道路が超危険。
なんなんだ、その戦略生物兵器は!! ファンタジーにも程があるぞ!!
軍隊や傭兵団が現われた!! ユグドラシル大鹿さんは逃げ出した!! だが、誰も追いつけない!! 痛恨の一撃、主要道は重大なダメージを受けた。ついでに魔物が森から降りてきた!! 残念、あなたの国は終わってしまいました……。
間の抜けた理由だが、合鴨ファンタジア社会では最大級の脅威であることが理解できた。
橋を駆け抜ける際、蹴り足で石造りの橋すら破壊するらしい。映画などでよく見た、崩落する橋のシーンを自作自演するユグドラシル大鹿さん。もちろん、崩れた橋は自然にダム化。どこまでも経済に優しくない。
ユグドラシルの名を冠するのは、世界樹だってムシャムシャと食べちゃいそうだからだ。
世界樹に絡みつく竜、ニーズヘッグよりも物理的に世界樹を滅ぼせそうな大鹿さんでした。
地球、みな、何もかも懐かしい太陽系第三惑星の日本の言語。
猪の肉は牡丹肉、馬の肉は桜肉、鹿の肉は紅葉肉と呼ばれていました……。なぜ、同じ肉の赤だというのに、一頭だけ華由来ではなく葉っぱ由来なのか。その理由は、肉がとっても青臭いからだという一説が、あったりなかったり。
猟師も鹿だけは撃つのを避けるって言うしなぁ……。
たぶん、ユグドラシル大鹿さんも青臭い味なのでしょう。……うん、狩る気がしない。
あと、前口上の途中で逃げられるので狩れない。なんて卑怯な鹿さんなのでしょう!!
ちなみに極めて人畜無害です。馬車があれば飛び越え、兵隊があれば飛び越え、柵があっても飛び越える。はぐれたメタルロッカーよりも攻撃性の無い、心優しい大鹿さんなのでした。
『ボクはただ生きているだけなんだよ!? 酷いよ!! ボクが何をしたっていうんだ!?』
その心の声が聞こえてきそうで、不意打ちも躊躇われました……。
要所要所で待ち構える兵士達や傭兵達に罠の影。そして四方八方から撃ち込まれる魔法に矢。
あぁ、これは……ボクだ!! 幻影の兎アルミラージュに襲われたあの日のボクの姿だ!!
そしてボクは、ガックリと膝を崩したのさ……。ボクには……キミを狩れないよ。