第9章 4
朱華が苴州に入ってから一年になろうとしていた。
冬の足音が近づくにつれ、元々簡素な苴葉城が寒々しさを増していくように感じられるのは、気のせいには違いない。
朱華の私室の壁には毛織物がかけられた。そうすることで壁からの冷気を遮断することができるらしい。寒がりと評判の領主のもとには、様々な防寒対策が献上されている。
再び冬のくることに溜息を吐きながら、朱華は寝台に潜り込んでいた。夕瑛の準備してくれた湯湯婆を抱きしめていると、一日の疲れが癒されるとともに眠気が忍び寄ってくる。暖炉にはすでに火が入っている。その灯りだけが室内唯一の光源だった。
その時、控えめに扉が叩かれた。夢見心地から引き戻された朱華は、聞き間違いかと思ったが再び音が響く。夕瑛はとっくに退室しており、室内には朱華一人だった。王都であれば不寝番の女官が控えていたが、ここではそのような者はいない。ただし、扉の前には警備の兵が立っている。
朱華は不満げに溜息をつき、枕元に畳んでおいた室内用の外套を手に取った。それを羽織って扉に近づき、そっと開けるとそこには霜罧の姿があった。このような深更に彼が訪ねてきたことなど一度もない。非常時であっても、夕瑛を起こしてでも彼女を通すのが彼のやり方だった。
驚きのあまり言葉もない朱華に、霜罧は気まずげな表情を一瞬みせたが、じきに目礼した。彼の隣には不寝番の今夜の当番兵が立っている。
「――お休み中のところ、申し訳ありません」
「何か至急の用ね?」
「はい」
「すぐに支度する」
短いやり取りだけで、朱華は室内に取って返した。
急いで身支度を整えた朱華を、霜罧は一室へ案内した。
そこは朱華の出入りすることの少ない城の一角で、出入りの商人などが主に納品の際に利用しているという話だった。そのためか夜間の警備は薄く、人影もほとんどない。手燭がなければ廊下を歩くのも難しいほどだった。
室内には先客の姿があった。部屋の片隅に座っていた人物は、朱華の入室と共に立ち上がり、深々と身を折った。
「ご無沙汰しております」
朱華には一瞬垣間見ただけの容貌で、それが誰であるか分からなかった。その声を聴いて、驚いたように眉を上げた。
「――枳月殿ですか?」
「はい」
生真面目な表情を上げたその面は、焔の灯りでも分かるほどに日焼けし、その面差しも変わっていた。ただ、顔の半分が覆われていることだけは変わりなかった。
「雪が深くなってきたので、いったん切り上げてまいりました。療養と称しておりました手前、このような風貌で表から戻るわけにもいかず」
苦笑いしてみせるその顔は精悍さを増していた。
相変わらず前髪も含め長く伸ばし顔を隠すようにしているが、不揃いな毛先や無精髭が無頼を思わせ、以前の貴種然とした雰囲気を消している。柔和な表情は変わりないが、一見しての印象はまるで別人だった。
「……そうですね、すっかり日焼けなさって」
以前より明るくなったような表情につられるように、朱華もほっとした笑みを浮かべた。
枳月は療養のためと称して公の場から姿を消していた。最終的には苴州より温暖な王都へ戻ったことになっている。確かにその彼が、このようにすっかり日焼けした容貌で苴州城に表立って戻るわけにはいかない。
肌の色や面差しが変わるほどの過酷な任務を果たしながら、表立って動くこともできない彼の立場に、朱華は知らず知らず眉を顰めてしまう。それは彼が自ら志願したことであり、朱華の想いは安易な感傷に過ぎない。それは返って彼を侮っていることになってしまう。
「王都に戻る途中なのですが、私の主人は公、あなたです。きちんとご挨拶はしておきたかったので」
彼のことはごく一部のものしか知らないため、連絡には伺見を通している。夕瑛は勿論、列洪ですらそのことは知らない。この城ですべてを把握しているのは朱華だけであり、霜罧とて彼の正体とその任務について僅かばかり知っている程度だった。
「私は外したほうがよろしいですね」
一礼して辞そうとした霜罧を、枳月が止めた。
「霜罧殿も同席してください。あなたにも知っておいていただいた方がいいでしょう。国境地帯にまつわることは苴州の存亡をそのまま左右しかねません」
「――そうね」
霜罧が枳月の本当の両親について知っている以上、もう他に隠し立てすることはない。
室内に火の気はなかった。枳月が慣れた手つきで火を熾し、冷え切っていた空気を和らげる。何事も自分でできたほうがいいと教えてくれたのは彼だったことを、朱華は思い出していた。
炉辺に席をすすめられ、朱華はいったん遠慮した。だが、彼女が寒がりである事実は既に広く知られていることを指摘されると、厚意を受け入れるほかなかった。
枳月はことの進捗状況を簡単に報告した。
国境地帯の地図の作成は順調に進んでおり、あと数年もかからず出来上がる見込みだという。
地図作成の一行には伺見も複数混じっており、合間に翼波の言葉も教えている。葉の民と翼波の人々は容貌の特徴が明らかに異なっている。そのため言語を習得したところで間諜となることは難しいが、戦時の捕虜に混じって入り込むことは可能となる。翼波は葉へ侵攻する際に、盾の代用や使い捨ての奴隷として捕虜となった葉の民を同行させることもあるため、連絡をつけることも難しくはないだろうという話だった。
他にもそこから派生する諸々の事案があるという話だったが、それらは国家規模で進められる案件であり、苴葉公に一枚噛む余地はない。朱華に知る資格のない話もあり、枳月はそれでも話の輪郭をぼやかしながらも明かしてくれた。朱華を主人として仕えるという言葉を誠実に果たそうとしている姿勢は明らかであり、彼女にもそれ以上を求めることはできなかった。
主に枳月と霜罧のやり取りが中心となり、朱華は聞き役に回るしかなかった。理解できない部分もあり、そのあたりは霜罧に委ねるしかない。枳月にも霜罧には朱華以上に気を許している部分もあるようで、二人が子供のころに知己であったという事に随分助けられている。
朱華はただ辛抱強く二人のやり取りに耳を傾けていた。霜罧がようやく納得したような様子を見せ、枳月がそれに苦笑いで応じたのはいったい何刻だったか。
「今夜は城でお休みください。とは言え、自室をお使いいただくわけにはいきませんので、王都からの使者用の部屋をお使いください。それであれば、日頃からそれなりの支度が整っておりますので」
話に蹴りがついた途端、霜霖がそう言って立ち上がった。枳月の返事を待たず、手配してきますと姿を消してしまう。
後に残された二人は唖然として彼を見送り、暫く呆気にとられて言葉もなかった。
「……相変わらず強引で」
部下の独断を詫びる朱華に、枳月は首を振る。
「気を使って席を外して下さったのでしょう」
「そうでしょうか」
恐らく彼の言う通りなのだろう。だが、それを認めるのは何故だか癪な気がした。朱華にすれば気を回しすぎだと言いたいところだ。わざわざお膳立てしてもらわずとも、自分で選べる。それにそこまでして、朱華に枳月を選ばせたいというのか。それもまた気にくわない。
だが、恐らくそれは半分しか当たっていない。残り半分は枳月の言う通りだろう。同じ王族同士でしか話せないこともある。一方で枳月にも霜霖にしか話せないこともあるのだろう。
「そういえば、枳月殿のご忠告のおかげで今回の飢饉の被害は最小限ですみそうです」
「飢饉のことはお聞きしておりますが、私が何か申し上げましたか?」
「兵站を充実させておくようにとの忠告を頂いていました。そのために物資の調達量を増やしておいたため、後手に回らずにすみました」
朱華の言葉でようやく合点がいったようで、彼は微笑した。
「それはたまたま機会が重なっただけのことでしょう。ですが、幸いでした。冷害に対する公のお手並みは、私の耳にまで届いておりました。就任一年目にしては見事なものだというのが専らの評判のようですよ」
「枳月殿からの忠告や、列洪の気づき、霜霖の手腕などのおかげです。私は何もしておりません」
朱華は首を振って苦笑いした。
その評価は朱華の耳にも届いているが、自分のものとは考えられずにいた。自分の力や考えで成し得たことなど一つもない。ただ、有効だと考えられる献策に頷いただけのことで、それらの採用にも列洪と霜霖の二人が当たっていた。
馬鹿殿は有能な部下におとなしく担がれていればいいと言ったのは他ならぬ自分だが、なんとも情けない想いもあった。
「最終的に決定なさるのは公です。勿論あなたお一人で成し得たことではないでしょうが、全く無関係なわけでもありますまい。飢饉で多くの被害を出せば、最終的に責任を問われるのはあなたでもあります」
自分の功績ではないと考えることは、責任放棄ともなりかねないことを指摘され、朱華は赤面した。
「……責任を負う覚悟はあるのですが、それ以外に私にできること、できたことがなかったように思えて仕方なく……」
「最終的に実行するかどうかは決めることは責任重大です。何もしていないなどとお考えになるべきではありません……こう言っては何ですが、女王陛下ご自身とて、ご自分で発案決定なさることよりも、他人の提案を採用するかどうかをお決めになられることの方が多いのではないでしょうか?」
「それはそうでしょうけれど……」
「相変わらず自信なさげでいらっしゃいますね」
枳月は困ったような励ますような微笑を朱華に見せた。朱華は途方にくれたような心地で眉根を寄せる。途端にあどけなさが増した。
「どうすれば自信が持てるのでしょうか。領主たるもの自信を持ち、堂々と、とはよく言われるのです。不安を与えてはいけないので、公的な場ではそのように振る舞うよう心がけてはいるのですが。不安で仕方なく、怖くてしょうがないのが本音です」
「それで良いのではありませんか」
枳月はさらりと朱華の弱音を肯定した。愚にもつかないことと聞き流されたのかと、朱華は一瞬顔を曇らせた。
「長い付き合いではありませんが、公は生来そういうご性分なのではありませんか。そういうご気象で大役を担われるのは、大変気ぶっせいなことではありましょう。自信を持てと言われてそう出来る方なら、そもそもそのようにお悩みになられることもないでしょう」
窘められているのか慰められているのかどうか分からず、朱華は神妙な表情で沈黙する。そんな朱華の強張りを解こうとするかのように、枳月は微笑みかけた。
「できないものはできないと、明らめることも大切ですが」
「諦めることが、ですか?」
「諦めではありません。明らかにして勝つということです。自分の欠点や弱点を明らかにし、受け入れるということです。そうすることで克服する方法も見つかります。だからこそ、明らめて勝つとも言えるそうです」
朱華は驚いた顔で枳月を見た。彼は微苦笑し、肩をすくめた。
「偉そうなことを申し上げましたが、受け売りです。私自身、まだ我が物とできたわけではありません」
朱華は何度か口をぱくぱくさせた末、出てきたのは何とも情けない言葉だった。
「……分かるような、分からないような心地です」
「私もですよ。けれど、なんとなく分かりそうな気がしませんか?」
「……気持ちは軽くなりました」
朱華は肩の力の抜けたのを実感していた。枳月はそれは良かったと微笑する。
「自信がなくとも、自信があるように振舞えるならそれでいいのだと思います。不安な時も、不安など感じていない振りをする。焦ったときは落ち着いたふりを、泣きそうなときには微笑んでみる。表情だけでもいいそうです。形をとれば心もそれに次第と引っ張られるものだそうです」
「――気持ちがふさぐときは、とりあえず笑ってみれば次第に明るい心地になれるものだと言われたことはあります」
「同じことです」
穏やかな笑みで肯定されると、それまで澱のように感じていた疲労と眠気が醒めていくようだった。
「無理にこうしなければ、とご自分を追い込む必要はありません。ただ、その時に必要とされる表情や振りをなさることから始めれば、やがて心も追いつきましょう」
朱華は未だに理解できないままだったが、何かが腑に落ちたような気はしていた。こくりと子供のように頷くと、まるで幼子を褒めるように枳月がその頭を撫でる。朱華はそれに固まったが、彼は特に意識しての行動ではないようだった。
「ずっと気にかかっておりましたが、見事に就任一年目をお迎えになられましたね。ご自分でお考えになられている以上に、立派にお役目を果たされたと思いますよ。お傍でお力になれず申し訳ありませんでしたが、微力ながら私にできることであればご尽力させて頂きます。今後とも宜しくお願いいたします」
枳月は朱華の足元に跪くと、その手を押し抱くようにした。朱華は内心ひどく狼狽したが、それを隠すように悠然と微笑んでみせた。
「私こそ、よろしくお願いいたします」




