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雪の陰翳  作者: 苳子
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第8章 12

 王配のもとを辞した朱華は、その足で発つことになっていた。天守塔の前には馬が引き立てられ、出立の準備は整っている。苴州軍の本体は先に動き出しており、珂瑛も同行している。見送りは殆どなく、顔触れはここまで苴葉公に随行した者たちばかりだった。

 朱華は城を出るまでは具合の悪いふりをするつもりでいた。それが功を奏したのか見送る人々は少なかったのだが、何故かその中に寝込んでいるはずの義兄その人がいた。


「私に挨拶もなしとは冷たいね、義妹よ」

「……義兄上……」


 不意打ちを食らい、ふりをせずとも朱華の顔は強張り心なしか青ざめた。慌てて顔を伏せ、挨拶をする。確かに昨日の茈枳と比べると精彩に欠いていた。目の下の隈も目立つ。


「失礼いたしました。まだお休みと伺っておりましたので。私どもも先を急ぎますし」

「いやいや、咎めにきたわけではないのだよ。身分で言えば、苴葉公であるそなたの方が上なのだからね」


 朱華は伏し目がちに対峙しながら、昨夜の記憶を瞬時にたぐり寄せた。険のある声ではないが、昨夜の話題の延長ともとれる。先程の父との会話もある。


「そのようなことは……」

「あるのだよ、純然たる事実だからね。そなたとて理解しておろう?」


 彼はそう言うとにこりと微笑した。朱華は昨夜のことに違いないと確信した。

 やりとりを傍らで聞いていた霜霖がさり気なく間合いを詰めてきた。朱華はちらりと彼の顔を見たが、まだ黙って様子を見るつもりのようだった。


「何のことでございましょうか? 昨夜のことは全く覚えておらず、申し訳ありません。酷く酔ってしまったようで。かつてあれほど飲んだことはありませんでしたので」


 朱華は如何にも気分が悪そうに口元を押さえながら、虚ろな口ぶりで返した。


「ほぉ、そなたもかつてないほどだったと言うのかい?」

「はい。義兄上に負けるまいと杯を重ねるうちに限界を超えてしまったようで、途中から記憶がないという体たらくで。面目ございません」


 朱華は頭を下げた後、上目遣いに義兄を見た。


「義兄上のご記憶に昨日の醜態が留め置かれているのならば、お恥ずかしい限りでございます……」


 恥じると同時に込み上げてくるものを堪えるようなふりをして口元を押さえてみせると、彼は満更でもない表情を見せた。


「私もさほど明確に覚えているわけではないよ。なんにせよ、酒の席でのことだ。真に受ける必要はないだろう」

「……お互い様ということでよろしいでしょうか?」


 下手に出る朱華に、彼は「ああ」と笑った。


「では、宴席でのことは私は忘れることにいたしましょう。たかが飲み比べの勝敗などという瑣末なこと、まさか義兄上がお気になされるとはそもそも思っておりませんけれど」


 一転して朱華が笑んでみせると、彼は怪訝な顔を見せた。


「勝っても負けても恨みっこなしとも言いますし」


 婉然と続ける言葉から少し遅れて、茈枳の顔が強張った。朱華は真っ直ぐ顔を上げ、不調など全く感じさせない。

 その傍らに控えていた霜霖が、恭しく身を折って茈枳に囁いた。


「公は水に流すと仰せですが、苴葉公への暴言のみならず陛下への不敬ともとれるお言葉の数々、私や王配殿下はさして酔っておりませんでした故、その点はお忘れなきよう」


 朱華にも聞こえないほどの声量だった。彼は顔色を一瞬で変え、霜霖を睨みつけた。朱華も見たことないような表情だった。


「……誰に言っているのかわかっているのか、貴族の分際で」


 茈枳の声は怒りで震えていた。睨み殺さんばかりの形相で霜霖を見据えている。一方の霜霖はそんなことなど目に入っていないかのように、穏やかな笑みすら浮かべている。


「十二分に承知しております。第三王女のご夫君にして、珂葉公の弟君でいらっしゃる。失礼を承知で申し上げますが、あなたこそご自分の立場をご存知でいらっしゃいますか?」


 にこやかに返された台詞は、朱華の耳にも届いた。今や少しばかり懐かしいような気もするが、朱華に向けられていた頃と変わらず辛辣極まりない。切れ味は落ちていないようだった。

 案じるまでもなく、茈枳の表情はますます険しさを増している。


「……そなた、嶄家の次男だったな」

「はい、さん 綾霖りょうりんの次男でございます」


 臆することなく応じる態度が気にくわないのか、茈枳は顔を歪めたままだった。彼と比べれば霜霖の容姿は劣るが、どちらが貴公子然としているかも明らかだった。


「そたなも義妹殿の婿がねだったな」

「恐れながら、そう見なす向きもあるようではありますが」


 霜霖はあくまで慇懃な態度を崩さない。そのことに彼はますます苛立つようだった。


「王家の血をひかぬ者と王女の婚姻などかつてないことだ。もう一人の夫候補には偽王族疑惑がつきまとう。ろくな男が充てがわれず、本当に哀れな義妹だよ」


 矛先を朱華にも向けることにしたらしい。朱華は昨夜も似たような侮辱を受けたことを思い出した。


「昨夜も同じような主旨のことを仰っておられましたね。せっかく忘れて差し上げようと思っておりましたのに」


 朱華は如何にも残念そうに溜息を吐いた。


「そのお言葉が陛下の御威信に傷をつけかねないことはおわかりでないのでしょうか? ……それとも、まだ酔いが残っておられますか?」


 朱華は心配そうに義兄の顔を覗き込んだ。その正気を疑ってみせるような仕草に、茈枳は顔を引きつらせた。


「義兄上にご心配していただかなくとも結構です。両親はさまざまな要素を考慮した上で、彼らを選んだはずです。どちらを選んだとしても、間違った結果にならないことだけは確信しております」

 

 姉の結婚で利があった者がいるとすれば、彼くらいのものだろう。父の話から推察すれば、珂葉公にとって不出来な弟と女王の娘との婚姻はめでたいばかりでもないようだった。


「――ほう、今年の翼波戦に療養で参加できない枳月殿が? そのように病弱な男で不安はないと? そもそも、彼はかつて一度として翼波との戦いに加わったことはないというではないか」


 自棄になっているのか、攻撃材料のある限り口にしなければ気が済まないようだった。朱華はまさか真相を口にするわけにもいかず、すました顔で通すほかなかった。


「たまたま体調を崩しておられるだけのことです。翼波との戦いに参加なさったことがないのも、陛下のご意向です。陛下のお考えになにか異議がおありですか、義兄上?」


 昨夜、義父である王配からも同じような指摘を受けたことを忘れているのか。そもそも言葉通り、深酒で自制心も記憶もはなから吹き飛んでいたのかもしれないが。しかし、今の彼は二日酔いではあるとしても、酔ってはいないはずである。

 義妹からの問いかけの意味にようやく気付いたのか、茈枳は言葉に詰まったようだった。賢しらなことをいう義妹を不満そうに睨みつける。


「霜罧の言ったとおりです。ご自分のお立場を再考なさってはいかがですか――それから、あなたの妻が女王陛下と王配殿下の愛娘の一人であることもお忘れなく。為政者であっても親であることには変わりありません」


 姉を不憫だと言っていた父を思い出し、朱華は思わず口走っていた。彼にとっては思わぬことだったのか、これまでにないほどと怒りと拒絶のいろをのぞかせた。


「そなたに哀れまれたとは、妻は知ればさぞかし怒ることだろうね」


 敵意も露わな空々しい笑いを浮かべ、彼は朱華に告げた。


「そうかもしれませんわね」


 朱華は笑顔でその言葉を受け流すと、優雅な仕草で一礼した。


「では、失礼いたします。霜罧」

「はい」


 霜罧は預かっていた朱華の騎馬の手綱を差し出す。朱華はそれを受け取ると、茈枳に構わず馬に跨った。馬が動き出したため、茈枳はその場から下がるしかなかった。義兄の恨みのこもった睨視げいしにもう一度頭を下げてみせると、朱華は手綱を引いた。




 城を出たところで、霜罧が馬を寄せてきた。朱華は溜息をつきながら、視線をやる。


「分かっている、そなたがせっかく憎まれ役を買って出てくれたのに」

「まぁ、仕方ありません。この先を考えれば、これで良かったのかもしれませんし。あの程度の方にやり込められるようでは、先が思いやられかねません」


 褒めているのか励ましているのか分からない言い様に、朱華は苦笑いする。


「そなたも相変わらず皮肉を言わせたら天下一ね――主従そろって彼を敵に回す必要はないとも思うけれど」

「公がああまで仰るとは思いませんでしたので」

「遅かれ早かれこうなったのかもしれないわね――妹として、姉のことは一言言っておきたかったのもあったし……姉上にとっては余計なことだったかもしれないけれど」


 朱華はやり切れないように息を吐き、心持ち視線を落とした。姉のこととなると尚更心がふさがるような思いがする。


「仕方ありますまい――誰に強制されたわけではなく、三の姫さまご自身の選択の結果でもあるわけですから」


 父と同じようなことをいう霜罧を黙って一瞥し、朱華は三度目のため息を吐いた。


「……そうね、自分で決めたことだものね」


 小さな呟きは小雪まじりの冷たい風に攫われ、誰の耳にも届かなかった。


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