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雪の陰翳  作者: 苳子
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第1章 3

 夕瑛せきえいの指先は、朱華しゅかの肩の力が抜けて少しずつほぐれていくのを感じていた。

 冷たかった肩や背に温もりが戻ってきたのを確認すると、その指を放す。

 「もう終わり?」というように名残惜し気に振り返った主に、夕瑛はにこりと告げる。


「その気になられたのでしたら、霜罧そうりん殿に相談なさった方がよろしいのでは?」

「――」


 夕瑛の邪気のない微笑みに、朱華は苦虫をかみつぶしたような顔をした。

 だが、正論である。


「……そうね」


 思わずもれそうになった溜息をこらえようとしたが、失敗してしまった。

 朱華は律しきれない自分自身を持て余すように俯いてため息をつく。

 そして、肩を落としたまま乳姉妹に彼に連絡をつけるように命じた。

 命を受けた女官は浅く一礼すると主の部屋を辞し、侍従長付きの同僚に言づけると、すぐさま戻った。

 そこには途方に暮れたように膝を抱えている主の姿があった。

 もともと童顔というわけでもなく、落ち着いた物腰のせいもあって年嵩に見られがちな四の姫だが、この時ばかりは幼く見えた。

 夕瑛は主に同情しつつも避けて通れないことだけに、慰めようもない。


「――まずは汗をお流しになっては?」


 霜罧を呼びつける以上、練兵用の稽古着で会うわけにはいかない。 

 朱華はゆっくりと立ち上がる。

 窓の向こうは曇ってきたのか、眩しいほどの明るさは失せていた。


「そうね」


 物憂げに頷いた主は、本当に彼の人が苦手なのだろう。

 夕瑛であればいかようにも彼に対抗できるように思うけれど、生憎主は自分ほど器用でもひねくれてもいない。

 だからこそ、彼の人も主に絡んでくるのだろう。気の毒ではあるが、それが彼女の良さでもある。

 その長所を矯める必要はないだろう、と夕瑛はその点を指摘したことはない。




 西宮(さいぐう)の謁見の間は南に面している。昼間であれば高い窓から光がさしこみ、姫宮たちの住まいに相応しく明るく華やかな室内の様子を明らかにする。

 夕暮れとともに灯される灯りは硝子や薄紙の火屋をすかし、淡く幻想的な光をゆらゆらと投げかけ、昼とは一転して雅びな空間となる。

 そこは主に公的な訪問の際に使用される。

 もっと私的で気軽な招きを受けた客人は、その隣にある小部屋に案内される。小部屋とはいっても続きの間や女官の控えの間もある、然るべき作りと広さを備えている。

 そこへ霜罧そうりんが通されたときには、すでに彼を呼び出した四の姫朱華しゅかの姿があった。

 部屋の入り口で挨拶をする霜罧に、朱華は席につくよう促した。

 この季節、各宮の什器は可能な限り籐製のものに変えられる。西宮も例外ではない。細かな装飾には若い姫君たちにふさわしく花をあしらった紋様が用いられる。

 籐椅子の背たれやひじ掛け、円卓の表面などにあしらわれているのは、夏の草花を意匠化したもの。

 霜罧は軽く一礼して姫宮の言葉に従いながらも、鋭い一瞥を送ることを忘れない。

 華やかな室内には、不釣り合いな姿がそこにあった。傍仕えの女官頭の装束は規定通りのものだが、四の姫の姿は思いがけないものだった。

 王女としての準礼装をした朱華の姿があった。

 生絹すずし上衣うわがさねを何枚も重ね、組み織に房飾りのついた帯を締める。

 淡い色合いを重ねるのが夏の装いだが、そこは夕瑛の見立ての通り、朱華の肌色に生える色合いが彼女の魅力を引き出していた。

 霜罧は内心で嘆息していた。

 朱華はその武芸の点ばかりを取沙汰されがちだが、こうしてみれば葉王家の五人姉妹にふさわしい端麗な容姿の持ち主であることは明らかだった。

 

「思いがけず端正なお姿を拝見できたのは恐悦です――が、どういうおつもりですか?」


 霜罧はゆったりと微笑んだ。揶揄するように口の端がゆがむ。この段階で自分を呼びつけるなら、準礼装する必要はないはずだった。

 朱華はそれに対していつものように眉を動かすこともせず、ただ悠然と微笑する。


「これは苴葉そよう家を継ぐ者としての最初の仕事。そのために衣を正しただけのことです」


 女王の使命を受けて苴葉家を継ぐことを決めた朱華をなぶるということは、ひいては女王自身を愚弄することにもなる。

 朱華はあえて母の威光を笠に着る。

 そんな朱華に、霜罧は切れ長の目を満足そうに細めた。


「今後もその調子でいてくださるなら重畳。姫が苴葉家を継ぐことができる根拠は、そのただ一点にしかないことをよくよく自覚なさってください」

「云われずとも弁えています。それよりも、かような無駄な応酬はこれきりになさい。余興に費やす時間はないでしょう」

「そうですね」


 霜罧はまったく悪びれずもせずに微笑み、詫びるように浅く頭を下げてみせる。朱華はそれに思わず眉根を寄せたが、軽く息を吐いて波立ちかけた感情を抑えた。


「で、姫はこの私になにをお望みです」

「なにもかも」


 朱華はあっさりと一言で片づけた。

 さすがの霜罧も片眉をあげ、新たに主となる若い女性を見つめる。なにも云わずに。

 朱華はその無言の応答に察するものがあったのか、ゆっくりと膝の上で腕を重ねる。


「受けると決めたは良いが、ではなにから始めればよいか、私には皆目見当がつかない。陛下はそなたに相談せよと仰った」


 霜罧にすべてを丸投げにするつもりにしては、なにかしら意図の感じられる口ぶり。

 彼も王女の真意をはかりかね、無表情を保つ。


「それはすべてを私に一任なさるということでしょうか?」

「そうではないわ」


 これもまた、あっさりと朱華は否定した。


「では、どういうおつもりですか?」

「私一人ですべてを決めるつもりはない――まず、それは無理でしょう。だからといって、そなたや臣下にすべてを甘えるつもりもない。協力し合っていきたい。それをするにしては、今の私は無知です。今の私にはなにが必要なのか、なにを考えるべきなのか、その手がかりを示してもらいたい」

「――悠長なことを仰いますね」


 現に苴州の領主はすでに失われている。国境の小競り合いは今現在も続き、空となった主の座をめぐっての様々な思惑にもとづく駆け引きは始まっている。

 このような状況で、朱華に一から勉強している余裕はない。


「だからこそ、そなたに訊いているのです。今、必要な知識は何? 優先的に考えなければいけないことは? 後回しにできることは?」


 冷静だが、意志の強さを感じられる言葉だった。

 霜罧は薄く笑んで嘆息し、それから面白そうにやや目を細めた。


「それにはおいおいお応えしていきましょう――それよりも、姫はご自分が決意なさったことの結果までも予測しておいでなのですかな?」

「結果?」


 案の定、なんのことだと眉をひそめた朱華に、霜罧は口の端を歪める。


「葉王家は直系王女に引き継がれ、これからも引き継がれていきます」

「当然でしょう」

「朱華さま、あなたもその直系王女なのですよ。苴葉家を継ぎ、“苴葉”を名乗るとしても、同時に、依然として“葉”を名乗る資格もお持ちになる。もしもその家督を男子ではなく女子に譲られるなら、その次の当主も“苴葉”と“葉”を名乗る資格を持つのです」


 王統家に王女が降嫁した例は少ないながらある。その家督は男子が継ぐ。その時点で直系の証である“葉”を名乗ることはできなくなる。

 だが、王女が王統家を興し、その家督が女系で引き継がれていくならば、“葉”を名乗る資格も受けつがれることとなる。その場合、本当の意味で“直系”とは言い難くなるとしても。

 思いがけないことに、朱華は目を瞠った。確かに、理屈の上では霜罧のいった可能性は成り立つ。ただこれまで先例がなかっただけのことだった。


「――私はそのようななつもりでは……」


 姉たちに弓引くことともなりかねない要素に、朱華は言葉に詰まる。

 国のため、姉たちのため、そして自分自身のために決意したはずだった。叛意など微塵もない。けれど、それは朱華の意思とはかかわりなく可能性として発生する。気付く者は少なくないだろう。誰かが言い立てれば、疑惑は当事者とは関わりなく大きく取り沙汰されるだろう。


「陛下もそれに思いいたっておられぬわけではないでしょう。実際、一時は直系の血統は陛下お一人きりとまでなったのですから」


 朱華の母青蘭には、同じく直系王女として王位継承権を持つ従妹がいた。しかし彼女は内乱の首謀者でもあった青蘭の兄を夫とし、その間に一女にめぐまれたが、内乱終息後その娘を自らの手をかけ、そのあとを追うようにほどなくこの世を去っている。その死は自殺とも病死とも噂され、その真相を知る者はほとんどいない。


「家督をどうするかまで、今、決めよと?」

「――それはおいおいでも構わぬでしょう……が、その可能性があることは常に念頭に置いておかれた方がよいでしょう。青華さまもお気づきになられるでしょうから」


 姉に仇名するなど思いもよらない朱華にとって、それは不本意極まりないことだった。だが、決めてしまった以上、あとには引けない。現実を受け入れるほかなかった。


「――承知した」


 苦痛にも似たかたい表情で、けれどしっかりと応じた朱華に、霜罧は気付かれないように安堵の息をもらす。

 こういう場合、姉妹の仲睦まじさは仇ともなりかねない。ましてや朱華には情に溺れやすい甘い一面がある。それ相当の覚悟はしておいて欲しいところではあった。彼女たちはその立場ゆえに、姉妹の血のつながりと信頼だけで成り立つ関係ではないのだ。


「近衛あたりから何名か、姫のお供を願い出るものがいるでしょう――それと、苴葉家をお継ぎになるならば、枳月きげつ殿も家臣団に加えるようにという、陛下からのご指示です」

「枳月殿を?」


 それこそ晴天の霹靂だというように、朱華は目を丸くした。

 よう枳月きげつ

 苴葉家の姫を母に、東葉王族を父に持つとされるが、その出生時期が内乱から翼波の侵入時期と重ねるため、確たる証を持たない。それ故に様々な噂の持ち主ではあるが、女王自らが王族して列しているため表立って憶測を立てる者はいない。それにしても曰くありげな人物には違いない。

 人品はともかく、その血統が確かならば、婿候補としては有力に違いない。

 朱華は母の意図を読みかね、小さく息を吐いた。


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