第8章 11
翌朝、目を覚ました朱華が最初にしたことは夕瑛の顔色の確認だった。すっかり回復した様子の彼女は、溌剌した動きで朱華の世話を焼く。
「ご心配をおかけしましたが、もう大丈夫です」
敬礼しかねない勢いで報告すると、春先の山間部の寒さに寝具の中で縮こまる主人を炉辺へ追い立てる。部屋は狭いため、冬の苴葉城の朱華の私室と比べれば随分暖かい。主人の寒がりは一向に改まりそうにはない。
「昨夜は闘飲に見事お勝ちになられたそうですね」
沸かした湯で主人の体を拭きながら、夕瑛は声をかけた。途端に彼女の顔が曇った。
「ああ、また武勇伝を稼いでしまっただけよ」
「既に噂にはなっておりますわね」
今朝、湯をもらいに厨房まで出向いた際、夕瑛は人々に捕まりなかなか抜け出せないという一幕があった。
前線ではまず見かけることのない女性従者が苴葉公に仕えていることもまた、既に知れ渡っている。何かと優遇してもらえることが多いため、ありがたくはある。中には夕瑛が中央貴族の姫であり、苴州軍を纏める珂瑛の妹であることまで把握している者もおり、それも目当てか言い寄ってくる男までいた。
昨夜の義兄妹間で行われた飲み比べも、一晩あれば城内に知れ渡るには十分である。凛々しくはあるが、どちらかと言えばたおやかな女性である朱華が、酔い潰れた義兄の隣で最後まで凛然としていたということは、見事な勝利として持ちきりだった。
「……不味いわね」
朱華は新しい肌着に自ら腕を通しながら呟いた。
「義兄上のお顔をお潰しになってしまわれましたか?」
「まぁ、そんなところ。そこまでするつもりはなかったのだけど、私も酔っていたのね、きっと。色々言われているうちに頭にきてしまった」
溜息を吐きながらも立ち上がり、てきぱきと身支度を整えていく。湯の始末をしながら、夕瑛は振り返る。
「詳細は霜霖殿からお聞きしました。ご立腹なさるのも無理からぬことかと」
「あのくらいのこと、笑って流せなくてはね」
「昨夜のことは覚えておられますか?」
「大抵のことは覚えているわ。そなたらから説教されたことも含めね。ただ寝台に戻った記憶はない……余程眠かったのかしら」
手を止めて考え込む朱華に、夕瑛はしまったと慌てて顔を背けた。炉辺で眠り込んでしまった朱華を霜霖が寝台まで運んだと知れば、どのような反応が返ってくるか知れたものではない。
「大変でしたのよ、姫さまは炉の前でこのまま眠ると言い張られて。私がなんとかご説得申し上げて寝台まで移動していただいたのですから」
苦笑いしながらの夕瑛の説明に、朱華はあっさり納得した。申し訳なさそうに顔をしかめる。
「手間をかけたわね。やはり思っていたより酔いが回っていたのかもしれない。気をつけなければ」
「お疲れだったせいもおありでしょうけれど。ここまでずっと騎行で、夜は野営でしたから」
「それはそなたも同じこと。体調は?」
「ご心配おかけして申し訳ありません。すっかり良くなりました」
話題が変わったことに安堵し、主人に余計な心配をかけてしまったことを夕瑛は詫びる。朱華は気にしないように告げ、着替えを終えると、椅子にかける。当然のように夕瑛がその背後に回り、懐中から櫛を取り出した。主人の髪に微量の油をなじませると、手際よく結い上げる。最後の仕上げにに薄化粧を施した。
「今日も凛々しくていらっしゃいますわ」
正面に回り込んでそう評する。朱華はもういいからと言いたげに苦笑いした。
簡単な朝食を終えた頃、霜霖が部屋まで迎えにきた。王配に挨拶した後、発つことになっている。
朝の挨拶をすませるなり、朱華は昨夜のことを霜霖に詫びた。
「私としたことが、そなたに部屋まで送らせておいて、いつ間にか眠ってしまったそうね。なかなか寝台に戻らず手間をかけとか」
自分が抱いて運んだのだが、なかったことになっているらしいことを悟り、霜霖は黙って頭を下げた。朱華の背後から夕瑛が目配せしてきたことで、それを確信する。
「すっきりしたご様子でいらっしゃいますね。よくお眠りになられましたか?」
「そのようね。それよりも義兄上のご様子は?」
気がかりそうに眉をひそめる朱華に、霜霖は片眉を上げてみせた。
「二日酔いでまだ寝込んでおられるようです」
「惜敗くらいに持ち込むべきだったかと」
「公も今朝はすこぶるご不快だという噂は流してありますよ。なので、今日はそういうことでお願いいたします。ただし二日酔い程度で予定を変更するわけにはいきませんので」
既に手は打ってあると聞き、朱華はほっと息をついた。
「既に私の武勇伝の方が広まってしまっているようだけれど」
「だからこそ、公にはご不快そうにしていただきませんと」
「わかった」
朱華は神妙な顔で頷いた。
酔い潰すのは予定通りであったとはいえ、面子を潰して怨みを買うつもりまではなかった。姉三の姫を通じての横槍や、朱華の苴葉公就任に際しての反対派の中に彼の兄珂葉公がいたとしても、表立って対立しているわけではない。そもそも正面切って敵に回すべき相手でもない。珂葉公自身、敵対を表面化させるようなやり方をする人物ではないが。
その後、悄然とした様子で父の元に向かう苴葉公の姿が目撃された。
不調を押して王配のもとに暇乞いに赴いた朱華は、彼の私室に通された。体調を考慮してのことだったが、二人きりになるなり、父は笑い出した。
「二日酔いで参っているという話だったが、それにしては顔色が良いようだな?」
「方便でございます」
朱華も項垂れていた顔を上げ、肩をすくめて苦笑した。
「痛み分けということになっているはずですので」
「武勇伝の方が先行しておったようだがな」
「それは間違いだったということでお願いいたします」
娘が悪びれた様子もなくぺこりと頭を下げると、彼は再び一頻り笑った。
「そこまで茈枳の機嫌をうかがう必要はなかろう」
「義兄上はそれでも良いのですが、珂葉公とは穏便に済ませたいのです」
父は娘に身振りで腰を掛けるように促した。
王配の居室とはいえ、前線の城である。朱華にあてがわれた部屋より一回りほど広い程度だった。簡素な寝台に、卓子と二脚の椅子。作りはしっかりしているが、質素極まりない。炉では勢いよく炎が燃え盛っている。優遇されていることと言えば、惜しみなく暖をとれることくらいのものだった。
飾り気のない椅子に座り、朱華は一転して生真面目な顔で答えた。碧柊はふむといったん唇を引き結んだ後、こめかみに指をあてながら娘を見た。
「確かに珂葉公は曲者ではあるが、あの弟とは別物だと考えて良い。あの弟の泣き言や不平不満をいちいち取り合うような人物ではない。闘飲で負けた恨みをまともに相手にするような男ではない。むしろ、弟の失態に手を焼いている方だろう。あの弟は、役に立つより足手まといになることの方が多かろうからな」
「――厳しいですね」
「可愛い娘の婿であるからこそ採点は辛くなりがちだが、中でもあれは別格だ」
王配は足を組み替え、椅子の背にもたれて深々と溜息を洩らした。
「……それほどのことが? 私の耳にはそこまでのことは届いておりませぬが」
「表沙汰にできぬことも多い――いよいよとなれば、考えねばなるまい」
静かだが容赦のない響きに、朱華は思わず父の顔をまじまじと見つめた。
「――父上?」
「我が子、我が孫よりも優先すべきものがある。国益を損なう場合は考慮せねばならぬこともある……何事にも限度があるということだ」
冷ややかな眼差しに、朱華は背筋を質す。彼の面には特段の変化はなく、口調も平淡だった。
「そのように改まらずとも良い。苛烈すぎる判断もまた、国を傾ける。何事も中庸が肝心故な」
「……私にはご期待に応えられる自信はありませぬ」
悄然と項垂れる四女に、彼は眉を上げただけだった。
「――こう言うてはなんだが、目覚ましい成果は期待しておらぬ。そなただけでなく、一の姫、二の姫にもな。ただ、そのように謙虚であってくれればよい。過信せず、常に己を疑うことだ。疑いが過ぎてもまた、道を誤る恐れがあるが」
「……難しゅうございます」
「容易いことではなかろう――吾自身とてそのように実行できているとは考えておらぬ」
父は娘を励ますように苦笑してみせる。朱華は緊張した表情を解き、小さく息を吐いた。
「なんにせよ、頭が痛いのは銀華のことよ。良かれと揃えた選択肢は鼻から無視し、かと言って己の選択の責任は果たせぬのだからな」
「……それは酷すぎはしませぬか」
「女王は十八で、吾は二十歳で親を失うた。内乱に次いだは翼波の侵入。国難を切り抜けるためのお膳立てをしてくれるものはおらなんだ。全て己で選択し、その結果も己で負うてきた。朱華、そなたも他の姉妹と同じぞ。いつまでも親があるとは思うな。結局は自分の尻拭いは自分ですることになる故な」
碧柊は溜息まじりに呟き、困惑顔の四女の頭に手を伸ばす。
「吾とてあれは不憫だ思う。何とかしてやりたいのは山々だが、親子の情だけで動くわけにはいかぬのだ。そなたにも分かっておろう?」
ぽんと軽く頭を叩かれ、朱華はしばらく沈黙した末にこくりと頷いた。




