第8章 4
彼の言葉に、朱華はぽかんと口を開いた。
「……いつ?」
「恐らくは公にお話になられた翌日かと」
朱華はしばらく呆れたように霜罧を見ていたが、やがて気を取り直すように肩をすくめた。
「そういうことはもっと早く言うように」
「はい、申し訳ありません」
「しかし、いつの間にそのような内々の話を?」
「地図を返却しに来られた際に。私のことも思い出されたそうで、殿下から話して下さいました」
朱華は一瞬押し黙り、それから片眉をあげた。
「ああ、保護された当時にそなたと面識があったという話ね」
「はい、ずっと忘れておられたそうです」
朱華は小さく頷き、東の方角を見つめた。
「……忘れたままでいらした方が良かったのかしら……」
「殿下はそれをもっともお望みにならないのではないでしょうか……それにもう、今更言っても詮無いことでもあります」
言葉とは裏腹に、彼の声には哀憫の情が滲んでいた。その響きに惹かれるように、朱華は振り返った。霜罧の顔には傷ましさにも似たいろが浮かんでいた。
「……そなた、枳月殿とどのような話を?」
「過去の話を――私たちが生まれる前からの、殿下の罪ではない話を」
その言葉に、朱華は小さく息をのんだ。わずかに目を瞠り、驚いたように霜罧を見つめる。冷涼な風が吹き抜け、彼女の結い上げた髪を弄った。
「……何故、そのような話に?」
彼女の声はかすかに上ずり、掠れていた。彼は一瞬目を逸らし、暮れなずむ西の空を見晴るかす。なだらかに下っていく丘陵地帯。その地平のかなたに、夕日は没しつつあった。
「はじめて殿下とお会いした時、顔の半分を包帯で覆われ、呆然と同じ言葉をただ繰り返しておられました」
「――なにがあってもずっと私はあなたのことを想っているわ」
朱華もまた、呆然としながら呟いた。その空虚な響きに、霜罧は眉を顰めた。
「そうです……あの方の人生にはあまりに救いがありません。あの方に罪はないにも拘らず」
「――そうね、枳月殿の罪ではないわ……このようなこと、誰かに聞かせることではないのだけれど」
躊躇う主人を、霜罧は窺い見る。胸に秘すものを持て余しているようすは明らかだった。
「私でよろしければお話しください。他言することはありません」
「……あれだけそなたを毛嫌いしておいて虫のいい話だけれど、口の硬さは信頼している」
朱華はばつの悪そうに感謝を伝えたあと、それでも逡巡していたようだが、やがて口を開いた。
「父が……王配殿下が仰っていたことなのだけれど、枳月殿の父があのような行動をとったのは、西葉との戦いの後の自分の判断の甘さを諌めるためだったのではないかと」
俯きがちに言いづらそうにする朱華の言葉に、霜罧は驚かなかった。すぐに返事のなかったことに不安になったのか、朱華は彼を窺い見る。彼はそれを口にした朱華のようすをうかがっていた。
「殿下がそのようなことを姫に仰ったのですか」
朱華は小さくうなずいた。その浮かない顔に、霜罧はかすかに眉根を寄せる。
「よもや、あの内乱が殿下のせいだとお考えではないでしょうね?」
「……少しはそうも考えたわ、父には浅はかだと言われたけれど」
霜罧はあからさまに溜息をついた。
「まったくその通りです。そのままお父上にお話になられたことにも驚きます。殿下は子煩悩な方ですから、むしろ自ら嗜めることの方をお選びになるでしょうが。もう王統家当主であることをお忘れなく。東葉四門筆頭のお立場でもあるのですよ。それでは珂葉公に足元を掬われかねません。例えお父上がお相手であっても、心中を軽々しくお話になるものではありません」
霜罧は朱華に淡々と説教する。朱華は思わぬ方向に話が流れ始めたことに不本意な顔をするが、彼の言うことはもっともでもあった。
「今後は気をつける」
あっさりと忠告を受け入れると、霜罧は小さく頷いた。
「失礼ながら、即位即妙な受け答えを得意とされるわけではないのですし、黙っておられた方が賢明でしょう。話の種類にもよりますが、女性には微笑んで誤魔化すという奥の手もございますし」
「……あまりな言われようだと思うのだけど、気のせいか?」
「嫌味よりはマシかと」
「大差ないように思うけれど……つまりはそなたは口が悪いということね」
「とうにご承知かと思っておりましたが」
違いましたかと言外に尋ねるように、少しばかり首を傾げて彼は微笑する。朱華はむっとした表情をみせたが、じきに諦めたように肩を落とす。
「知っている、いやと言うほど」
「申し訳ありません」
少しも悪いと思っていない顔で、霜罧は恭しく頭を下げた。朱華はそれを呆れたように見やった。
「本筋に戻りますが、確かに王配殿下の西葉処分は甘かったのかもしれません。が、あくまで内乱を起こしたのはあの方です。たとえ、それが因だったとしても、他にいくらでも方法はあったでしょう。しかし、あの方は劇薬を選ばれたということです。確かに効果は絶大でした。東西の葉がまとまるにはもっとも手っ取り早く効率的だったでしょう。だが、副作用も強すぎました……あえて罪を犯されたのかもしれませんが、とうてい認められることではありません。そして、枳月殿下の罪でもありません。公が後ろめたさをお感じになる必要もありません」
最後の言葉に、朱華は驚いたような顔を見せた。その表情に、霜罧は苦笑いする。
「先日、女性としての魅力が枳月殿下に通じるか、というような話をなさっておられましたね。恐れながら、あのようなことを言い出されたのには、何かきっかけがあったのではないかと思っておりましたので」
「……本当にお見通しなのね、嫌になるほど」
朱華は唖然とした様子で溜息をついた。
「夕瑛殿ほどではありませんが、ご幼少のみぎりから折々にお目にかかっておりますので」
「……確かに夕瑛にも見通されていることが多いけれど、私はよほどわかりやすい人間なのね」
「それだけ愛されておいでだということですよ」
自虐まじりに呟いた言葉に、にこりとそう返され、朱華はわずかに頬を赤らめてから彼の嗜めるように見据えた。
「こんな時に冗談は……」
「乳姉妹とはそういうものでしょう。夕瑛殿の公に対する忠誠は、自分の命以上のものですよ。私の父もそうでしたが」
二人の父もまた、共に乳兄弟の関係だったことを思い出す。彼の父は内乱の際には朱華の父の身代わりをつとめ、生涯残る傷を負った。
「それはそうだけれど……」
朱華のためならなんでもできる、それが明柊のしたことに匹敵するようなことでも、と言い切った彼女を思い出す。
「彼の乳兄弟もそうだったのかしら……一族郎党滅ぼされても」
明柊にも乳兄弟がいた。一族は全て戦死か刑死し、当人は主人とともに翼波に逃れ、その後の行方は知れない。
「苓公の目論見が成功していれば、最大の見返りを得るのは苓家だったはずですからね。相応の覚悟はしておられたでしょう……それとも、主人のためならなんでもする、ただ単にそういうことだったのかもしれませんが」
「……夕瑛も似たようなことを言っていたわ……なにがあってもずっと私はあなたのことを想っているわ、これは母が枳月殿の母にした約束なのですって……お二人の絆も深いものだったのでしょうね、きっと」
朱華は嘆息した。霜罧は小さく頷いた。
「私も父からそのように聞いています」
「綾罧殿もその方と面識が?」
「いえ、父は内乱当初は王配殿下とは別行動でしたし、恐らくはなかったかと」
「私たちは当時を知らない。どうしても、噂や憶測に左右されてしまう」
朱華は投げやりに呟くと、唇を噛み締めた。それから痛みにはっとして口元を押さえた。指先には血がついていた。
「それでも、一つだけはっきりしていることがあります」
霜罧は話しながら、懐中から手巾を取り出し彼女に渡す。反射的にそれを受け取りながらも、彼女はその言葉に気を取られていた。
「それは?」
「枳月殿下にも公にも罪はおありでないということです、過去に関しては」
手巾を受け取ったままの朱華の手首を「失礼します」と声をかけて掴み、そっと唇を押さえさせた。
「悪い癖をお持ちですね、お母上譲りとはいえ」
労わるような口ぶりだった。朱華はとっさにその手を振りほどくようにして、後退っていた。当惑したまま、反射的に言い返す。
「ろくなところしか母に似ていなくて生憎だったわね」
「姫、私はそのようなことを申し上げましたか?」
朱華の感情的な態度に、霜罧はただ淡々と言葉を返した。平静なようすに、彼女は口ごもる。
「誰に似ておられようと、その癖が良いものでないことは確かです。私が申し上げたのはただそれだけのことですよ。もう一つ申し上げるなら、その卑屈な早合点も悪い癖です。皮肉ばかり申し上げてきた私が原因ではありますが、姫の癖はご自身で改めていただくほか術がありません」
朱華は鼻白んで黙り込み、恥じるように目をそらした。霜罧はかすかに口の端を上げた。
「ただし、ご自分の無力さや不甲斐なさを、血がにじむほどに悔しくお感じになることは良いことかと」
俯いていた朱華がちらりと視線を向けてくることに、霜罧は励ますような笑みを浮かべる。
「姫はご自分で望んだわけではないことであっても、投げ出そうとはなさらない。ご自分で何とかできないかとお考えになる。そして、思うようにならないことに歯噛みなさる。それでも放り出そうとはなさらない。苴葉公にお仕えするようになってさほど経ちませんが、今、私があなたに惹かれている最も大きな理由でもあります」
最後に嫣然と微笑んでみせれば、朱華は頬を赤らめて口を開け、結局また閉じた。目をそらし、紺青に滲みつつある地平線を見やる。振り返れば、東の空にはあえかな光が瞬いている。
「――そういうことを言う場面ではないでしょうに」
戸惑いの滲む言葉に、霜罧は苦笑いする。
「姫は誤解なさっておられますからね――何度も申し上げているように、私はあなたを買っているのですよ。にもかかわらず、あなたはご自分を卑下なさる。そうではないということは、きちんとお伝えしたいのですよ」
「そういうことなら、まぁ」
朱華は居心地悪そうに答えた。霜罧はそんな様子をおかしがるように微笑した。
「肝心なのは過去ではなく、これからです。我らが考えなければならないことも」
朱華は黙って頷く。その表情は真剣なものだった。
「では、そろそろ戻りましょう。すっかり日も暮れてしまいました」
夕闇は深まり、周囲は夜の帳に沈みつつある。朱華は振り返り、東の空に瞬き始めた星々を見上げた。
吹き抜ける風は未だに冷涼としている。この地の春は州都より遅い。山々はさらに寒いことだろう。枳月は恐らくそこにいる。彼は今頃どのような夜を迎えているだろうと思うと、彼女には息を吐くことしかできなかった。




