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雪の陰翳  作者: 苳子
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第1章 2

 今日も陽射しは厳しい。

 朱華しゅかが剣術の素振りをするとき、夕瑛は木陰を選ぶようにうるさく言う。多少日焼けを控えた程度で今更縁談がまとまるわけでもなし、と朱華は思うのだが、叱られるので黙って従っている。

 この日も木陰で稽古に励むも、その動きは一見する限りいつもと変わりないようだが、体はひどく重かった。

 昨夜の眠りは浅かった。短い微睡まどろみと覚醒を繰り返し、徒に寝がえりを繰り返しているうちに、払暁ふつぎょうを迎えてしまった。

 朱華は気にかかることがあると、不眠気味になりがちだ。そんな己の弱さを歯がゆく不甲斐ないとこぼすと、夕瑛はそんなだから眠れなくなってしまうのだと揶揄し、気にしないことだと苦笑した。

 そうはいっても、簡単にそうできない朱華だからこそ、目の下に隈を作る羽目になってしまうのだ。それが分かっているからこそ、夕瑛は助言をしつつも苦笑するしかない。

 日課通りに素振りを終えると、その場で膝から崩れそうになった。何故か膝に力が入らない。

 気力を振り絞って堪え、なんとか庭の片隅に控えていた夕瑛の傍まで戻ると、いつものように手拭いが差し出される。


「いつもより切れに欠けておられたようですね」


 それを受け取り汗を拭っていると、夕瑛が控えめな声で問いかけてきた。

 武芸は嗜み程度の彼女にもそう見えたのか、と朱華は苦笑する。

 夕瑛はさらに声を潜めた。 


「お決めになられたのですね?」

「――そうね」


 朱華は手を止めて小さく呟く。

 外ですべき話ではない。

 二人は視線を交わすと、揃って西宮さいぐうに足を向けた。




 朱華は汗を吸った上衣うわがさねを脱いだだけで、風の通る窓際に腰かけていた。


「ずいぶんとお早いですね」


 夕瑛は姫のそばに歩み寄ると、手にした盆の茶器をすすめる。それを朱華はうけとり、一気に空けてしまった。汲みたての清水をつかった香草茶は、その冷たさが清涼感をさらに際立たせる。

 ようやく喉を潤し、一息ついた朱華は、空になった茶器を手にしたまま薄く笑んだ。


「――善は急げというでしょう」

「仰るとおりですわね」


 夕瑛はもう一杯いかがですか、と問うように盆を持ちあげてみせる。朱華はそれに浅く首肯する。


「私はお気が変わってしまう前に、そうできないよう自制なさったのかと思っておりましたが」

「――なにが言いたいの?」


 香草茶を一口含み、小さく息を吐いてから、朱華はまっすぐに夕瑛を見つめた。


「――案外あっさりとご決断なさいました、かと?」

「あっさり、ね――そうでもないつもりだけれど」

「昨夜はあまりよくお眠りになれなかったようですね。動きにも冴えがありませんでしたが――その程度にお悩みになるのは、普通の反応ではありませんか? ……私は、姫さまはもっとお悩みに――もしくはお迷いになられるかと、案じたおりましたものですから」


 伏し目がちな蔭に、淡い思いやりがにじむ。 

 いっそ女王から命じられれば、朱華としても楽だっただろう。尊敬する両親に逆らう気持ちは彼女にはない。心中はともかく、従うしかない。そして朱華は謹んで服従するだろう。

 けれど、女王は言いつけなかった。最終的な判断を娘にまかせた。


「もちろん迷ったわ。前例ためしのないことだし、ましてや州は戦いの最前線。国防に関わる。確かに私は姉妹のうちでは武芸に長けているけれど、それはあくまで嗜みの一環に過ぎない。子供の遊びと変わらない。軍の指揮は別次元の問題。ましてやその地、王統家領苴州の領主として経営し治めなければならない。姉上方はともかく、私は五人姉妹の四番目。私に王位が回ってくる可能性はほとんどない故に教育も受けていないし、それに胡坐をかいていたともいえる。そんな私に対して、一の姉上も、二の姉上も、幼いころからその覚悟を求められ、それに従ってこられた。私はそんな姉上たちの妹として、どうすればお役にたてるのか、それを考えていたつもりだったけれど、実はまったく考えられていなかったわけね」


 苦い笑みを浮かべ、視線を窓の外へめぐらせる。夕瑛もその眼差しを追う。

 緑陰を抜けてきた涼しい風が、二人の頬をなでていく。


「私にできることはなに? 姉上たちのように直接、政治まつりごとに関わるわけでもなく、銀華ぎんか姉上や茜華せんかのように婚姻による紐帯をつくることもできていない。そんな私になにができる?」


 すでに決着のついた自問自答だった。それを夕瑛も察してか、なにも答えない。

 葉叢はむらを透かした光に、目を細める。

 夏の日差しは、木陰に煌めく。


「母上は私に判断を任せてくださった。父上は私にしかできないと仰ってくださった。けれど、命じることはなさらなかった。姉上たちには許されなかった贅沢だわ――命じられなかったということは、一方的に命じられる以上の覚悟を持っての決断を求められているということだ」


 朱華はいったん口をつぐむと、香草茶のおかわりを目で要求する。

 夕瑛は微笑で応じる。再び喉を潤した朱華は、窓枠にもたれる。片膝を曲げるとその上に茶器を乗せる。不作法な姿だが、夕瑛は咎めない。


「それだけ大変なことだということを、母上たちも承知の上で、私に一任しようとなさっておられる――それを受けるか否か。一晩中まんじりともできなかったわ。さすがに体が重い。一晩くらいで、とも思うけれど」


 口の端を歪め、後頭部を窓枠に預ける。やや斜めに上向きになった横顔は、秀麗だった。疲労がにじんでいるが、どこかせいせいしたような眼差し。


「行きつくのは、『誰かが担わなければならないことだ』ということ――もし、私が受けなければ、では、誰が受ける? 誰がふさわしい? その場合は、なにが起こる? ……結局のところ、私が受けるのが一番無難だろうということ。私には他に担うべき役割はない。迷おうが、悩もうが、他に選択肢はない。いくら考えてみたところで、結論はひとつしかない」

「――覚悟だの、決断だの、と悲壮なことを仰っておられたようですが?」


 夕瑛の口元に微苦笑が浮かぶ。


「皮肉はもういいわ」


 朱華は小さく息を吐き、欠伸を噛み殺した。


「考えすぎてお疲れになったわけですね」

「――つまるところは、そういうこと」


 朱華はこった肩をほぐすように首を左右へ交互に倒す。

 夕瑛が手を伸ばし、その肩に触れる。細い肩は岩のようになっていることが多い。ゆっくりと揉み解すと、朱華は伏し目がちに深く息を吐いた。


「いくらお考えになっても、受けないという結論にたどりつけなかった、ということですわね」


 朱華は黙って肩をすくめた。そっと体をずらし、夕瑛に背を預ける。女官頭は盆を傍らに置くと、あらためて両肩に触れた。


「――相変わらず、損な性分でいらっしゃる」


 くすりと笑う気配に、朱華は目を閉じる。痛みを感じるほどに強張った肩に、ゆっくりと温もりが戻ってくる。


「仕方ないわ、そういう性格なのだから」

「だからこそ、私も一生お付き合いする甲斐があるのです」


 静かな声に揺るぎはない。朱華はそれにわずかに目をあけ、背後を確認するように瞳を動かし、再び目を閉じた。


「そなたの想いを裏切らぬように努めるわ」


 その答えに、夕瑛の指先の力が増す。訝しげに肩越しに振り返った朱華に、夕瑛が咎めるように眉をひそめてみせる。


「姫さまお一人で成せることではありません。そのような完璧主義はお捨てなさいませ――姫さまがそんな風でいらっしゃるから、私はお傍から離れられないのですよ」

「……心配をかけてばかりね」


 朱華は薄く苦笑する。夕瑛は小さく、しかしわざとらしく溜息を吐き、かすかに首を振る。


「そういうことを言っているのではありません」

「――分かっているわ」

「……本当にそうであればよろしいのですけど」


 夕瑛はもう一つ溜息を吐き、少し首をかしげて微笑んだ。



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