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雪の陰翳  作者: 苳子
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第7章 8


 娘からの詰問に、彼はすぐには答えなかった。酒杯を一気に空け、再び手酌で満たす。ゆっくりとした動作だったが、朱華は黙って待っていた。父にはぐらかそうとする気配はなかった。

 二人の間に置かれた小卓に玻璃の瓶子を置いてから、彼は口を開いた。


「枳月が保護された頃の話は聞いたか?」

「――直後の話であれば、霜霖から聞きました」


 娘の応えに、彼は酒杯を口元へ運ぶ手を止めた。


「霜霖が、か……」

「枳月殿が最初に口にしていた葉の言葉を取り次いだのは、彼だそうですね」

「ああ、そうだ」


 朱華は酒で唇を湿らせた。ふわりとした感覚すらも遠ざかってしまった。


「なにがあってもずっと私はあなたのことを想っているわ」


 ぽつりと呟いた言葉に、父の動きがまた止まる。


「霜霖から聞きました。これは如何なるものなのですか?」

「……意味ではなく、もの、か?」

「はい」


 朱華は手の中の酒杯の表面を揺らしている。


「それは約束だ」

「誰と誰の、ですか?」

「青蘭と雪蘭の」


 朱華は声に出さずに雪蘭と呟いてみた。馴染みのない名前だ。知らない女性の名だ。だが、枳月はそれを大切そうに呼んでいた。

 ちらりと見れば、父は難しい顔をしていた。


「ご存知なのですか? その方を」

「……何度か会ったことはある。美しく聡明な女性だった……そなたの母にとってはかけがえのない人だった」

「母上の?」


 彼は椅子にもたれ、酒を一口飲んだ。


「母、姉、友人、師……すべてを兼ねていた女性だ」


 計り知れない縁の深さ適切に説明する言葉を、彼ですら持ち得ない。


「すべて、ですか……私と夕瑛とは、また異なるのでしょうか?」


 乳姉妹の絆もまた、それら全てを兼ねるような一面がある。年齢が近い分、〝師〟は難しいかもしれないが。


「相手のためであれば自分の命すらかける――いや、それは二人が最も大切とするもののためなら、と言うべきか」

「最も大切にするもの、ですか?」

「なんだと考える?」


 父からの問いに、朱華はしばらく沈思した後首を振った。


「わかりませぬ」

「それは〝よう〟だ」

「〝よう〟?」

「吾らが祖国だ。二人の間で最も優先すべきは葉であり、それは即ち青蘭……女王の命でもあると言えよう。そのために、先の内乱では雪蘭殿が女王の身代わりをつとめたことは、そなたも知っておろう?」


 朱華は小さく首肯する。結い上げた髪に挿した歩揺から垂れる宝玉が触れ合い、かすかな音をたてた。


「故に、内乱当時の女王の口癖は〝私は死ぬわけにはいかない〟だった。雪蘭殿が命がけで守ろうとした自分の命故な……吾等が出会ったばかりの頃、彼女は雪蘭殿のことばかり口にしておった。雪蘭殿ならどう考え、行動するか。それを指標としていたのだろう」


 遠い目をして語る父は、当時を思い起こしているのだろう。朱華は眼差しを落とし、酒杯の液面を揺らす。まず浮かんだ疑問があった。それを口にして良いかどうか躊躇ったが、訊かずにはいられなかった。


「――そのような方が枳月殿を?」


 そのような女性が、内乱の首謀者である男の子を産んだのだ。娘の疑問は当然でもあった。


「枳月もそれを疑問に思っていたようだ」


 朱華は枳月殿が、と内心で呟いた。


「確か、内乱ののちにお二人は再会なさっておられましたね――では、内乱時に山の向こうに連れ去られたわけではないのですね?」

「しばらくは聖地に逼塞していたが、しばらく後に所在不明となった。聖地において火が出た際に、その騒ぎに応じて攫われたか、それとも……」


 言い淀む父の言葉を、朱華は拾った。彼は直接その女性を知るためか、口にし辛いようだった。朱華にとっては今のところ名を知るだけの遠い存在だった。


「自らの意志で去られたか、ですか?」

「……女王に近すぎる故に、雪蘭殿自身、自分が利用されることを恐れて、半ば出家同然に引きこもっていた面もあった。女王とも今後は会わぬと決めた際、最後の会った時に交わした約束が、それだ。青蘭から雪蘭殿への約束だったそうだが」


 その関係性においての一方的な約束。朱華には不自然な気がした。


「何故、母上からだけだったのでしょうか?」

「……雪蘭殿にとっては約束するまでもないことだったのではないか」

「ならば、母上とて同じではありませんか? 枳月殿への扱いを見れば、母上が雪蘭殿に対してひとかたならぬ想いをお持ちだったことは分かります」


 娘の言葉はもっともだった。だが、それほど単純なものではないことは、彼自身分かっている。


「当人にしか分からぬことものある……そなたしかり、吾もしかり」

「私、ですか?」


 朱華は思わぬ流れで引き合いに出され、首を傾げた。


「そなたと霜霖の軋轢の実際は、そなたらにしか分からぬものであろう?」

「……」


 朱華は言葉もなくバツの悪さに赤面した。誤魔化すように酒を口にする。


「……父上にはそのようなことがおありなのですか?」

「夫婦のことなどは正しくそうであろうな」


 碧柊は分かりきった返答をする。朱華はやや白けたように、「そうですね」と返した。彼はふっと小さく笑った。


「吾とあれ……明柊もそうだった」


 父が呼んだ名に、娘の肩がぴくりと震えた。問うように隣の父を見ると、彼はなんとも形容のしようのない表情で、暖炉の火を見つめていた。


「父上も従兄弟同士でいらしたのですよね?」

「従兄弟であり、兄であり……共に戦う同士であったこともあったな」

「……戦友ですか?」

「そのような感傷的なものはないがな」


 娘の言葉に、彼はくっと笑った。


「東葉が西葉に勝ったのは、彼の功績が大きい」

「……葉統一の立役者ということでございますか?」


 当然ではあるが、朱華は明柊についてそのような評価は耳にしたことはない。結果的に祖国を裏切り、なおかつ敵を葉の奥深くまで侵入させたのだから当然ではある。


「実際のところ、長く翼波を退け、なおかつ西葉に勝つことができたのは、あれの助けによるところが大きい……あれは吾をよく助けてくれた。言動の軽さと派手さに惑わされて、あれの手腕を軽く見る輩もいたが。吾と協力しつつも油断ならぬ面もあったが、決して尻尾は掴ませなかった。策士とは正しくあれのことを言うのだろう」


 父の言葉に、朱華はわずかに首を傾げた。とても母と雪蘭ほどの絆があったとは思われない。

 怪訝そうな娘の顔に、彼は微苦笑した。


「吾はあれには負い目があるのだ」


 そして、枳月に語ったことを娘にも話して聞かせた。




 全てを聞き終えた朱華は、喉の渇きを癒すように手元の酒杯を一気に空けた。話の途中から身じろぎ一つしていなかったのだ。

 空の杯を手に無言の娘に、父は黙って酒を注ぐ。飲みたいわけではなかったか、朱華は小さく礼を述べた。


「……そのお話は枳月殿にもなさったのですか?」

「ああ、した」

「なんと?」

「父を許せということか、とな」


 碧柊は嘆息した。朱華は爆ぜる暖炉の火の粉の舞う様を見つめていた。無言で身じろぎしない娘を、彼は椅子の背にもたれたままじっと見つめている。


「では、どういうおつもりでお話しになられたのですか?」

「枳月自身の自分を否定する想いを和らげられぬものかと、な」

「結果は如何でしたか? ……私には以前より悪くなったのではないかという気すらするのですが」


 朱華はまっすぐに父を見つめて問いかけた。

 碧柊は難しい顔をしている。


「……自分の価値は確認したようだが、な」


 苦い口ぶりは、娘の危惧に同意するものだった。


「価値というのは、枳月殿が父親から託されたというものですね? ……ようやく葉の役に立てると仰っておられたときの様子が、何故だか心もとなかったのです」

「心もとない、か」

「……なんと言えばいいのか分からないのですが……ご自分の役割に意味を見出した分、自分自身を手段としか考えておられないのではないかと」


 言葉を選んで話すことで、ようやく朱華は自身の不安を具体化することができた。


「自分を手段として活かす途を見つけたには違いあるまいな……あれはずっとこの国に自分がいることに罪悪感を抱いてきた。だが、自分に居ても良い理由が見つかったなら、それに縋りつくだろう。だからこそ、枳月はまだ捨て身にはならぬであろうと申したのだ」


 淡々と話す碧柊の顔は険しい。朱華は自分の不安が的外れではないことを確信した。


「……では、役割を果たせば……」

「……あれがここにいる理由はなくなろうな」

「そのようなこと!?」

「そのようなことのために明かしたわけではなかったのだがな」


 陰鬱な呟きを漏らす父に、朱華はきつく唇を噛みしめていた。そのような結末は彼以外の誰も望まないだろうが、打つ手が思い浮かばない。

 俯いて考え込む娘の肩を、父がそっと叩いた。


「そのように唇を噛むでない……妙なところが母親譲りだな、そなたは」


 同時に口腔内に嫌な味が広がり、朱華は顔をしかめた。


「……母上が、ですか?」


 手巾で抑えてみればじわりと痛みが生じる。白い布地には鮮血が滲んでいた。


「ああ、彼女の若い頃の癖だ。そなたのように、何度も傷にしては顔をしかめていた。思いつめると出るのだろう。吾がしつこく咎めた故、今では滅多と見せぬがな。そなたと同じ年のころは、頻繁だった――特に内乱のはじめ、吾と共に逃げる羽目になったころはな」

「内乱……父上と母上はご一緒に翠華すいかからお逃げになったのでしたね」

「そうだ。その時、女王の身代わりとなって翠華に残ったのが雪蘭殿だった。その後、彼女が明柊等を欺いてくれたおかげで、吾等は西葉まで逃げ延びることができた――吾にとっても恩人だが、青蘭にとってはそれだけではない」

「その方が、枳月殿の母上なのですね……やはり、私にはわかりません」


 そこまでやってのけた女性が、何故その敵と通じて姿を消し、子までなしたのか。朱華には想像もつかないことだった。恐らく事情があったのだろう。朱華には想像もつかないような事情が。そして、それを万人が知るすべはないし、知る必要もない。それでも、初恋すらまだの未熟な彼女には嫌悪感のほうが先に立つのはどうしようもなかった。


「――彼女が望んだことだったのか、それとも無理やり攫われたのか。それはもはや分らぬことだ――ただ、枳月は彼女の言葉を持ち帰った。枳月には母の記憶がないという。ならば、彼女がその言葉を託した相手はあれしかおるまい。そして、あれはそれを息子に伝えた――彼女が残していく息子を葉にかえらせたかったという証だろう。そして、枳月はあれの託したものも持ち帰った……」


 父の言葉に、朱華ははっとしたように顔を上げた。彼は遥かに遠いところを見るような眼差しで、燃え盛る炎を見つめていた。


「――父上、それは……」

「あれは、おそらく敢えて内乱を起こし、翼波と結託したのだろう――そして、吾等には掴みえなかった情報を息子に託して寄越した」

「……わざと、国を裏切った、と?」


 呆然として呟く娘に、彼は皮肉めいた苦笑を浮かべた。


「もしそれを当人に質す機会があれば、だからお前は甘いんだよ、と嗤笑わらうであろうな」

「――父上、それは……枳月殿には?」

「伝えたつもりだが、伝わったかどうかは分からぬな」


 小さく首を振る父に、娘も息を吐くしかなかった。『ようやくお役に立てそうです』と穏やかに微笑わらった顔は、それを容れた表情とは思われなかった。


「父上、おそらくそれは伝わってはおりませんわ……」

「――伝わったとしても、あれは容れぬだろう……」

「それでは、役割が終われば、彼は……」

「存在する理由を失うであろうな」

「父上!?」


 朱華は父の腕に取り縋っていた。拍子に玻璃の酒杯が床に転がり、満たしていた酒が敷物に吸い込まれていく。酒精の匂いが立ち込める。


「――それでも、あれは死なぬだろう」

「……何故ですか?」

「吾が禁じたからだ――あれは己の出生を悟ったころから何度も自死を試みた。それを吾が禁じたのだ――親の罪がそれほどまでに重いなら、生きて贖え、とな」

「……何故、そのような酷いことを……」

「――生きて欲しかったのだ……それがあれを縛ることになろうともな――まさか、本当にその手段を携えていたとは思いもせなんだ……」


 彼は苦渋に満ちた呟きを漏らし、片手で目を覆った。朱華は父の足元に蹲り、両手で顔を覆う。


「何故、ここへ来させたのですか――あのまま王都にいらっしゃれば……」


 少なくとも過去を思い出すこともなく、穏やかに過ごせたはずだった。今更言っても詮ないことだが、朱華は言わずにはいられなかった。


「わかっておれば、吾とてそうしておった――だが、もう後には戻れぬ……枳月とて、それは望まぬだろう」


 朱華は目を瞠り、それから涙をこぼした。おそらく父の言う通りだろう。彼の最も望むことがそれであろうことは、朱華にも理解できた。

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