第7章 7
連夜の宴だが、朱華は疲労を表には出さずに乗り切った。乗り切れたはずだと思えたのは、ようやくお開きになった宴席を離れ、闇に紛れて欠伸を噛み殺した直後までだった。
「疲れておるようだな」
扉の陰から突然声をかけられ、朱華は声を上げそうになった。それを辛うじて堪えてそちらを見れば、父が立っていた。労うような笑みを浮かべている。
まずいところを見られてしまったわけではないが、ばつの悪さには変わりない。朱華は苦笑いして誤魔化した。
「少々酒がまわりました」
「そのように白い顔をして、なにを言う。吾の耳にも届いておるぞ、“ざる姫”の名声は」
またその仇名の件を持ち出され、朱華は軽く咳きこんだ。いったい誰が吹き込んだのか。息を整えながら、いやと思いなおす。
父が例年より長く城に滞在しているのは、娘を気遣ってのことばかりではない。娘の治める実態を見極めようとしているのだろう。もう、朱華は“四の姫”ではなく、苴葉公なのだ。諸侯の一人に過ぎない。そして、父である前に彼は王配なのだ。
「お恥ずかしい限りです」
「いくら飲んでも乱れぬなら、恥じることはない。霜罧はそなたほど酒に強い人間は他に知らぬと評しておったぞ」
出どころを確認し、朱華はやはりと得心した。明日の抗議を決意し、とりあえずそれは置いておく。
「そのようなことはございません」
苦笑する娘の肩に、父の手が置かれた。
「ともかく、その様子ではまだいけそうだな――吾の部屋に準備させよう」
朱華の返事を待たずに小姓を呼び、酒の支度を言いつけてしまった。些か強引なやり方に、朱華は父の意図を悟り、素直に従うことにした。今夜こそはゆっくり眠れるかと思ったのだが、なかなかそうもいかないようだ。
警護をつとめる近衛に前後を挟まれて、父の部屋まで移動する。室内にはすでに酒肴の支度が整っていた。昼間の寒の戻りが厳しかったが、今夜も春先にしては冷え込みが厳しい。季節が逆戻りしたかのようだった。
いつかの夜のように、暖炉の明かりと温もりが届く位置に二脚の椅子と小卓が置かれている。勧められるまま腰をおろすと、早々に酒の注がれた杯が手渡される。碧柊は手酌で自分の酒杯を満たし、先に口をつけていた。
到着した日の夜とは異なり、父のようすに疲労や酔いは感じられない。やはり、あの時は疲労が蓄積していたのだろう。とはいえ、彼が四十を半ばすぎているのも事実だった。
朱華は受けとった酒杯を口元に運び、一口含む。飲んだ時と飲んでいない時の違いを問われても、明確には答えられないだろう。多少体がふわりとする感覚はあるが、それ以上でもそれ以下でもない。多少の眠さを覚えることもあるが、酒を嗜む時間帯が主に夜であることを考えれば、なにが原因かはわかったものではない。
言葉少なに酒をちびちびと飲んでいる娘に、父は目を細める。
今夜の朱華は色彩の鮮やかな衣を重ねた華麗な装いで、居合わせた者たちを釘づけにしていた。いつもより目鼻立ちを印象的に際立たせる化粧は、それにあわせたものだろう。一瞬、三の姫銀華を思わせるが、姉とは違う凛とした美しさが質を異にしている。日頃、地味で質素を旨としている彼女にしては意外な装いが、さらに意表を突いたようだった。
そっと二人の青年を観察することも忘れなかった。一人は素直に見とれているようだった。彼女に宴席まで付き添ってきた若者のほうは、その役目に誇らしげでもあった。付き添われたほうは、慣れぬ己の姿にいつまでも落ち着かない風ではあったが。
治めるものとしての教育に欠いていることは根本的な問題であったが、それも自ら解決する方向で動き出したと聞き、内心安堵していた。いくら幼いころから相性が悪かったとはいえ、側近といつまでも不仲では心配の種は尽きない。
隣にいる若い女は自分の娘である前に、もう若き王統家の主であり、国防の要である苴州を預かる領主でもあるのだ。
「そなたは枳月のことをどの程度知っておる?」
無言で杯を重ねていた矢先、前置きもなく碧柊は問いかけた。酒杯に口をつけていた朱華は、思わず咳きこむ。咳をしながら懐中していた手巾を取り出し、濡れた口元を押さえた。
「唐突ですね」
むせながら応じると、父は苦笑いした。昨日、同じこの部屋で枳月と彼が地図を広げているところに立ち会った以上、朱華が枳月の本当の親について知っていることは明らかだ。枳月が朱華に秘密を明かしたことを碧柊に話したのか、それとも二人のようすから父が察しをつけたのかはわからないが。
「知っていたよりも私たちの血縁が近いことは聞きました」
「他は?」
「あとは、なにか役に立てそうだとおっしゃいましたが、具体的には特に――地図の一件がそうなのかと思っておりました」
違いますか? という目線での確認に、碧柊は小さく頷いた。
「主に翼波にまつわる情報などだ」
「それは――重要なことなのでしょうね……はずかしながら、私にはピンとこないのですが」
「我々が喉から手が出るほどに欲していたものばかりだ――その価値はじきにそなたにも理解できよう、霜罧は良い教師だろうからな」
「私はやはりまだまだ無知なのですね」
朱華は落胆したようすで、小さく息を吐いた。父はそんな娘を笑い飛ばす。
「無知を自覚したなら重畳。そなたの母に至っては、無知なまま女王として即位したのだぞ。だが、今では押しも押されもせぬ立派な統治者だ。国一つでもなんとかなるもの故、苴州一つくらい、なんということはなかろう」
咄嗟に「母上とは違います」と、朱華は口走りそうになった。が、辛うじてそれを抑え込む。自分の無力さを言い訳にして逃げているだけだという、霜罧からの非難が頭をかすめた。
「……そうですね。私はまだまだ無知で無力ですが、力を貸してくれる者たちがおりますから」
「そういうことだ、一人で成すことではない故な」
そう言いながら、半ば空になった娘の酒杯に注いでやる。父に注いでもらってばかりいることに気付いた朱華は、申し訳なさそうにそれを受ける。
「そういえば、算師の手配がついたようだ。霜罧と、そなたの側近、あれはなんと言ったか……」
「列洪のことでしょうか?」
「ああ、そうだ。そちらの方は宴にも顔を出さぬから、なかなか覚えられぬな――ともかく、その二人は確かに有能なようだな。何事も早い」
碧柊は感心しているようだった。
貴族の子弟であり、女王自ら補佐役に任命された霜罧はともかく、列洪は苴葉家の家令に過ぎない。苴葉家の家内の経済と苴州のそれを切り離すことは難しい故、いつしか兼任するようにはなったもので、彼は朱華の家臣の一人に過ぎない。もちろん、苴州内での家柄は最上級に位置する。それでも家柄を言い訳に、できるだけ宴に顔を出さずに済まそうとしている。要は面倒なのだろう。苴州内においてこれ以上出世できる可能性はない――すでに苴葉家の家臣としては頂点に登りつめている。苴葉家から出る俸禄以上の欲もないらしく、利権にまつわる噂もない。霜罧の言うように、ただただ仕事が好きなのだろう。困らせるには仕事を取り上げるのが一番、というのは本当かもしれない。
「地方に埋もれさせるには惜しいな」
実感のこもった言葉に、朱華はぎょっとしてもたれていた椅子の背から身を起こした。
「――ち、父上、まさか本気ではおっしゃっておられるのではないでしょうね」
思わず声が裏返る。
「冗談とは言わぬが、娘のところから有能な人材をかっさらうような真似はせぬ」
血相を変えた娘の反応が面白かったのだろう。彼は軽く笑った。
「……と、ともかくおよしください。あの二人がいなかったら、苴州は破綻してしまいます」
女王の勅命であれば、そのような強引な人事も可能ではあるのだ。原則、女王がそれぞれの領内の統治には関与することはない。だからと言って、放置しているわけでもない。問題が看過しがたいものだと判断されれば、領主の挿げ替えや取り潰しも行われる。領主が取り潰された領地は、王領に組み込まれることが多い。
「わかっておるならもっと大事にすることだ」
ひやっとするような笑みで優しく苦言を呈され、朱華の頬がかっと熱くなる。霜罧との不仲はとっくに父の耳に入っているだろうと思ってはいたが、実際に指摘されると耳が痛い。しかも、不仲とはいえ、朱華が一方的に嫌っていることは昔から明らかで、どちらに非があるのかも明白だった。
「……はい、胆に銘じます」
「私情の挟める立場ではないことは理解しておろうな?」
「はい」
「ならばよい」
さしておきたかった釘をさし、その理由を当人も理解している様子に、碧柊はこの話題をいったん終わらせる。
「それで、だ。算師の手配がついた故、枳月は近々山岳地帯に向けて発つことになろう」
「それはいったい」
「測量のためだ。地図を作るには測量が必要となる。あれの持っているものは伝聞の情報だけだ。それと現地の情報を照らし合わし、さらに精度の高いものとする必要がある」
「……しかし、そろそろ翼波が侵入してくるころではありませぬか?」
雪解けと翼波の侵入と、どちらが早いかというのが実際でもある。
「かといって、積雪の時季に山岳地帯の測量はできまい」
「どちらにせよ、雪解けを待たずには無理ということですね」
「ここ数年、大掛かりな侵入はない。ほぼ小競り合いと言ってもよい――正直なところ、苴州への派兵の規模は縮小しても良いのではないかという意見も出ているほどだ。それに、算師と二人だけではない。苴州兵からなる国境警備隊が同行する故、それほど心配する必要はあるまい……枳月の身の安全には国防の命運もかかっておる。失うわけにはいかぬ故な」
父の言葉に、朱華はなんともいえない表情をした。
「無茶なことをなさらなければ良いのですが」
重い口調の娘に、碧柊は短く息を吐く。
「あれはそれはすまいよ――今はまだ」
「……今はまだ、とはどういう意味ですか?」
朱華は睨みつけるように父を見据え、詰問した。




