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雪の陰翳  作者: 苳子
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第1章 1


 自室に戻った朱華しゅかは、さっそく上衣うわがさねを脱いだ。

 あわてて夕瑛せきえいがそれを受け取ったが、上衣の上にしめていた帯が二人の間に滑り落ちる。帯飾りの玉がタイル張りの床にぶつかり、乾いた音をたてる。七色の房飾りが散々に乱れた。


「申し訳ありません」


 夕瑛がすかさず詫びる。朱華は自失したように床を見つめていた。

 乳姉妹の言葉に我にかえり、珍しく弱々しい微苦笑を浮かべた。


「あなたの失態ではないでしょう。私がぼんやりしていたようね」


 そう自嘲気味に呟き、なにかを断ち切るかのように頭をふった。

 夕瑛はなにもいわずに帯を拾い上げ、ほつれた房飾りの先を丁寧に梳き整えた。それから僅かな笑みを浮かべた眼差しで、主であり姉妹同然でもある王女に目配せする。


「僭越ながら無理からぬことと存じますが」

「――そうね、取り乱したわけでもなし」


 しかし動揺を隠しきれなかったことは確かだった。夕瑛にすればそれこそ無理もないことだと思うが、朱華にはそれすら不本意らしい。

 夕瑛はあの場に立ち合っていた。

 朱華につき従っていったん居間に入ったものの、やはり控えの間に下がるべきか迷っていると、女王その人と目があった。その眼差しは、夕瑛にその場に留まるよう告げていた。それには言葉にして朱華にきかれることを避けたいという、意図も含まれていた。

 事を聞かされた朱華が動じるであろうことを見越しての、母親としての思いやりだったのだろう。夕瑛はあとになってようやくそれに気付いたのだが、話が単なる縁談などではなさそうだという予感はその時から抱いていた。

 朱華はまだ不本意そうに難しい顔をしていたが、思い切るように軽く息を吐いた。

 溜息とも異なる、胸中のわだかまりを押し出すような息遣いは、彼女のちょっとした儀式めいた癖だ。

 それを知る夕瑛は、朱華に更衣の続きを促した。

 朱華はそれに軽く首肯し、てきぱきと袴の帯をとき、さっさと重ね着した衣を脱いでしまう。脱いだものは居間の椅子に積み上げられていく。夕瑛はその間に着替えの用意を整える。

 本来は数人の女官が手伝うものだが、四の姫はあまりそういうことを好まない。しきたりと異なると西宮侍従長は異議を唱えたが、朱華は戦場にずらずらと女官を従えていくわけにはいかない、日頃から慣れておくべきだと抗弁した。それこそ王女が出陣した前例ためしことなどないし、単なる屁理屈の類に過ぎなかったのだが、母はそれもそうねと娘の言い分を容れた。

 今となればそれも布石だったような気までしてくる。

 州を預かるとなれば、しかも朱華が独身であれば、自ら陣頭に立つ必要性も出てくるかもしれない

 前例ためしがないなら作れば良いというのが、母のやり方だ。そのおかげで葉のさまざまな場面で、大きな変化があったらしい。女王が王女であった頃は、王女の素顔を知るのは傍仕えの数人の女官だけだったという。実の父や兄弟と対面する時であっても、顔は隠すものだったらしい。

 肌が透けるような紗の上着と簡素な裳に着替え、帯を締めると、朱華は窓辺に歩み寄った。

 風が涼しい。

 頭を冷やすように、石造りの窓枠に額を押しつける。

 まだ払い切れないもやもやしたものが残っていた。

 霜罧そうりんのことだ。

 母は苴州のことを考える時間を与えると約束してくれたが、それにはもれなく彼がついてきた。決断にあたっての相談は彼にすればいい、もし苴葉家を継ぐなら補佐として彼をつけるからということだった。

 霜罧の両親は共に東葉出身で、特に父親は朱華の父碧柊の乳兄弟でもある。翼波との戦いでは常に碧柊と共にあり、将としても優れているため、苴州でも名が通っており尊敬されている。

 その息子である霜罧も何度か武功をあげ、武将としても知られつつある。

 朱華の補佐をまかせるにはうってつけの人物に違いない。それは同時に、ある方面でも望ましい相手だということにもなる。


「憂鬱そうですね、霜罧殿が婿君候補となれば無理もありませんが」


 まるで内心を見透かされたような間で声をかけられ、朱華はわずかだが目をみはった。傍らに、いつの間に茶器をのせた盆を手にした夕瑛が控えていた。


「お茶はいかがですか?」

「ああ――ありがとう」


 受け皿ごと手にすると、立ち上る香に思わず息が漏れる。それは溜息に他ならない。


「そんな顔をしていたかしら……」

「二人きりですから」


 言外の気の緩みを気にする響きに、夕瑛はにこりと微笑む。たとえそうであったとしても、朱華としては不本意なのだが、夕瑛はあえてそれを指摘して笑い飛ばしてみせるのだ。朱華には下手な慰めよりもこちらのほうが通じやすい。

 案の定、朱華は自嘲気味に微笑んだが、気を取り直したらしい。


「霜罧に勘づかれていなければ、それでいいのだけど」


 朱華は思わしげに、溜息まじりにこぼす。あの居間に霜罧が居合わせた意図を、彼女が悟ったのは西宮に戻ってからだった。だからこそ、そこまでさすがの彼も感じ取ってはいないはずだと考えたいところだ。


「――それは難しいかもしれませんね。霜罧殿は聡い方ですし、朱華さまとのお付き合いも短いものではありませんから」

「……霜罧が婿候補だと悟ったのは、母上と父上の前を辞去してからだったけれど」


 朱華は夕瑛の思いすごしだと言いたげな口ぶりで、片方の眉をあげる。

 夕瑛はそれに小さく首を振った。


「霜罧殿が補佐役につくとお聞きになった瞬間、ここにしわが寄っていましたよ」


 苦笑いしながら、夕瑛は自分の眉間を指さした。

 朱華もつられるように、空いた方の手で同じところを指先で押さえ、皺を伸ばすように何度かさすったのち、小さく息を吐いて肩を落とした。


「その瞬間をしっかり目撃されていたわけね」


 仕方ないわねといいたげに、苦笑する。

 夕瑛はくすりと笑い、茶器が空になっていることを確認した。


「おそらくは――おかわりはいかがですか?」

「いただくわ……それにしても、やっぱりそういうことだったわけね」


 そう言って、朱華は思案するように眼差しを遠くへはせた。それは母のもとを辞した直後のことだった。

 



 「熟考なさい」ともう一度だけ繰り返して、両親は朱華の退出を許した。

 予想だにしなかった提案に、朱華は見た目はともかく内心ではひどく狼狽していたため、それはありがたいことだった。

 そんな話の後で、いつものように食卓をともにしながら、さし障りのない会話に加われる自信はなかった。両親に誘われていれば、断りはしなかっただろう。自制心を保つ自信もあるにはあったが、正直なところ、それはそれなりにしんどいことには違いなかった。

 退出の礼をとる朱華の目の前で、居間の扉が閉ざされた。

 さほど広くはない控えの間の片隅には、女王夫妻付の二人の女官がまるで置物のように静かに詰めている。

 朱華は頭を上げると、その場で思わず小さく息をついてしまった。それからはっとする。この場にいるのは、分別を持って主人を見ることを弁えた女官と夕瑛だけではなかったことを、うっかり失念していた。

 慌てて隣の人物を盗み見ると、案の定とでもいうべきか、目があった。彼はわずかに口元に笑みを浮かべ、まるで朱華に同情しているような眼差しで、自分を見ていた。

 彼の方が背が高いため、自然と目線は上向きとなる。彼の目線はその逆になるため、切れ長の目がやや伏し目がちに朱華をとらえる。その目元には長い睫毛が淡い影を落とし、男ながらなんとも艶めいている。

 後ろめたさから姑息な一瞥をおくった朱華とは異なり、彼は堂々と彼女に向き直っていた。


「ご気分はいかがですか?」


 囁くような声はやや掠れて、優しげにも聞こえる。

 朱華はすっと目をそらし、ゆっくりと扉に背を向けた。


「気遣いは無用です」

「さすがは我が姫君、このような事態ときでも落ち着き払っていらっしゃる」


 朱華は睨みつけたくなる衝動を、必死でこらえた。霜罧には、朱華の動揺を見透かすことなど容易たやすいはずだ。それなのに、わざわざそんな言葉で称えてみせる。悪趣味というよりも、いたぶっている、という方が近い。


「……私はそなたの姫ではない」


 ありふれた追従だと分かっていても、朱華はいちいち否定せずにはいられない。特に霜罧の口から溢れるその手の言葉を、どうしても受けいれられず、あっさりと流してしまうこともできなかった


「いいえ、もはやあなたは歴とした主です。女王陛下自ら、あなたの補佐を仰せつかったのですから」


 霜罧は片膝をついて朱華に頭を垂れ、彼女の手を押し頂こうとする。空々しいほどの仰々しさだが、容姿が整っているだけに、嫌味なほどさまになっている。

 朱華はするりと霜罧の手から逃れた。

 彼の手など払いのけたいところだが、その言葉通り、これは母である女王の勅令ともなり得る。決定権は朱華に与えられたが、今のところ他に身の振り方のあてのない彼女には、受け入れるほかない。彼が補佐となったことも、勅令の一部なのだ。そうとなると、そう粗末にも扱えない。

 朱華が彼を苦手としていることは、彼も知っているはずだった。

 そうとはっきり告げたわけではないが、お互いにそういう感情は通じやすいものだ。そして、彼には朱華をからかって楽しんでいる節がある。それ故にますます苦手感が募ってしまうのだが、それは朱華だけの責任ではないようにも思われる。

 幼いころからお互いの気質を知っているだけあって、朱華の嫌う言い回しを彼はこれ以上ないというほど心得ている。

 しかし、何故、このような時までそんな目にあわされなければならないのか。朱華は苛立ちを露わにしないよう努めるのがせいいっぱいだった。


「まだ結論は出していない」


 そんな事情もあって、どうしてもぞんざいな言葉遣いになってしまう。


「どのような選択をなさろうと、私は一生あなたにお仕えする所存です」


 一瞬の動揺ののち、ああそういうことかと、朱華はようやく納得した。納得と同時に、絶望的な気分にもなった。

 霜罧はそのわずかの隙をついて、ちゃっかりと朱華の手を押し頂いている。手袋で覆われたその甲に礼儀正しく軽く口づけながら、四の姫を見上げる目は愉快そうに笑っていた。


「――ともかく、それは私が決めること」


 やや乱暴に手を引くと、霜罧も今度はあっさりと解放してくれた。

 笑みを浮かべたまま、ゆっくりと立ち上がり、今度は朱華を見下ろすように対峙する。それは明らかに意図的なものだった。


「……どちらにせよ、あなたの選択肢は限られている。降嫁か分家か――」

「出家もある」


 朱華は低い声で言い捨て、夕瑛に「下がる」と声をかけた。

 会話を打ち切られた霜罧は、それでも何故か楽しげに朱華を見つめている。

 振り返って睨みつけたい衝動を押し殺し、できるだけ落ち着いた足取りで控えの間を出た。その控えの間の扉の閉まる瞬間、押し殺したような笑い声が聞こえたような気がして、朱華は思わず唇をかんだ。




「姫さま」


 朱華ははっと我に返った。自分を読んだ声は、心なしか、わずかだけ厳しい響きを含んでいた。

 驚いたように視線を巡らせば、すぐそばに夕瑛が控えている。それは先ほどと同じ位置だったが、やや身を乗り出すようにしているのは、主の様子を確認しようとしたためだろう。


「駄目です」


 夕瑛はわずかに目を眇めて、自分の唇を押さえた。どうやら、考え込んでいるうちに唇をかみしめていたらしい。時々、度が過ぎて傷を作ってしまうこともある。夕瑛が目くじらを立てるのも致し方ない。


「――ああ」


 朱華は苦笑しつつ、素手の指先で自分の唇を押さえた。特に傷になっている様子はない。


「ところで、なにが『そういうことだったわけ』なのですか?」


 唇をかんだということは、なにやら面白くないことを思い出したのだろう。夕瑛はそう見当をつけたらしく、心配そうに眉根を下げた。


「――」


 朱華はいったん口を開きかけたが、また閉ざしてしまった。

 些細なことだといえば、それまでだ。それまでだが、朱華にとってはそうでもない。そして夕瑛にはそれが理解できてしまう。何故だかばつが悪かった。


「さきほどの霜罧さまのことですね。いつになく意地の悪いいい方でしたね」

「――それいうなら、いつも以上に、でしょう」


 結局、夕瑛の前で想いを隠すことはできない。朱華は苦笑しつつそれを認め、大きくため息をついた。


「私が、彼が補佐役だということにいい顔をしなかったから、その意趣返しでしょう」

「あの方は典型的ないじめっ子ですから」


 夕瑛が楽しげに笑うので、朱華は恨めしげに乳姉妹を睨みつける。


「絡まれる方の身にもなってみなさい」


 空になった茶器を弄びつつ、朱華は肩を落とす。

 夕瑛はそんな行儀の悪い主から玩具を取り上げ、さらにくすりと笑った。


「けれど、最後の姫さまの言葉は効いたようですよ?」


 朱華が「出家もある」と応じた瞬間の、霜罧の表情を、夕瑛はしっかり見ていた。


「――笑い声が聞こえた」 


 朱華はやり切れないように呟くと、小さく頭を振った。


「ともかく、こうしていても詮無いこと――まずは夕餉ね」


 さして食欲があるわけでもないのだろうが、なにかあるとまずは腹を満たすことから対処を始めるのが、四の姫の癖だった。だからこそ、余計に逞しいのだの、頼もしいだのと言われてしまうのだろうが。

 夕瑛にとっては好ましい癖だ。

 思わず浮かんでくる笑みを、今度こそは完ぺきに押し殺し、四の姫付女官頭はうやうやしく頭を垂れた。



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