第7章 1
枳月は碧柊の居間にいた。詰まるところ、王配が国境地帯の地図を持ってくるよう枳月に命じたという形だったわけだ。それを、地図に片手に枳月が部屋にこもっていると表現をした霜罧は、何もかもお見通しだということにもなる。
本当に食えない男だと思う。
それが愛憎半ばする感情を伴うことに、朱華は気づいていた。
苴州に来るまでは自分に付きまとう嫌な男だという印象しかなかった。けれど、蓋を開けてみれば、彼もまた可愛さ余っての感情を拗らせていたという真相が明らかになり、朱華の気持ちも変わった。自分に対して特別な感情があると知ってみれば、以前であれば気味悪く感じた自分への賛辞も納得できた。そのくせ、朱華を甘やかすわけではない。必要な時には厳しい諫言もしてくれる。
だからだろうか。近頃では彼に甘えているのではないかと思うことすらあった。接し方としては以前と大差ないかもしれないが、夕瑛や珂瑛らと共にいるときに近い感覚を覚えることがあった。その場に彼らしかいなときは、時として感情を制しきれないこともある。そこには兄弟同然の間柄である彼らへの甘えもある。それが良いことだとは思っていないが、張りつめてばかりもいられない。唯一、肩の力を抜ける場でもあった。
それに近いものを、霜罧に感じることもあった。他の者がいるときはそうでもないが、先ほどのように二人きりとなるようなことがあると、つい八つ当たりじみた態度をとってしまうことがある。後からそれを酷く後悔するのだが、気が付くと同じことを繰り返してしまう。そこにはやはり甘えがあるのだろう、と朱華は自省していた。その根底にあるのは、いやあったのは、彼の自分への好意――いや、恋情をあてにしてのことだった。
それが如何に浅ましいことであったか。朱華は父のもとへ向かいながら、それを苦くかみしめていた。
他人の好意に図に乗って、結局呆れて見放されてしまうとは――
頭を掻きむしりたい衝動を、何とか堪える。いきなりそんなことをすれば、警護の者にどう思われるか。その一点だけを思い、朱華はただただ歩くことに集中していた。
国境地帯の山岳部の詳細な地図は、最高機密でもある。持ち出しには苴葉公である朱華の許可が必要なはずだった。だが、朱華のそれを得ずに持ち出されている。そして、それを霜罧が知っているということは、軍の最高責任者である父の権限は朱華のそれを凌ぐということだった。
朱華はそれを知らなかったし、ここまできてようやく気付くような始末だった。やはり、自分にはいろいろと足りないだと実感するが、落ち込みそうになる手前で踏みとどまった。
だからこそ、他者の能力が必要となるのだ。皆が皆有能すぎては、立ち行かなくなってしまう。そこでは朱華のような、能力的には劣る人間のほうが緩衝材になれるのだろう。誰にでも向き不向きはあるもので、自分には無理だと思ったことは、もっと向いているものに任せてしまえばいいと笑ったのは、珂瑛だっただろうか。
気が付くと、昨夜訪ねた扉の前に立っていた。その前には王都からついてきた近衛兵が詰めている。見覚えのある顔がないかと探したが、そこにはいなかった。そういえば、朱華と多少なりともなじみのあった者たちのうち、少なくない者が近衛を辞して苴州にまでついてきてくれたのだった。
これまでも、これからも一人ではないのだ。そして、それに伴う責任がある。
朱華はそっと息をついた。
案内に出てきた小姓は、昨夜の少年ではなかった。廊下と居間の間には小さな控室がある。小姓は居間へ通じる扉を支え、朱華が入室するのを確認すると、彼はそのまま控室に残った。
「王配殿下、失礼いたします」
「朱華か――そのように改まらずとも、父上でよい」
居間の中央に置かれた大きな机に向かっていた王配は、娘の訪室を立ち上がって迎えた。軽く抱き寄せられて、朱華も父の背に抱擁を返す。そんな二人を、やはり立ち上がった枳月が見守るように見つめていた。
「おはようございます、公」
昨夜の深酒の名残はみじんも感じられない。朱華の目にはそれなりに杯を重ねていたように見えていたが、飲んでいる最中にも酔いのまわった気配はなかった。彼は本来酒には強いのだろう。
ふと自分自身“ざる姫”との愛称を得ていることを思い出し、苦笑いしそうになった。それを押し殺し、笑顔で挨拶を返す。昨夜のやり取りを思い出すと頭を抱えそうになるので、できるだけ考えないようにする。やはり、昨夜の朱華は飲みすぎていたのかもしれない。
枳月にも変わった様子はない。酔った勢いの告白を、彼は朱華の弁明通り“兄のような存在”と受け止めてくれたのだろうか。
そもそも告白といっても確かに弁明した通りには違いないのだから、このように狼狽する必要はないはずだった。口先ではああ言ったものの、枳月に対する気持ちが夕瑛らに対するものと同じはずはない。それに薄々気づきながらも、朱華はそれ以上考えないようにしていた。霜霖に対するそれとも異なるのだ。
これまで朱華は異性に特別な想いを抱いたことはない。はっきりと好意を示されたのも、霜霖がはじめてだった。
年の近い姉三の姫には崇拝者が多く、朱華には皆無だったため、彼女にとって色恋沙汰は他人事だった。ただ、王族の義務として、定められたしかるべき相手と結婚し子を成すことは当然だと考えている。その相手がなかなか決まらないため、多少の焦りはあるにはあるが。
自分の心ひとつですら定まらず、さらには振り回されているが、今の朱華はそれどころではない。まず取り組まなければならないことは目の前にある。
枳月は広げられた地図を指し示しながら、時折何かを書きこんでいた。いったい何をと疑問を抱きながらも、朱華は邪魔にならないように黙って見守る。
彼が指差すのは主に空白の広がる部分だった。地図など意識して見たことのない朱華には、それがどういうことなのかわからなかった。が、父はひどく熱心に見入っていた。最高機密である地図に、枳月は注意深く書き込みを加える。
「こちらの地図はきちんと測量に基づいているのですね――あちらでは伝聞情報に基づくものらしいので、正確さでは葉のほうがはるかに勝っています」
「ほう、そうなのか……詳細な情報は算師(測量技師)と詰めていったほうが良いかもしれぬな」
碧柊の言葉に、枳月がわずかに身を強張らせるのがわかった。それには王配も気づいたらしく、考え込むように腕を組む。
「情報の出どころはなるべく秘しておきたいところだが、正確さも捨てられぬ――信用の置ける者を一人だけ選び出す故、如何か?」
「……そうですね、私は地図に関しては素人ですから、専門家の協力は欠くべからざるものですね」
地図を前に二人が話し合うのを、朱華は黙って聞いているしかなかった。しばしそうした時間が経過した後、二人は算師の選出が先だという結論に達した。
その後になってようやく、二人は朱華が話についていけていなかったことに気づいた。朱華は朱華で、地図の重要性を当然としている二人と、その視点に欠けている自分の違いを苦く噛みしめていた。
「――武芸だけではいけなかったのですね」
悄然と呟いた朱華に、父は苦笑いした。
「いや、そもそも女性が戦にいくことはない故にな。一の姫ですら、先ほどの話の大半はわかるまい。地図が重要であるということくらいは知っておろうがな。第一に、そなたの役割は苴州を治めることであって、戦ではないぞ」
「失礼ながら、公は苴州の領主であって武将ではありませんよ」
言い聞かせるような碧柊に、さらに枳月にまでそう言われて、朱華も思わず苦笑いした。
「そなたは少々短絡に過ぎるのではないか?」
「……そうかもしれません」
肩をすくめた娘の頭を、父は励ますように軽く叩いた。
「しかし、地図の役割はそれだけではない。その重要性はゆくゆくは理解しておいた方が良い。治政にも必要となる」
「はい」
朱華は素直に頷いた。
少し前であれば自分の不足ばかりに目がいって、やるべきことは後回しになっていたかもしれない。けれど、確かに朱華は領主であり、武将ではない。葉では女性が戦線に加わることはない。女性の嗜みとして多少の武芸を求められることはあっても、それはあくまで芸事の一環に過ぎないのだ。そして、第四王女である朱華は、王位を継承するという前提では育てられてこなかった。領主としての素養に欠けているとしても、それはこれから身につければいいことでもある。それを補うために、朱華の苴葉公就任あたり様々な人物が補佐としてつけられたのだ。
朱華が納得した様子を確認すると、碧柊はあらためてしみじみとした様子で枳月を見つめた。
「――あれがそなたに託したのは、こういう類のことだったのだな」
枳月はその視線から目をそらし、俯き加減に頷いた。
「はい、当時は何のことかさっぱりわかりませんでしたが――ただ、私が実際にお役にたてるまでにこれほど時間を要することになるとは、父も考えていなかったかもしれません」
苴州で保護されてから一〇年近い年月が経過している。失われた時間を自分の失態として悔いる口ぶりの枳月の肩を、碧柊は軽くたたく。
「なにを言う、そなたがもたらしてくれたものがどれほどの貴重なものであるか。それは恐らくそなたが考える以上の価値を持つのだぞ」
朱華もまた、枳月が“お役に立てる”と話したその実際の価値を、未だに理解はできていなかった。
「――そうなのでしょうか」
「無論だ。こちらとしては喉から手が出るほど欲していたことばかりだ……あれはそういうことには吾より長けておったしな……」
感慨深げに呟く碧柊の表情は複雑なものだった。それを見る枳月の顔もすっきりとしない。
朱華は二人の昨夜の会話を知らない。
枳月の父だという明柊。その人物に二人がそれぞれに抱く感情も知らなかった。それでも、父碧柊が彼に憎しみではない感情を抱いていることは感じられた。
算師というのは律令制で係数を司っていた官職です。地図作製にも関わっていたようなので参考にしました。




