第6章 7
枳月は顔を歪めてしばらく沈黙していたが、ついにたまりかねたように酒杯に手をのばし、一気に飲み干した。文字通りの自棄酒だが、朱華には止める気になれなかった。
彼の父にも考えあってのことだったのだろうが、あまりに酷すぎる。
朱華は瓶子を手にし、枳月の空になった酒杯を満たした。彼は拒まなかった。
「……葉に来る前後のことは記憶が曖昧なのです……山を越えたことは覚えています。それから顔を焼かれて――」
彼はそこで口を噤んだ。
朱華が明らかに顔を強張らせたのだ。戦の現状を目の当たりにしたことのない彼女には、それだけでも十分に刺激が強い。ましてや目の前の彼の顔にはその酷い傷跡が残されている。
枳月は慌てて傷跡を髪で隠した。朱華はその動きにはっとし、恥じるように口を引きむすんだ。
「――申し訳ありません、戦禍で負われたお怪我だろうとは思っていたのですが、意図的なものと聞いてつい……」
「いえ、確かに視覚的にも良いものではないことは確かです」
彼が前髪を伸ばしているのは、その顔を隠すためではなく、蟹足腫を人目に晒さないためでもあった。傷の惨さと醜さから、彼の顔を直視できない者やしない者は少なくない。
「火傷の痛みで気を失いつつある私に、『あなたは葉にお戻りなさい』と……次に気づいた時には、葉の陣中でした」
記憶を辿る彼は時々遠い目をする。決して楽しい行為ではないだろう。
朱華は彼の言葉を反芻した。
「それは父君ではなかったかもしれませんね」
「私もそう考えています――父と最後に会ったのがいつだったのか、はっきりしないのです。隔離されていたので、指標となる出来事もなく……」
彼はそこまで話すと、またふっつりと黙り込んでしまった。朱華は心配そうに枳月の様子をうかがう。
「無理に話していただかなくても、これまでのお話で十分です」
自分の正体を明かしてくれただけでも十分なように、朱華には思われた。枳月は感謝するような目で朱華を見たが、首を振った。
「お言葉には感謝します。……だが、あなたにはお話ししておきたいのです……お仕えすると誓ったのですから」
「だからといって、すべてを晒し出さなければならないとは思いません」
朱華はきっぱりと言った。生真面目な彼のことだ、本気で胸の内まで洗いざらい話しかねない。
枳月はこわばっていた表情をふっと緩め、手元で弄んでいた酒杯を口に運んだ。今度は唇を湿らせる程度だった。
「お気遣いありがとうございます――おそらく、ただあなたに聞いていただきたいのでしょう……何故でしょうね、これまで誰にも話したいと思ったことはなかったのですが」
そう言って、彼は微苦笑した。特に朱華にむけられたものではなかったが、朱華は何故か頰が熱くなるのを感じた。恐らく顔も赤くなっているだろうが、暖炉の焔でわからないだろうと内心安堵した。
「――誰しも、何もかも胸中に抱えたままでいることは難しいのではないでしょうか……私でよければいつでもお聞きますよ……ただ、それだけしかできないかもしれませんが」
情けない話ではあるが、それが本音だった。彼の抱えるものは大きすぎて、朱華の手に負えるものではない――それにしても、これからどうすれば良いのか。
「そのお言葉だけで十分です――他者からこのようにあたたかいお気遣いをいただいたのは、葉に来てからです……」
枳月は朱華にそっと微笑みかけ、それから辛そうに目を逸らした。朱華の胸がわずかに軋む。
「葉こそが真の故郷だと教えられ、私はずっと葉こそが本当の帰るべき場所だと思っていました……真相を知っていれば、そのような選択はしなかったのですが」
枳月は苦渋に満ちた顔で、小さく溜息を吐いた。朱華にはかける言葉がない。人との関わりを極力避けてきた、彼の生き方の理由がはっきりとした今となっては。
「私の正体を承知で、陛下と殿下は親切にしてくださった。親の罪の償いを、私に求めることもなさらなかった。私の好きなようにもさせてくださった……恐れながら親というものを感じることができたのも、お二人のおかげなのです」
枳月の生まれを承知で受け入れた両親。
父の従兄にあたる明柊を、朱華は国賊として考えていた。
だが、両親の口から直接そういう話を聞いた記憶はない。むしろ、内乱の原因を作ったのは自分の甘さだという、父の自省の言葉を耳にすることがあった。それでも、女王と王配をのぞく世の認識は彼は国賊だということになっている。
二人の決断は、せっかく安定しつつある国を根底から覆しかねないものだったはずだ。肉親の情だけでできるものではないはずであり、していいものではない。女王は時に苛烈な決断も下してきた。情に流されるような女性ではないと思ってきたが、違うのだろうか。
「師匠も何者かも知れない私をよく導いてくださいました。あの方がいらっしゃらなければ今の私はいないでしょう」
「……師は、あなたが何か大きすぎるものを背負っておられることはご存知でした。それが何かまではご存知ありませんが」
朱華の言葉に、枳月はふっと遠い目をした。
王都で近衛に属していた頃が、彼にとってはもっとも平穏な時間だったかもしれない。
「師がそのようなことを」
「言わずとも察していらしたかもしれません。二十五年前といえば、師がもっとも活躍なさっておられた頃ですし、あの方は元々東葉出身でいらっしゃいます。私たちの父と面識もおありだったかもしれません」
「……かもしれませんね」
枳月は嘆息し、また酒を口にする。
「珂瑛殿も気持ちのいい方です。陛下の意に反して裏に下がろうとする私の気持ちを組んで下さる……正直なところ、それではいけないことは分かっているのですが、私にはどうしても表には立てなかったので……見せかけの血筋だけは良い駄目上官をうまく補佐してくださる……彼がいなければ、苴州での私の立場は微妙なものになっていたでしょう」
枳月は珂瑛に感謝しつつも、己の振る舞いに恥じるところはあるらしく、複雑な胸中を垣間見せた。
「……あれは意外と面倒見の良いところがありますから」
朱華は薄く笑んだ。話は珂瑛からも聞いている。対立するでなく、うまく折り合えているならそれで良いのではないかと思っていた。
誰しも向き不向きがある。目立つことを避けていた枳月は、人の上に立つには向かない。
そこを珂瑛がうまく補佐し、肝心な時には枳月を上官として立てるため、部下たちから軽んじられるという事態は避けられているようだと、霜罧から報告も受けている。
「甘えてばかりでは……」
「私も似たようなものです。血筋だけで苴葉公となったけれど、器不足は明らかです。霜罧や列洪がいなければ、何もできません」
苦笑いする朱華に、枳月は首をふる。
「公はよくやっておられます。領内の豪族の家督相続を女性にも認めることになったのは、公の発案だと聞きました――そのおかげで身を落とさずにすんだ者たちがどれほどいることか」
「……私は言い出しただけで、あとは二人に任せきりです」
「それがあのお二人の役目ですよ」
「それを言うなら、珂瑛もあなたの補佐が役目です」
二人は顔を見合わせ、それから小さく噴き出した。
枳月はいくらか力みの抜けたようすで、酒杯を傾けた。が、いつの間にか空になっていたらしい。朱華は彼の表情から察しをつけると、黙って瓶子を差し出した。彼はばつの悪そうな顔で、しかし素直に朱華の酌を受けた。
そういえば、彼は酒には強いのだろうか。乱れたところは見たことがないが、このように酒を嗜んでいるところを見るのも初めてだった。酒宴においても、彼は存在感がない。たいてい隣にいる珂瑛の磊落な笑い声などに注意を引かれた時に、目にするだけだった。
父と二人でどれ程飲んだのかは分からない。が、乱れた気配は微塵もない。
「……あなたのお父上にも、なにかお考えがあったのではないでしょうか?」
彼を慰めるつもりはなかったが、そんな言葉が出た。枳月はぴくりと体を震わせた。
「何故、そのようにお考えに?」
ひやりとするような眼差しだった。腹の中を探るようなそれに、朱華は彼の警戒心を感じた。
手にしていた酒杯で喉を潤す。酔いはいっこうにまわってこない。
「……少なくとも父は、あなたのお父上をよく知っているはずです。内乱が起きる前のお二人は、力を合わせてよく戦っていたと聞きました……枳月殿は先ほど、父が翼波は敵だとあなたに教えていたと仰った。顔を焼いてまでして、あなたを葉に帰そうともなさった……そこにはなにか意図があるはずです。そして、父ならそれに気づいたかもしれません……それとは別に、肉親の情もあったのではないかとも思いますが」
朱華はまとまりきっていない考えを、ゆっくり言葉を選びながら紡いだ。枳月はなにも言わない。言葉の途中で彼女から目をそらし、揺れる灯りに視線を注いでいる。
なにを考えているのだろう。朱華にはその胸の内までは読めなかった。
「――お母上の記憶はないということですが……私の母の従姉妹にあたる女性ではありませんか?」
朱華はまっすぐに枳月を見つめた。枳月はびくりと肩を震わせ、驚いたようすで彼女を見た。
「……誰からお聞きに?」
「推測です……あなたは翠華で、母の身代わりとして花柱に囚われていた女性について話しておられました。あなたが女性について話すことは珍しいですし、後宮に興味をお持ちとも思えず、気にかかっていました」
枳月は自分の言動が記憶に残っていないのか、腑に落ちない顔をしていた。朱華はかまわず話を続けた。
「先ほどのあなたの話で、それも納得しました。あなたのお母上がその方なら、母の行動も理解できます」
枳月は目を瞠り、それから深く息を吐いて瞑目した。
「母については、私自身つい先ほどまであの方だろうかと思っていた程度でした」
「……つい先ほどまで?」
「――殿下とお話しする中ではっきりしました」
枳月はようやく目を開けると、朱華をまっすぐにま見つめた。
「母は、父に言付けていたようです」
「……言付け?」
「私が最初に覚えさせられた葉の言葉がそれだったようです……それは、陛下が母と最後に交わした約束でした」
枳月は静かに言い切った。その表情は、これまで朱華がみたことのないものだった。いつも他人の視線を避けているような、自分の存在を恥じているようなものを漂わせていたが、今は微塵も感じられなかった。




