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雪の陰翳  作者: 苳子
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第5章 9

 霜罧そうりんは最初のうちは、遠慮がちに朱華しゅかの肩に手をかけていた。彼女はなにをされているのか理解できないのか、彼の腕のなかでじっとしている。

 そもそも彼女は手放しで号泣するような泣き方はしない。涙はこぼしても、安易なその行為を恥じるように、堪えようとするのが常だった。今も唇を食いしばって、溢れてくるものを懸命に止めようとしている。それに気をとられているのだろう。

 不器用なその姿に霜罧はそっと微笑し、気づかれないようにその背に腕をまわす。自分が近づいただけで顔を強張らせる普段の主人には、とうていできない真似である。相手が弱っているところにつけ込んでいることは自覚しながらも、貴重な機会を味わっていると、腕のなかの細い体が動いた。

 体をかたくして堪えていた涙がおさまってきたのか、外套の袖で乱暴に濡れた顔を拭っている。どちらかといえば粗野な男らしい仕草に、霜罧はおやおやというように眉を上げた。


「……なにをしている?」


 さほど間をおかず、くぐもった声があがる。同時に抗うように体を動かそうとする。予期していた霜罧はそれを封じるため、抱きしめる腕に力をこめる。


「まずは落ち着いてください」

「落ち着いている。もう一度訊くが、なにをしている?」


 声を低く押さえて、朱華は繰り返した。わずかながら戸惑いと怒りが伝わってくる。


「こういうのは抱擁というのでしょうね、おそらく」

「霜罧」


 一段と声が低くなった。霜罧は彼女の怒りが深まりつつあることを察し、「失礼」と呟いた。


「姫、私はずっとあなたをお慕いしてきました」

「……なにをいっている?」


 明らかに不愉快そうな朱華の声音に、霜罧は溜息をつきそうになるが、こらえた。主人はこの後に及んでも、彼がたちの悪い冗談でからかっているとでも思っているのだろう。


「言っておきますが、冗談や戯れではありませんので」

「……では、なんだというの?」


 本気で憤っているらしいことに、霜罧は今度は溜息を隠せなかった。


「冗談でなければ本気しかありますまい」

「本気で言っている、と?」

「はい」

「本気でからかっているのではなくて?」


 霜罧は小さく息をつき、首をふった。


「自分でしでかしておいて申し上げるのはなんですが、これは洒落にならない事態です。これで私は不敬罪に問われます」

「……それがわかっていて?」

「――まさか……衝動です」


 羞恥に打ちひしがれた声に、朱華が顔をあげた。霜罧は居心地悪そうに目をそらし、顔を赤らめている。彼のこのような姿を見るのははじめてだった。


「――そなたが、衝動で?」

「面目もございません」


 苦り切った口ぶりで己を恥じているのは明らかだが、そのくせ朱華を解放しようとしない矛盾には二人ともに気づいていない。

 朱華にしてみれば予想外過ぎた。霜罧は常に冷静で周到であり、それは朱華をくさす時でさえそうだった。全てにおいてぬかりのないはずの彼が、よりにもよって衝動で動いたという。信じがたいというのが朱華の感想だ。

 身動きができないよう抱きすくめられているに近い状態だが、朱華は不思議とそれほど動揺はしていなかった。翠華すいかで足を滑らせた際、助けようとしてくれた枳月きげつに一瞬だが抱き寄せられた時のほうがよほど狼狽していたかもしれない。


「恐れながらお怒りのこととは思いますが、先ほどよりは落ち着いておられますか?」

「……なに?」

「腕を解きますので、膝蹴りばかりはご容赦を」


 さきほどの男の一件が念頭にあるのだろう。朱華は内心むっとした。

 霜罧は名残惜しそうにそっと朱華をはなし、一歩退いた。朱華はほっとしながら背後の壁にもたれ、そっと息をつく。さしてきつく抱きしめられていた印象はないが、本気で振りほどこうしても叶わなかった。今は文官であり痩身の優男風の霜罧とはいえ、女の身ではとても抗えなかった。

 朱華は頬がつっぱる感触に、そっと触れた。涙はとうに乾いていた。


「そのようなことはせぬ――騒ぎになろう」

「そうなれば公には醜聞、私は不敬罪に問われましょう」

 

 警邏の兵が駆けつけるようなことにでもなれば確かにそうだろう。


「……」

「私は逃げも隠れも致しませんので、処分はのちほど存分になさってください」


 朱華の意志に関わりなく好きにされたといえばそうなのだが、霜罧の恥じ入り具合を見ていると、王都で船を漕いでいるところを朱華たちに見つかり、その後自分の足を抓って眠気を覚ましていたことを思い出す。

 彼がもっとも厭うのは己の迂闊な失態なのだろう。

 これを機に毛嫌いしている彼を遠ざけてしまうことま可能だが、それは文字通り自分の首をしめることになってしまう。それに彼は先程珍しく朱華を認めてくれたばかりだった。


「……そなたを処分して困るのは私なのにか」

列洪れっこう殿がおられます」


 二人ともに朱華の補佐にあたっているが、霜罧が主であり、列洪は副官だった。家格の違いと、霜罧は女王の勅命を受けているためだった。


「権限はそなたのほうが上だ、そなたの裁可がなければまわらぬだろう」

「どうとでもなりましょう」


 足を抓ってすむ話ではないためか、いつになく霜罧は執拗だった。朱華は少し苛立つ。


「私がせぬといったからには、それはもうよい。それよりも訊きたいことがある」

「――どのようなことでしょうか?」

「先程の、あれはなんだ?」


 真顔での問いに、霜罧が困惑する。


「あれ、とは?」

「そなたがその……抱擁とかいっていた……なぜ、あの状況でああなる?」


 霜罧は絶望的な溜息を吐きそうになった。主人がことのわりにあっさりしていると思えば、そもそも理解が及んでいなかったらしい。そのくせ、空気は読めるのか、抱擁だけは言いにくそうだった。


「……私の気持ちをお伝えしたことは、ご理解いただけでしょうか?」

「……言葉の意味は理解しているつもりだが、そなたの気持ちがまずわからない」

「言葉のままですが」


 朱華は霜罧を見据える。お互いに齟齬があることはわかっている顔だった。しかし、今の彼は理解の悪い朱華を腐したりはしない。


「……私はそなたに嫌われていると思っていた……せいぜい苛んで楽しむ程度の相手とみなされているのかと」

「……これまでの非礼の数々をお詫び申し上げるしかありませんが、私にはそういう嗜好はございません」


 霜罧はしおらしく首をふった。が、それで朱華が納得できるわけはない。


「それはどうなのかしら、あなたが苛むのは私だけのようだし」

「……それは申し訳ありませんが、姫が私にとっては特別だという次第で」

「虐めがいがあるのが私だったということ?」


 朱華の皮肉な笑みに、彼は観念したようだった。


「まさか、そのようなことは……あなたは幼い頃から誉めそやしても優しくしても一向に気をひくことができない姫君でした」

「けれど、苛めれば反応した、と?」

「……そういうつもりではありませんでしたが、あなたの関心を引こうとするうちに、不愉快な思いをさせてしまうようになったのでしょう」


 霜罧の口ぶりは淡々としているが、他人事のようではなかった。己の愚行を客観的にみているのだろう。


「いじめるのが目的だったわけではないが、私の気を引こうとしているうちに、そうなってしまったと?」

「はい――その結果、ずいぶんと嫌われてしまいましたが」


 霜罧は皮肉げに嗤笑わらった。朱華は困惑したように眉をひそめた。


「……なんだかますますよく分からなくなってきたが――嫌われれてもいいから、気を引きたかったのか?」

「――そういうわけではなかったのですが、気が付くとそうなってしまいましたね……まことに身勝手ですが、そうなるともう今度は相手が憎らしくもなってくる次第で……」


 もはや諦めたように霜罧は自分の愚行を語る。


「――本当に勝手ね……ともかく、嫌われたくはなかった、ということになるのか?」

「――嫌われたくないというより、むしろ好かれたかったはずなのですがね……」


 朱華は呆れかえった。


「それは無理でしょう、厚かましいにもほどがあるわ」

「……まことに……愚かしい次第で……」


 あわせる顔もないというようすの霜罧に、朱華はなんともいいようのない気分を味わっていた。


「そのようなことはとっくに自分でも分かっていたはずではないの? そなたは頭は切れるのだし、何故そのような愚かしい真似をするのか……」

「分かってはおりましたが、実際に自分を律するとなると難しく……態度を改めてみたところ、姫からは不審がられたこともございました――」

「……そのようなことが?」


 心当たりのない朱華に、霜罧は苦笑した。


「『なにが目的だ? 』と仰られたことが……」

「――……」


 心当たりを思い出し、朱華は口を開いたものの、言葉が出てこなかった。


「悪く言えばそのまま受け取られるのは当然ですが、お褒めしても悪く解釈なされるようになっておしまいになり――すべて私の自業自得ではありますが……」

「……確かにそなたになにか言われても全てら悪くとらえていたわ――何故、そこまで嫌われるのかと不思議でもあってけれど、まさか……」

「――まさか、好かれているとはお思いなられませんでしたか?」


 霜罧はそういって苦く笑った。朱華は呆れたように首を振る。


「どう解釈すればそのように受け取れるのか、むしろ訊きたい」

「事あるごとに称賛し、将来を投げうって苴州までお供させていただいたつもりでおりましたが」

「……称賛は皮肉に聞こえたし、苴州への同行はそこまでして私を苛みたいのかとぞっとしたわ……」


 朱華は疲れたように呟いた。なるほど、これまで抱いてきた数々の疑問はその答え一つで氷解した。


「とりあえずはご納得いただけましたか?」

「――理解できたわけではないけれど、そなたの気持ちは少しは分かったかもしれない……」

「……今後はいっそう振る舞いを改めるよう努めますが、その際に公に気味悪く思われずに済むならそれでけっこうです」

「――わかったわ」


 朱華の言葉に霜罧はほっとしたように微笑した。


「では、行きましょうか。私が公と合流できたことは、すでに覗見かきまみが知らせてくれています。このまま今しばらく城下を見物なさいますか? それならば私が案内あないさせていただきますが」

「――そなたに案内ができるのか?」


 霜罧が城下に降りた話を、朱華は耳にしていない。


「主だったところは一通り回ったかと――列洪殿にすすめられ、苴州入りの直後から何度も降りたものですから」

「……列洪が?」


 驚く朱華に、霜罧は苦笑いする。


「ああ見えて、あの方は実際家ですよ」

「……書類ばかり気に留めている印象だったわ」

「それも政務の一環ですからね」

「――そうね……霜罧、もう一つ訊きたいことがあるのだけれど」


 朱華は思い切って切り出した。


「如何なることでございましょうか?」

「――枳月殿のこと、そなたはなにを知っている?」


 まっすぐに見据えてくる朱華から、彼は目を逸らさない。


「……なにも知りません――ただ、憶測はあります」

「どのような?」

「……憶測で迂闊に言えるようなことではございませんよ」


 そう言って微苦笑し、首を振る。朱華は誤魔化されたようで苛立った。


「……憶測でいいからものを言って、枳月殿への私の印象を悪くしようとは思わないの?」

「――これでもまだ、私は恥を知っているつもりです」


 霜罧はわずかに傷ついたような苦笑いを浮かべた。朱華はかっと頰を赤らめて俯いた。


「心ないことをいった……すまぬ」

「……いいえ、私のこれまでの行いが姫をそれだけ傷つけてきた証でしょう」


 朱華には返す言葉がなかった。一方的に霜罧だけが悪いはずはない。重苦しい沈黙のなか、どちらからも動けずにいると、はらりと白いものが迷い込んできた。


「……降り出しましたね」

「……ええ」

「案内はいかがいたしましょう?」


 霜罧の問いかけに、朱華は顔をあげた。彼は穏やかに微笑んでいる。そこに皮肉な影は一片もない。


「……お願いするわ」


 彼は笑みを深めると、「では」と恭しく一礼し、朱華に歩みだすよう促した。

覗見は間諜の意味で使っています。

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