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雪の陰翳  作者: 苳子
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第5章 3

 視界を遮る吹雪が激しさを増したようだった。珂瑛かえいは毛皮で裏打ちされた外套の襟元を搔き合せ、襟巻きに顎を埋めるように首をすくめた。

 そして、隣の枳月きげつをちらりと見る。止むことを知らぬ雪の中、彼は平然としているように見えた。ひきつれた火傷の跡のせいかもしれないが、態度そのものが寒さなど感じていないように見受けられた。

 元々ここ州で産まれ、攫われてさらに寒さの厳しい山の向こうで育ったという話の通りなら、彼は寒さには慣れているのかもしれない。

 比較的温暖な東葉とうは中央部で生まれ、小雪がちらつく程度の王都で育った珂瑛は、暑さには強いが寒さは苦手だった。しかもここはどこにいても常に寒いのだ。

 床の中とて例外ではない。冷え切った寝床はなかなか暖まらず、横にならずとも何処でも寝られると豪語する珂瑛だが、実のところ寒さのあまりなかなか寝付けない夜もある。そんなことは苴州にくるまで経験したことはなかった。

 妹の夕瑛せきえいも口には出さないが同様らしく、主人である朱華が殊の外寝起きが悪いと漏らしていた。苴葉そよう公である彼女の私室はそれなりに暖もとれるように配慮されているだろうが、日常的なこの寒さである。王都からやってきた面々にとって一番の問題もやはり寒さだった。


「殿下は寒くないのか?」


 珂瑛は無遠慮に問いかけた。元より大きな珂瑛の声は吹雪に掻き消されるようなことはなかった。

 二人は並んで立っている。目の前では兵士たちが雪の中鍛錬に励んでいる。背後には高い城壁が唆り立ち、雪混じりの風を多少防いでくれているが、それも気休め程度だった。

 枳月は唐突な問いかけに驚いた様子もなく、隣の同僚に顔を向ける。


「まさか、そのようなことはありませんよ」


 視界を遮るほどの雪のため、その表情ははっきりしなかったが、口調は苦笑いしているようだった。


「それはそうだな、失礼した」


 珂瑛はあっさり詫び、小さく笑った。己の失言を笑い飛ばすにも寒すぎる。


「あまりに悠然としておられるから、つい、馬鹿げたことを」


 言い訳する珂瑛に、枳月は薄く笑って暫く黙していたが、気まずげな空気を察してか口を開いた。


「珂瑛殿は苴州の冬は初めてですか?」

「ああ……いや、はい」


 自分の無作法に気づいた珂瑛は慌てて取り繕う。二人の地位は同じだが、身分は大きく異なる。そのため、珂瑛は枳月にどう接すればいいか決めあぐねていた。彼にしては極めて珍しいことに、対応がぎこちなくなってしまうこともあった。

 それには枳月もとっくに気づいており、珂瑛がどのような様子でも一貫して同じ態度を通してくれていた。


「珂瑛殿、できればあまり改まらずに接していただきたい」


 穏やかな物言いでの提案に、珂瑛は頷いてしまいそうになった。


「いや、殿下をお相手にそういうわけには。示しもつかなくなりましょう」


 枳月はいったん目の前の練兵に視線を移し、暫く間を置いてから再び珂瑛を見た。


「では、示しをつけなければいけない場以外では如何でしょう?」

「……しかし」

「珂瑛殿が私的に姫に接しておられるような感じではいかがですか?」

「そのような線引きでお気持ちに沿えるなら、そうしよう」


 珂瑛とて近衛に属していたこともあり、礼儀をわきまえていないわけではない。ただこの先長い付き合いとなる枳月にどう対処すべきか決めかねていたのだ。王族である枳月からこのような線引きを希望されれば、珂瑛は従うまでである。それを枳月からはっきりさせてくれたことに、珂瑛はあからさまにほっとした様子を見せた。

 枳月は微笑すると練兵に視線を戻した。珂瑛はそれに気づいたが、枳月から振られた話題をそのままにする気は無かった。


翼波よくは戦に加わったのは一度だけだ。春から秋にかけてだったから、これほど寒さが厳しいとは知らなかった」


 風は弱まってきており、声を遮るほどではなかった。枳月はあれで会話を終わらせなかった珂瑛に意外そうな顔をした。


「……翼波戦は雪のない間だけですからね」


 翼波の侵入に対する備えは冬の終わりから始まる。砦や柵、様々な仕掛けなどの整備補修からはじまり、徐々に葉各地から領主たちが手勢を率いて集まってくる。

 基本的に領地の守備はその領主の役目だが、苴州だけは違う。派兵の義務は全ての領主に課されている。そのため、朱華の父である王配碧柊も毎年苴州で指揮をとっている。

 そこには翼波侵入の記憶の風化の予防と、未だ続くその脅威を他人事にしないという狙いもある。

 冬が近づき、天然の国境である山脈が雪に閉ざされ、完全に侵入行為が止んだのを確認した後、その年の派兵は終了する。雪深い土地ゆえ、その間はおよそ半年。通年ではないことが幸いとも言える。

 珂瑛は近衛に入る前の十代前半の頃に、父の従者として従軍したことがあった。その直後に母が病を得て乳母の職を辞したため、その代わりを務める意味もあり、近衛に入った。


「あの山の向こうも寒さは似たようなものなのか?」


 迂遠な物言いは得意ではない。珂瑛はそのままに切り出した。それを受けた枳月の表情は変わらなかった。激しさを増した吹雪のせいでそう見えたのかもしれないが。彼は暫く沈黙していた。風のせいで聞こえなかったのだろうかと思う頃、枳月はすっと視線を逸らした。


「寒かったような気はします……あまり覚えていないのですよ」


 声音は穏やかで、まるで笑いながら話しているようだった。

 いつのこととも、なんのこととも彼は言わなかった。それ以上話せないのか話したくないのか、珂瑛には判断できなかった。ただこれ以上訊いて欲しくないという意志は感じられた。

 珂瑛としても何かを聞きだそうという意図があったわけではない。ただの雑談に過ぎなかった。にも関わらず、彼は珍しくはっきりと自分の意志を表している。そこをあえて踏み込んで、関係を悪くして得るものなど一つもない。


「殿下は翼波戦に加わったことは?」


 十年ほど前の戦いの最中に彼が保護されたことは珂瑛も知っていた。だが、その後のことは殆どと言っていいほど何も知らない。

 枳月はちらりと珂瑛を一瞥し、目の前に視線を戻した。かと言って無視するつもりはないようだった。


「……恥ずかしながら一度も」


 その口ぶりには心底恥じている気振りがあった。


「恥じることではないと思うが」


 幼い頃に攫われ、過酷な経験を経た後辛くも帰国できたのだ。今もその体に惨たらしく刻まれている火傷もその際に負ったとも聞く。少年の頃に保護されてから十年経つか経たぬかしか、年月は経過していない。その心身に負った傷を癒し、さらに乗り越えて敵に向かい合うに十分な時間ではないだろう。実際、そのことをあげつらう者はいない。


「そう言っていただけるのはありがたいですが……」


 枳月は礼を述べたものの、そのまま押し黙ってしまった。

 彼という人物に口数が少ないというよりも、口を噤んで生きてきたような印象を、珂瑛は抱きつつある。目立たぬよう、人目を引かぬようにひっそりと。それは気性の荒い翼波の人々のもとで奴婢として育ったためなのか、それともそれ以外に理由があるのか。

 実際、今や希少な男性王族にも関わらず、王都でも彼の存在は半ば忘れられていた。今回の四の姫の苴葉公就任の件がなければ、思い出されることもなかっただろう。

 同じ近衛にいた頃も、同僚の間で彼のことが話題にのぼった記憶は殆どない。勿論、その特殊な立場や人目をひく傷跡が目立たなかったわけはないが、個人としての彼の言動が他人の関心をひくことはなかった。

 苴州に入ってからも控え目な枳月の態度は一貫している。結局同じ地位で権限を分け合うことで話がついたはずだったにも関わらず、気がつけば珂瑛が表に立つ機会が増え、まるで彼が上司で枳月が補佐のように周りからは見なされつつある。

 しかも枳月は兵站に詳しかった。反対に珂瑛は細かなことを苦手としている。そうなれば嫌でも分担も決まってくるのは仕方ないことでもあった。


「しかし、殿下は翼波戦の兵站に関わっておられたはず。それを加わっていないとは言わないだろう」


 苴州入り後に判明したことだが、枳月は王都で翼波戦を支える兵站計画に加わっていた。

 中心となっていたのは霜罧そうりんの父であるさん綾罧りょうりんである。彼は王配の片腕であるが、足に障害があるため、近年は戦線から離れ後方支援につくことが多かった。元々そちらの方面が得手だったのが、今では全面的に一任されている。

 枳月はその補佐についていたというのだ。そのことは霜罧も初耳だったらしい。苴州入り後、兵站について列洪れっこうを交えて話し合ううちに判明した。枳月自身はなかなか認めようとはしなかったが、兵站と無縁だったとはとても言い難いことは、その手腕が物語っている。


「少しばかり関わらせていただいたに過ぎませんよ……どちらにせよ苴州と比べれば、はるかに安全なところで安穏としていたことに変わりはありません」


 枳月の言葉はあくまで自分に厳しい。珂瑛は困り果てたように密かに息を吐いた。


「だから姫の苴州入りに同行なさったわけか?」

「……そればかりではありませんが……」


 枳月はちらりと笑みをみせた。が、その目は笑っていない。そろそろこの手の話題は終わらせたいということだろう。

 あまり他人の反応には頓着しない珂瑛だが、さすがに最も関わる時間と機会の多い枳月の態度は読めるようになってきた。とはいえ、彼が自分の心中をのぞかせることは滅多とないのだが。こんな風にそれを露わにするときは、専ら枳月個人に関わる話の時に限られた。彼は頑ななまでに自分のことを話したがらない。

 彼の気持ちを察した珂瑛は、練兵のことに話題をうつした。

 朱華が枳月について情報を欲しているため、折に触れて試みるのだが、結果は芳しくない。それどころか近頃では警戒されている感もある。関係を損ねてまでしてする必要はないので、あっさり引き下がるようにしている。

 自分にまつわる以外のことであれば、彼は口数が少ないわけではない。自ら話し合いを提案することもあるし、自分の意見も口にする。珂瑛のくだらないお喋りにも律儀に付き合う。ただ自分のこととなると黙り込むのだ。自分を卑下する傾向と根は同じなのだろうが、その理由が珂瑛にはさっぱり見当がつかなかった。

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