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雪の陰翳  作者: 苳子
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第3章 7


 いよいよ出立の日が迫りつつあった。

 身辺のことは夕瑛せきえいら女官任せとはいえ、まったく関わらないというわけにもいかない。

 州まで持参するほどではない私物も、西宮さいぐうに残していくわけにはいかなかった。姉たちが結婚した時もそうだった。いずれ、西宮は一の姫の即位に伴い、次代の王女王子らの住まいとなる。子供時代の終焉に伴い、全てを明け渡さなければならない。

 朱華しゅかは臣籍降下するため、新たな宮を与えられることはない。

 代わりに、苴葉そよう公邸が王都での屋敷として与えられる。各王統家のやしきは、既婚王女の宮に劣るものではない。王都における各州の出先機関も兼ねるため、ある種の治外法権も持つ。規模でいえば王女の宮よりも大きなものだった。

 苴州入りは行ったっきりではない。他の王統家の当主もそうだが、王都で様々な行事や会議などがあれば、出席するため王都に滞在する機会は少なくない。実際、一年の何分の一かを王都で過ごす公が多い。

 はじめて苴葉公邸を訪れた朱華は、馴染みのない邸を見て回りながら、あらためて感慨に耽っていた。いよいよ苴州入りが迫っていることを実感する。

 女官長の夕瑛も、下見がてら付いてきていた。苴州でも王都でも、朱華の身辺のことは夕瑛が一切受け持つ事になる。

 苴葉公邸を訪れた一行のなかには、霜罧そうりん枳月きげつの姿もあった。

 枳月はあれ以降変わった様子は見せない。朱華も何事もなかったように振舞っていたが、気まずさは拭いきれなかった。

 苴葉公邸の「表向おもてむき」では、州の政務が執り行われる。苴葉公不在の今も変わりなくその活動は続けられている。

 留守居役るすいやくの案内を受けながら、一行は邸内を歩き回っていた。

 留守居役は御城使おしろつかいとも呼ばれ、苴葉公不在時は王城に主人の代わりに登城する。王城から下された命令や報せを、いち早く国元に届けるのも役割である。王家や他の王統家・貴族間との折衝にもあたるため、有能な者が登用される。

 聞けば、主人不在の苴州において一切を取り仕切っている家令らん家の次男だという。それを耳にした霜罧は、合点がいったような顔をした。


「あの家令殿の弟殿でいらっしゃいますか。苴州との取次役、お見事です。このような何もかも急な事態に、速やかかつ適切に対応していただいたおかげで、円滑に進めることができ助かっております」


 そう言って、恭しく頭を垂れた。壮年の男は穏やかな笑みを浮かべ、浅く礼を返す。


「それはこちらの台詞です。さすがさん家の御息男、失礼ながらお若いにも関わらずお見事な御差配ぶりです。斯様な方を家中かちゅうにお迎えできるかと思うと、随分と心強い」

「ありがとうございます」


 労いあっている二人を傍目にしながら、事の困難さを肌で実感できずにいる自分を恥じていた。

 主だった事柄についての相談は受けたが、瑣末なことはほぼ彼に丸投げだった。その手腕については両親も褒めていたため、霜罧の能力の高さは相当なものなのだろう。

 朱華の苴葉公就任が決まるまでは、霜罧はいつも余裕綽々だった。

 それがこの件で朱華の補佐を命じられてからは、主人の前で居眠りをするという醜態を晒すことすらあった。それで随分と忸怩たる思いを味わったらしい。

 珍しい彼の居眠りを、夕瑛と二人で面白半分に間近で見物していたところ、船を漕いだ拍子に目を覚ました彼と目があった。瞬時、目の前にいる朱華のことが理解できないようだったが、状況を悟った後の渋面は見たことがないものだった。それは朱華に向けられたものではなく、自身に向けられたものだと分かるものだった。

 愕然とした様子を露わにした後、誤魔化しようがないと悟ると、潔く「失礼致しました」と詫びた。後は何事もなく振舞っていたが、その後は時折、こっそりと自分で足を抓っていることがあるらしい。


「眠気対策なのでしょうね」


 目撃した夕瑛が気の毒そうに呟いていた。そんな話を聞けば、朱華とて彼に悪い印象ばかり抱くわけにも行かなくなる。

 ただ、悪感情が和らぎはじめた頃に、必ずと言っていいほど失言してくれるので、全ては振り出しに戻るという繰り返しだった。

 姉、銀華との一件の折にも、「相手が誰であっても、あなたをお守りするのが私の役目です」と言われたものの、「お役目熱心で結構」と返してしまった。正直なところ、なんと返せばいいのか分からなかった。

 流石の朱華にも、女王への忠誠心故の仕事熱心な言葉だけには聞こえなかったものの、それ以外の何があるのか見当もつかず、窮した。結局、皮肉で返してしまったが、霜罧は小さくため息を吐いただけだった。その後、夕瑛から「あれでは霜罧殿がお気の毒です」と窘められてしまったが、未だに、ではどう返せば良かったのか分からない。


 留守居役と霜罧がなにやら込み入った話をはじめたため、朱華は表向で働く役人たちの様子を遠巻きに眺めていた。彼らは最初こそ新たな主人の訪問に緊張していたようだったが、じきに忙しそうに動きはじめた。

 夕瑛は夕瑛で、朱華の王都滞在時の私的空間となる奥向おくむきで、苴葉公王都滞在時の打ち合わせをしている。

 朱華はひとり手持ち無沙汰だった。

 気が付けば、少し離れたところで枳月も一人でぽつんとしていた。手持無沙汰というわけではなさそうだが、所在無げにしている。しばらく観察してみると、特になにかしているわけではなさそうだった。

 朱華は思い切って、声をかけてみることにした。


「枳月殿」


 彼は近づいてくる朱華には気づいていたようだが、自分に声をかけるとは思っていなかったようだった。声をかけられて、少し驚いたような顔をした。


「姫、これは失礼致しました。ぼんやりしておりました」

「いえ、私こそ急に声をおかけして、驚かせてしまったようで」


 二人して同時に浅く頭を下げ、それに気づいた朱華はつい小さく笑ってしまった。つられるように枳月の口元も笑みを浮かべる。

 朱華はそれにほっとしながら、会話の接ぎ穂を探した。


「枳月殿はこちらの邸には馴染みがおありですか?」


 苴葉家の姫を母に持つという枳月ならと、朱華は思いつきで話を振った。途端に、枳月の纏う空気が微妙に変わった。表情は相変わらず隠れている。


「……私もこちらを訪れたのは初めてです」

「そうですか……では、王都に来られてからはずっと城に?」

「そうですね……」


 会話が成立しないというよりも、枳月がそのやりとりを拒んでいるようだった。朱華は彼の触れられたくないところに触れてしまったかと、内心焦っていた。

 それを察してか、枳月は前髪を少し耳かけて顔をのぞかせた。


「実のところを申し上げますと、先代の苴葉公はじめ、苴葉家の方とは疎遠でしたので」

「……そうでしたか」


 詳しい事情を知らない朱華は、そう答えるしかなかった。突っ込んで訊くことも躊躇われるし、かと言って「ああそうですか」と他人事にするのもどうかと迷う。


「それよりも、姫」

「なんでしょうか」


 朱華は警戒しながら言葉を返す。枳月は迷うような気振りを見せた後、思い切ったように切り出した。


「先ごろ、お願いした件ですが」


 朱華は、案の定、彼がまだ諦めていなかったことにそっと息を吐いた。




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