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雪の陰翳  作者: 苳子
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序章 3

 身支度が整うころを見計らったように、迎えの使いが西宮を訪れた。

 稽古着から、朱華しゅからしい清楚な衣装に着替えると、夕瑛せきえいが微笑んだ。


「いつものことながら、絵になりますね」


 朱華の普段の装いは、地味な色合いと簡素な意匠のものが中心で、夕瑛はほぼ毎日のように溜息まじりの愚痴をこぼしている。

 だが、さすがに女王に目通りする際まで、そういうわけにはいかない。

 こういうとき、夕瑛は普段の鬱憤を晴らすように朱華を着飾らせることに腕をふるう。それは朱華の好みから大きく外れるものではなく、尚且つたいていは好評を博すので、この手のことが不得手な朱華は、はやくから彼女に装いのことは一任してしまっていた。

 正装に太刀を帯びるという慣例はないため、朱華は懐に短刀をしまいこむ。

 夏であっても正装となると何枚ものころもを重ねる。通気性と吸湿性にすぐれたものが下着には用いられているが、表に綾や錦などの豪奢やものを羽織るため、着心地はあまりすぐれない。しかしそのおかげで、短刀の一本くらいならなんなく隠せる。

 宮中の警備は徹底されているため、武器を携帯する必要性は低い。

 それ故に夕瑛は朱華のその癖に毎回いい顔はしないのだが、彼女としても今さらやめられない。どうしても落ち着かないのだ。不安だというわけではなく、無いということそのものが彼女を心もとない心地にさせる。


「陛下をお訪ねするのですよ。そのような物騒なものを持参なさって、あらぬ疑いをかけられでもしたらいかがなさいますか」

「いつものことでしょう。冗談にもならぬことを口にするものではないわ」


 朱華は珍しく眉をひそめる。めかしこむそのこと自体の居心地が悪いらしく、上衣うわがさねのあちこちの皺を気にして引っ張っている。

 夕瑛はそんな乳姉妹のようすに薄く笑み、念を押すように衣の上から朱華の懐の短刀を押さえた。


「今はまだ青蘭陛下の御世ですし、陛下とご子息の仲睦まじいご様子は評判となっておりますから、朱華さまのその癖を怪しむものは少ないでしょう。けれど、一の姫さまの御世となればいかがでしょうか? 姫さま方の深いつながりを知るのは、私たちのように身近にお仕えするものだけです――誤解を招くような行為は、今から慎まれた方がよろしいのではありませぬか」


 まっすぐな眼差しだった。

 朱華は一瞬わずかに目を見開いたが、じきにふっと眼を細めて微苦笑した。


「弁えなければならぬのは、私も同様のようね」


 五人姉妹の絆は確かだ。

 だが、この先はそれぞれに別々の人生を歩むこととなる。王位を継ぐ長姉をはじめ、姉妹とはいえ立場は大きく異なっていく。それらの関係から、さまざまな軋轢が生じるかもしれない。真実、大切な姉妹と想うならば、甘い考えは拭ってそれぞれの立場をわきまえることが肝要となる。

 朱華は感慨深げに嘆息した。その眼差しは心なしか寂しげでもあった。




 正装した朱華に、西宮侍従長はわずかに目を細めた。それは彼女だけではない。

 普段からこうした公式行事などのやむを得ない機会がない限り、めかしこむことのない四の姫。それ故か、朱華が正装するとその晴れ姿を一目見ようと顔を出すものは引きも切らない。

 私室から出ると、西宮に仕えるもの全員が集合したのではないかと思われるほどの人だかりだった。

 もはや恒例行事と化しているため、朱華はまさか自分が見世物になっているとは思っていない。彼女にとってはややにぎやか過ぎる見送りにすぎない。

 夕瑛にはひそやかな称賛の眼差しが贈られる。

 朱華を迎えに来た本宮ほんぐうからの使者は、一種異様な盛り上がりに束の間気圧されたようだったが、じきに気を取り直して慇懃に迎えの口上を述べる。

 その言い回しさえかき消されるほどの賑わいに、さしもの朱華も溜息を吐き、眉をひそめて人だかりを一瞥した。

 西宮の主の咎めるような眼差しに、女官たちは互いに肩や腕をつつきあい、静かにするよう促しあう。じきにざわめきは治まったが、なんとも妙な具合だった。

 主からのささやかな叱責に、彼女たちは反省していないわけでもなさそうだが、それ以上になんとも嬉しそうに見えたのだ。そんな奇妙な事態に、本宮からの使者は複雑な表情かおをしている。もはやこれが日常化している朱華には、その奇妙さが分からない。

 案内を急かすような四の姫の視線に、使者はようやく我にかえる。一礼すると先導をつとめる。

 そのあとに続きながら、朱華は供をつとめる夕瑛にもの言いたげに瞥見する。女官は心得たようにわずかに頷く。王城の最深部には緑が多い。宮と宮は吹き抜けの歩廊で結ばれ、深緑と風に親しむことができる。

 角を曲がるたび、木々の向こうに他の宮が垣間見える。角はそのまま別の宮に通じる岐路でもあった。

 やがて歩廊の突き当たりに扉が見えてくる。それはぐるりと宮を取り囲む壁に設けられた通用門でもある。その先こそが朱華の両親の住まいである本宮だった。両脇を衛兵がかためているが、特に誰何すいかを受けることはない。そのための本宮からの使者でもあった。

 王女たちはある程度の年齢までここで育つため、親しんだ場所でもある。勝手知ったる宮の内部を、案内されるのはもどかしくもあるが、朱華はおとなしくそのあとに続く。

 やがて導かれたのは、重厚な扉の前だった。ここでもやはり扉の両脇を近衛が守っている。彼らは朱華の顔をよく知っている。彼らの敬礼に目で応じながら、朱華は内側から開かれた扉をくぐった。

 そこは控えの間だった。目の前にもう一つ扉がある。使者は朱華にしばらくここで待つように云い、その間から退出した。

 背後で扉が閉まると、朱華は一歩下がって控える夕瑛を振り返る。この場にいるのは二人だけだった。


「どうやらまだ打診の段階のようね」


 公式の話なら、本宮の母の私室ではなく表の執務室に呼ばれるはずだ。本宮からの使者と聞いて予測はついていたが、それを使者の前で話すわけにはいかなかった。

 夕瑛は同意を示すように目蓋を伏せる。

 朱華は小さく息をついて、目の前の扉を見つめる。

 縁談であれば、母は事前に雑談にかこつけてそれとなく話をふってくる。姉たちもそうだったというし、朱華に持ち込まれたいくつかの縁談のときもそうだった。

 今回、そういう形での前振りは一切なかった。それゆえ、今回の呼び出しが縁談だろうと即断することはできなかったが、そうでないとも言い切れない。しかし、縁談以外の可能性は思いつかない。

 待つ時間を持て余し一人で思案にふけっていると、ようやく扉が内側から開かれた。

 一礼して扉をくぐると、南に面した大きな窓から差し込む光に一瞬目がくらむ。夕方近くなっても、夏の日差しはまだまだ明るい。

 羞明しゅうめいに目を細めつつ室内を一瞥すれば、そこには両親と、何故か彼らの腹心である男の息子が同席していた。




 窓のすぐ外には日陰棚が設えられ、鮮やかな緑の蔓が奔放に絡み合っている。光はその緑の棚からやや斜めにこぼれ、室内に差し込んでいた。

 日陰棚のすぐ下には、宮の建物の周囲をとりまくせせらぎの流れがある。

 水面に映った陽射しは、白い漆喰の天井にほのかに淡い光の影を描く。

 蔓棚と水の流れを越えてきた風は、心なしかわずかに涼しく感じられる。

 その風を受けるように置かれた籐椅子にかけた母の姿があり、彼女を守るようにその傍らに佇む父の姿がある。

 見慣れた、いつもの光景だった。子供のころから、数え切れないほど何度も見てきた。

 そして、それはどんな物語よりも、朱華にとってはお伽噺のように感じられる。

 両親の仲睦まじさと、支えあって国政をきりもりする姿勢すがたは、朱華の目にはある意味完璧に映る。もちろん夫婦喧嘩や、政策をめぐる対立などが度々あることも知ってはいるし、直接そういう場面に居合わせてしまったこともある。そういうことも含めて、彼女にとって両親の在り様は理想的だった。

 が、それ故に、同じことが自分自身にも可能だとは思えなかった。妹の茜華は、姉とは逆に受け止めているようで、結婚に対する素直な憧れを口にする。朱華にはそれが不思議に思えて仕方がない。


「朱華、ようやく顔を見せてくれましたね」

「参上が遅くなり、申し訳ありません」


 朱華は慌てて面を伏せ、一礼した。一瞬だが、確かに両親の姿に目を奪われていたのは事実だ。

 彼らの前に立つと、時々襲われる感覚だった。妹に云わせれば、単純に見とれたということになるだろう。朱華自身もそう感じてはいるのだが、何故かそれを認めるのが気恥ずかしいような気がする。

 そのせいか、朱華は茜華ほど頻繁に両親のもとを訪れることをしない。どうしても足は遠ざかり気味で、そのため、いざとなるとこうして呼びつけられてしまうこととなる。もっと足しげく顔を見せていれば、これほど大仰なことにはならないはずなのだ。分かっていてもなかなかそうもできない。悪循環だった。

  

「いいのですよ、また稽古に励んでいたのでしょう?」


 母のゆったりとかすかに笑みを含んだ声に、朱華は薄く苦笑する。


「母上はいつでもお見通しですね」

「あなたが遅くなる理由は限られていますからね」 


 朱華はそっと胸のあたりを押さえていた。そこに短刀はない。かわりに他に刀子とうすをひそめているが、こちらは常識的な護身の範疇だ。


「朱華、さん霜罧そうりんだ」


 父が静かな声で第三者の存在を告げる。

 二人の手前、扉に近いほうの椅子に、彼の姿はあった。朱華が呼ばれることは知らされていたのだろう。彼の椅子はやや扉の方を向いていた。


「朱華さま、ご無沙汰しております」


 男は立ち上がると丁寧に腰を折った。ゆったりとした温雅な物腰をしている。


「霜罧か。確かに久しいですね」


 朱華はおっとりと応じる。

 他の姫であれば優美な笑みの一つも浮かべてみせるのだろうが、彼女はそれをしない。無愛想なわけではなく、単にそういう発想を持ち合わせないだけだった。愛嬌がないわけではないので、物静かで温和な印象を人には与える。


「相変わらず凛としておられますね」


 彼は、朱華が容貌を褒められて喜ぶ性格ではないことを知る数少ない人物でもある。


「そなたも健在なようでなによりです」  

「ありがとうございます」


 微笑む顔は、女である朱華よりよほど華やかかもしれない。傍らに立ってみて初めて、印象より上背のあることが分かる。軟弱というわけではないが、男性にしてはやや線が細いとも云えるのかもしれない。

 温順な感を与えるが、彼の父親は女王の側近として辣腕をふるっているさん綾罧りょうりんだ。外見は母親譲りだが、中身は父親似らしいというのが、専らの評判だ。

 霜罧は笑みを浮かべたまま、さりげなく朱華に椅子をすすめる。

 朱華を女性として褒めることはしないが、あくまで女性として扱う。朱華はそれ故にこの男が苦手だった。

 いったい何故、彼が同席しているのか。それがこれから切り出される話に無関係のはずがない。

 すすめられるままに椅子に腰かけながら、朱華はさりげなく優男の顔を一瞥した。

 彼はそれに気付かぬ風でいる。それすら計算のうちにあるような気もしてくる。

 朱華は目をそらし、無意味な勘ぐりを打ち切った。


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