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雪の陰翳  作者: 苳子
22/110

第2章 5

 陽は傾きかけているが、まだ十分明るさの残る時刻だった。

 師のもとを訪ねることもあり、朱華は近衛の警護姿だった。枳月きげつも同じ出で立ちで、いつものように顔の半分を隠し、さらに長い前髪をおろしている。背の半ばまである髪は、首の根元で束ねられていた。

 ちらりと盗み見ても、その表情はほとんど見えない。

 

「枳月殿、その、お話とは?」 


 「話がある」と言ったにもかかわらず、なかなか切り出してこない枳月に、朱華は自分から水を向けた。


「……その前に、姫、そのお顔は?」


 枳月は言いにくそうに朱華をちらりと見た。


「――顔? 私のですか?」

「ええ、その……このあたりが黒く汚れておられますが」


 そう言って、彼は自分の頬のあたりを指さした。

 

「え? ……このあたりですか?」


 指先で触れて確認しようとした寸前で、突然枳月にその手を掴まれた。驚いて言葉もない朱華に、枳月は慌ててその手を放した。


「――失礼しました……どうやら炭の汚れのようだったので、触れれば姫の指先が汚れると思い、咄嗟に……」

「いえ、その……ありがとうございます」


 朱華は慌てて礼を述べながらも、内心ではひどく動揺していた。

 朱華は近衛に出入りしているため、他の姉妹と比べれば不特定多数の男性と接する機会は多い方だった。稽古中に負傷したり、動けなくなったりで、男性に触れられたこともある。

 珂瑛かえいに至っては、性差を意識することもなく接している。この程度の男性との接触で動揺するとは、自分でも思っていなかった。

 そんな狼狽を押し殺しながら、朱華は言葉を探す。


「炭、ですか――ああ、さきほど火を熾したから」

「姫が火を?」


 茶を淹れる前に手を洗ったから手の汚れは落とせていたが、格闘中に思わず頬を拭った際の汚れが残っていたのだ。

 とたんに恥ずかしさが湧き上がってくる。頬に黒い汚れをつけたまま、すました顔で彼の隣を歩いていたとは。辞する前にそれを指摘してくれない師にも少しばかり恨みがましい思いを抱いてしまう。


「ええ、師のところで茶を淹れたので」

「……姫がですか?」


 枳月の声には驚きが混じっていた。彼が滅多と感情を露わにしないことは、短い付き合いの朱華でも知っている。

 王族籍から臣籍に下ることは決定しているのだから、それほど驚かれることだろうかと思わないでもない。だいたい、戦場に出るなら一人で何でもできた方がいいと言った当人ではないか。もちろん、あれは朱華に向けられた言葉ではなかったので、それは八つ当たりに過ぎないが。


「はい、ある程度のことは自分でもできた方が良いかと思い」

「それは――そうですね」


 かつての自分の言葉を思い出したのかどうかは定かではないが、彼は前髪の影で浅く頷いたようだった。


「……その、ひどく汚れていますか?」


 頬の汚れがさきほどから気になっているが、触れてみたところで分かるものではないし、もちろん鏡もない。頼りになるのは他人の眼だけだった。

 枳月は再び朱華の顔を遠慮がちに見て、小さく首を振った。


「それほどでは――けれど、一目でわかる程度です」


 一目でわかるなら、それなりの汚れに違いない。朱華は瞬時に赤面した。袖で拭いたい衝動にかられたが、それはあまりに無作法なので思いとどまった。

 顔を強張らせて耳まで赤くなっている四の姫をどう見たのか。枳月が懐中から手巾を取り出した。


「拭って差し上げましょうか?」

「え、ああ、はい」


 まさか彼からそんな提案をされるとは思わず、朱華は言葉の意味をきちんと理解しないまま反射的に頷いていた。

 二人は足を止める。朱華の護衛に当たっている近衛も少し距離を置いて立ち止まった。場所は以前襲撃を受けた場所よりも西宮さいぐうに近かった。

 枳月は少し屈み、朱華の頬にそっと手巾で触れた。こするというより撫でるような強さで何度か拭われた。その間、朱華は目を逸らしていた。なんとも言えない居心地の悪さと、バツの悪さと、そのせいか拍動が早くなったような気もする。

 前髪の隙間から切れ長の目が垣間見えて、朱華は何故かどきりとした。目があったわけではない。彼の視線は頬の汚れに向けられていて、朱華の視線には気づいていないようだった。

 

「綺麗になりましたよ」


 枳月が小さな声で言った。朱華はその拍子にはっと我に返った。


「……あ、ありがとうございます」


 無意識に拭われた方の頬に指先で触れながら、朱華は慌てて礼を言う。

 他者にそのようにしてもらうことはごく普通のことだった。稽古の後も、気が付けば未だに夕瑛が汗を拭ってくれている。近頃は気づいた時にはなるべく自分でするようにしているが、長年しみついた習性はなかなか抜けないようだった。

 そういう事情があるにせよ、つい先程「自分のことは自分で」と言ったばかりではなかったか。舌の根が乾かぬうちにとは正しくこのことだった。朱華とて夕瑛に手巾は持たされていたのだ、すっかりそのことを忘れていたが。

 もはや何を理由に動揺しているのか自分でも見当がつかず、朱華は身の置き所をなくしかけていた。 


「か、顔を炭で汚すなど、まるで幼子のようですね――いい年をしてお恥ずかしい」


 狼狽を誤魔化すように苦笑いしてみせると、枳月も前髪の影で小さく笑った。


「私は可愛らしいと思いますが」


 笑みを含んだ彼の言葉に、朱華はまた耳まで熱が奔るのを感じた。彼の容子から察するに、特に意図はないということは分かる。霜罧のように隙さえあれば些細なことまであげつらってくる人物も手に負えないが、彼のような種類の人物には慣れていない。

 朱華は動揺を通り越して、混乱しかけていた。けなされているのか、ほめられているのか、それともそれ以外なのか、見当もつかない。

 だいたい、「可愛らしい」などと言われた記憶は殆どない。幼い頃は幼子であるがゆえに言われたこともあるのだろうが、長じてからは美人だと言われることはあってもそれは他の姉妹と一括りにされることが多かった。個人的には「凛々しい」だの、「女神のようだ」だの、「雄々しい」だので、称賛れているには違いないが、朱華にとってはあまり嬉しい言葉ではなかった。

 枳月自身、女性をちやほやしてどうにかしようという男性ではない。純粋に含むところなく、こういうことを言ってのけるのだということに、朱華は改めて驚いていた。


 

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