序章 2
王城の広い敷地には、いくつもの建物が立ち並んでいる。公的な性格を持つものはより城下に近い位置に配され、内奥は王族の私的な空間となっている。
内奥にも何棟もの建物がならび、それぞれ独立した宮を成している。
一際大きな宮は女王夫妻の起居する場であり、同時に王族たちのいわば居間的な場も兼ねている。王太子でもある一の姫の宮もあり、未婚の王女たちが住まう宮もある。
一の姫の宮は東宮とも呼ばれ、それは同時に次期王位継承者である主の別称も兼ねている。それに対して、未婚の姫宮たちの住まいは西宮と呼ばれる。
四の姫朱華は、妹の五の姫とともに西宮で暮らしている。
かつては五人姉妹全員がここで暮らしていたが、一の姫は立太子を機に東宮へうつり、二の姫、三の姫は共に結婚を機に他へ居をうつした。
今や西宮には二人の王女しかおらず、かつてと比べるとひっそりと静まりかえっている。遠からず朱華も去ることとなるのだろうか。
西宮のすべてを采配する西宮侍従長は、姫宮が一人去っていくたび、姫たちの前途を言祝ぎながらも最後には決まって、「寂しゅうなりますこと」と呟いていた。
四の姫朱華は控えめで口数の少ない性質であり、五の姫茜華はどちらかといえば内向的で物静かな傾向にある。それに対して三の姫銀華は外向的で陽気な少女だったので、銀華の旅立ちの際の西宮侍従長の感慨はとりわけ深いものだった。その後の西宮がひっそりと静まりかえってしまうであろうことは、誰にでも予想できた。実際、今の西宮は静けさに包まれている。
西宮へ戻ると、五の姫が待ち構えていた。
宮と宮をつなぐ回廊に姉の姿をみつけると、たまらず駆け寄ってくる。長い裳裾に足をとられながらも、それすら構いつけないようすは、ひどく深刻に切迫しており、朱華は足をとめざるをえなかった。
妹は青ざめた顔で目の幅いっぱいに涙をたたえ、辛うじて泣き出すのだけは堪えているようだった。
体当たりせんばかりの勢いで詰めより、すがるように姉の服をつかむ。日頃からなにかと姉に甘えてまとわりつく茜華だが、稽古直後の汗臭さを毛嫌いしてその時だけは近寄ってこない。だが、今はそれどころではないらしい。
「姉上、本当にご結婚してしまわれるのですか?」
朱華は困惑しつつも、ともかく妹を落ち着かせようとその肩に手をおく。
妹の細い首筋の透けるような白さに比べると、太刀を握る朱華の手は王女のものとしてはしっかりしており、その肌は日に焼けている。
「そのようなお話はまだうかがっていませんよ」
「まだ、ということは、そうかもしれないということでしょう。女官たちもきっと姉上のご縁談に違いないと話しておりましたもの」
「そんな風に決めてかかるものではないわ」
たしなめながらも、朱華自身もたぶんそうだろうと考えているので、説得力はない。
朱華ももうすぐ十九になる。婚姻適齢期を過ぎつつあるといっても良い。実際、姉たちは十八までに伴侶を得るか、少なくとも婚約は整っていた。妹の茜華にも、すでに婚約者はある。
姉妹のなかで、朱華だけが特殊だった。
別段、朱華が他の姉妹と比べて特別な事情を有しているわけではない。五人姉妹は皆それぞれに美しさと、気立てのよさにも恵まれている。あとは個人の好みによるものだけで、特に誰かが劣るというわけではない。
他の姉妹と比べて朱華が一線を画しているのは、その嗜好がやや武術に傾いていることにあった。
そもそも武にも長けていた女神を建国の祖とする葉は、女性であっても武術をたしなむことを推奨されてはいる。しかし、それにも程度というものがあって、女武芸者が歓迎されているわけではない。
男性が武芸に励むことは大いに奨励されているが、女性の場合は心得ているという程度が望ましいというのが、実際のところでもある。
そんな風潮にあって、朱華のそれは、女武芸者の域を目指しているととらえられても仕方のないものであった。己のより腕の立つ女性を伴侶に望む男性は少ないのもまた現実。
そんな事情もあって、朱華にも縁談がないわけではなかったが、婚約まで至っていないのが現状でもある。その分、近衛における朱華の人気は高いのだが、それがさらに縁談を遠ざけているのは皮肉でもあった。
そんな風に決めてかかるものではないと諌めた姉に、妹はまったく納得しない。
いつもは伏し目がちの目を大きく瞠り、勁い光を宿して姉を見据える。長い睫毛がその印象を増幅する。
「では、他にどのようなお話がありえるのですか」
「それは母上からおうかがいしないことにはわからないわ」
「でも……」
普段の朱華なら茜華の気が治まるまで気長に言い含めるのだが、今はすぐに母のもとへ参上しなければならない。妹に付き合っている余裕はあまりない。
衣を握りしめる妹の指先に、そっと触れる。白い指は繊細で、よく手入れされている。妹にも武術の心得はあるが、それはあくまで王女として必要とされる程度のものであり、姉のように掌に胼胝ができるほどのものではない。
思いがけず己と妹の指や手の違いを比較することとなり、束の間、朱華は状況を忘れた。妹と比べると、己のそれはあまりに無骨すぎるように思われた。朱華付きの女官の夕瑛が、主の手の手入れをするたび、溜息まじりに恨み事を云うのも無理ないことなのかもしれない。
「姉上、聞いておられます?」
指をほどくつもりが、逆にさらに強く握られる。朱華は五人姉妹の中でもっとも背が高く、茜華は一番小柄だった。その身長差故に、下に引っ張られる形になり、朱華の膝がわずかに曲がる。
「聞いているわ。それよりも今、握っているのはあなたの嫌いな稽古着ですよ」
「分かっています。けれど、今はそれどころではありませんから」
茜華はそう口答えしつつも、少々慌てた様子で手を離す。朱華は思わず苦笑してしまった。妹の心中の葛藤が、肌を通して伝わってくるようだった。それがさらに妹の怒りを買う。
「姉上、なにがおかしいのですか?」
「そういうわけではないわ」
「だって笑っておられたではありませんか」
内向的でおとなしい妹だが、両親と四人の姉たちに溺愛されて育った彼女には少々我儘で頑固なところがある。それは主に身近なものにだけ向けられる。
特に彼女は、この宮に一人だけ残されることをひどく恐れている。
三の姫銀華が宮を出たことを、ひどく寂しがったのは侍従長だけではない。年齢の近いこともあって、もともと朱華と茜華は姉妹のなかでも特に仲が良かったが、銀華が宮を去ってから茜華はますます朱華から離れなくなった。
年齢の順からすれば、西宮に最後に残されるのは茜華となる可能性が高い。
「あなたがあまりに可愛らしいからよ」
「このような時にふざけるなんて酷すぎます」
頬を紅潮させ、ますます目を潤ませる。そんな妹に、姉は気付かれないようにそっと息を吐き、なだめるように妹の頭をなでる。
「ふざけてなどおりません。ともかく、私はすぐに母上のもとへ参上しなければならないの」
「私も行きます」
妹をおいて歩き出した姉に追いすがり、茜華はさらに食い下がった。湿った袖をつかむ指先は、力んで白くなっている。
朱華は小さく息を吐いて足を止めると、小さく振りかえって妹を見据える。
「茜華」
穏やかだがきっぱりした口ぶりと厳しい眼差しに、茜華はびくりと身を震わせた。
「そろそろ弁えなさい」
言葉を荒げたことのない姉の、これがもっとも厳しい叱り方だった。
これに逆らえば、さらに静かな怒りを買う。その恐ろしさを、茜華は幼いころから身にしみて知っている。
「……はい」
「後ほど、どのようなご用件だったのか話してあげますから」
朱華は口調を和らげて、かすかに笑んでみせる。うつむいていた茜華は声の変化におずおずと顔をあげ、姉の口元に笑みを見つけると、安堵したように表情を和げた。
「では後で。私は急いで、この見苦しいなりを改めねばなりませんから」
苦笑まじりに呟くと、茜華はおずおずと手を放す。朱華がそっと頬に触れると、妹は弱弱しく微笑み、小さな声で詫びて踵をかえした。
去っていく茜華の背中を見送っていると、回廊の柱の陰から先ほどの女官が姿を現した。
朱華の言葉を伝えるために取り次ぎを手配しに行っていたのだが、いつの間にか先に宮に戻った主に追いついたものらしい。たまたま居合わせた状況が状況だったがゆえに、柱の陰に身を隠していた。
「お淋しいのでしょうね」
「それはあの子だけではないでしょう。けれど茜華ももう十六。そろそろ王女という立場を弁えねばなりません」
そう言いながらも、朱華の内心は複雑だった。茜華の心中は、彼女にも容易に察することができる。
「あの方なら大丈夫ですよ」
女官はにこりとほほ笑む。朱華はその言葉に、困ったように眉根を寄せる。
「あなたはじきにそれですませてしまうから」
この女官の名は夕瑛といい、朱華の乳母の娘でもある、生まれてすぐに母と共に宮に上がった夕瑛は、朱華と共に育った。乳母子は実の兄弟姉妹同然でもある。
「けれどいい加減なことを申し上げたことはないはずです」
「――そうだったかもしれないわね」
朱華は微苦笑を浮かべると小さく息を吐き、颯爽と再び歩きだした。