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雪の陰翳  作者: 苳子
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第2章 2

 夕刻内奥の庭の片隅では剣戟の音が響いていた。植栽の傍に手巾を手にした女官が控えている。

 厳しく叱咤する声が響き、それに対する声はもはや掠れ気味だった。剣戟の音はさらに暫く続き、暮れはじめてようやく止んだ。


「まだまだだな」


 言い捨てた男は磊落に笑って、地面にへたり込んだ人物に手を差し伸べる。


「いや、大丈夫」


 両手を背後について息を切らせながら、差し伸べられた方は断った。まだ立てないというのが実際だろう。

 とめどなく流れる汗を袖で拭いながら、なかなか整わない呼吸に苛立つように天を仰ぐ。湿ったような艶やかな黒髪の先端が地面に届き、砂にまみれる。空を振り仰いだ喉元は白く、華奢だった。


「……兄上と同じにしないでくださいな、朱華さまは乙女ですのよ」


 女官は主の傍らに膝をつき、秀麗なおもてを伝う汗を手巾で拭いながら、兄をめつける。

 女官頭らしくきっちりと身なりを整えている夕瑛の隣には、対照的に隊服をだらしなく着くずした若者の姿があった。

 際立って長身というわけではないが、均整のとれた体つきには無駄がない。広い肩とすっきりとした体躯は、だらしない服装であっても武人らしい風格を与えている。


「ただの乙女に苴葉そよう家の主は務まるまい」


 男ははっきり言い切る。女官はさらに「兄上」と言い募りかけたが、そこを主にとめられた。


夕瑛せきえい珂瑛かえいの言うとおりよ」


 拭ってくれる女官から手巾を受け取り、自分で汗を拭いながら、彼女はまだ立てずにいた。地面にへたり込んだまま、刃引きした太刀を肩に担いで笑っている男を見上げる。

 男の名はかん珂瑛かえい。四の姫朱華の乳姉妹夕瑛せきえいの兄であり、坩家の次男である。朱華にとっては彼もまた乳兄弟にあたる。彼らの母は朱華が生まれた直後から珂瑛と夕瑛を伴って乳母めのととして勤めていたが、数年前に病を得て里に下がった。その際、珂瑛は近衛に入り、夕瑛は女官として残った。


州は未だに戦場だ。いついかなる事態になるやもしれん。姫を最後までお守りできるかどうかなど、誰にも断言はできまい。姫にも自分の身くらいは自分で守れるようにはなっていただかなくてはな」

「――しかし」

「夕瑛、お前も同じだぞ」


 朱華に従い州入りする予定の妹に、兄が一言釘をさす。


「お前こそ、いざという時は姫の盾にならんとな。お前の腕こそどうなんだ? 今からでも見てやるぞ」


 妹は慌てて首を振る。朱華も呆れたように苦笑する。


「あれだけ動いてまだ余裕があるの?」

「姫とは鍛え方が違う。こちとら専門職だからな」

「その前に姫は女性なんですからね、鍛えてどうにかなるものではありません」


 放っておけば、主人はますます稽古に精を出しかねない。女官は兄に釘をさしたいが、なかなか通じないようだった。


「いや、そうでもなかろう」


 案の定、主人は兄の話に反応を示した。


「珂瑛のようになるのは流石に無理だが、鍛えれば今の私よりは強くなれるかもしれない。そうなれば、夕瑛のことも私が守ってやれるかもしれない」


 主人に笑いかけられて、女官は苦笑する。相変わらず人の良い王女である。そういうわけにはいかないことを承知で冗談を言っているわけではないのだ。


「ほら、姫がこんなことを言い出しておられるぞ。本気で守っていただくつもりではないだろうな?」

「まさか、とんでもない」


 女官に諌めるようにみすえられて、四の姫は肩をすくめた。夕瑛の言わんとするところは理解しているらしい。


「どちらにせよ、もう少し稽古に時間を割きたいところだけれど――難しい?」


 朱華は女官に問いかける。予定の把握は本人より女官の方が頼りになる。


「これ以上のご無理はなさらない方がよろしいかと」

「そうだぞ、一朝一夕で身につくものじゃない。気長に続けるのが一番だ」

「しかし、今の私の腕前では心許ない」


 眉をひそめる四の姫に、兄妹は顔を見合わせる。


「姫さま。恐れながら姫さまのお役目は武芸者ではないし、軍を率いることでもないのですよ」


 女官の言葉に朱華は眉を上げ、ため息をついた。


「わかっているわ。出来るだけ速やかに伴侶を迎え、後継をもうけること――だろう」


 憂鬱そうな呟きに、夕瑛は肩をすくめ、珂瑛は笑い飛ばす。


「相手は俺でもいいぞ」


 朱華は再びため息をつき、苦笑した。


「婿の来手がなかったら、そなたでも仕方ないかな」

「失礼だな」

「本当のことでしょう」


 乳姉妹たちがひとしきり笑う間、珂瑛は眉根を寄せていた。

 朱華はさんざん笑い終えると、すっきりした気分で立ち上がった。衣の砂を払い、太刀を拾い上げる。


「久しぶりにそんな顔をみるな」

「?」


 刃引きした訓練用の刀を鞘に収めながら、朱華は首を傾げた。


「姫の笑顔を見たのは久方ぶりだ」

「そういえばそうですわね」


 二人の台詞に朱華は「そうだったかな」と思い返すように空を仰ぐ。


「ここのところずっとここに皺を寄せておられてばかりでしたわね」


 夕瑛は自分の眉間を指さす。


「……そうかもしれないわね。最近は気が張っていたから――そなたらといると気が緩んだかしら」


 朱華は冗談めかして笑った。


「あら、人聞きの悪いことをおっしゃって。どうせ言うな……」

「寛げる、もしくは気が休まるだろ」


 珂瑛の言葉に朱華はちらっと微笑した。


「何にせよ、気を緩めている場合ではない」


 表情を引き締めた朱華に、珂瑛は呆れたように溜息を吐いた。


「相変わらず愚かだな、姫は」

「――兄上!?」


 心底あきれ果てたような声音に、朱華は眉を顰め、夕瑛は声を荒げた。

 珂瑛は妹の非難や主の険しい表情かおを気にすることなく、付き合いきれないという気色で言葉を続けた。


「少しは賢くなられよ。姫の立場はこの先も続くんだぞ。死ぬまで気を張っていられるとでも思っているのか。気を張るときは張る、緩めるときは緩める。そうしなければ精神的にもたんぞ。子供のころからくそ真面目な方だったが、相変わらずだな」

「……気を緩めてばかりのそなたに言われてもな」


 朱華は乳兄妹の言葉に自嘲の笑みを浮かべつつも、皮肉る。


「俺だってやるべきときはやっている。おかげで近衛でも剣技は一番だ」


 近衛内での剣術試合で、ここ数年優勝しているのは確かに珂瑛だった。


「そういえばそうだったな」


 失念したことに、朱華は苦笑した。いろいろといい加減なところもある男だが、実力を示すべき時は確実に結果を残してきている。


「もう少し莫迦になられよ」

「……莫迦も愚かも同じだろう」


 朱華は怪訝そうにする。珂瑛はその言葉をまた笑い飛ばす。


「だから姫は愚かだと云うんだ。莫迦とは俺のようなことを云うんだよ。己が負うべきは負い、その以外は他に丸投げする。それを莫迦というんだ。愚かな奴はその線引きがわからず、全部自分で背負いこもうとして、挙げ句潰れる――なぁ、愚かだろう?」


 呆れ果てたような物言いに、朱華は思わず苦笑した。まさしく自分のことなのだが、ここまではっきり言い切られると痛快だった。


「確かに私は愚かだ」


 朱華は苦く言い切り、薄く笑った。


「ああ、姫は愚かだ。だから、努力して莫迦になれ」

「莫迦になるために努力するのか?」

「ああ、そうだ」

「めちゃくちゃだな」

「それでいいんだ――俺たちだけでいるときは、それでいい」


 珂瑛の言葉に朱華は一瞬呆気にとられ、それから再び笑い出した。

 目尻に涙が滲んだが、それが笑いすぎたせいかどうかは自分でもわからなかった。




 笑いをおさめると、朱華しゅか珂瑛かえいに向き直った。


「珂瑛、そなたに訊きたいことがある」

「俺にか? なんだ?」

枳月きげつ殿と、どの程度の付き合いがある?」


 珂瑛も枳月も同じ近衛に所属していた。とはいえ、枳月は朱華の父直属の部下である名誉職に過ぎず、珂瑛は内奥の警護の当たる現場職であったため、異なる指揮系統に所属していた。同じ近衛府に籍があっても、顔をあわす機会はほぼなかったと言える。

 傍系とはいえ王族である枳月は上級士官用の官舎に住まいを構えており、中流貴族出身で下士官だった珂瑛のいる独身寮とは住まいも別だった。

 が、朱華の苴州入りに従い、二人とも近衛府から離籍し朱華直属の家臣団に所属することになったため、もう少し関係性は密なものとなる予定だった。当初の計画では枳月が珂瑛の上司となるはずだったが、それを枳月自身が拒んでいるため現在調整中である。珂瑛は朱華の乳兄妹であるため、枳月と武官の権限を分け合う同僚ということで収まりそうな成り行きとなっている。ちなみに文官の権限は霜罧が握ることで決定している。

 朱華の質問に、珂瑛は返答に迷うような気色をみせた。彼にしては珍しいことである。


「付き合いというものは殆どなかったというのが実際だな。姫の州入りが決まるまでは、一方的に俺が知っていただけだったと思うぞ。話が決まってからは言葉を交わす機会も増えたが――何が知りたいんだ?」


 珂瑛の反問に、朱華は戸惑うような表情を浮かべた。深い考えがあってのことではなかったのだろう。


「……その、いや――そうね、そなたの目から見てどのような人物?」


 朱華は思案しながら言葉を探る。


「どんな人物か、か」


 珂瑛は顎を指先でなぞりながら、思案しているようだった。

 日はとうに傾き、庭には暗がりが迫りつつある。兄と主の傍らに控えていた夕瑛が、遠慮がちに割って入った。


「姫さまもお疲れですし、あちらの四阿でお話しなさってはいかがですか?」


 四の姫と珂瑛の二人きりでの四阿の利用はまずいが、四の姫付き女官長である夕瑛も同席していれば問題はない。

 二人はもっともだというように頷き、三人は四阿へ移動した。内奥の片隅の庭園に設けられた四阿の周囲は雑木が茂るだけで、雑然としている。秋も終わり近い夕刻の風は冷涼とし、稽古で汗をかいた直後の朱華は夕闇に紛れてこっそり身震いしていた。それでも、立ち話よりは体が楽なことに変わりない。


「――どうと言われても、俺にはまだ何とも評し難いが……妙な印象はあるな。責任は負ってもよいが、権力はできるだけ持ちたくないというか……」

「権力と責任は表裏一体だろう」


 怪訝そうに眉を顰める朱華に、珂瑛は眉を上げた。


「責任は取りたくないが、権力は欲しいというのが一般的だと思うがな、俺は」

「そのような美味しいとこどりが通用するわけなかろう」


 朱華の言葉に、珂瑛は顔を顰めた。


「そういうのを綺麗事というんだ――綺麗事では世の中は回らん……というあたりは霜罧殿の十八番のはずだが、聞いていないのか?」

 

 珂瑛の言葉に、朱華は難しい顔をする。


「清濁併せ呑むようにとは言われているが……」

 

 今一つ納得のいっていない容子の四の姫に、珂瑛はむぅと唸った。


「つまるところはそういうことだ。権限と見合うだけの責任を負わせるのが腕の見せ所だが――采配に自信がないなら、そのあたりは霜罧殿に任せた方が良いだろうな」

「――似たようなことは言われたような気がする」

 

 苦虫を噛み潰したよう表情かおで、朱華は呟いた。納得はしていないが、珂瑛も同じような意見である以上、霜罧の言葉に一理あるには違いない。

 霜罧にも己の手に負えないことは、誰かに任せるように言われた。己で負える以上のことは周囲に任せてしまえばいいというのは、そういうことなのだろうか。さんざん「莫迦になれ」とは言われたものの、その術の分からない朱華には見当のつかないことだった。

 

「ともかく、そのあたりのことは霜罧殿に一任するんだな――で、だな。枳月殿は責任は負うが権力は要らぬという珍しい種類の人間だと俺は思う」

「……信頼するに値するか?」


 朱華の言葉に、珂瑛は険しい顔をした。


「枳月殿は自分に否定的なところが気になるな、そういう意味では信頼に値するかどうかは微妙だな。自分に価値がないと卑下する人間は、自ら好んで危機的な状況に乗り込みかねない恐れがある。そういう人間が権力を持つと、配下まで巻き込まれることになる」

「上司にはふさわしくないか?」

「己の保身のために部下に責任を押し付ける人間よりはマシかもしれんが――己の憐憫に他者を巻き込みかねんという意味では、それより質が悪いともいえるかもな」

「――己の憐憫に他者を巻き込む?」


 その言葉の意味を図りかねる朱華に、珂瑛は言葉を探す。


「要するに上司は部下に対して責任を持つ以上、捨て鉢になってはいけないということだな。枳月殿はそのあたりの覚悟が足りん印象だ」


 朱華は言葉少なに唸り、気難し気に顔を顰めた。

 珂瑛はどの内心をどう察したか。


「以前、練兵場の浴場で一緒になったことはある」


 練兵場には大浴場が併設されている。それぞれ宿舎が違えば入浴事情は異なるが、稽古の直後に汗を流すなら練兵場の大浴場というのが一般的でもある。そこで顔をあわすのはごく普通のことでもあった。


「それがどうした?」


 風呂が一緒だったくらいで何がわかるのか、と朱華は言いたいようだった。

 

「枳月殿の顔半分が惨い火傷であることはご存じだろう?」


 それは誰もが知るところでもある。朱華は無言で頷いた。

 珂瑛は武骨な指先で顎をなぞりながら、言葉を選んでいるようだった。


「若い女性にょしょうの前で話すのは何だが――体の方も惨い傷跡だらけだった」


 痛ましそうに珂瑛が眉を顰める。それなりに戦場いくさばを経験している珂瑛がそのような態度を示す以上、枳月の傷跡はそれなりのものなのだろう。


「幼い頃に翼波に攫われ、奴婢として扱われていたと聞く――それ故か、珍しく翼波の言葉も解されるようだとも聞くが……」


 朱華はその言葉に唖然とした。

 翼波侵入の際に一時行方知れずになったことがあったとは聞いていたが、奴婢として扱われていたというのは初耳だった。

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