第2章 1
乾いた音を立てて書状が置かれた。
わずかにのぞくのは、最後に記された署名。祐筆はそれを目の端で確認してから、丁寧に書状を畳みなおす。用いられている紙は上質な上、金銀の箔押しをされた豪華なものだ。
「勅命でございますか?」
「いかにも」
押し出された言葉には苦々しさと、それだけではない複雑な想いがにじんでいる。ただし、それがわかるのは祐筆だけだろう。
彼の主は無表情を常としている。感情を推し量ることをさせないため、近付きがたさを与える。彼自身は他者にどう思われようと頓着しないし、立場上もその方が都合が良い。
彼、浪列洪は現在、王統領苴州を主家にかわり預かっている。
彼の主はこの春の翼波との戦いで討ち死にを遂げてしまった。二〇数年前の内乱で一族の大半を喪っていた主に、その跡を継ぐべき血族は残っていなかった。東葉王統家四門筆頭の名門苴葉家は絶えてしまった。
列洪の祖先は、東葉建国の頃から苴葉家に百年以上仕えてきた。その主家を失い、領主不在となった苴州の留守を預からなければならない上、未だに国境では翼波との戦いが続いている。
その戦線は葉王家からの支援で維持されているが、現地で切り盛りしているのは苴葉家であった。その苴葉家が絶えた今、かわりにことにあたっているのは浪家の主である列洪だ。
もともと浪家は苴葉家の家政に関わる部分のみを取り仕切っていたのだが、次第に領地経営の実質的な部分をも担うようになった。そのため主家が不在となってもたちまち困ることにはならなかったのだが、王統領の統治は王統家でなけれ許されない。実際を握っている浪家としては、いつまでも主不在では困るのだ。
「しかし、四の姫君に家督をお継がせになるとは……陛下も思い切ったことをなさいますね」
「まことにな」
列洪は重々しい口振りで呟いた。
苴葉家は東葉王統家四門筆頭の家柄。家格は王家に次ぐ。並び立つのは西葉王統家八門筆頭の嵜葉家のみだ。
家格のつりあう嵜葉家は西葉王統家であるため、苴州の人々の反発を招き、ひいては翼波との戦線にも悪い影響しかもたらさないであろうことは、誰の目にも明らかだった。
他の東葉王統家から跡を継ぐものを迎えるしかないのだが、そのことが各王統家の間に密かだが公然とした諍いのもととなっていた。王統家間のみならず、貴族間の勢力図にも少なからぬ影響を与える。かといって王家にも適した王子がいない。
苴葉家の後継者問題は誰にとっても頭の痛いものだった。
直轄王領とする案もあったが、それでは浪家が仕官先を失ってしまう。
浪家にはこれまで代々培ってきた実績があり、現当主列洪の手腕もまた高く評価されている。戦のため、苴州には葉全土から人々が集まってくる。その人々の間では彼の地味ながら的を得た判断は、広く知られている。
戦を采配してきた王配碧柊もそれは把握しているはずである。ということは、女王の耳にも届いているだろう。
それ故、直轄王領となったところで、浪家がその領地経営から外されることはないかもしれない。
しかし、直轄王領となればなにかと制約が多い上、何事も女王に諮らねばならず、現在のような柔軟かつ素早い対応はできなくなる。戦時において、それは下手をすれば命取りにもなりかねない。
直轄王領となるくらいなら、諍いのもととなろうともいずれかの王統家か、王女でもいいから苴葉家が続く方がありがたいというのが、列洪の意見だった。
「しかし、前代未聞のことではありませんか。王女殿下が王統家を継ぐなどという先例はあらぬはずです」
「例がないなら作ればいいというのが、陛下のお考えだ。今更驚くほどもなかろう。そもそも王家そのものの御祖が女神であらせられるのだ。王女が王統家を興すことのなにがおかしいという理屈になるのだろう」
「そういわれてしまえばそうですが」
「主など誰でも良い。後嗣もないのに先陣をきるような、勇猛と浅はかの区別もつかぬような方でさえなければな」
淡々とした口振りだが、こめられた毒は強烈だ。祐筆は黙したまま曖昧に微苦笑する。
彼の静かな怒りは未だに治まっていないらしい。
主人をうしなった時、列洪は嘆くでも惑うでもなく、忌々しげに舌打ちをした。はやく跡継ぎをもうけるように口酸っぱく迫る列洪を、亡くなった主は次第に避けるようになっていた。
まだ年若かった主には、結婚についても若者らしい夢があったらしいが、彼に云わせれば己の立場も弁えぬ愚かな世迷い事としか評しようがない。
夢を抱くのは勝手だが、その前に果たすべき義務がある。それも果たさず夢だけ追うのは、無責任すぎるとしか彼はみなさない。
「しかし王女殿下となりますと、そのあたりはいかがなものでしょう」
祐筆の言葉に、列洪はちらりと視線をやる。云わんとするところが、その表情に現れている。列洪はふんと鼻先であざ笑う。
「王家の血脈を保つ力は凄まじいときく。夫君がたとえ種なしであったとしても、搾り取ってでも子息を残してくださるだろう」
あまりにあからさまな言葉に、祐筆は苦笑する。
「殿――その、不敬ですよ」
「なにがだ。その血の力強さを賛美したにすぎん」
「でしたら、それにふさわしい言葉があるかと」
やんわりと窘める。列洪はふんと鼻先であしらい、祐筆が畳んだ女王からの文を一瞥する。
「四の姫――朱華王女殿下だったか」
「近衛中将でもいらっしゃるとか」
「女子供のお遊びに位階をお与えになるとは、陛下も親ばかでいらっしゃる」
列洪の言葉に、祐筆は文字通り頭を抱える。
「殿、どこに耳があるか」
耳とは密偵である覗見 を暗喩する。列洪はかまうものかと言いたげに鼻息荒くふんと言わせただけだった。
「陛下の裁定に異議を唱えているわけではない。主などどなたでも良い。私の望みはさっさと着任していただき、速やかに後嗣をもうけていただくこと、それだけだ」
主の言いたいことは、祐筆の本音でもある。
いくら名門といっても、絶えてしまっては意味がない。主を失った家中は最悪の場合、失業することになる。住処は愚か、生計の術さえ失ってしまう。一つの王統家には何十何百という家臣が仕え、そこにはそれ以上の人々の生活がかかっている。
元々常に戦場状態と言ってもよい苴州内の状況だが、臨戦態勢なりの通常の生活というものがある。主家が失われるということは、苴州内で暮らす人々の生活の根幹にかかわってくることなのだ。主家は失われ、家中が総入れ替えともなれば、どれだけの利害が失われ、そこから生活に支障をきたさないものは皆無ともいえる。
正直なところ、新たな主は誰でもよいというのは苴州で暮らすものにとっては同じだろう。肝心なのは、その営みが継続されることにある。
「而して、浪家にはどのようなご沙汰が?」
祐筆にとっての主家は浪家である。その進退は己の未来でもある。
「引き続き苴葉家を支えよ、というお達しだ。ありがたいことに」
あまり有り難くなさそうに列洪は呟いた。
晩夏に、正式に朱華が苴葉家を継ぐことが発表された。
女王は事前に王統家や主だった貴族たちに諮った。最初は前代未聞だと反対する者がほとんどだったが、では広く支持を集められる穏当な候補者がいるのかという話になると、みな顔を見合わせた。
自分の身内から候補者を出せず、対立する陣営から出すくらいなら、王女のほうがましではないかと考える者もいた。
女王が、朱華が王女ではなく王子であったなら、誰しもが認めたのではないかと問うと、会議はしんとなった。確かに彼女が王子であったならば、これほど反対されることはなかっただろう。
さらに重ねて、王家は女神を祖先にすること、その王家の分家の後継が王女であることの何がおかしいのかと問いかけると、それで話は決まったも同然だった。
西葉王統家八門筆頭の嵜葉公が途中から態度を明らかにしたことも、追い風となった。東葉王統家三門は筆頭の苴葉家を失った今、その後釜を狙って足並みは乱れていた。西葉王統家は嵜葉家の決定に追随することが多く、東葉王統家は他家や西葉王統家から苴葉家の後継が出るくらいなら、王女のほうがましだということだったのだろう。
朱華は母の背後の控えの間で、紛糾する会議の様子を聞いていた。朱華はまだ四の姫に過ぎず、政にかかわる立場にない。臨席する資格はなかったが、事の次第は直に知っておいた方がいいだろうというのが母の意見だった。
朱華は己の微妙な立場を自覚しつつ、女として生まれたことに溜息を吐きたい思いだった。次に問題となるのは、自分の夫選びになることは間違いない。
そして、ふと霜罧の指摘を思い出した。朱華自身が苴州家を継いだ場合、朱華の産む子女の立場はどうなるかという点において、誰も触れなかった。
娘に継がすが、それとも息子に継がせるか、その時こそもっともめるのかもしれない。が、婚約者のあてすらない現在、机上の空論に過ぎない。
議題が次に移ると、朱華は思わずふっと息を吐いた。控えの間にいるとはいえ、王女として正装しているとひどく肩がこる。思わず肩を揉みたくなる衝動をこらえた。
そんな内心を見透かすような視線を感じ、朱華はまた溜息を吐きたくなったが、そこは抑えた。
朱華の傍らに控えているのは、今は夕瑛ではない。女官に過ぎない彼女に、ここにいる資格はない。かわりにいるのは霜罧であった。
朱華よりも映えるような整った顔立ちに、穏やかな笑みを浮かべている。その眼差しはやわらかく四の姫に向けられているが、宿る光は冷ややかなものだ。そのくせ、揶揄するような可笑しみも隠そうとしない。そんな視線を受けて、不愉快に思わない人間がいるだろうか。しかもそれはどういうわけか、朱華だけに向けられることが多いのだ。
「正式決定ですね。謹んでお祝い申し上げます、苴葉公」
隙のない長身を優雅に折り、仰々しく礼儀をつくす。
「まだ正式に就任したわけではない」
朱華はそっけなく返す。
近頃、彼女は彼に対して態度を繕うことを放棄した。切りがない上、彼はとりくつろった態度すら可笑しがるような色をみせる。さすがにそれは朱華の被害妄想かもしれないが、課題が山積する中、彼女の気力はそこまでもたなかった。
態度を露骨にし始めた朱華を、彼は咎めるより歓迎しているような素振りも見せる。朱華には不可解なことだった。
夕瑛にも相談してみたが、「この先の長いお付き合いになるのですから、それでもよろしいのでは」とのんきなものだった。
長い付き合いになるという言葉も、地味に朱華の意地をくじいた。
隣に立つ男の父親は、葉の軍内部において、彼女の父親に次ぐ地位にある。同じ地位にあるのは、西葉王統家筆頭の嵜葉公である。まさしく、王女の夫候補としては遜色ない出自を持つ。
やや鈍い朱華自身でも、遅れてではあるがピンときたのだから、対外的にもそう見做されることになるだろう。ましてや彼は朱華に仕えると言い切ったのだ。「そういうこと」にならなくても、そのつもりであると明言したも同然だった。
嫌っているわけではないが、ひどく苦手としている人物ではある。が、彼自身の人物としてその言葉を疑う必要がないことも知っている。有言実行を地で行く人となりであることは、幸か不幸か知っていた。
頼りになる人物であり、そうすべきであることも承知しているが、感情がついてこない。朱華自身、どうにかしなければならない課題であることは理解していた。
「なれど、同然でしょう」
彼はにこりと微笑する。お互いに、この先の人生がかかわりあうことが決定した瞬間でもある。
うんざりした内心を隠しようもない四の姫に、彼はくじけることないようだった。
「それはそうだが……」
「それとも、“出家”なさいますか?」
やわらかな声音で、いつぞやの朱華の言葉を振りかざす。朱華はとっさにかっと頬に熱を感じた。
「“出家”しても良いの?」
皮肉に皮肉で返すように嫌味な笑みを浮かべると、彼は涼やかな笑みで応じた。
「怖気づかれましたか?」
「――それは当初からのこと。それも分からぬと?」
一生仕えるといった彼の言葉を逆手に取るように、朱華は嗤笑した。嘲っているのは彼をなのか、自分自身をなのか分からなくなる。
「だからこそ、お逃げになっても良いのですよ、とご提案しているのですが?」
あくまで態度を崩さない霜罧に、朱華は唇を噛みしめた。じきに口内に錆びた味が広がる。が、今はそれを咎める夕瑛はいない。
「私は逃げぬ」
「最後の機会ですよ」
「何度言えばわかる、私は逃げぬ」
朱華は噛みつくように立ち上がると、霜罧ににじりよった。
「――もう逃げられぬのですよ、それで良いのですね?」
冷ややかな声音に、朱華の熱が引く。最終確認であることは確かだった。
朱華はいったん視線を落とし、また唇をかんだ。痛みと嫌な味が広がる。それを自身で拭い、きっと目線をあげた。
「それで良い」
もう後には引けないことを覚悟して、朱華は笑った。