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雪の陰翳  作者: 苳子
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第1章 10

 朱華しゅか枳月きげつとあらたに護衛についた近衛に送られて内奥に戻った。


「ご無事でなによりでした」


 内奥の門まで、夕瑛せきえいは朱華を迎えに来ていた。

 乳姉妹ちきょうだいの姿を見つけると、明らかにほっとした表情かおをみせた。朱華も彼女の存在に安堵を覚える。

 夕瑛は朱華の様子なりに眉根を寄せた。


「訓練用の出で立ちでよろしかったですね」


 朱華は苦笑した。

 拭ったとはいえ、朱華の顔には血糊が残り、髪はこわばり嫌なにおいがしている。生絹すずし上衣うわがさねだったらどんなことになっていたやら知れない。訓練着は黒いため、返り血はほとんど目立たなかった。


「では、私はこれにて失礼いたします」


 少し下がって控えていた枳月が辞そうとした。

 ちょうどそこへ門の内側より霜罧そうりんが姿を現した。彼は厳しい表情かおで事態を確認すると、まずは枳月に深々と一礼した。


「枳月殿下、この度は王女殿下の危急の際にご助力いただきありがとうございました」

「いえ、私はたまたま居合わせただけです。姫はご自身で切り抜けられました」


 枳月はあくまで控えめな態度を崩さない。

 朱華がいやと首を振った。


「枳月殿がおられなければどうなっていたことか」


 彼女の言葉を否定するように、今度は彼が小さく首を振った。

 霜罧はそんな二人のやりとりに微苦笑し、それから朱華に揶揄するような一瞥を送る。


「殿下のご趣味も役に立ったということですね」


 皮肉るような口ぶりに、朱華はすさんだ疲れたような笑みを浮かべた。


「精進した甲斐があったというもの。今後もいっそう励むことにしよう」


 棘のある声を放ち険のある笑みを向けると、霜罧から顔を背けた。


「先ほどのご尽力、まことに感謝いたします。これからもお力添えをお願いいたします」


 一転落ち着いた声で、枳月に深々と頭を垂れた。

 枳月は「私のような者でもお役に立てますなら」と小さく答え、一礼すると足早に去っていった。

 朱華は枳月の後姿を半ば呆然と見送った。


「陛下が案じておいでですよ」


 横から霜罧に声をかけられ、朱華ははっと我に返る。不用意なところを彼に見られようで、苛立ちが心の底をよぎった。朱華は冷ややかな顔で肯いた。あえて視線はそちらに向けない。


ころもを改め次第参上しますと伝えるように」


 霜罧は浅い一礼で承り、顔をあげると唇を歪めた。


「そのご様子なら大丈夫ですね」

「なにを言いたい?」


 朱華は苛立ちを隠しきれず、棘のある一瞥を向ける。


「この程度のことで衝撃を受けておられるようでは、この先が思いやられますから」


 嫌味ではないが、朱華になにかを問うような口ぶりだった。

 朱華は言葉の割に険のない声音に、先ほどの枳月の言葉を思い出した。彼も「慣れておいた方がいい」といっていた。

 

「そのようね」


 短い言葉になにかを滲ませ、朱華は唇を噛みしめた。きりっと痛みが走ると、我に返る。

 想いを振り切るように息をついた。


「夕瑛、西宮さいぐうに戻る。更衣の支度を」


 言い終える前に歩き出した主人の後を追いながら、夕瑛は見送る霜罧に浅く一礼した。彼はなにかを諦めたような表情かおで、四の姫を見送っていた。




 朱華に追いついた夕瑛は、傍らから小さく声をかける。


「霜罧殿は姫様のことを思われてのことでしょう」

「わかっているわ」


 朱華はうんざりしたように呟く。彼のあの態度はいつものことだし、夕瑛の言わんとするところも理解している。八つ当たりに過ぎないことは自覚している。みっともないことも分かっているので、情けなくてやりきれなかった。


「――姫様、ご気分がお悪いのではありませんか?」


 朱華は青い顔を強張らせていた。いつになく感情を露わにもしている。それを押し殺しそうにも、精神的な疲れが一気に押し寄せるようだった。


「大丈夫よ」

「そうは見えません」


 夕瑛が食い下がる。朱華はそれに鬱陶しそうな一瞥で応える。これまで見せたことのなかった乳姉妹のそんな表情に、夕瑛はわずかに目を瞠った。




 朱華は自室に戻る前に湯殿に直行した。襲撃を受けたという報せを受けた夕瑛が、先に手配していたため、すぐに身を清めることができた。

 浅手の傷に湯が染みるが、張りつめていたものを漸く緩めることができる心地だった。しかし、すっかり気が緩んでしまいそうな危機感から、素早く湯から上がる。あまりの短時間に、更衣の間に控えていた夕瑛が気がかりな顔をしたほどだった。


「姫様、もう少しゆっくりなさっても」

「母上をお待たせするわけにはいかないでしょう」


 布で髪の水気を拭いながら、朱華は事務的に答える。


「陛下はお母上としてお待ちでしょうから」

「夕瑛、このくらいのことで動じているわけにはいかないのよ」


 朱華は自分にも言い聞かせるように淡々と呟いた。乾いた新たな布を手渡しながら、夕瑛はわずかに眉をひそめた。


「急いでお慣れにならなくてもよろしいのではありませんか」

「けれど、早速のこの事態なのだから――覚悟はしなければね」


 朱華はそういって嘆息した。気鬱そうな声音に、夕瑛は乳姉妹の肩にそっと触れた。朱華は小さく首を振って、その手を静かに外した。


「慰めるなら後にしてちょうだい。まだ気を緩めるわけにはいかないから」

「……そうですね」


 夕瑛は頷きながらも、密かにため息をついた。

 気丈にふるまおうとしているあるじだが、元々はどちらかと言えば繊細な性質たちだ。生真面目なだけに悪循環に陥る危険性もある。そこをうまく息抜きできるよう、自分になにができるだろうか。


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