第1章 9
師はこの後所要があるというので、朱華は枳月と共に辞するしかなかった。
まるで昼食を食べにだけ押しかけたような形になり、朱華は忸怩たる思いでいっぱいだった。
外で待たせている護衛の近衛がいるが、枳月は朱華に西宮まで送っていこうと申し出た。朱華は断りかけたが、本来の目的をかろうじて思い出した。
これ以上彼と顔を合わせているのは苦痛だったが、そういうことに拘泥している場合ではない。素直に申し出を受けることにした。
揃って退出のあいさつを済ませると、先に枳月が表へ出た。そのあとに続こうとした朱華に、師は短く声をかけた。
「また参られよ」
朱華は慌てて浅く会釈し、師の住まいを後にした。
並んで歩く二人より少し下がって、護衛の近衛が続く。
朱華には内奥の外では常時近衛がついているが、枳月にはついていないようだった。
黙々と並んで歩く。
もともと沈黙を苦にする性質ではない朱華も、この時ばかりは言葉を探し続けていた。が、ろくな話題は浮かばない。なんとも言えない居心地の悪さに、気分は落ち着かない。
一方の枳月は落ち着き払っている。
「毎日暑いですね」
口走ってから、朱華は自分はなにを言っているのかと、顔から火が出そうな想いにかられた。もっと気の利いた言葉を探しても、発した言葉は戻らない。
一人で内心動揺しているが、傍からはそうは見えないのが、彼女の長所であり損なところだった。
「苴州はもう少し涼しいと思いますよ」
話の接ぎ穂を得て、朱華はほっとした。
ちらりと見れば、前髪の影に見える形良い唇は薄い笑みを浮かべている。
「そうですか」
「こちらより標高が高いですからね」
そう話しながら、彼はさりげない仕草で落ちかかる前髪を耳にかけた。
朱華の目に、火傷の跡のない方の凛々しい横顔が露わになる。
「姫、抜刀を」
囁き終わるより早く、彼は太刀を抜き放った。
状況が呑み込めないまま、朱華もつられたように抜刀していた。
朱華が周囲へ視線を巡らせるよりも先に、白刃が切り込んでくる。咄嗟に大きく後ずさった目の前に、枳月が身を滑らせて来る。
次の刃を枳月がはじき返す。
朱華はようやく事態を理解した。考えるよりも先に体が動く。
太刀を構え、さきほどの敵を枳月に任せたまま、背後を確認する。
やや後方では、護衛の近衛が切り結んでいるところだった。
近衛は二人いるはずだが、一人しか姿がなかった。戦っている近衛の背後に地面に倒れている人影があったような気がしたが、振り返って確認している余裕はなかった。
敵は何人なのか。倒れていたのは近衛なのか、それとも敵なのか。
場所は王城からその堀の向こう側にある近衛の練兵場をつなぐ跳ね橋を渡り、表の宮の領域に入ったばかりのところだった。両脇に各区域を仕切る壁が立ちはだかり、騎馬や軒車で往来できる幅の通路が続いている。
刺客はどこから現れたのか。そんなことを考える暇はない。
近衛と枳月がそれぞれ相手している。三人目はいるのか。
息を詰め、視線を巡らせる。
「姫、後ろです」
枳月が叫んだ。
彼は相変わらず、最初に朱華を襲った刺客の相手をしている。
朱華は振り返り、太刀を構えた。
視界の隅を刃が横切る。咄嗟に構えを変え、それを弾く。なんとか最初の攻撃はかわせたが、手には重い響きが残った。当然ながら、相手は男だ。力の差は歴然としている。まともに切り結ぶには限界がある。
いくら毎日鍛錬は怠らず、訓練にも定期的に参加していたとはいえ、殺意を持って襲ってくる敵を相手にするのは初めてだった。
訓練と実戦は異なる。
朱華は押され気味だった。周囲を見回している余裕はない。助太刀がないということ言うは、彼らもまだ決着がつかずにいるのだろう。
息が早くも上がってくる。足がもつれたところにさらに一撃を受け、その衝撃で朱華はしりもちをついてしまった。すかさず上から一撃を受ける。咄嗟に片手で構えた太刀で受けたが、その打撃に腕がしびれるようだった。
その一方で空いた方の手で懐を探っていた。ほぼ無意識の行為だった。懐には女性専用の刀子を忍ばせている。柄を探り当てると同時に握りこみ、抜くとそのまま相手に投げつけた。
座り込んでしまった朱華にとどめを刺そうとしていたため、相手はすぐそばにいた。特に狙いを定めずに
投げたそれは、敵の右肩あたりに刺さった。致命傷を与えるほどではないが、怯ませるには十分だった。
その隙にまだしびれの残る腕で太刀を構えなおし、しゃがんだ姿勢のまま下から相手の胸元めがけて刃先を突き立てた。
嫌な手ごたえがあったが、さらに力を籠める。肉をたつ感触が柄に伝わってくる。かまわずに立ち上がる勢いをすべて太刀の籠めると、すぐに柄まで刺客の体を貫き通していた。
男の体が上から朱華によりかかってくる。咄嗟に太刀を引き抜くと、噴き出した血が朱華にかかった。
瞬時に顔を背け、血しぶきが目にかかるのを避ける。力を失った体が朱華の下半身にのしかかってくる。それを除けるにも重くて押しやれない。自ら後ずさるしかない。
刺客の体から逃れ、太刀を手に立ち上がるころには片が付いたようだった。
朱華は肩で息をしながら、足元に横たわる男を見下ろす。建築現場で見かけるありふれた工人のような出で立ちだった。王城では今でもあちらこちらで工事や建設が続いている。珍しい存在ではなかった。
「姫、お怪我はありませんか?」
呆然としている朱華に、枳月が声をかける。口調は落ち着いているが、切迫感が伝わってくる。朱華は反射的に首を振りながらも、わずかな痛みに眉をひそめた。
「お怪我はなさっておられるようですね」
上半身を中心に、あちこちに切り傷やかすり傷があった。利き腕に重い疲れが残っている。
「――そのようですね」
嫌な汗が頬を伝う。いつもの癖で袖で拭うと、べっとりとした感触が頬に残った。稽古着は黒いため気づかなかったが、腕にも返り血を浴びていたらしい。それが頬に付着したのだ。
それにも気づかず放心したように足元の刺客を見下ろしている朱華に、枳月はひそかに息をつく。
「人を斬ったのは初めてですか?」
朱華は頷く。
「ならば、慣れておかれた方が良いでしょう」
彼女はとっさに顔をあげて彼を見た。
半分ひきつれた端正な顔が、厳しい眼差しで朱華をとらえる。整っているだけに、なおさら傷跡の醜さが際立つ。
「慣れなければいけませんか?」
抑揚にかけた声で、朱華は訊ねた。
「生き残りたければ」
彼の答えは簡潔だった。