第1章 8
朱華は今すぐこの場から逃げ出したかったが、せっかくの師のはからいを無下にするような真似をしでかせば、さらに醜態をさらすことになる。その意地ともいえる一念で愚かな行為を思いとどまった。
観念した朱華に、枳月が椅子をひいてすすめる。彼女は可能なかぎりすました様子で席に着いたが、内心では自分のていたらくに溜息しきりだった。
朱華の前に静かに皿が置かれた。給仕をするのは当然のように枳月だった。
白く深い皿にはなんの模様もなく、縁も細かく欠けている。質素な皿からは細い湯気とともにいい匂いが立ち上っている。
それにつられて、朱華は思わず唾をのんでしまった。同時にまたもや体が空腹を訴える。朱華はもはや諦めきった心地で素直に匙を手にした。
「粗食ですゆえ、お口にあわぬかもしれませぬが、ご遠慮なく」
「お気遣い痛み入ります」
礼儀としてそう返すしかないが、朱華にとっては有り難迷惑な気遣いだ。
姉妹のなかでは一番女らしさから遠いところにいるとはいえ、朱華も年頃の娘として恥じらいは持っている。それが人並み以下のものだとしても、あるにはちがいない。
気を取り直して、視線を枳月に戻す。枳月は淡々と作業を続けている。
あまりに彼が淡々としているので、うっかり失念しそうになるが。彼の姿は当たり前のものではないのだ。
枳月は傍系とはいえ、王族なのだ。その彼が、慣れた手つきで師の給仕をしている。その様子と師の言葉から推測するに、家事一般についてもそうらしい。
人に傅かれることを当然として育った朱華に、家事一般の知識はない。
部屋は常に整えられているのが当然だったし、身につけるものも常にこざっぱりと清潔なものであることが当たり前だった。寝乱れた寝台も、脱ぎ捨てた衣も、放置した塵も、飲食をすませた食器も、いつのまにか姿を消し、何事もなかったかのように整えられているのが日常だ。
朱華の身につけたものを洗濯し、あるいは縫い上げ、調理をし、そのあとを洗い、不在のうちに室内を掃除するものがいることは、朱華も知っている。
しかし、実際に行われているところを目にしたことはない。いつの間にか全て清められ、整えられている。呼吸をするほど自然なこととして、それらのことを受け入れてきた朱華にとって、見えない部分で自分の生活が支えられているということは、知識のみで、実感を伴うものはではない。そんなものは知らないのと同義だと、朱華は思っている。
が、王女という立場上、かえって立ち入れない領域のあることも弁えている。そういう人々にも支えられているということを、自覚していれば今はよいのかもしれない。
朱華が困惑しているのは、そういうことではない。
傍系とはいえ、正統な王族として王家の系図にその名を記されているはずの枳月が、ごくごく自然に当たり前に給仕をしている姿をその印象のままに受けとめて良いのかどうかということだった。
権力の中枢にある直系王族だけが特別で、傍系となるとそうではないのか。
もう一つ、朱華と枳月の異なる点は、従軍経験の有無だった。
何やら上の空な様子で、機械的に食事をしている朱華に、師ともう一人の弟子は目配せをかわす。
「口にあわぬかな?」
「……はっ、あっ、えっ? 失礼……なにか仰せでしたか?」
気が付けば、いつの間にか枳月も席に着き匙を手に、師と共に朱華をみている。朱華は慌ててみたものの、他のことに気をとられて聞き逃したという事実は誤魔化しようがない。
「なんのことはない。口にあわぬかと問うたのみ」
師の言葉に咎める風はく、枳月も控えめに微笑んでいる。
朱華は慌てて首をふった。
「いえ、とんでもない――美味しいです」
言葉に迷った挙句、単純極まりない感想が口をついてでた。確かに言葉通りなのだが、他に云いようもあるだろうにと、朱華は我がことながら呆れてしまう。
「ならばよろしいのですが」
枳月がわずかに口元をほころばせる。
朱華は何故かそれにどきりとし、思わず目をそらした。彼のそんな表情を目にしたのは、はじめてのことだった。元々さほど接点がなかったのだから、彼が普段どんな表情をしているのかも知らないはずなのだが。
専属の宮廷調理人の手による美肴に慣れた朱華の舌に、枳月の手料理は素朴に感じられた。だからといって口にあわないわけではない。素朴であるだけに誤魔化しようがない。だからこそ、朱華は飾りも何もないそのままの言葉を口にしてしまったのかもしれない。
「では、なにか気懸りでもおありですかな」
師の言葉に、朱華はつられるように素直に頷いてしまった。それから慌てて前言を撤回しようとしたが、二人の様子に諦めた。師は先を促すような眼をし、枳月はさほどたいしたことでもないように静かに食事を続けている。
「……気懸りというほどのことでもないのですが――その、枳月殿、ひとつ質問をさせていただいてもよろしいですか?」
ためらいがちに、しかし結局は思い切って問いかけた。枳月は少し驚いたような顔をしたが、じきに穏やかな表情で頷いた。
「どうぞ」
「あなたはいったいどのような暮らしを送ってこられたのですか?」
「――どのような、とは……?」
唐突な上に漠とした質問に、枳月も困惑を隠せないようだった。
朱華は自分の思いをそのまま疑問にしてしまったことに気付き、やや眉根をよせてより的確な言葉を探す。
「そうですね――どちらで調理や家事などの技術を?」
「傍系とはいえ王族である私が、ですか?」
あえて省いた言葉を補われても、朱華は動揺することなく首肯する。
「軍に加われば、自分のことは自分でせねばならないこともあります」
「しかし、王族となれば従卒が必ずつくはずです」
「その従卒が負傷したり、命をおとしたりすることもあります――従卒の補充にも限りがありますからね」
「だからといって……」
「失礼ながら、姫は従軍の経験はお持ちでない。実際のところ、いちいち誰かに頼るより、自分のことは自分でやれたほうが色々と便利なのですよ」
静かな笑みで返され、朱華は言葉に詰まる。事実、朱華に従軍経験はない。その生活がいかなるものか耳にしたこともないし、戦果のいかんにどれほど左右されるものか想像もつかない。
「確かに仰る通りかもしれませぬ。しかし、あなたは苴州出身。それだけではないのではありませぬか?」
「ご推察の通りです。苴州は常に戦場です。苴葉家の城が落城したこともあります――それがどのようなものであったかは、私自身をご覧いただければ少なからずお分かりいただけるかと……殿下にわざわざお聞かせするようなことではありません」
穏やかだが、予想以上にきっぱりとした拒絶の言葉だった。
幾度も繰り返された翼波の侵入。過去には苴葉城が落城したこともある。男女も老若も関係なく、城にいたものは悉く命を落としたという。
その凄惨さを、朱華も伝え聞いている。
だが、皆が皆、落命したわけではなく、ごくわずかだが逃げ延びた者もいた。その頃、枳月は年端も行かぬ少年であったはずである。
朱華は己の失言を悟り、やや気まずそうに視線を泳がせる。
「浅慮なことを申しました」
恥じ入るように目線を落とす四の姫に、彼は相変わらず物静かで控えめな顔で小さく首を振った。
その話題はそこで打ち切りになった。しかし、朱華は自分の配慮のなさを悔いる一方で、なにやらはぐらかされたような心地も味わっていた。