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雪の陰翳  作者: 苳子
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第1章 7


 翌日、朱華は師を訪ねた。

 西宮さいぐうに彼を招待するより、自ら足を運んだほうが人目につかなくてすむ。近衛中将である四の姫が練兵場に足を運ぶことはありふれた事だし、師に教えを請うことも珍しいことではない。

 師は近衛宿舎の一角の、ささやかだが独立した棟を住まいとしている。

 歴戦の強者であり、幾多の戦功をあげ、後継の育成にも力を注いできた。そんな彼は隠居するにふさわしい領地と名誉のかわりに、この住まいを要求した。

 城下にもこぢんまりとした邸をかまえているが、そこはいよいよ足腰が弱ってからの隠居用らしい。

 それまではここに居座って、気儘に後継の指導にあたりたいというのが彼の願いだという。それを自分の我儘だと偉そうに開き直っているあたりが、朱華にとってもありがたくもあり、師の慕わしい人柄の一端だった。

 公的には引退している師は、勤務には縛られない。真夏の昼の暑さは老身に堪えると、日が高くなると自宅に引きこもってしまう。

 朱華は昼食のすむころを見計らって、近衛宿舎を訪ねた。時間帯的に人は出払っている。練兵場には食堂も付設しているので、わざわざ宿舎まで戻ってくるものはほとんどいない。

 近衛宿舎の中庭は、さすがに男所帯だけあってか、不潔ではないが雑然としている。朱華には見慣れた光景だった。

 遠慮がちに扉をたたく。じきにいらえがあった。朱華は警護の近衛に物影で待つよう云い、一人で戸口をくぐった。

 入ってすぐのやや広い部屋が居間と食卓と書斎も兼ねている。その奥に寝室と、小さな台所という慎ましい間取りになっている。

 せん志邨しそんという高名には似つかわしいものではないが、彼の人となりには即している。

 扉をあけたまま、部屋の入り口で挨拶のため頭を垂れる朱華に、彼は椅子に腰かけたまま気さくに応じる。


「これは、姫中将か」

「――その呼称はおやめ下さいと何度も申し上げております」

「しかし分かりやすかろ。葉の王女は五人もおるが、姫中将は一人だけだ」

「……」


 朱華は眉間に皺を寄せたまま顔を上げ、小さく息を吐いた。だが、それ以上苦情は述べない。云うだけ無駄ということは、骨身にしみている。


「お掛けになるがよい」


 彼はかかと笑い、姫に椅子をすすめる。

 朱華は「では、失礼」と一言断り、腰を落ち着けた。


「師よ、すでに御昼食は――」


 終わりましたかと尋ねたかったのだが、その先を遮られる。


「姫中将よ、昼飯はまだかな?」

「いえ、私はもうすませましたが……」


 まだでしたかと、反問しかけて、言葉が途切れた。

 奥の台所から、誰かが姿を現したのだ。


「師よ、ようやく支度が整いました。お口にあえばよろしいので……」

「――」


 現れたのは青年だった。湯気のたつ皿を両手に、ひょいと入ってきた。その様子は、いかにもこのささやかで慎ましい隠居所に馴染んだ風だった。どうやらできたての料理がのっているらしい皿を手にする姿さえ、様になっている。

 彼は“姫中将”の来訪に気付かなかったのか。いつのまにか増えていた居間の人影に、言葉を失っている。


「……枳月殿?」


 朱華はその名を口にするのも恐る恐るといった体で、呼びかけた。

 できたての料理を手に立ち尽くす青年は、その面の半分を布で覆い、前髪がさらにその上に被さっている。そんな身なりの人物は、ただ一人しか心当たりはない。

 名を呼ばれ、青年ははっとしたようだった。とりあえず急ぐ風もなく皿を卓に置き、正式な礼をとる。それは狭い室内では滑稽にもうつる。


「朱華姫がお出でとは知らず、失礼いたしました」

「いえ――私も突然訪ねたものですから」


 枳月が咎められるような状況ではない。かといって、先触れなしの朱華の訪問も、師との関係をかんがみればそれほど非常識なものでもない。

 朱華は言葉の継ぐ穂を見失い、口ごもる。非常に座り心地も、居心地も悪かった。


「これの料理の腕前はなかなかでの。料理だけではのうて、なかなか器用でもある。わしは家事一般はさっぱりだが、かといって小女を雇うほどの身でもない。まぁ、なんだ、剣技を教えてやるかわりに、身の回りの世話をしてもらっておる――等価交換じゃな」


 師の言葉に、弟子である当人は苦笑している。言葉通りの“等価交換”なのかどうかは、あやしいものだ。

 枳月は師の言葉など耳に届いていないとでもいいたげに、着々と昼食の準備を整えている。

 朱華は脱力感をおぼえていた。

 枳月は朱華の兄弟子にもあたる。だからこそ、その彼の人となりを師匠に確認しようと訪ねたのだ。

 その家で、その当人がいかにも慣れた風に家事をこなしているのだ。


「ご相伴はいかがかな?」


 志邨はもう昼食はすませたという朱華の言葉など聞いていなかったように、勧める。朱華はちらりと給仕をする枳月を見ながら、小さく首を振った。


「いえ、私はもう――」


 「すませました」と続けたかったのが、それを自らが裏切った。

 さほど広くない室内に、空腹を知らせる音が響いた。一人はふむと口の端を持ちあげ、一人はそんな音など耳にしなかったように泰然とし、一人は瞬時に耳まで赤くなる。音の持ち主は一目瞭然だった。


「やせ我慢はよくないの。それに食事は絆を深める機会でもある――姫中将にも皿を」

「師匠!」


 朱華はどうしていいかわからず、切羽詰まった声で師を押しとどめようとする。


「――多目に作っておりますから、ご遠慮はご無用ですよ、姫」


 実に控えめな、穏やかな一言で、とどめを刺したのは枳月その人だった。その声に他意は感じられない。

 文字通り顔から火が出るような想いで、朱華は食卓につくしかなかった。



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