第1章 6
朱華は自室に戻り、何枚も重ねた上衣を夕瑛に手渡すと、ようやく緊張が解けたように深々と息をついた。
東宮では人払いされていたため、姉妹の間でどのような会話がなされたのか、夕瑛は知らない。けれど、主の様子を見ればおおよその見当は付きそうだった。
「お疲れのようですが、如何でしたか?」
「ああ、そうね……」
朱華は珍しく言いよどむ。
乳姉妹には実の兄弟以上の絆がある。一人の王女の乳母を出すということは、一族を挙げてその後ろ盾となるということでもある。夕瑛は坩家当主の娘だった。
実の姉妹間でも伏せておくようなことでも、乳姉妹間ではさらけ出すこともある。特に朱華と夕瑛の間柄はそういうものだった。
長姉と次姉は個人的には賛成できかねるものの、公的にはその選択肢は否定できない立場であることや、三の姫の動向などを、かいつまんで明かす。
銀華のくだりを聞いた夕瑛は、一瞬目を瞠り、「あらあら」となんとも曖昧な笑みを浮かべた。
「それから問題は三の姉上のことだけではなくてね」
「――枳月さまのことですか?」
夕瑛の返事に、朱華は小さく首肯した。
「あの方はご出生が複雑でいらっしゃいますから」
葉枳月はその名の通り、葉の王族の一人として遇されている。
両親はすでに亡くなっている。
父親は東葉の傍系王族、母親は苴葉家の姫であったとされているが、彼女は隠し子に近い存在だったらしい。父親が翼波との戦いに参戦するために苴州に滞在中、二人は関係を持ち、枳月が生まれたという。その関係は正式な婚姻ではなく、二人ともほどなくして亡くなってしまった。その上、翼波の攻勢が増したころに枳月自身一時行方知れずになってしまったこともあったという。
大変苦労の多い半生だった彼を、青蘭女王は王族として遇すると決めた。その同情的な処遇にふさわしいような、ごくごく控えめな人物像だというのが朱華の印象だった。
朱華は実父を上司に、近衛に所属している。部下を持たない名誉職だが、枳月も同じ立場にいる。いわば一種の同僚であるため他の王女より彼と面識があるが、人となりを知っているというほどではなかった。
「いわば東葉系王族でいらっしゃるわけですから、婿がねのお一人ではあるわけですね」
「確かにそうではあるけれど、あの方にはひたすら目立たないようになさっている印象があるの。そういう方を、無理やりこういうことに引っ張り出すのはどうかとも思うのだけれど」
「苴葉家にゆかりもある方ですから、そういう意味ではありませんか? お若いのに閑職に甘んじておられるわけでもありますし」
朱華は乳姉妹の言葉に沈思する。
夕瑛は腕に抱えた上着を部屋の隅で片した。作業を終えても、主はまだ考え込んでいるようだった。
「いっそのこと、お会いなさってはいかがですか?」
「――枳月殿に?」
問われるまでもないことに、夕瑛はにこりとうなづいた。
朱華は一瞬驚いたようだったが、「それもそうね」とつぶやいた。
翌日、朱華は表の宮の近衛府に出仕した。
近衛府所属とはいえ、お飾りの名誉職に過ぎない朱華にきちんとした仕事はない。
彼女の出仕は、儀式や公式行事があるときに限られる。文字通り“華を添える”役割しか担いようのないことは、彼女自身よく理解していた。
そんな事情があるため、なんの予定もない日に突然姿を現した四の姫に、他の近衛たちは慌てふためいた。
女王や王女をはじめとする直系王族の内奥の外での護衛には、本宮に仕える近衛たちがあたることになっている。朱華の出仕は彼らにとっては予定外の仕事となるため、仕方のないことでもある。
近衛中将である朱華の護衛を、同じ近衛府のものが担う。そのことに朱華は矛盾を感じないわけではなかったが、彼女は近衛士官である前に王女である。扱いは母や他の姉妹たちと変わりない。特別扱いはされていないともいえた。
王女の突然の出仕を、いったい何事かとうるさく取り沙汰する近衛たちを適当にあしらって、朱華は目的のものをようやく見つけた。
近衛府だけでなく、すべての部署では出仕するとまず自分の名の刻まれた木札を裏返すこととなっている。表は黒、裏は朱書き。黒が出仕をあらわし、朱はその逆である。
朱華はその札の中から、目当ての名を見つけ出した。木札の名は黒。目的の人物はすでに出仕しているらしい。
その所在を尋ねれば、練兵場に向かったという。
それは所定の手続きでもあった。
近衛兵は、いったん近衛府に立ち寄って木札を黒にしてから練兵場に向かうこととなっている。しかしその手続きを守らない者の方が多い。朱華も今日のように騒ぎになることが分かっているので、練兵場には直接向かっている。
目当ての人物である彼は本宮付中将で、朱華と同じく部下を持たない。いわゆる名誉職である。朱華の警護に当たる本宮所属の近衛とは、所属は同じでも指揮系統が異なる。
本宮近衛中将は、朱華と同じ性質を持つため、彼女の同僚ともいえる。
彼についてはその出生にまつわる憶測をのぞけば、衆目を集めることはほぼない。腕はそこそこ立つらしい。出仕はほぼ毎日。住まいは近衛の寮。寮と練兵場は目と鼻の先で、近衛府は堀の内側でやや離れている。彼はそれでも毎日律儀に札を裏返しに来るという。
朱華も儀式のおりに言葉を交わした覚えはあるが、それがいつだったかはもはや覚えていない。ともかく口数が少なく、存在感に乏しいらしい。
その彼はすでに練兵場に向かったらしい。
欲しい情報を入手した朱華は、すみやかにそのあとを追った。朱華のあとには、本宮つきの近衛が二名続く。女官で乳姉妹の夕瑛は内奥の外までついてくることはできない。
毎回護衛の任に就く者は変わるため、朱華は彼等と信頼関係を築くことができない。大げさな待遇には溜息が出るが、彼らにも彼らの仕事と建前がある。それをないがしろにはできない。
近衛府の練兵場は王城の外にある。敷地は堀に渡された跳ね橋の向こうとなる。
朱華は無言のまま、淡々とその橋を渡った。近衛府所属の女性は四の姫ただ一人のため、わざわざ誰何するものはいない。
練兵場ではすでに新兵の訓練がはじまっていた。
朱華の師にでもある蘚志邨が険しい声で活を入れている。
朱華としては弟子として挨拶をしたいところだが、この時機で声をかければ叱責されるだけだと分かっているので、黙礼のみで通り過ぎた。
彼が人目を引くことがあるとすれば、その風貌だろう。身長は高くも低くもない。体つきも人より秀でているわけではない。均整はとれているが、それ以上でもそれ以下でもない。ごく標準的といえる。ではいったいなにが目を引くのか。
顔を覆い隠すような長い前髪と、右目を覆う眼帯。いつとは知れぬが、幼いころに翼波との戦火で顔の半分を焼かれたのだという。眼帯の下を含む、顔の右半分は確かに火傷の痕のように皮膚がひきつれている。
朱華が霜罧から入手した情報は、その程度にとどまる。
徹底して目立たないように振舞っているようにも思われるが、地道に毎日武術の稽古にはげんでいるさまを見れば、ただ単に地味な人物とも考えられる。
長い髪を一つに束ね、黒一色の稽古着に身を包んでいても、朱華の姿は不思議と人目を引く。女らしい曲線を持ち合わせているわけではないだけに、不可思議ともいえる。
案の定、朱華が彼を見つけたのとほぼ同時に、彼も四の姫に気付いたらしい。
いったん振り上げかけた太刀をさげ、黙礼したのは、葉枳月、その人だった。
彼は朱華の訪問に、驚いた様子を見せなかった。
すでに女王から打診を受けていたのだろう。それが自分より早かったのかどうか。それを考えかけると不意に気が重くなり、朱華は思考を絶ち切った。
朱華は警護の近衛兵にその場に控えるよう言い、一人で彼に近づいていった。
そこは練兵場の片隅。近衛は一隊の人数が知れている。練兵場も他の軍と比べると狭い。周囲は石塀に囲まれ、内側には植林されている。木陰は陽射しを遮るもののない練兵場の唯一の憩いの場でもあった。
その木陰に近い場所で、彼は一人で太刀をふるっていた。その無駄のない動きから、腕がたつという評判の間違いのないことを、朱華は確認した。
黙礼から頭をあげた彼は、思いがけず上背があった。朱華より頭一つ分は高い。これほど背が高かっただろうかと、朱華は意外な思いで見上げた。
肩より長い髪は、無造作に首の付け根で結われている。それは他の者と変わらない。前髪は長く、特に右側は顔のほとんどを覆っている。その奥に確かにひきつれた肌が見えた。右目を覆う眼帯も垣間見える。無事らしい左側も前髪が鼻先までかかり、やはり顔立ちを隠している。
口元は無事らしく、かたく引き結ばれた唇は形良い。
髪の奥から、朱華をみつめる控えめな眼差しを感じる。遠慮がちだが、まっすぐな視線だった。
朱華はいざ対峙してみてから、どう切り出したものか迷い、口ごもった。
「――枳月殿……」
「朱華さま、お話は陛下からおうかがいしております」
彼は太刀を鞘におさめると、浅く身を折り、利腕を背後へまわし、反対の手を胸元に添えた。叛意のないことを示す、武官の正式な礼法でもある。
低い声は静かに響いた。
不思議と印象的な澄んだ韻きを持つ。朱華は彼の声を以前にも聞いたことがあるにもかかわらず、はじめて耳にするような心地だった。
朱華は話の早さにほっとしつつも、虚を衝かれた想いだった。
「――そう。では、話は早い。私はあなたの意志を確かめに来たのです」
朱華は理由の知れない戸惑いを振り切るように、単刀直入に問うた。
彼は礼をとくと、相変わらず物静かな物腰のまま、けれどどこか隙のない様子で朱華を見つめる。
虹彩はおそらく黒。髪の隙間からのぞく左目は、切れ長の涼やかなものだった。もともとの顔立ちはそう悪くはないのだろう。鼻筋もすっきりとしており、端正ともいえる。
「その前に、私からも質問をお許し願いたい」
「なんでしょう?」
「朱華さまご自身にとって、私が家臣団に加わることは姫さまの本意にかなうことなのでしょうか?」
穏やかだが、真意の知れない口ぶりだった。気乗りしているのかどうかも判然としない。かといって、迷いも感じられない。
朱華はわずかに押し黙り、それから重々しく応じた。
「あなたの母上は苴葉家の出身と聞きました。私自身は東葉の血を半分引くに過ぎません。苴葉家に連なる血筋のあなたの存在は、欠くべかざるものと心得ます」
その意味するところはともかく、客観的な必要性は理解しているつもりだった。
彼の出自の真偽はともかく、公的にはそういうことになっているのだ。それにこそ意味がある。
彼はかすかにうなずいたようだった。前髪がわずかに揺れる。表情はおろか、眼差し一つ垣間見ることもできない。
「朱華さまがそう望んでくださるならば、微力ながらお力添えできれば光栄です」
その声音に迷いはない。世辞や、おもねっての言葉とも感じられなかった。
けれど、朱華の困惑は深まるばかりだった。