第10章 9
朱華の様子を暫し黙して見つめたのち、枳月はすっと霜霖に視線を滑らせた。
「さて、些か脱線いたしました。ところで、明柊と共に葉を裏切った彼の乳兄弟のことをご存じでしょうか?」
思いがけない問いかけに、心当たりのない朱華は霜霖の顔を見た。霜霖であれば承知しているであろうと言いたげな枳月の眼差しに、霜霖は浅く首肯した。
「苓秦旗ですね、当時の苓家当主であった」
「そうです。彼は明柊と共に生死不明でしたが――私は先年彼と再会したのです」
枳月は自身の父の名と、その乳兄弟のことを他人のことのように淡々と口にする。これまではその名を口にすることすら忌避していたような節にある彼だったはずだが。どこかで割り切ったのだろうか。枳月の言葉の意味が咄嗟にわからず、朱華はぼんやりとそんなことを考えていた。
その傍らでじきに理解した様子の霜罧の気配がさっと変わった。
「では、あの方も?」
「……明言はしませんでしたが、そのようです」
さすがにこの時ばかりは枳月もわずかに顔を歪めた。苛立だしげに髪をかきあげ、足を組み直すと小さな息を吐く。珍しく心情を露わにした。
「……生きておられると?」
「残念ながらというべきか……いや、今後のためにはまだ死なれては困るのも確かなのですが」
枳月は皮肉げにいうと、やや荒んだ笑みをみせた。
「不本意ながら父子力合わせての事業となりそうです」
彼の言葉の意味の詳細は分からないが、彼の父の力が必要ということなのだろう。溜息まじりに投げやりに呟く枳月に、朱華と霜罧にはかける言葉がなかった。
「……その者とは直接お会いになったのですか?」
朱華は話の流れを変えるべく切り出した。枳月は感情を露わにしていた自分に気づいたようで、わずかに恥じるような表情をのぞかせた。
気を取り直すように深く座り直し、慣れた仕草で蟹足腫に覆われた顔を前髪で隠す。
「こちら側から密かに動き出したことが伝わったようで――翼波側に伝わったわけではなく、あくまで翼波内の葉からさらわれた人たちや、その中に紛れ込ませた覗見(間者)などですが――あちらから接触を図ってきました」
未だに彼らが生存しているとは思っていなかったのか。後日こうして語っていても、枳月は意外な思いを拭いきれずにいるような口ぶりだった。
「それが元苓州公だったのですね――あの方ご本人ではなく」
「……この現状から推察すれば、私が全てを理解したことは明らかです。今更、何の面を下げて私に会うことができるというのか――流石にその程度のことは弁えているのでしょう、あの男とて」
霜霖の言葉に、またも枳月は語気を僅かに荒げる。その変化は些細なものだが、彼との付き合いの長い霜霖と朱華には明らかだった。枳月の出自と問答無用に負わされたものを考えれば、親を呪いたくなる心境も分かりすぎるほどだ。ただただ同情するほかにできることのない二人に、返せる言葉はなかった。
慰めようもないと言いたげな二人の様子に、枳月は目を伏せて溜息をつく。未だに苛立ちを持て余していることを認めざるを得ない。感情を露にするのは非常に不本意だったが、それを制御できない自分が如何に彼らに心を許しているかということの証左でもあった。
「――お見苦しいところをお見せしました。これは私の意志による選択のはずですが、未だに親のせいにしたいという私の弱さもあるのでしょう」
苦いものを吐き出すような口ぶりに、朱華は両手で裳を強く握った。
「……まことに枳月殿のご意志なのでしょうか?」
俯いて彼と目を合わすことはできないが言わずにはおれないという風情に、枳月ははっとしたような表情をする。
「はい、私の意志ですよ――私が果たすべき義務です……母の希望でもあるそうです」
「……御母上の?」
朱華は思わず顔を上げた。驚いた彼女と目が合うと、彼はなんとも言いようのない笑みを浮かべた。
「はい、はじめて聞きました――葉を裏切って以降の母について……」
父親について話す時よりも複雑な表情で、枳月は言葉を濁しつつ口にした。
「……」
朱華は何か言おうと口を開きかけたが、結局言葉は出てこなかった。“葉を裏切った母”という件に、思わず反応してしまったものの、その言葉を否定も肯定もできないのが現実だった。
彼の母である岑雪蘭という女性は、女王の従姉であり、実の姉妹同然であり、親友であり、恩人でもあったという。
女王である母の口ぶりから、彼女への思い入れがひとかたならぬものであることだけは伝わってきた。内乱ののち聖地に隠棲していたが、いつしか姿を消し行方知れずとなった。公式に知られているのはそれだけであり、二〇年以上経過した現在では彼女は忘れ去られた存在といってもいい。朱華とて枳月のことがなければ、その名すら知らなかった。
「ああ、言い忘れていましたが、私の母は岑雪蘭で間違いないそうです――母方でも私たちは又従兄妹となるようです」
枳月はやや荒んだ笑みをみせ、深々と溜息をつく。事前にそうではないかと分かっていたこととはいえ、改めて真実と判明すると心身に堪えているようだった。
「それは……」
「元苓州公がその出産に立ち会ったそうなので、間違いないようです」
枳月はやり切れない様子で溜息をつき、乱暴な仕草で髪をかき上げる。蟹足腫があらわになるが、その傷跡の醜さよりも酷さが彼の心情をあらわしているかのようだった。
「真にそうなのだとすれば、ますます度し難い……母は陛下の身代わりをつとめていたというではありませんか――内乱の折には父の所業をその傍らで目にし、その結果を目の当たりにしてきたはず……その上であえて父の手を取り、葉を裏切り、さらに私を成したなど……」
これでも朱華たちの手前、衝動を堪えているのだろう。掻きむしるのを抑えるように頭皮に片方の手の爪を立て、絞り出すように呟く。
「葉のためにあえて父の手を取り、そのために私を成したというなら理解できます――が、私欲に負け、一時の恋情に身を任せた末に、その贖罪のために私を成したというなら……私は二重に親の罪を背負うことになります」
俯き、足元を見据え、誰に聞かすでもなく、ただただ自分の罪を告白するような口ぶりに、朱華はその場から逃げ出したくなった。
血を吐くような、とはこのようなことを表すのだろう。元苓州公との邂逅以来、枳月は誰にもその心中の煩悶を吐き出すことができなかったのだろう。朱華と霜霖が相手だからこそ、ここでしか吐露できない苦しみを痛切に感じる。その切実さに、朱華はいたたまれない。
彼の母という人を、朱華は知らない。母である女王も、枳月の件があるまでは子らに彼女について語らなかった。母と彼女の絆の深さについて、姉妹の中で最も知っているのは朱華で間違いないだろう。王権の安定と女王という立場を天秤にかけ、枳月の身元を保証した母青蘭。それだけ母の、雪蘭に対する思い入れの深さを思い知らされる。
同時に、父である王配碧柊が決して内乱の首謀者である明柊を責めないのも確かだった。内乱の件に触れる際、父は全ての責は己の力不足ゆえだと話す。内乱ののちに生まれ、当時を知らない朱華に、それらの真偽を量る術はない。
「――その……貴方のお母上はなんと?」
判じる手立てのない朱華には、彼女の遺志を探るほかない。ここで逃げれば、枳月からの信頼を失うことだけは明らかだった。枳月は朱華の恋情には応じてくれないが、人と人の個人としての信頼は寄せてくれているという確信はあった。それまでも失うことは、朱華はしたくなかった。