第10章 8
事態が一気に動いたのは二年後のことだった。
今年の夏は冷害もなく、収穫は十分なものになりそうだという報告に、朱華は胸をなでおろしていた。冷害に強い品種の導入も進み、収穫量は確実に増えている。
そこへもたらされたのは、例年よりもかなり早い初夏ともいえる時期の枳月の訪いの知らせだった。
朱華は浅黒くなった枳月の顔を気がかりそうに見つめたが、なにも言わなかった。
数年にわたる山岳地帯での行動は、彼の面差しをすっかり変えてしまった。日に焼けていなくても、苴州に赴任直後の頃の面影はない。かつてはややもすると線の細い少年のようでもあったが、今ではすっかり野伏のような荒々しささえ感じさせる青年となっている。
朱華が出入りの商人と会うことは、珍しいことではなくなっていた。霜霖や、場合によっては列洪を立ち会わせ、領主自ら商談をまとめることもある。飢饉の際にはそれが最終的な切り札となることもあった。母親である女王の威光を笠に着ての行為であることは百も承知だ。
出生や容貌は自力で得たものではないが、拘るには瑣末なことに違いない。領民の為に役立つなら利用できるものは徹底的に利用する。それが領主の役割だと、朱華はすっかり割り切っている。
枳月の方も商人としての振る舞いがすっかり板についている。その身元を保証する証書も朱華自ら発行している為、苴葉城への出入りはほぼ自由だった。
いつものように商談用の部屋に通された枳月は、挨拶もそこそこに話を切り出した。これまでになく性急な様子と、例年よりもはるかに早い時期の訪問に、朱華は内心緊張する。いよいよ事は大きく動き出そうとしているのだろうか。
「来春の雪解けを待ち、一気に攻勢に出ることとなりました。そのため、次の冬は苴州も多忙となりましょう。まだ内々(ないない)のことではありますが、陛下より今年の苴葉公の上京は無用との言伝を預かっております」
覚悟していたとはいえ、改めてことの重大さを思い知らされる言葉だった。
冬の王都では重要な会議が相次ぐ。東葉王統家筆頭の家柄でもある苴葉公は多くの会議に出席せねばならない。就任一年目こそ免除されたが、今では朱華の重要な役割となっている。それら全てよりも、ことは重大ということだ。
「ーー承りました」
朱華はわずかに息をのみ、それを押し出すように頷いた。様々な意味で腹を括らなければならない時が来たことを理解する。
はっきりとした不安を感じたわけではないが、咄嗟に傍に立つ霜罧の顔をちらりと見る。そんな彼女の心情を察していたかのように、彼は目礼で応じてみせた。それから枳月を見ると、彼は一瞬笑みをみせ、そして重々しく頷いた。
この瞬間、朱華は自分が無意識に一つの選択をしたことを悟った。
「苴州の役割は如何に?」
「詳しいことは改めてとなりますが、基本的には例年通り苴州軍としての役割と他州軍の後方支援を担っていただくことに変わりはありません。ただ、苴州軍を含め、軍全体の配置が例年と大きく変更されます。それに伴い兵站の経路や時機が変更となります。布陣そのものも早くなりますので、各州の軍の苴州入りの時期も早くなります。その分、必要となる兵站も例年より多くなります。兵站の手配はご心配なく、苴州の民の食糧事情を圧迫するようなことはないように配慮いたしますので」
つまり、何もかもが例年とは違うということだ。
朱華はにわかに緊張感を増し、理解の追いつかない頭に真っ先に思い浮かんだのは苴州の民の食糧の確保だった。そんなことなどお見通しのような枳月の言葉に、ほっと胸をなでおろす。そんな胸中を察したかのように、枳月が薄く笑った。
「公は真っ先に民の食糧をご心配なさったのですね――ここ数年の冷害で如何に公がご苦労なさったかは存じておりますが、民としては心強いことでしょう」
「……民あってこその領主ですから」
思いがけず褒められた朱華は、言葉を濁しながら目をそらす。領主として手を抜いているつもりはなく、最善を尽くしているつもりだが、つもりはつもりに過ぎない。結果の伴わぬ努力は努力しないのと同じことだという、領主の厳しい現実は骨身にしみている。
「我らが公はどこまでも謙虚でいらっしゃる」
「まこと謙虚が過ぎて卑下になってしまいかねほどに」
枳月の言葉を受け、霜霖が笑みを含んだ声で付け加える。思いがけず揶揄うような台詞を二人から浴びた朱華は、抗議するように彼らを睨みつけた。
「慢心するよりましでしょう?」
二人の若者は主人の抗議を受けると顔を見合わせ、小さく笑いあった。朱華はそんな二人を不満げな顔で見据える。
「卑下も過ぎると身を誤ります。公は身を誤ることは許されないのですよ。慢心もいけませんが、過ぎた卑下もいけません」
霜霖が教え諭すように朱華に言い聞かせる。あえてわかりやすい言葉が選ばれていることを悟り、朱華は頬に朱を走らせる。似たような指摘はこれまでにも何度も受けてきたが、彼らから揃って同じような反応を示されると不本意ではあった。
「なれど、慢心するよりは――」
「公の場合は慢心なさるくらいでちょうどよろしいのではないでしょうか?」
霜霖の言葉にむきになりかけた朱華に、枳月が思いがけず言葉を重ねてきた。予想外の反論に、朱華は口を閉じる。
「殿下の仰る通りです。慢心が過ぎれば遠慮なく諫言させていただきます――それに耳をお貸しにならぬ公ではありませぬでしょう」
枳月の言葉を受け、霜霖が苦笑交じりに捕捉する。朱華はどう反駁していいかわからず、口ごもった。
「――ただでさえ現状この体たらくの上に、他人の忠告に耳を貸さぬようになってはもう救いようがないではない」
朱華が絞りだした本音に、彼らは顔を見合わせた。
「そこが公のお改めになるべき点だと申し上げているのですよ。何度も申し上げているように、公は十二分に努力をされ、さらに他者の意見にも耳を傾けようと努められ、思いあがったような素振りはまったくありません。その点だけでも自信もお持ちください……でなければ、我らには励ましようもありません」
困り顔で霜霖が苦笑交じりに述べる。朱華は窘められたのかどうかすら判断がつかず、困惑した顔を上げる。
「――公、ご自分の自信の無さ、弱さを言い訳に逃げ腰になってはおられませんか? 公をはじめ、我らには逃げることは許されないのですよ。例え我らの失策故に多くの人の命が失われたとしても、あなたはそこから逃げず、その失敗を教訓に活かさねばなりません。己のしくじりから、弱さから目をそらしてはいけないのです。それこそが領主たるものの責任ではないでしょうか」
枳月は静かな声で語った。思いがけない霜霖ではなく枳月からの厳しい言葉に、朱華は小さく息をのむ。
「人とは必ず失敗するものです――それは領主とて同じです。けれど、公の肩には民の命がかかっています。あなたがしくじれば、必ずいくらかの命が失われましょう。それはあなたが負うべき代償です。それをあなたは必ず贖わければなりません――けれど、それを恐れてはなりません」
枳月は朱華の目を真っすぐに見据え、さらに続けた。朱華はしばらく沈黙し、思案するように視線を巡らせた。そして深々と息をつく。そんな二人を霜霖は見守っていた。
「……私には失敗は許されない――けれど、人は必ずしくじるもの……その矛盾を克服するには、私には逃げずにその罪を償う義務があるということですね」
朱華は彼の視線をまっすぐに見返し、静かに言い切った。枳月は穏やかに微笑み、浅く首肯する。
「そうです。我らには本意であろうとなかろうと、罪を犯してしまう現実と、それを償う義務があるのです」
彼の言葉は深く響いた。その意味を問い噛みしめながら、その響きが誰に向けられたものなのか、朱華は考えていた。
野伏について誤字報告いただきましたが、これについては誤字ではありません。野武士でも間違いはないのですが、個人的には山賊というか、もっと追及すると「小説『指輪物語』に登場する民族であるドゥーネダインの北方王国滅亡後の潜伏期の呼称」bywikipediaなイメージです。恐れ多いことですが、アラゴルンのような…