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雪の陰翳  作者: 苳子
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第10章 7

 結局、その冬の間に朱華が枳月と会うことはなかった。霜霖があれ以降その件に触れることもなかった。

 朱華は飢饉の対策とそのための金策に奔走する羽目になり、昨冬とは比べようがないほどの多忙を極めた。

 苴州公としての勤めは勿論それだけではない。王統家家長、東葉王統家四門筆頭、元王女としての役割もあり、さらに独身領主狙いの招待も引きも切らない。

 枳月と霜霖の存在の意味は半ば公然の秘密だったが、二年経ってもどちらとの婚約すら進んでいる気配がないため、あわよくばを狙う動きが出るのも仕方なかった。

 枳月は病気療養で王都に戻ったきり姿を見せず、霜霖と朱華の不仲説も蔓延しているためなおさらだった。赴任当初からしばらくは不仲説も嘘ではなかった上、朱華の好意を得るために苴州に益する協力を得やすいため、噂は放置されている。

 枳月の現状と飢饉による難局もあり、今のところ朱華の結婚は棚上げのまま急かされることはない。

 ただ、冬の終わりに王都を去る挨拶のため女王を訪ねた際に、さり気なくどうするつもりか尋ねられた。朱華が即答できずにいると、一度は領主一族を失っている領民のことも考えるように言い渡された。列洪も同様のことを言っていたのを思い出し、朱華は頷くしかなかった。

 女王の前から退室してきた朱華を、霜罧は控えの間で待っていた。今は嶄家の次男ではなく、苴葉公の臣下に過ぎない。女王に直接目通りできる身分ではない。


「お早いお済でしたね」

「出立の挨拶に伺候しているのは私だけではない」


 そっと囁いてきた霜罧に、朱華は押し殺した声で小さく返した。それ以上は口を慎むよう、片手をあげて見せる。最後に結婚のことで念を押されたことは、彼には伝えたくなかった。以前朱華からの求婚を断られている手前もあり、ばつが悪い。

 無言のまま建物を抜け、外へと通じる門へ向かう。そこは王統家専用の門で、苴葉公家の軒車が待ち構えていた。他家の軒車は見当たらない。霜罧より先に乗り込むと、進行方向の席に座る。続いて乗ってきた霜罧は朱華の斜め向かいの席に腰を落ち着けた。


「先ほどのことだけれど、遠回しに財政を立て直すように言われたわ」

「支援に頼りすぎぬよう、釘を刺された形ですね」

「苴州の経済は翼波戦頼みの部分が少なくないのは事実だから」


 それは即ち、各州の戦への負担金の上に成り立っているとも言える。鉱山からの儲けが収入の主軸となっているが、鉱山の大半が国境地帯にある以上、戦の状況に左右される。この十年近くは戦況が落ち着いているために安定した収入源となっているが、財源としては不安定であることは否めない。


「食糧の自給率が低いものだから、ちょっとした冷害でたちまち州外に頼るしかなくなってしまう。この点も改めたいところね」


 朱華は溜息交じりに呟き、深くもたれかかる。

 壁のない素通しの回廊を歩くため、外套を羽織らなければならなかった。春が近いとはいえ、まだ冬。外套なしで外出するには寒すぎる。軒車に乗ってしまえば、その冷気は遮られる。足元には足を乗せる湯湯婆まである。朱華は外套の前をくつろげた。


「――陛下からのご助言ですか?」

「まぁ、そのようなものよ。東葉北部全体が冷害に遭ったから苴州だけが支援を要請するようなことにならなかったけれど、なるべく自州内でなんとかするようにと。女王の娘だから特別扱いされていると思われてしまうような状況はなるべく避けるべきだとね」

「それはもっともなご意見ですが、なかなかに難しいことでもありますね」

「実のところを言えばね、餓死者をほとんど出さずに済んだのだから、自分ではそこそこうまく乗り切ったつもりでいたのよ――けれど、元王女ということは、それくらいでは駄目なのね」


 朱華は組んでいた腕をとき、膝を抱えて苦笑いした。霜罧はその笑みを受け止める。


「採点するのは第三者であり、どうしてもその時“元王女”“陛下のお子”という点で辛くなってしまいますからね」

「……一の姉上と二の姉上がいらっしゃる限り、私が政治のかかわることなどないと思って育ったものだから、その割には上手くやれているかと秘かに考えていたのだけれど――勿論、そなたたちの助力あってこそだけれど――甘かったことはわかったわ」

「もう苴葉公に就任されて三年目に入りました。そろそろ一人前の領主として評価され始めたということでしょう」


 霜罧は尤もらしい言葉を吐く。

 朱華はふっと息を吐いて車内の天井を仰いだ。そこには防寒のために綿を内側に詰めた、豪奢な絹地が張られている。細やかに織り込まれた花柄の一つ一つをその目で数える。


「ようやく三年? それともまだ三年かしらね?」

「公はまだまだお若くていらっしゃいますから、まだ三年というところではありませんか。いずれ、気が付けばあっという間に三十年ほど経過していることでしょう」

「三十年、ね――その時、私は五十二歳ということになるわね。現在の母上よりもさらに年上よ。想像もつかないわ」


 気が遠くなる、とでも言いたげな口ぶりで、朱華は霜罧を見る。彼はゆったりと微笑んだ。


「確実なことが一つあります」


 余裕のある口ぶりに、朱華は訝しむように眉を顰める。


「三十年後も、私は今のように公にお仕えしていることでしょう」

 

 見慣れない者であれば、うっとりと見とれてしまうような笑みを浮かべる。朱華はそれに胡乱な目を向ける。


「その頃には位を譲って引退しているかもしれないわよ」

「それはおそらくありえないでしょう」

「何故?」


 いやに確信に満ちた彼の返答に、朱華はますます眉間にしわを寄せる。


「もし、ただちに公がどなたかと結婚を決意なさったとしても、お子ができるのは来年以降でしょう。三十年後、そのお子様はまだ二十代です。今現在ご自分のお若さに苦労なさっておられる公が、まだまだ若いであろうご子息に大任を押し付けられるとは考えられませんので」


 朱華の性分をよく知る彼ならではの推測ではある。まるでお見通しであることに、朱華は面白くない。


「それがそなたとの子であれば、私より遥かに有能でしょうよ、おそらく。その場合、その子にさっさと譲ってしまったほうがいいかもしれないわよ」


 そう言い返して、朱華ははっとしたように慌てて口を噤む。


「……もしそのような未来であれば、私にとっては最上の人生ということになるでしょう」


 霜罧はこれまでに見せたことのないような、深く穏やかな笑みを朱華に向けた。朱華は狼狽したように目をそらした。


「その前に、そなた、私からの求婚を断ったでしょう」


 どきまぎした様子で頬を赤らめ、異議を唱える。そんな主の姿に目を細めながら、霜罧は小さな笑い声を漏らした。


「それはまだ時期ではなかったからですよ」

「――時期?」

「あの時申しあげたとおりです。あの時、公は自棄になっておられた。そのような選択がいい結果をもたらすはずがありません」


 霜罧はできの悪い弟子に言い聞かせるように話しかける。朱華は顔をそむけたまま、視線だけちらりとよこした。


「それは分かっている――では、そなたの言うその“時期”とはいつなの?」

「それはそのうちお分かりになるでしょう」


 したり顔で微笑する霜罧を、朱華は向き直ってにらみつけた。


「誤魔化すつもり?」

「――お分かりにならぬうちは、まだまだお若いということですよ」

「そなたとて若いでしょう」

「あなたより四つは年上です」

「それほど大きな年の差ではないわ」


 朱華は納得ができないと食い下がる。霜罧は楽し気に笑いながら、身を乗り出し腕を伸ばすと朱華の頭をそっと軽く撫でた。


「公より年下でも、精神的には年上の者もおります。個人差というものです」


 子供をあやすような仕草に、朱華は頬を膨らませ、その手を払いのける。


「子供扱いして」

「まぁ、そうですね、否定は致しません」


 悪びれる様子もなく嫣然と微笑まれ、朱華は言葉をなくして黙り込む。不機嫌そうに椅子にもたれ、睨みつけるように外を見るその姿に、先ほどまでの意気消沈した気配は消え失せていた。


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