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雪の陰翳  作者: 苳子
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第10章 6

 王都に珍しく雪が降った。苴州のそれと比べれば降ったうちにも入らないが。うっすらと白く覆われた庭を、朱華は懐かしいような心地で眺めた。高い塀に囲まれた狭い庭には、今も雪が降り積もり続けている。ちらちらと舞う白い切片は、風に翻弄され上下しながらも確実に地を覆っていく。

 王都の冬が終わる頃に発ち、苴州に着いてもまだ彼の地は雪に覆われている。冬は王都に滞在するのが領主の義務ではあるが、全く雪を見ることができなくなったわけではない。

 公邸の執務室の内扉が叩かれ、朱華は入るよう応じた。構造的に内扉を直接叩けるのは、控え室で執務に当たっている霜霖だけである。

 霜霖は入室するなり、窓掛けをめくって外を眺めている主人の姿を見つけた。ふと口元を緩め、その傍に歩み寄る。

 雪の庭を見つめる朱華は、以前ほど着込まなくなった。相変わらず寒さは苦手だが、少しずつ心身ともに順応しているのだろう。並んで立つときの背丈は変わらないが、その距離は近づいている。


「雪をご覧でしたか」


 朱華は肩をすくめてそれに応じ、彼の腕に抱え込まれた厚い書類の束に溜息をついた。


「どこに行っても減るということはないのね」

「残念ながら、こればかりは仕方ありません」


 霜霖は励ますように苦笑いする。朱華はそうねと呟き、執務机に向かった。

 苴州では執務だけしていれば良かったが、王都ではそうもいかない。連日の会議や宴、儀式などにも出席せねばならず、多忙な日々を送っている。領主として自領の利益を守らねばならず、足元をすくわれないよう毎日が緊張の連続である。

 二年続いた凶作で多数の餓死者を出さずに済んだ代わりに、苴州の金蔵は空に近づきつつある。国の支援を請わねばならないが、そう易々とことが運ぶはずもない。ことの段取りや根回しは霜霖らに任せておけば良かったが、実際にもぎ取ってくるのは朱華の役割である。


「苴州のみならず、東葉北部各州の代表でもいらっしゃるのですから、失敗は許されませんよ」


 飢饉は苴州だけでなく、東葉北部全体に及んでいる。領主の対応に差が出たため、多数の餓死者を出し領主交代を命じられた州もある。

 苴葉公は東葉王統家の長であるだけでなく、こういう時も代表となるのが伝統的な役割でもある。女性で若輩であったとしても、それは言い訳にもならない。


「分かっている。そなたに代弁してもらうわけにはいかないことも」


 女王主催の会議に補佐役も同席はできるが、発言は許されていない。想定される質疑に対しては対抗策を練ってあるが、実際にどうなるかは始まってみないとわからない。


「何かしでかせば女王の娘なのに、成功しても女王の娘だから。ただでさえ唯一の女領主でやりにくいというのに」


 目を通し終わった書類に署名しながら、朱華は溜息をつく。霜霖はくっと口の端を持ち上げた。


「女子供のすることですから、としおらしく為されれば良いのですよ。実際にそういわれているのですし。おっしゃる通りでございますと返されて、それ以上言えるものはおりますまい」


 人の悪い笑みに、朱華は呆れたように顔を上げた。


「そなたはすぐに私に馬鹿でございますからと開き直るようにしか言わないわね」

「開き直り以外に術をお持ちですか? 失礼ながら、いきなり有能におなりになれるわけではありますまい。ですが、公よりはるかに無能な領主はごろごろしておりますよ。男性だと言うだけで何も言われないだけです。ご安心ください」

「……それで安心できるわけないでしょう」


 朱華は霜霖を睨み付けると、もうこの話題は終わりだと言うように手を振った。


「迂闊な返答をなさるくらいなら、惚けて回答を保留なさった方がよろしいでしょう。そのままで支障なければ、目配せでもいたしますので」

「いつも通りに、と言うわけね。承知した」


 朱華は浅く首肯し、処理を急ぐ書類に目を通し手早く署名をした。その間霜霖は部屋の片隅に置かれた椅子に腰掛けて書類に目を通す。朱華が忙しいということは、彼も多忙だと言うことになる。

 署名し終わった書類の束を受け取りながら、思い出したように霜霖は付け加えた。


「枳月殿下が王都にお戻りのようです。手配を致しましょうか?」


 朱華は書類を渡す手を止め、机の向こう側に立つ霜霖を真っ直ぐに見上げた。


「そう。何もしなくてもいいわ。秋に報告はうけたから特に用件もないし。枳月殿もお忙しいでしょう」

「よろしいのですか?」

「いいわ。私も忙しいのだから。必要があるなら向こうから知らせてくださるでしょう」


 朱華は目をそらさず、あくまで事務的に告げた。霜霖は何か言いたげな表情を見せたが、黙って頭を下げると書類を受け取って退室した。

 朱華は椅子の背にもたれ、軽く目を瞑った。強がったわけでもなく、無理をして彼を避けなければならないという想いもなかった。ただ本当に会う必要がないだけだった。

 諦めようと決めたわけではないが、自分がどうすべきかという心は定まりつつある。

 何もかもかなぐり捨ててと言うほどの激しい想いはない。もしそうしたとしても彼は応えてくれるような人物ではなく、むしろ失望され軽蔑されるだけだということも分かっている。

 彼のためにも、何より自分のためにも、どうすればいいかは見えてきたような気はしている。考えるとわずかに涙は滲むが、あふれるほどではない。自分の立場と彼の想いを考えれば、頭をもたげてくるのは冷静さの方だった。

 朱華は大きく深呼吸すると目を開き、改めて執務机に向かった。




 その夜、朱華は珍しく公邸にいた。この冬に抱えていたいくつかの大きな問題のうちの一つを乗り切ったばかりだった。

 結論の出る会議の夜はのんびりできるように予定を空けておいてくれたのは、霜霖だった。王都滞在中はできるだけ多くの宴席に顔を出すのが義務のようなものだが、流石に今夜ばかりは朱華もへとへとだった。

 遅くに城を辞し、公邸に戻るとまずは執務室に戻る。身を飾っていた装飾品の類を執務机に乱雑に散らかし、当人は長椅子にへたりこんでいた。そこへ霜霖自身が香草茶を運んできた。


「お疲れ様でした、公」

「そちらもね」


 にこやかな労いに、朱華は身を起こし、椅子の背にもたれる。霜霖の手の盆には二人分の茶器がのっていた。朱華は低い卓を挟んで反対側にある椅子を彼にすすめた。

 霜霖は盆を置くと、礼を述べてそこに腰を落ち着けた。


「すっかりお疲れのようですね、無理もありませんが」

「流石に疲れたわ」


 議題は東葉北部への援助についてだったが、特に西葉南部の穀倉地帯の領主たちからの反対が根強く、交渉は難航していた。対翼波戦の負担金が毎年課されている不満が常にあり、さらにそこへ飢饉対策の負担が加わることに難色を示すものが多かった。

 彼らにとって東葉北部の飢饉など他人事には違いない。翼波の脅威なども身近ではないため、無理もない面もあるのだが、朱華としては「はいそうですか」というわけにはいかない。

 建前と根回し、さらに元王女であることを利用して、霜霖の提案通り巧妙に立ち回ることで、なんとか支援策をとりつけることができた。密かに珂葉公の協力があったことも、霜霖から知らされている。一つ借りができたのも確かだった。

 いくらお膳立てしてもらったとしても、実際に表立って動かなければならないのは朱華である。ただ黙って座っていればいいわけではない。


「公は強かなお振る舞いが堂に入ってこられましたね」

「そなたの指示通り、笑って誤魔化しているだけよ」


 朱華は片膝をたてた行儀の悪い姿勢のまま、茶器を手にしていた。もし夕瑛がそばにいれば、間髪入れず膝を叩かれているに違いない。けれど、霜罧がそれを咎めることは一切ない。


「いえ、何をおっしゃいますか。必要時にはしおらしくもなされ、のらりくらりと実にお見事にかわしておられますよ。決してお怒りをお見せにならない点にも感服しております」

「見事にのらりくらり、ね――とても褒められているとは思えないけれど、まぁいいわ」


 朱華は香草茶を一口含み、ほっと息をついた。緊張がとけた反動か、頭の芯がぼうっとしているような心地だった。


「聡明な人物として振舞える器ではないのだから、これで良しとするしかないわね」


 天井を見つめながら、溜息まじりに苦笑いする。霜罧はそんな主に小さく首を振った。


「何をおっしゃいますか。この二年で、少なくとも小娘だと公をなめてかかってくる他の領主は格段に減りました。これは一重に公の成されたことですよ」

「舐めてかかると痛い目に遭う腹心の存在が知れ渡っただけのことでしょう。私はただの小娘だけれど、そなたはそうではないのだし」


 朱華は皮肉るように霜罧を一瞥し、茶器を卓に戻した。


「優れた家臣を持つことも、領主たるものの能力の一つに違いありません。いくら名刀でも、遣い手次第ではただのなまくら刀です。すぐれた遣い手あってこその名刀です。名刀はひとつでは一つのことしか成せません。しかし、優れた遣い手は複数の名刀を使いこなすことができる。領主とは自身が名刀であるより、良き遣い手であることのほうが重要ではないかと考えます」

「……そなたは自分を名刀と評するわけね」

「そして、公は優れた遣い手ということです」


 にこやかにそう返され、朱華は脱力したような乾いた笑みを浮かべた。それから深々と息をつき、結い上げた髪を自らとく。


「怒りを見せずにすむのは、そなたのおかげよ。怒鳴りつけられたところで憶するような性分ではないけれど、ネチネチ言わせれば天下一のそなたにあれだけいびられてきたのだから、多少のことならなんとも思わずに済むというものよ」


 霜罧に揶揄うような笑みを向け、ふふっと小さく笑う。そこに責めるよりも可笑しがるようないろを見出した霜罧は、詫びるような笑みを返した。


「無駄な経験はないということでしょう。それだけのことよ」


 朱華は肩をすくめると再び茶器を手にし、柔らかな香りに目を細め、そっと欠伸をかみ殺した。


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