第10章 5
朱華と霜罧は、枳月より先に部屋を出た。三人がいた部屋は、苴州城に出入りする商人が主に使用する棟にある。枳月が城に滞在する間は、王都や他の州からの使者が主に滞在する棟に一室を与えられている。最早勝手知ったる枳月はその部屋までの案内を必要としない。
以前、枳月の役割を承知しているのは朱華、霜罧と珂瑛の三人だけだったが、今は列洪も知るところとなっている。列洪に枳月のことを伏せて様々なことを進めるには、やはり無理があった。訝しむことがあったとしても列洪の方からそれを口にすることはなかったが、齟齬が生じることもあり、霜罧が早々に明かすことを勧めた。もちろん、枳月の出生の秘密まで明かすわけにはいかない。その点は珂瑛に対しても同様だった。
苴州の秋は葉のどこよりも早い。夏は短く、秋も慌ただしく過ぎ、年の半分近くは雪に覆われる。そろそろ朱華が王都へ発たなければいけない時季も迫りつつある。
棟と棟を結ぶ人気のない廊下を、開けっ放しの窓から夜風が吹き込んでくる。髪を結い上げた朱華の首筋を、その冷たい秋風が撫でていった。彼女は思わず呻いて肩を震わせ、小さく息を吐く。夜更けの風は昼間よりもさらに冷えている。
寒さに肩をすくめる朱華に、霜罧は黙って自分の外套を脱ぎ横から差し出した。朱華はとっさにその意図が読めず、足を止めた。
「こちらをお使いください。お部屋まではまだ少なからず時間がかかります」
光源のない廊下で頼りになるのは霜罧の手にある灯りしかない。仄かな灯りではお互いの表情を見分けることは難しい。労わるような声音に朱華は大丈夫だと首を振ったが、彼は半ば強引に彼女の肩にそれを羽織らせた。
「お風邪などお召しになってはいけません。私は寒さには強いですから」
言い聞かせるような口ぶりに、朱華は大人しく頷き礼を述べた。仄かな灯りの向こうで、霜罧が小さく笑うような気配が伝わってきた。そのまま歩き出すかと思われたが、彼は周囲を確認するような仕草を見せた後、一歩彼女に歩み寄った。
「――姫、枳月殿下はお戻りになると思われますか?」
ぎりぎりまで声量を抑えた囁きは、"公"ではなく"姫"と呼びかけるものだった。ここのところ彼から“姫”と呼ばれることのなかった朱華は、はっとしたように霜罧を見上げた。
「……戻る、とは?」
「表向きの苴州での本来の地位に、です」
珂瑛が代行している件についてに違いない。
先程は他にも詰めなければならない件がいくつもあったため、あれ以上話すことはできなかった。霜罧はその後そのことに触れることはなかったが、その口ぶりから察するに納得したわけではなかったらしい。かと言って、枳月にあれ以上何を言っても無駄だっただろう。それもまた、霜罧と朱華は共に分かっていた。
朱華はしばらく黙していた。霜罧に急かす気配はない。朱華は肩を覆う霜罧の外套の前を掻き合わせ、俯いた。
「おそらく、お戻りになられないではないかと……」
「――姫もそのようにお考えでしたか」
霜罧は溜息まじりに呟いた。その口調に、朱華は何故かほっとする。それを望んでいるわけではないが、そうとしか考えられない。
「……姫は、それでも良いとお考えなのではありませんか?」
霜罧は束の間の沈黙ののち、そう続けた。朱華はぴくりと肩を震わせ、顔を上げる。霜罧の持つ手燭の焔がゆらりと灯りを歪ませる。お互いに表情は見分けられない。
「そうね――おそらくそう考えているのだと思うわ」
朱華は束の間ためらった後、思い切って心のうちを明かした。ここで、霜罧に何故そう思うのかと問答したところで意味のないことくらいは分かる。枳月を知り、朱華のことも深く知るからこその言葉であろうことくらいは、彼女にも見当がつく。
「……姫の苴葉公就任当初から、苴州軍において重きをなしてきたのは確かに珂瑛殿です。対翼波のことも、この先一二年で蹴りのつくことではないでしょう。枳月殿下の存在なしでなせることでもありませんし、葉全体に関わること故、どちらが重要であるかも明らかです。いずれ枳月殿下がその荷を下ろせる日が来たとしても、その頃には何年たっている事か。それから枳月殿下が本来の地位に戻られたとしても、それはそれで問題はないでしょうが――もはや、珂瑛殿がその役目を立派に果たされているわけですから、戻られずとも問題はありません」
霜罧は淀みなく淡々と話した。そこに滲む感情はない。
「その通りよ」
朱華はあっさりと認めた。確かに枳月が苴州に戻らずとも、領地の経営に問題は生じない。もちろん、戻ってきたとしても本来あるべき姿に立ち返るだけのことである。どちらにしても結果的に問題は生じない。
「お戻りになることをお望みにはならないのですか?」
霜罧が柔らかな声音で囁いた。そこには朱華を思いやる心遣いしか感じられず、朱華は思わず涙をこぼしそうになる。
「……私は、あの方がそうお望みになられないのなら望まない」
「――枳月殿下のお心のままに、とお望みなのですね?」
朱華は言葉もなく頷いた。頬を伝った涙が石敷きの廊下にしみを作るが、それは闇に飲まれて見えない。
吹き抜ける風にその跡を冷たく感じる。だが、直にその頬に柔らかなものが押し当てられた。
「おぬぐい下さい」
霜罧が自分の手巾を取り出し、朱華の頬をそっと拭ってくれていた。仄かな灯りでは朱華が泣いていることなど分からないだろうにも拘わらず。朱華は呆然とするような想いで霜罧を見つめる。彼は穏やかな微笑みを浮かべて朱華を見つめていた。
「――」
朱華は無意識に手巾で頬を抑え、俯いて唇を食いしばった。様々な感情が一気にわきあがり、思いは混乱する。言葉もなく唸るような泣き声が漏れるのを、その手巾で押し殺す。
「何故、そなたは斯様に……」
絞り出すような声は、いささか恨みがましいような響きも含んでいた。
「姫は枳月殿下を想っておられるのでしょう?」
問う声はややもすれば穏やかな笑みを含んでいるようでもあり、いささかなりとも咎めるような響きはなかった。
「――分からない」
朱華は低く呻くように応えた。それは確かに嘘ではなかった。枳月の望むようにして欲しいという気持ちに嘘偽りはない。その一方で霜罧が云うところの朱華の"想い"というものが、恋情を指すものだということもなんとなく察しが付く。では、自分の想いがいったいどういうものかというと、途端に分からなくなる。
霜罧はそんな朱華以上に彼女の心情を把握しているようである。彼自身、朱華への気持ちは明らかにしており、今に至って撤回されたわけでもない。霜罧は朱華への想いを自覚の上で、他の男性に想いを寄せているであろう彼女のことを慮ってくれている。おそらくは朱華の枳月への想いもそれに近いのであろうと、ぼんやりと他人事のように考える。それは苦しいような心地であり、何故霜罧がこうも優しく朱華に振舞えるのか理解できなかった。
「恐らくは枳月殿下も姫と同じ想いでいらっしゃるのではないでしょうか――けれど、殿下はそのお心のままに動くこともお出来にならない……そういう方だからこそ、姫、あなたのお気持ちもわかるような気がするのですよ」
霜罧は何故か申し訳なさそうに力なく微笑んだ。
手燭の仄かな灯りに浮かぶその表情に、朱華は苦しいような心地で言葉を失う。
「姫、あなたこそご自分のお心のままになさってよろしいのですよ――苴州公として支障のない範囲であれば、と言うことにはなりますが」
枳月がその出生を思い切ることができないように、朱華も自身の役割を放棄することはできない。放棄すれば、誰よりも朱華自身が苦しむことになるのは明らかだった。霜罧は朱華のそう云う生真面目なところも承知してくれている。だからこそ、朱華が自分で自分の首を絞めるようなことにならぬよう、そこまで配慮してくれているのだろう。
「霜罧、そなたは何故そうなの?」
「そう、とは?」
答えを承知で敢えて誤魔化すような霜罧の口ぶりに、朱華は眉を顰める。
「……どういえばいいのか分からないけれど、そなたなら分かっているのでしょう?」
「さぁ、どういうことかさっぱり」
にやっと意地悪く笑ってみせる。朱華はその人の悪い、けれどいつもの彼らしい笑みにむっとしたように眼を逸らした。
「――私はそなたのようにはなれない」
ぼそっと零れた呟きに、霜罧はふっと小さく息を吐く。そっと朱華の頭に触れると、まるで子供にでもするように軽く叩いた。
「霜罧――」
「ご自分の想いを優先して繋ぎとめるのではなく、相手の気持ちを考えて辛くとも手を離すことがお出来になる――すっかり大人の女性におなりになられましたね」
年長者らしい、どこかしみじみとした口ぶりに、朱華はとっさにその手を振り払う。乱れた髪を片手で治しながら、明後日の方を向く。
「そのようなこと……」
「揶揄っているわけではありませんよ」
「そうではなくて、そなたの買いかぶりすぎだということでしょう」
慣れぬ称賛に狼狽と戸惑いを隠せない様子だった。霜罧は肩をすくめて苦笑いする。
「以前にも申し上げましたように、私はなるべく自分の気持ちをそのまま申し上げることにしたのですよ。姫がやたらと自己卑下なさる一因は、私の過去の振る舞いにもあるようですし」
「それは一理あるわね」
すかさずの朱華の返答に、霜罧は皮肉気に喉の奥で笑った。
「そうですよ。私こそ失態と失言を繰り返し、姫にすっかり毛嫌いされてしまったような人間ですからね。それでも、そう――姫が嫌そうなお顔をなさる頻度も以前ほどではないように思うのですが、気のせいですか?」
「……それは気のせいではないわ――そなただけが一方的に悪かったわけでもないのだし」
「それでも、多くの非は私の方にあります。そもそも原因は私の姫への一方的な想いにあったわけですから――そういう意味では、私も苴州にきてようやく少しは大人になれたのかもしれません」
霜罧は自嘲するようにそう云い、先を促すように手燭を動かした。つられるように朱華は歩きだし、霜罧はその傍らに付き従う。
「後悔のないようになさいませ――もしお迷いになるなら、先々ご自分を恥じずにすむ方をお選びになるといいでしょう……結局は何を選んでも悔やまずに済む選択肢はないのです。それならば、せめて己を恥じずに済んだ方がよいでしょう」
耳目を憚る内容ではないためか、霜罧はそうはっきりと話した。朱華はこくりと頷き、それからそっと霜罧の方を見た。
「それは、そなたの経験則に基づいてのこと?」
「そうお考えいただいて間違いありません。我ながら愚かなことをしたものだという悔いは数多あります」
苦笑まじりの言葉に、朱華は小首を傾げる。
「――それほどまでに言うほどでは……」
「一番の被害者は姫、あなたでしょうに――もう喉元を過ぎて熱さをお忘れになられましたか?」
朱華はしばらく俯きがちに黙って歩いていたが、やがて霜罧の方を振り返った。
「けれど、そなたは非を認めて謝罪してくれた。それに、それ以上に私に力を貸してくれているでしょう」
「少しは水に流していただけたなら幸いです」
霜罧は穏やかに受け流すようにそう応じた。朱華はその瞬間少しばかりむっとしたが、じきにそっと苦笑いした。
「そなたは本当にそんな性分をしているわね――何故、そこまで自分から悪者になろうとする?」
「そういうわけでは……」
「そういうことでしょう。こういっては何だけれど、少し私と似ている節があるのではない? そなたは日頃はそうでもないのに、個人的な事情が絡むと途端に自信を無くすようにも見えるわ」
朱華の言葉に、霜罧は足を止めた。未だに夜の闇に沈む回廊が続いており、冬の先触れを思わせる冷涼とした夜風だけが吹き抜ける。その風に手燭が大きく揺らいだ。
朱華も足を止め、真っすぐに霜罧を見つめた。普段余裕たっぷりに見える彼だが、頼りなげな灯りに微かに照らされるその表情は別人のように心もとない。
「――本当は、そなたは優しいのに、そうではないふりをしようとしているように見える」
その言葉に彼は僅かに目を瞠り、それから微苦笑を浮かべて首を振った。
「それこそ買いかぶりと言うものです」
「いいえ、買いかぶりではないわ」
朱華は霜罧を相手に珍しく断言し、借り物の外套の前を掻き合わせた。
「少なくとも、私はそう考えている――そなた自身がどう考えようと」