第10章 4
国境地帯での葉側の密やかな動きの詳細は、朱華の耳にはなかなか届かなかった。
表向きは例年のように小競り合いが繰り返されているに過ぎなかったが、裏では確実に進んでいるらしいということだけは辛うじて伝わってきていた。
苴州が舞台ではあるが、国が主導している策である。朱華に口を挟む権限も、知る権利もない。統治権を持つのは苴葉公でも、その任命権を持つのは女王であり、何よりも国策が優先される。
一方で朱華やその側近が翼波と内通している恐れはないため、その進捗状況を知ったからと言って国益が損なわれるわけでもない。故に定期的に苴葉城を訪れる枳月からの報告は受けることに支障はない。大目に見てもらっているという面は否めないが。
枳月と会う際、朱華は必ず霜罧を立ち会わせた。枳月から直接情報を聞き共有する目的だが、意図的に二人きりになることを避けてもいた。枳月もその方が気が楽であるようでもあった。
「山の民は元来私などより国境地帯に詳しいので、私の伝聞に過ぎない情報でも大まかな見当のつくものもおります。近頃はそういった者達が、算師と共に測量に出てくれています。王都の方からも算師を補充していただいておりますので、測量は当初の想定よりも早く終えられそうです」
枳月はそう言うと、一息ついた。夜は更けつつあり、城内は静まりかえっている。
前回会ったときよりも、彼の肌は白さを取り戻していた。その言葉通り、実際に測量に当たるよりも後方にいて指示を出すことの方が多いのだろう。危険な国境の山岳地帯から少しでも遠いところに身を置いるのかと思うと、朱華はそれだけで安堵することができた。少人数での測量中に翼波と出くわしたりすれば、どうなるかわからない。それを想うだけでも、心中穏やかではいられない。
「では、前線に出ておられることは少ないのですね」
念のために発した言葉に、霜罧の視線を感じる。近頃の彼は朱華に対する私情をまったく口にしなくなったが、眼差しは以前と変わらない。心のうちを見透かされているようで居心地悪くもあった。
枳月はそんなことなど気もつかない様子で、小さく頷いた。
「はい、今は指示を出していることの方が多いですね。私ひとりで国境地帯をまわるのではあまりに効率が悪いのは確かです。山の民に話してみると、意外と通じることが多かったので。私が知っているのは翼波側から見た国境地帯のことですが、地形の特徴などは葉の方から見ても同じですので、思っていたほど特定することは難しくないようです。その情報をもとに分散し、複数で事を進めたほうがはるかに話が早い。私が記憶を失っている間に随分時間を無駄にしました故、願ってもないことです」
「その先は如何なさるのですか?」
それまで沈黙を守っていた霜霖が口を挟んだ。枳月は一瞬その意味を推し量るかのように目を細めたの後、口を開いた。
「準備が整い次第、一気に攻勢に出ます」
その口ぶりは、彼のものにしては低く響いた。朱華はその冷たさにぞくっとするものを感じ、彼を見つめる。朱華の位置からは枳月の表情は前髪に隠れて見えないが、口元はかたく引き結ばれている。
「――どのような形で?」
朱華の問いに、彼はちらりと彼女を見た。前髪の隙間からのぞく眼差しは冷ややかなものだった。
「それは申し上げられません――私の一存で決められることではありませんので」
「おそれながら、公、翼波戦の決定権は王配殿下がお持ちですから」
霜罧も同意し、朱華は分かり切ったことを口走ったことにはっとした。気まずげに口元を歪ませ、小さく息を吐く。
「……そうだったわね」
うっかりしていたと己の非を認める態度に、霜罧はそれ以上何も言わない。朱華が他のことに気をとられているのは明らかだった。
「その際は苴州の協力は欠かせません。時が満ちましたなら、何らの形で事前のご相談させていただくことになるでしょう。その際にはできるだけ私自身にさせていただけるよう努めますが、それが叶わなかった際はお許しください」
朱華は約束を思い出し、彼が言外にそれを匂わせて前もって謝っていることを察した。しかし、霜罧の前でそれを口にすることはできなかった。
「その際には自ら指揮をとられるおつもりですか?」
霜霖の問いに、朱華は何故か彼の顔を一瞥した。特段変わった様子があったわけではないが、何かがひっかかった。
「……それは私が決めることではありませんので」
「自ら志願なさるおつもりですか?」
一瞬押し黙ったのちの枳月の返答に、すかさず霜霖が言葉を重ねる。かつて、朱華の知らぬところで二人が交わした会話に、彼女が気づくはずもない。
枳月自身は霜罧の意図を察し、同じ話題を朱華の前でわざわざ蒸し返すその意図を図りかねていた。
「その時の状況次第でしょう」
朱華の前でその話に応じるつもりはないことを示すため、はぐらかしてみせる。
「そうですか」
霜霖はあっさり退いた。枳月は拍子抜けしたものの、依然推し量るような眼差しを隠さなかった。霜罧はそのようなものなどなかったかのように、平然とその視線を受け止める。
枳月はそれ以上かかずらうことをやめた。それよりもはっきりさせなければならない問題がある。
「……その際、いや、既に問題となっておりますが。苴州軍の指揮権についてですが」
避けては通れないが、口にしにくいことでもあった。その認識は共通したものらしく、朱華も心なしか顔を強張らせる。
「珂瑛殿に預けたままというのはどうかと思うのですが」
秘密裏にことを進めるため、療養と称して枳月が表舞台から姿を消して随分になる。その間の代行として珂瑛が指揮権を握っているが、朱華の苴州入り当初から枳月が名実共にその権限を行使したことはほぼない。最初から珂瑛がその頂点にいるような状況が続いていることは確かであり、実情にそぐわない現状は歪でもある。
「しかし、それは……」
枳月を任命したのは女王であり、ことはそう簡単ではない。それもまた事態を複雑なものとしていた。朱華の苴葉公襲名そのものが女王のお声掛かりのことであり、苴州だけでの対応を難しくしている。
苴葉公である朱華の一存での判断も迷われる。恐らく、女王個人はそのことについてとやかく言うことはないだろうが、周囲の思惑を考えると軽く扱える問題ではない。朱華が女王の実の娘であるが故に、軽々しい動きは奢りともとられかねない。
いつまでも中途半端な状態にあることに、彼がこのままでいいのかと疑念を抱くのも無理はない。しかし、かといって迂闊に動くこともできない。
朱華は口ごもり、押し黙った。
そんな朱華の心中を察したように、霜霖が口を挟んだ。
「枳月殿下にそれをお授けになったのは陛下です。そう簡単に誰かに受け渡しできるものではありません。それに、この件にかたがつけば本来あるべき地位にお戻りになられましょう……それともお戻りになる気はおありでないということでしょうか?」
まっすぐに彼を見据えて、霜罧は問う。
「霜罧、なにを」
慌てたのは朱華だった。彼女自身も気にしていたことではあったが、まさか彼が言い出すとは思ってもみなかった。霜霖はそんな主人にかまわず枳月から目をそらさない。枳月は間を置いてから小さく笑うような息を漏らした。
「いったい何を言い出されるかと思えば、左様なことを。任を果たすにはどれほど時間がかかるかわかりません。陛下からお預かりした任だからこそ、 陛下もご承知のこととはいえ、斯様な状況は如何かと心がかりであるだけのことです。霜霖殿ならお分かりいただけるかと思っておりましたが」
枳月はさりげない仕草で傷のない方の顔をのぞかせ、微笑した。それは穏やかだが、何故か不穏当なものも感じさせた。
「殿下、恐れながら、それでは先ほどの質問にお答えいただいたことにはなりません。その程度で私を誤魔化せると、まさかお考えではないでしょう」
霜霖も負けずと笑みを浮かべて言葉を返す。二人のこのやりとりに、朱華はたじろいだ。霜霖の嫌味な言い方には慣れているが、枳月までがそんな物言いをするとは想像もしていなかった。
「誤魔化す必要のあることなどありませんよ。恐れ多くも陛下から授かったお役目です。当然ではありますが、私にとって陛下は陛下以上の方です……その意味はお二人ならばお分かりいただけるかと」
彼はそこで言葉を切った。朱華と霜霖はどちらからともなく目を合わす。秘密を共有しているのはこの三人だけであり、頑ななまでの彼の想いを知っているのも二人だけだった。