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雪の陰翳  作者: 苳子
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第10章 3

 今年もまた涼しい夏となった。昨年ほどではないが、天候は不順で晴れ間は少ない。

 朝、いつものように夕瑛が主の部屋を訪問すると、彼女はまだ寝具に潜り込んでいた。枕元には書類が散らばり、寝入る寸前まで目を通していたのだろう。寝台の横の小卓に置かれた燭台の蝋燭は燃え尽きていた。近頃、主は以前より熱心に政務に取り組んでいる。寝食を忘れることもあるほどだ。

 それほどまでに状況は逼迫しているのだろうか。

 夕瑛は込み上げてきた不安を一掃するように、思い切って窓を開け放った。光と共に冷たい風が吹き込む。朝とはいえ、夏とは思えない涼しさだった。思わず身を震わせた夕瑛の背後で、寝台で身動きする気配があった。


「涼しいというより肌寒いわね」


 振り返ると、主が起き上がり、眠そうに目をこすっていた。 

 開け放たれた窓から差し込む朝の光に、朱華は眩しそうに目を細める。寝ぼけ眼のとろんとした表情に寝乱れたぼさぼさ頭は、彼女をあどけなく見せる。室外ではまず見せない姿だ。

 私室から一歩外へ出れば、不用意な様子は見せられない。特にここのところ、安易に心中をうかがわせるような態度をとるわけにはいかなかった。

 凶作の続くことが次第に明らかになるにつれ、朱華は出来るだけ何事もなかったかのように振舞っている。打つ手はもうない。昨年と同じことを繰り返すしかなく、穀物の価格の高騰は昨年の比ではない。比較的余裕のあった苴州の懐具合だが、季節より先に寒さを増しつつある。

 不安で押しつぶされそうだったが、それを顔に出すわけにはいかない。霜霖と列洪の前では弱音や不安を口にすることができるためまだ楽だった。だが、一歩執務室を出れば、不安をおくびにも出すことはできない。打開策は他人に任せるしかなく、朱華自身にできるのは領主として毅然としていることくらいのものだった。

 凛々しいと評されることの多い自分の容貌を鑑みれば、無表情でいることが最も頼もしく見えるらしい。無理をして微笑んでみても、感情が外に出やすい性質たちのため引きつりがちで霜霖に却下された。


「肝心なときにこそにっこりなさればよろしいのですよ。可能ならば、その後出来るだけ速やかにその場をお立ち去りになられれば完璧です」

「――貶されているように聞こえるのは気のせいかしら?」

「事実を申し上げているのです」


 目を眇めて見据えてくる主に、霜罧はにこやかにそう返した。朱華は不愉快そうに顔をそむけたが、反論はできなかった。

 その経緯を不機嫌そうに話す朱華に、夕瑛は黙って苦笑いした。その様子にさらに朱華は臍を曲げたが、自分でも分かっているのだろう。それ以上夕瑛に言葉を求めることはなかった。

 起き抜けのぼんやりしている主の姿に、夕瑛はそんなことを思い出していた。

 朱華は欠伸ひとつすると、寝台から降り、裸足で窓に歩み寄った。その窓からは城内を一望し、さらには城下町まで望むことができる。今にも降りだしそうな空模様だった。


「また、今日も雨が降りそうね」

「残念ながら」


 曇天を見上げ、朱華は溜息を吐く。夕瑛はその隣に肩を並べて空を仰いだ。

 窓から吹き込む風も冷涼としている。朱華は肩を震わせ、首をひっこめた。


「……今年も厳しいことになりそうですか?」

「おそらく確実にね。昨年の収穫が殆どなかったから、昨年買い込んだ分はもう支給してしまっているし――頭が痛いというよりも、懐具合が深刻よ」


 朱華はそういって苦笑いした。笑うしかないというのが、実態でもある。

 手早く官服に着替え、寝台に散らばっていた書類を集めて揃えた。それを片手に椅子に座ると、書類に目を走らせながら朝食に取りかかる。行儀の悪さに何度か言い争った結果、夕瑛が諦めることとなった。

 夕瑛はその背後で食事中の朱華の髪を結う。器用に結い上げながら、主の肩越しにその食卓を見て溜息を吐いた。


「姫さまのお食事まで雑穀の粥になさらなくても……」

「――あら、こちらのほうが腹持ちがいいのよ。肉も入っているし、栄養的に問題はないそうよ」


 口のなかのものを飲み込んでから、朱華はちらりと乳姉妹に微笑みかけた。苴葉公の朝食は、城で働く者たちと同じ内容だ。旧苴葉家のころから続く伝統的な生活で、粗末な食事に朱華はもう慣れ切っている。


「けれど、王女殿下でいらしたのですから……」


 夕瑛は頭が固いわけではないではないが、朱華が元王女であるという観点からなかなか抜け出せないようだった。時折、こうして嘆きとも不満ともつかないことを漏らす。


「もう違うわ――それに、私は苴葉公なのよ。苴州の民が飢饉で苦しんでいるときに、王族並みの食事など喉を通らないわ」


 だからこれでいいのよ、と呟いて、朱華は匙を口に運んだ。冬と比べれば塩気は薄く、彩の豊かな食事である。城下をお忍びで見回った翌日に、豪華な食事など喉を通るわけはない。だが、さすがにそこまでは夕瑛には言わなかった。彼女は彼女なりに朱華のことを慮ってくれているのだ。


「良き領主たらんと心掛けなさるのは結構ですが、姫さまがお倒れになられては元も子もないことをお忘れなく」


 夕瑛は溜息まじりに苦言を呈す。朱華は肩をすくめて匙を立てた。


「酒に強いのと健康だけが取り柄だから大丈夫よ」


 茶化すように匙を左右に振ってみせると、夕瑛の手が飛んできた。無作法を嗜めるようにその手背を軽く叩き、世も末とばかりに肩を落としてみせる。


「ご冗談でも他所では仰いませんように、侮られますよ」


 耳の痛い言葉に、朱華はしおらしく頷いた。自分を卑下するのが癖になっているのは確かだった。


「それも私の務めだものね。そなたや霜罧の前でしか言わないけれど、癖になってしまうとまずいわね。思わぬところでぽろりと漏らしてしまうかもしれない」

「そういうことでございます」


 夕瑛は尤もらしく頷くと、朱華に手鏡を渡す。仕上がり具合を確認した朱華は、わずかに眉を顰めた。

 夕瑛は朱華の横の髪を編み込みにし、最後に一つにまとめて背後へ垂らしていた。最近、油断しているとされてしまう髪型だった。


「夕瑛、これはやめるように言ったはず――」

「いつも男性のようななりをなさって、私の楽しみを奪っておいでなのですから、このくらいは我慢なさってください」


 言い聞かせるように背後から両肩を叩かれて、朱華は仕方なく息を吐いた。


「せっかく一段とお綺麗になられましたのに」

「……それはそういう年頃のせいでしょう」


 二十歳前後はそういう年頃だとも聞く。朱華は夕瑛の身内びいきに苦笑いする。


「それだけでしょうか? 春先のころから、なにか違っておいでですわよ――恋でもなさったかのような……けれど、霜罧殿とのご様子はお変わりないようですし」


 他にそれらしい男性の姿もなく、夕瑛は訝しむように首を傾げる。朱華は思わず粥を噴き出しそうなったが、辛うじて堪えた。


「私が恋? ……いったいどなたに?」


 夕瑛の思い違いだと揶揄うように一頻ひとしきり笑う。そんな主の姿に夕瑛は納得のいかない顔をしていたが、思い当たる節がないことも確かだった。


「私の思い違いだと仰いますか?」

「――夕瑛、過去に私が誰かに恋したことなど一度もないことは、そなたが一番知っているはずだけれど?」

「それはそうでございますけど」

「なのに、何故、私がしたこともない恋をしたと分るの?」


 畳みかけるように言い切ると、夕瑛は不満そうな顔はしたものの、それ以上食い下がることはなかった。朱華は念を押すように、肩越しに苦笑いしてみせた。夕瑛は眼を逸らし、肩をすくめる。追及は諦めてくれたようだった。

 安堵して粥を口に運びつつも、朱華はなんとも言えない心地だった。

 恋といわれてどきりとしたのは事実であり、咄嗟に浮かんだのは枳月の顔だった。ちくりと心が痛み、寂しさのようなものを感じた。もしそうだったとしても、朱華のなかでは“終わったこと”だった。仮にそうだったとしても自覚する前に終わってしまったのだ。

 二人の間に横たわる事実は変わるものではない。枳月の決心もそうやすやすと変えられるものではない。それを無視してごり押しするほどに、朱華の想いは強いものではない。むしろそうすることで彼を余計に苦しめることも分かっていた。これ以上彼を苦しめたくはない。朱華の一番の想いはそこにあった。

 彼も朱華を憎からず思ってくれていたであろうことも分かった。だからこそ、余計に諦めがついたのかもしれない。

 匙を咥えたままぼんやりしていると、夕瑛が肩越しに覗き込んできた。


「ぼんやりなさって、どうかなさいましたか?」


 朱華は慌てて匙を引きずり出し、女官の頭を軽く押しやる。


「そなたがそのように益体もないことを言い出すから、どこまで読んだか分からなくなってしまっただけよ」


 手元の書類を掴み、抗議するように振りかざすと、夕瑛は肩をすくめてぞんざいに頭を下げた。実のところ、反省などしていないことは明らかだ。だが、それで済まされてしまうことが、二人の間柄の証でもある。

 朱華は皿を掴むとじかに口をつけ、残りをかき込んだ。背後で夕瑛が顔色を変えるのが分かった。無作法という範疇すら超えている。


「姫さま、なんということを!」


 見かねた夕瑛が金切り声を上げた。朱華は振り返ると、女官の口を軽く押さえた。


「時間がないの、はしたないことは承知している。よって咎め立ては無用」


 食べ終えた食器を突き付けて異論を封じ、書類を掴むと立ち上がる。呆気にとられている乳姉妹をあとに残し、朱華はそのまま私室を出た。外で警護にあたっていた兵が内部から聞こえた夕瑛の声に何事かと構えていたが、現れた当主が何でもないと言うように身振りを示すと太刀をおさめた。

 たとえ、本当に恋をしていたとして、それがなんになるというのか。もしもそうだとしてもその想いが叶うはずもないということは、朱華が最も知っている。立場上許されるはずもなく、相手である枳月自身が望んでいない。これ以上彼を苦しめることも煩わせることもしたくはない。朱華の一番の願いはそれに尽きる。

 だからといって、靄は晴れない。

 朱華は思いきるように頭を振り、急ぎ足で執務室に向かう。思い煩う暇があるならなすべきことは山積している。



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