第10章 2
朱華は袖口で涙を拭い、それからいったん髪を解いて結いなおした。枳月はそんな彼女の姿を無表情で見つめている。その視線を感じながら、朱華はどんな顔をすべきか迷っていた。
自分の気持ちはともかく、彼の気持ちは承知したのだ。朱華の考える彼にとっての幸せと、彼自身が望む幸福は違うのだ。優先すべきがどちらかは明らかだが、だからと言って彼の望み全てをそうすることが正しいわけではない。
まだ考えがまとまらないが、彼の意思を尊重すると決めた以上はそうする他ない。
髪をまとめなおすと、朱華はもともと座っていた椅子に腰かけた。
「出来る限りの協力はさせていただきます――その代わり、一つだけお約束してくださいませんか?」
朱華は真っすぐに枳月を見つめた。彼女と同じように、彼もまた先程のことなどなかったかのように落ち着いていた。
「なんでしょうか?」
「無謀なことはなさらないでください――年に何度かは必ずお顔を見せてください」
枳月はわずかに目を瞠った。その後、眼を逸らして浅く俯いた。口元が歪むのが見えた。
「あなた方は本当に……」
彼は唸るように呟いた後、黙り込んだ。朱華は辛抱強くしばらく待っていたが、彼がこたえないため強く出ることにした。
「お約束してください――それさえして下されば、先ほどのことはなかったことにして差し上げます」
彼女の言葉に枳月は驚いたように顔を上げた。朱華はあくまで生真面目な顔で彼を見据えている。枳月は困惑顔だった。
「……取引ですか?」
「そうです――あなたは私に無体なことをなさったのですから」
枳月は呆気にとられた表情を見せ、それから低く笑い出した。
「そうですね……私はあなたの意思を無視して、無理に望まれぬことを――」
「違います」
朱華は静かに否定した。
「……私は忘れません――けれど、それでもなかったことにして差し上げます」
朱華ははにかむように静かに微笑し、けれどはっきりと彼に告げた。
枳月は束の間見とれるように朱華を見つめた。それから拳を握りこみ、何かを思いきるように小さく息を漏らした。
「……約束します、姫」
「必ずですよ」
朱華はにっこりと微笑んだ。声は震え、今にも泣きだしそうな笑顔に、枳月は視線を逸らすことも出来ず、それに耐えるように目を細めた。
霜罧はいつものように朱華を私室まで送り届ける。
窓の向こうの雪景色に時々目をやりながら歩く朱華に、霜罧は声量を抑えて声をかけた。
「目が赤いですよ」
朱華は一瞬ぎくりとした素振りを見せたが、じきに開き直ったように彼をきつい目で睨み返してきた。
「泣いたからよ」
あっさりと白状する。霜罧はそれに意外そうに眉を上げた。
「如何されましたか?」
「枳月殿と話していて、私が一方的に感情的になったに過ぎない――理由は思い当たるでしょう? 私は以前、そなたにもそれとなく訊いたことがあるはずよ」
知らないとは言わせないという強い口調に、霜罧は苦笑して肩をすくめた。朱華はやはりと目を眇め、一睨みするとぷいと顔をそむけた。
「――恐らく、私は姫と同意見です。似たようなことを枳月殿下にも申し上げたかもしれません……拒まれましたが」
無力感のにじむ声に、朱華ははっとしたように霜罧を見た。彼はなんともやりきれない表情で、心なしか肩を落としているようにも見えた。先ほど、枳月が「あなた方は」と零した言葉が気になっていた。両親や自分のことかと思っていたが、霜罧なのかもしれない。
朱華は歩調を緩めた。霜罧が気付いてそれに合わせる。朱華は俯いて自分の長靴の先を見ながら呟いた。
「枳月殿はそなたになら、もう少し色々なことをお話になるのかしら?」
「……さぁ、どうでしょうか」
霜罧は曖昧に笑った。心の内を明かせるのは霜罧だけだという枳月の言葉を、誰にも漏らすつもりはなかった。そんな彼の様子が、かえって朱華の確信を深めさせた。
石の床を踏む音が響き渡る。廊下の窓は扉がついておらず、小雪が風に乗って吹き込んでくる。夕闇に飲まれつつある視界に、それがちらちらと幻のように舞った。
「――今更なのだけれど……そなたは意外と情に厚いところがあるようね」
ぽつりと漏れた言葉に、霜罧は思わず立ち止まった。朱華もそれにあわせて歩みを止め、彼を見た。彼女の補佐役はまるで耳を疑うような顔をしていた。
「……いったいなにを仰られるかと思えば……」
しばらく絶句した後、彼は戸惑うように呟いた。その顔を見て、朱華は夕瑛の言葉を思い出した。彼女は霜罧を思いやりがあると評していた。幼い頃からの苦手意識と嫌悪の情が先に立って彼をきちんと見ることができていなかったことに、今更ながら気づく。
「これまで言われたことはないの?」
「……特にそういう記憶はありません」
必要であれば辛辣極まりない発言をすることもでき、物事の判断も怜悧なため、温かみのある人物とは対極の評価を受けることが多かった。朱華自身もどちらかと言えばそういう印象があり、先入観もあった。それに捕らわれる人も多いのだろう。
「そなた、損をしているわね」
朱華は苦笑いしながら溜息を吐いた。真実、損をしているのは誰だろうと思うと、その筆頭は自分ではないかという気もした。思い込みや曲解がなければ、様々なことがもっと順調だったのではないだろうか。それは彼に対してだけではなく、何もかもすべてに対してではあるが。
霜罧は未だに当惑した様子で、困り果てたように朱華を見ている。思いがけず彼を困惑させることができた朱華は、何故だかおかしくなってきた。
「……そなたも意外と万能ではないのね」
嘲るのではなく、彼自身を改めて認め評価するような心地で呟いた。霜罧は朱華のそんな言葉が依然理解できないが、馬鹿にされているわけではないらしいことだけは感じとった。
「私もただの人間ですので」
他に答えようもなくそう返すと、朱華は突然笑い出した。自分の愚かさが嫌になるほど身に染みる。
「……そうに違いないわ――けれど、私はそなたは何もかも計算づくだと思っていたのよ」
霜罧を莫迦にするつもりはなく、あくまで己の浅はかさを嘲っていることを強調するように、朱華は恥じ入るような表情を浮かべた。
「お言葉ですが、私はそこまで有能な人間ではありませんよ」
霜罧は途方に暮れたように呟く。朱華は再び笑い出したい衝動に駆られたが、なんとか堪えた。
「私はずっとそうだと思っていたのよ。そなたは有能で――だから、愚かな小娘の私を嘲弄しているのだと」
苦笑いしながらの朱華の言葉に、霜罧はとんでもないと言うように首を振ってみせた。
「何度も申し上げましたように、私は幼い頃からあなたを一人の女性としてお慕いし尽くしたいと考えてきたのですよ……その、あなたの気を引こうとするあまり、間違った方法をとったことは認めますが」
いい加減に放免してほしいというように、彼は両手を上げて首を振る。朱華はたまりかねたように噴き出し、眦に浮かんだ涙をぬぐった。
「それはそうね――とてもそうとは思えなかったもの……けれど、そなたは一度として誤解した私を責めなかったわ」
「そもそも誤解させた私に責任がありますので」
霜罧は生真面目な様子で答えた。朱華はようやく胸の奥にわだかまっていたものが消失していくのを感じた。
「それはそうだけれど――言い訳はしないのね」
「自分のしでかしたことは理解しているつもりです」
霜罧は恥じるように呟いた。朱華は小さくため息を吐き、首を振った。
「一方的にどちらかだけが悪いなどということはないと思うのよ」
彼は主人が何を言い出すのかと静かに待ち構えているようだった。
「私が浅はかにもそなたとの結婚を言い出した時、そなたは私を止めたわね。私は何故止めるのかと、そなたが私を想ってくれるなら何の問題もないのだろうに、と考えたわ――そなた誠実に私の気持ちを尊重してくれたことなど思い至りもしなかった。それがかえって、そなたを軽んじることになるなど思いもしなかった……ある意味、私はそなたを思いやるつもりもなかったということになるわね」
苦笑いする朱華に、霜罧は黙って次の言葉を待つ。
「そなたを軽んじるつもりはなかったけれど、私はそなたの誠実さに気付きもしなかった……ずっと自分は被害者だと思っていたから」
朱華は喉の奥でくくっと自嘲し、つま先で廊下の石材を蹴った。
「そなたが自省し、関係を改善しようとしていることを無視して――それでも、そなたは変わらぬ姿勢で私に仕えてくれている」
霜罧はしばらく黙した後、小さく首を振った。
「……やはり、公は私を買いかぶっておられます――私はそのような真っ当な人間ではありません」
予想通りの言葉に、朱華は天井を仰いだ。まさか、自分たちに似ているところがあるとは思ってもみなかった。
「――そなたが自分を愚かだというなら、私はどうなるの? 愚か者の極みではない?」
朱華は楽しげに笑い、それから霜罧を真正面から見据えた。
「私は愚か者なのよ、そなた以上のね――他者からその思いやりにも気づかぬ傲慢で、浅はかで……それでも、私は苴葉公なのよ」
恥じいり溜息まじりの呟きに、霜罧は首を振った。
「愚かでない人間などおりましょうか――公がそれでも最善を尽くされるお覚悟ならば、私はそれに従うまでです」
「私の取柄は飽かずに課題に取り組み続けられることくらいのもの」
「……それこそが肝要だと、列洪殿は申し上げていたはずです」
朱華は苦く笑い、毅然と顔を上げた。
「……私は私にできることしかできないわ」
「恐れながら、お一人でできることではありません――そのために我らがいるのです」
霜罧は恭しく朱華の手を手に取ると、遠慮がちにその手背に口づけた。