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雪の陰翳  作者: 苳子
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第10章 1

 王都で小春日和が続きはじめたころ、朱華は苴州に戻った。州境が近づくにつれ雪景色が多くなり、州都につくころにはこちらはまだ吹雪く日すらある。


「相変わらずの寒さね」


 久しぶりに苴葉城の私室に戻った朱華は、冷え冷えとした室内で腕をさすった。これでも領主の到着に備えて暖炉の火は準備されていた。炉辺を離れれば四方から冷気が這い上がってくる。すっかり暖かな王都の冬でなまってしまった体には寒さがこたえる。

 寒さに震えあがりながらも、朱華の表情は明るい。寒さまで懐かしんでいるような姿に、夕瑛はこっそりと微笑した。彼女自身もすっかりこの寒さを忘れ果てていた。王都で暮らしが如何に快適なものであったかを思い知らされる。


「じきに暖かくなりますわ」


 その言葉は朱華だけに向けられたものではない。自分を励ますためものでもあった。暦の上では確かに春遠からじではあるが、この瞬間瞬間の寒さの前には意味をなさない。


「けれど、まだ吹雪いているわよ」


 朱華はぞっとするような顔で扉の方を見る。苴葉公の帰還は州都の人々に歓迎された。その頃には小雪がちらつく程度だった。が、入城した後に不在の間に起こった諸々の報告を、列洪から受けているうちに吹雪きはじめた。

 気持ちの上では春はまだまだ遠かった。




 昨年と同じころ、葉の各地から続々と国境を守る軍が集まりはじめた。苴州では春先の風物詩でもあり、州都では商いが俄かに盛んになりはじめる。

 昨年の凶作の影響は未だに続いており、穀物の価格は昨年よりも高騰している。今年も凶作が続くようであれば、苴州の懐具合は厳しいものとなるだろう。溜息を吐いたところで天候が良くなるわけでもなく。朱華は淡々と執務をこなしていた。

 父である王配の訪問の日程が届いたころ、朱華は霜罧から夕刻の講義の中止を持ちかけられた。執務室を後にし、教室代わりにしている図書室へ二人して向かう途中だった。

 霜霖が以前深夜に訪れたことのある城の一角を指し示したため、目的はすぐに察しがついた。小さく頷いた朱華に、彼は正解ですというように微笑した。

 突然のことに、朱華は内心戸惑っていた。昨秋の出来事以来、顔を合わせていない。冬の王都で両親から聞かされた話も、自分の中ではまだ処理しきれていない。

 霜霖なら察しがついているかと曖昧な訊き方をしてみたが、彼は首を傾げただけだった。霜霖は朱華以上に枳月との付き合いが長く、どうやら個人的に接触もとっているらしい。そんな彼であれば正面から問うてみても支障はないはずだが、何故か躊躇われた。

 以前と同じ部屋で彼は待っていた。冬の間は王都にいたと言い、日焼けはやや薄れていた。髭は綺麗に整えられ、長く伸ばした艶やかな髪の陰に傷跡は隠れている。今回はいかにも出入りの商人らしく小綺麗に装っていた。

 国境地帯に赴く途中、挨拶と報告を兼ねて立ち寄ったと言う話だった。

 報告については、主に枳月と霜霖の間で会話が交わされた。前回は霜霖に一任してしまい、きちんと聞いておかなかったことを酷く後悔する羽目になった。今回は口こそ挟まないものの、一言一句も聞き漏らすまいと耳をすませた。それに二人も気づいたらしく、話は朱華にも理解しやすい形で進められた。

 話を聞くうちに、朱華は王都で両親から聞いた話が本当であることを理解した。霜罧がとっくにそれを理解し、承知していることも。枳月の決意がすでに固まっており、事態は今更後退を許されるような状況ではないことも。

 この期に及んで口をはさめないと悟った朱華は、最後までほぼ沈黙を守った。だが、心のうちは顔に出てしまっていたのだろう。例によって霜罧は、枳月の宿泊の手配を理由に席を外してくれた。

 二人きりにはなったものの、朱華は言葉に詰まってしまった。頭の理解に感情が追い付かず、自分自身がどう感じているのかすら整理がついていなかった。膝の上でこぶしを握りこみ、俯いて言葉を探しあぐねていた。


「苴州はまだまだ寒いですね」


 枳月が穏やかな声で沈黙を破った。朱華はほっとしつつ、ようやく顔を上げた。霜罧と話していた時とは違い、彼は柔らかな表情で朱華を見つめていた。しずかな眼差しの奥に揺るぎないものを感じ、朱華は再び視線を落とした。


「――苴州は王都より涼しいと教えて下さったのは枳月殿でしたね」

「そのようなこともありましたね」


 彼の声は明るい。それに朱華は唇をかんだ。


「その直後に刺客に襲われ、助けていただきました」


 顔を上げてまっすぐに見つめると、彼は苦笑いして首を振った。


「あれは公がご自身の力で切り抜けられたのですよ」

「いえ、一人では無理でした」

「……あなたを襲った刺客を退けたのは、公、あなたご自身ですよ」


 その言葉は嘘ではなかった。朱華は枳月もまた戸惑っていることを感じとり、小さく息を吐いた。


「危険を知らせて下さったのは、枳月殿、あなたです」


 それもまた事実だった。まっすぐに向けられる朱華の眼差しに、枳月は眼を逸らす。どこか居心地悪そうな素振りは、昨秋のあの気まずい会話を思い起こさせる。


「……あれは、偶々私が先に気付いただけのことです」

「実戦経験のない私に気付くことは難しかったでしょう。枳月殿の喚起がなければ、重傷を負うか、最悪の場合はここにはいなかったでしょう」


 感情をまじえず淡々とした朱華の口ぶりに、枳月はようやく何かを感じたようだった。逸らしていた視線を朱華に戻す。慎重に目を合わせないようにしながら、ではあるが。


「今もまた、あなたが何をしようとしてくださっているか――私の理解が及ばず、このような後になってしまい申し訳ないのですが……」


 言葉を継ごうとした朱華の前に、枳月が毅然とした口調でそれを妨げた。


「姫、それ以上はもう仰らないでください」

「……けれど!」


 朱華は思わず腰を浮かせて立ち上がった。椅子がガタンと音をたてる。


「今のままでも十分ではありませんか。何故、あなたがそれ以上の責を負わなければならないんですか――あなたまで、が、あの方のように手を……」


切迫した表情でさらに言い募ろうとしたが、最後まで言葉にはならなかった。顔を覆って膝をつき、床に蹲る。


「……あなたの罪ではないのに」


 絞り出すような呟きが指の間から漏れる。背中が震えているのが見てとれた。

 枳月はわずかに眉を顰め、顔をしかめた。自分の指先を見つめ、躊躇うようにわずかに動かした。その背を撫ですさってやるかどうか迷っているかのようだった。

 その彼の耳にすすり泣きが聞こえてきた。

 枳月は唇をかみ、それから朱華の腕をつかみ乱暴に抱き寄せた。右手で彼女の頭部を胸に抱き寄せ、もう一方の腕をその背にまわす。渾身の力で強く抱擁した。朱華の髪に顔をうずめ、これ以上はないほどの力で抱きしめる。朱華はあまりの力強さに呻きそうになったが、辛うじてそれを堪えた。その一方で、自分の身の上になにが起こっているのか理解できていなかった。

 枳月は呻くように吐息を漏らし、朱華に痛いほど頬ずりした。ちくちくと頬に当たるのはなんだろうとぼんやり考えながら、朱華は混乱してなされるがままだった。

 以前にも、似たようなことがあった。あの時の相手は霜罧だったが、彼はすぐに解放してくれた。衝動でつい、と彼はしきりに詫びていたが。

 枳月は朱華の髪に指を刺し入れ、その感触を楽しむように滑らせた。肩に一方の腕を回し、彼女の体ごと腕の中に抱き寄せる。額に唇を押し当てると、深く息を吐く。朱華の頭頂部に口づけ、そのまま滑らせて額や目尻、頬をたどる。

 髪を梳かれながら口づけを受け、朱華は次第に陶然とした心地に陥る。身の上に起こっていることに理解が及ばないままではあったが。

 再び頬ずりされると、目尻から涙がこぼれた。枳月はそれに気づくと、唇でその跡をたどり、長い睫毛を伏せた瞼に口づける。眦からこぼれる雫に切りはなく、彼はそれを優しく唇で拭う。朱華は静かに落涙していたが、次第に嗚咽がこみ上げ、枳月の背に縋りつくように腕を回していた。

 こみあげる嗚咽を堪えようと唇をかみしめていると、口内に錆びついた味が広がった。枳月は拘束を緩めると朱華の顔を覗き込み、血のにじむ唇にそっと触れた。ぷくりと腫れあがった唇には前歯二本分の血が滲み、枳月の舌がそれをなぞった。朱華は目を瞠ってびくりと体を震わせた。

 彼はそれを宥めるように優しく朱華の背を撫で挙げ、そっと唇を重ねた。朱華は為す術もなくそれを受け入れ、おずおずと彼の首に腕を回す。啄むような口づけを何度も重ねた後、枳月はたおやかな身体を再び強く抱き寄せて深々と溜息を吐いた。

 何度も髪を撫で、頬ずりし、目を閉じる。朱華は戸惑いながらも宥めるように彼の背をさすった。


「――姫、申し訳ない」


 枳月は朱華の首筋に顔を伏せながら、呻くように呟いた。背に回された腕は息ができないほど力強く、震えていた。朱華はただただ静かに涙をこぼす。


「何故、あなたが……」


 呻くような呟きを封じるように彼は唇を重ねた後、枳月は狂おしいほどに彼女を抱きしめた。


「私の出自は変えられません――私はそれをただ呪うのではなく、せめて活かしたい……もはや変えられないのです……私の親も、これからのことも……」


 朱華はしゃくりあげた後、縋りつくように枳月を抱きしめた。汗のにおいのする髪に顔をうずめて涙を堪え、深々と溜息を吐いた。


「――思うようになさってください」


 零れる涙を堪えられなかった。それでも、絞り出すように囁いた。枳月はそれに一瞬目を伏せた後、もう二度と手放さないと言うように華奢な身体を抱き寄せた。


「……ありがとうございます」


 朱華は目の瞠った後でほっと息を吐き、腕を解いた。枳月も朱華を解放すると、苦笑ともなんともつかない笑みを浮かべ、そっと彼女の頬に触れた。涙の後を拭うように指を滑らせ、小さく首を振った。



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