第9章 11
その日、朱華は会議のあと本宮を訪ねた。母である女王から私的な晩餐に招かれていたのだ。霜罧は同席を遠慮して、先に苴葉公邸に戻った。晩餐の席には両親と朱華しかおらず、文字通り私的なものだった。
王都にいたころも、両親と三人だけで食卓を囲んだ記憶はない。はじめてのことに些か落ち着かない様子の四女に、女王でもある母親は微苦笑を浮かべた。
食事の間は女官が給仕に当たる。その間、三人は当り障りのない、けれど親子らしい情愛のこもった会話が交わされた。朱華はそれにも戸惑いを垣間見せたが、それは決して不愉快なものではなかった。
一般的な親子とは異なり、女王は出産を終えればあとの子の養育は乳母任せになる。親子とは言え同じ屋根の下で一緒に暮らすことはなく、そこには常に遠慮が付きまとう。特に朱華はそういうことには不器用なほうで、身分のわりに情愛深い両親に対し、素直に甘えることは難しかった。
自分に対する他人の心に敏感な三の姫や、末っ子らしく素直で甘え上手な五の姫と比べると、朱華は気難しく可愛げのない子供だと評されることも多かった。親から疎まれてもおかしくはない子供だったが、両親は朱華をそういう子供だと理解し、特質を尊重して可愛がってきた。朱華の自己肯定感の低さは他の姉妹と比較されてきたことに由来するが、乳母や乳兄妹、そして両親からの愛情に疑念を抱くことはなかったため、深刻な事態を招くことは避けられていた。
食後の茶の時間となると、女官は下がり、文字通り親子水入らずとなる。女王自ら夫と娘のために香草茶を淹れ、娘の隣に腰かけるとその体を抱き寄せる。思いがけない母の行動に戸惑いつつも、朱華はそれを拒まなかった。
青蘭は娘の頭を撫でつつ、苴葉公に就任して一年目の手腕をさり気なく褒めた。手放しで誉めそやしたところで素直に喜ぶ娘ではない。客観的かつ冷静に評される方が、彼女には受け入れやすい。そのくせ、抱き寄せられ頭を撫でられるという肉体的な接触による愛情表現には素直に身をゆだねる。受け身ではあるが、素直なところもある証拠ではある。
母の腕の中で朱華はようやく寛いだ様子を見せた。王都に入ってからは連日の会議とそれ続く宴続きで、気を張り続けてきたのだろう。乳姉妹である夕瑛や片腕ある霜罧の前でも気を許すことはできるが、それとこれは別であるようだった。
幼子にするように背をさすられながら、朱華は深々と息を吐いていた。張りつめていたものが緩み、それが許されることに心の底から癒される。このまま微睡みたいような誘惑にかられるが、それがずっと心に引っかかっていたことを想起させた。
「母上、枳月殿のことですが……」
呻くような呟きに、背をさする母の手は止まらなかった。
「あなたはどう思いました?」
「――母上の仰せの通りです……あの方に罪はありません」
朱華は絞り出すように呟いた。母は娘の頭に頬を寄せ、それから軽く口づける。
「そうね――けれど、重すぎる」
低い呟きに、朱華は小さく頷いた。
「それは、きっと、誰にとっても……」
朱華は母の腕の中で呻き、涙をこぼした。そして、自分を抱く母の体が震えていることに気付いた。
「誰にも肩代わりはしてあげられない――それを望むような子でもない」
溜息と共に漏れた言葉は切なく響いた。朱華は目を閉じ、母の胸に身をゆだねる。
「……母上にとっても、大切な方なのですね」
「そうよ……あの子は私たちの犠牲者で、未だに贄となっている。今もまた、自ら贄になろうとしている――そして、私にそれを止める術はない……」
私たちという言葉に、朱華はそっと顔を上げて父を見た。彼は妻の言葉にただただ黙している。彼もまた、過去の己の甘さを自覚している。けれど、その時はそれで最善を尽くしたはずだったのだろう。だからといって、そのツケが彼に回ることが本意なわけもない。
間違いのない完璧な選択のできる人間は存在しない。父の選択に間違いがあったなら、枳月の父の選択も正解ではない。
親子というものは血がつながっているというだけの他人である。ましてや己の生まれる前に親のした選択は子の責任ではない。他人のしたことだと割り切ることはできる。それができる人間もいれば、できない人間もいる。仮に枳月がそういう人間であれば、朱華もここまで心を痛めることはなかっただろう。彼がそういう人間ではないからこそ、朱華たちも思いを寄せられずにはいられない。そういう人間だから彼は苦しみ続けることになる。苦しんで欲しいわけではないが、その人となりこそが彼を苦しめる根本だった。
「幸せになってほしいと望んでも、私の考える幸福とあの子のそれは一致しないようね……ならば、思うようにさせるしかない……到底それで幸せになれるとは考えられなくとも」
朱華を抱きしめる母の腕に力がこもる。彼の代わりに娘を抱きしめているのだろう。やり切れない苦しさがその腕を通して伝わってくる。彼の力になれないことの嘆きは朱華と同じだった。
「――母上、何故、枳月殿を苴州に……」
「……あの子を保護してからずっと、翼波から遠ざけておいた方がいいと考えていました。が、苴葉家が断絶し、あなたにその役が回ってきたとき、あの子自ら力になれないかと申し出てくれたのです。良かれと思って遠ざけてきたけれど、もうあの子も成人し、私たちもいつまでも現役ではない。そろそろ自分の思うようにさせるべきかと思ったのだけれど、このようなことになるなら行かせるのではなかった……」
青蘭は嘆くように呟くと、ようやく腕を解き、娘の体を少し離す。上を向かせると両手でその顔を包みこむようにして覗き込んだ。
「けれど、あの子はおかげですべて思い出すことができたと感謝するのです――私はそのようなことは望んでいなかった……その上、結局は父親と同じ選択を……」
朱華は思わず身を起こした。上背がある分、母を見下ろすような姿勢になってしまう。それにも構わず血相を変えて母親に食いついた。
「父親と同じ選択、とはどういうことですか?」
「あなたは聞いていないの?」
母は娘がとっくに承知しているものだと思い込んでいたようだった。反問され、朱華は思わず口ごもった。枳月が朱華に隠し事をしているとは考えていなかった。話せる範囲では明かしてくれていると思っていたが、地方領主に過ぎない朱華にすべてを話すわけにもいかないようでもあった。一方の母は女王であり、国に関わることならすべて知る権利を有している。
黙り込んだ朱華に、青蘭はわずかに眉を顰めた。
「苴州軍内部に山岳地帯専門の部隊を創設するという話を、あなたが知らないわけはないでしょう?」
「――それは存じています」
晩秋に枳月が苴葉城に立ち寄った際、霜罧と共に本人の口から相談は受けていた。すでに女王の認可もおりていたため、朱華にはその報告と創設の為の具体的な計画についての話だった。とは言え、朱華にできるのはそのための協力だけであり、具体的な話は霜罧と珂瑛に任せてしまっている。それと先ほどの母の話は、未だに朱華のなかでは結びつかない。
「その指揮をあの子が自ら執るという話は?」
「それも聞いていますが……」
「具体的な活動内容については?」
朱華はそこで口ごもった。軍の活動に関しては素人なのもあり、ほぼ他人任せにしてしまっている。具体的な話を聞いたところで理解や想像も出来ないことも多く、“ただ聞いているだけ”というのが実態だった。それではまずいことは霜罧にも指摘されているが、政務に追われ後回しになったままだ。
気まずげな表情で黙り込んだ朱華の様子から察したのか、両親は顔を見合わせた。
「枳月はこれまで吾らがされてきたことを、今度は翼波にしようとしているのですよ」
これ以上はないほど端的な説明だったが、朱華はきょとんとしてしまう。葉が翼波から被った被害は甚大なもので、多岐にわたる。あまりに漠然としすぎて、咄嗟に具体的な想像ができなかった。
「――翼波に対して攻勢に出るということでしょうか?」
「それだけではなく、徹底的に――最終的には壊滅させることが目標のようね」
青蘭の言葉に、朱華は目を瞠った。初耳だった。霜罧と共に聞いた話が、そこまでの規模に及ぶものだと知りもしなかった。恐らく霜罧はそこまで理解したのだろう。だが、朱華は思い至ることもなく、その後に起こったことの方に気をとられてしまっていた。
「……それが、あの、枳月殿の父君の……?」
「――つい最近まで、吾らもあれの目的は葉を一つにまとめることだった考えておったが、それだけではなかったらしい。枳月の話から推すに、あれの最終的な目標は翼波を滅ぼすことだったようだ」
朱華は唖然として父を見上げた。碧柊は眉を顰めて険しい顔をしていた。
「……そのようなことが可能なのですか?」
東葉時代まで遡れば、両国の争いは百年にわたる。もちろん大半は小競り合いであり、大規模な攻勢は近年になるまで行われたことはなく、それすらも明柊主導によるものだったことは判明している。遅かれ早かれ、いずれその事態は出来していたのかもしれないが。
東西の葉の間での争いに気を取られ、それまで翼波を大きな脅威だと捉えるものはいなかった。その危険性にいち早く気づき、その脅威を人々に強烈に印象付けたのは明柊だった。
「あれの計画通りに行けば、不可能ではないようだな」
「――そのために枳月殿が?」
「そうだ、そのために葉に戻されたようだ」
ただ翼波との戦いを有利にするためではなく、それに終止符を打つために枳月は養育された。朱華は半ば放心して椅子の背にもたれた。隣に座る母もまた険しい顔をしている。
「私は――枳月殿は……」
絶句する朱華に、青蘭は静かに告げた。
「あの子ははっきりと誰とも結婚するつもりはないと断言したわ」