第一章 【保健室の死神】
4月20日(金)
誰もいない。私の周りには、誰もいない。
誰かが、そんな歌を歌った。
私は、その題名も知らない歌にひどく共感した。まるで私のことを歌っているような、そんな気持ちにさせられる。
「見ろよ、あの子噂の……」
今日も、同じ言葉が聞こえてくる。そして誰もが卑しい笑顔を作り上げ、時に私の元へ擦り寄ってくる。
「ああ、学年一位の宮代か。ほんと、今日も髪サラサラだなー」
耳障りな喧騒から逃げるように、私は足早に廊下を歩いた。
私は、学校が嫌いだ。ただただ面倒で憂鬱にしかならないこんな空間、就職難でなければ絶対に受験なんてしなかっただろう。かといって、OLみたいなものは進んでなりたくはないのだが。なにせ私は、“集団生活”というものが嫌いだからである。更に限定して言うのなら、“噂”というものが嫌いなのだ。
噂というものは、簡単に広まっていく。誰かの口を塞いでも別の誰かの口から伝わり、その口を押さえれば先程塞いでいた口がしゃべりだす。
私は、そんな病の被害者である。
成績優秀、眉目秀麗、運動神経抜群。
眉目秀麗かどうかは知ったこっちゃないが、成績も運動も平均並みだ。上は山ほどいるはず。
おかしな噂には、さらにおかしな噂がついていった。中には全く身に覚えのないものまで存在した。
こうして、完璧な人間という噂の鎧を纏った、完璧な私が出来上がったのだ。私はそれ以来、学校中の生徒に、【大和撫子】と呼ばれるようになったのである。
私は、そんなたいそうな人間ではないのに。皆と大して変わりない、普通の女子高校生なのに。一体、私が何をしたというのだ!
そんな訴えを、心の中で何度呟き続けただろうか。しかし、もちろんその訴えが誰かの耳に届く訳ないのだが。
昼休み終了を告げるチャイムが鳴る。
私は急いで教室に戻り、自分の机に着席した。次の時間は、HRで前回一向に進まなかった委員会決めを、くじ引きという若干乱雑な手段で決めることになっている。
「委員会とか、やりたくないよねー」
ふいに、左の席の方から声が聞こえた。もちろん、私に向けられた言葉ではない。
声の主は、確か前田さんという噂好きな女子だった。席替えをした時に一度話したきりで、名前が合っているかどうかは定かではない。ただ、よく彼女の友人たちと噂話をしているのを耳にする。今回も、近くの席の友人と話しているようだった。
「ねー、特に学級委員とか……」
「あたし、保健委員も嫌だなぁ。変な噂とかあるし」
「変な噂?」
「そう。【保健室の死神】っていうのがいるらしくて」
死神?
「何それ?」
「なんかね、保健室の一番奥にあるベッドって、いつもカーテンが掛かってて使用中らしいの。で、その中には【保健室の死神】がいるらしいのよ。いろいろ噂はあるけど、最終的にはどれも殺されちゃうんだよね……」
なんて、非現実的。友人も私同様、半ば信じていないようだ。
「例えば、死神が要求したものを持ってこれないと、頭を潰して殺されるらしいよ。実際死にかけた人もいるし」
「えー、本当なのー?」
「本当だって!だってその死にかけたのって、同じ部活の人だもん。病院に入院したらしくて、それがちょうど保健室に行った翌日だったんだよ」
友人が悲鳴を上げたところで、先生が教室に入ってきた。
先生いわく、先生が用意した箱の中に人数分の紙が入っていて、その中の何枚かには委員会の名前が書いてあるらしい。つまり、白紙が当たりだ。
先生の合図で、一斉に生徒が箱のある教卓の前へ列を作った。私もそれに並ぶ。
正直、委員会なんて面倒な仕事はしたくない。自分にとって利益なんてないし、第一また変な噂がたってしまうかもしれない。そう考えると、尚更嫌になってきた。
私が思わず大きなため息を吐くと、私の前に並んでいた人が笑顔で列を抜けていく。とうとう私の番だ。私は息を吸い、覚悟を決め、箱の中へ手を入れた。
ふいに、あの噂が脳裏をよぎった。
【保健室の死神】。
数々の、前田さんの語った噂話が一気に頭を駆け巡った。でも、そんなものでためらう必要なんかない。要は白紙を引き当てればいいだけ。そう、たったそれだけのことなのだ。私は意を決して、その手に触れた一枚を取り出した。
その紙には――――
「あら、宮代さんは保健委員ね」
【保健室の死神】に、呼ばれた気がした。
放課後、担任が持って行ってほしいものがあるということで、早速保健室に行くことになった。担任が渡してきたのは、一通の手紙だった。手紙くらい自分で渡せばいいものを、わざわざ私に頼まないでほしい。私が手紙を受け取るのを見た前田さんは、
「一番奥のベッドには気をつけてね!」
と、興奮気味に言ってきた。私はとりあえず「どうも」とだけ頷いて教室から立ち去った。刺々しくならないように穏やかな声音で言ったつもりだったが、これが新たな噂の火種とならないことを祈るばかりだ。
さて、こうして保健室の前まで来たわけなのだが。
【保健室の死神】。
要求されたものを持ってこれないと、頭を潰されて殺される。
「ない、絶対ない」
私は自分自身にそう言い聞かせた。そして保健室のドアをノックしようとしたところ、ドアに掛けられた札に目がいった。そこには「出張中」と書かれていた。
「なんだ、いないのか……」
誰に言うでもなく、そう呟く。諦めて帰ろうとしたが、なぜかドアが少し開いていたことに気がついた。
もしかしたら、出張から帰ってきたのかもしれない。そうでなくとも、机の上に手紙を置いてそのまま帰ろう。用事も早く済ませたいので、中に入ることにした。
「失礼します」
返事はない。部屋を見渡した限り、誰もいないようだった。部屋の奥まで進んだところで、ふいに一番奥のベッドに目がいった。
――――カーテンが、開いてる?
確か噂では、いつも閉まっているのでは……? ていうか、ちょっと待て。
【保健室の死神】は、いつもいるわけじゃないのか?
だって、いつもいるなら真っ先に保健室にいつもいる先生が襲われるのではないだろうか。
考えられる理由はいくつかある。
【保健室の死神】は存在しない。
保健室の先生が死神。
あまり考えたくないが、あるいは――――
「君の後ろにいる、とかね」
涼やかな声が、耳元で囁いた。
「――――⁉」
一瞬にして、全身が凍りつくのを感じた。
まるで金縛りにかかったかのように、体のどこもかしこもピクリともしない。
本当に、死神…………?
嫌な予感が、頭の中を満たしていく。しかし、そんなものに屈している場合ではない。私は口の中に溜まったつばを飲み込み、自身を奮い立たせた。そして、無心になったまま振り返った。
そこにいた者は、想像していた【死神】というものとはかなりかけ離れていた。
彼が着ていたのは、この高校の男子用の制服で間違いない。ネクタイの色が赤なので、一年生のものだろう。私と同級生ということになる。身長も、男子高校生としては平均的だ。そう、私の目前にいるのは普通の男子生徒だった。
いや、よく見ると普通ではない。
重力に逆らわないその髪は、燃えるような紅蓮。
そして、きれいに整った顔立ち。
「どうしたの、もしかして惚れた?」
「はぁ⁉」
こいつの素っ頓狂な発言に、思わず声が出た。
「面白いな、君は。冗談だよ」
そう言いながら、こいつは滑稽なものを見るように笑った。馬鹿にされているようで、非常にむかつく。
というか、こいつはなんで保健室にいるのだろうか。病人か? こんな冗談を言えるほど元気なのに? そもそも、先生がいないのになぜここにいる。鍵は掛かっていなかったが、先生がいない時は鍵が掛かっているはずだ。入り口の鍵を、こいつが開けたのか? なんの為に?
「君、ここには何しに来たんだ?」
それは、こっちの台詞だ。 しかし、私は早く帰りたかったので、素直に話した。
「保健の先生に渡すよう、担任から手紙を預かってきたのですが、どうやらいらっしゃらないようなので今日はこれで――――」
私は、こいつを避けるようにドアの方へと向かった。こんな怪しいやつと関わっていたら、気が狂いそうだ。私が足早に彼の横を通ろうとした時、突然腕を掴まれた。
振り返ると、真剣に私を見つめる彼の顔が、すぐそこにあった。
彼のきめ細かく無駄のない肌と、深い瞳に目を奪われた。
よく見ると、めちゃくちゃ綺麗……って、何考えてんだ、私!
「あ、あの……」
「君……」
吐息がかかりそう。鼓動の音が、伝わってしまうような気さえした。
彼はふっと笑って、スイッチを切り替えたかのように先程のような笑みに戻った。
「もっと素直になりなよ」
「……え?」
「【大和撫子】なんてキャラじゃないと思うんだけど?」
「なっ! ば、馬鹿にしてるんですか⁉」
こいつは静かに首を横に振る。
「違うよ。僕はさっきみたいな素直な反応とか、分かりやすい態度とかの方が君らしくていいと思う。素の君はこっちだろ?」
人のことを、褒めているんだか馬鹿にしているんだか、全く分からない。それに、先程会ったばかりの人に私の本質を見透かされるなんて、この上ない屈辱。
私を追い詰めるように、こいつは語り続ける。
「さっき、【保健室の死神】のこと考えてたでしょ」
「!!」
「ほら、図星だね」
うぐぐ……
「更に言うと、君が聞いた噂は『要求されたものを持ってこれないと頭を潰されて殺される』というものだね」
「なんで……」
私の頭の中にはただひとつ、どうしようもない敗北感だけが残った。超能力者かこいつは。
こいつはというと、満足気な笑みを浮かべ、私のほうを見てくる。
こいつには、調子を狂わせられてばかりだ。
「怖がりの君、こういう噂を知っているかな?」
「もう、何よ!」
思わず怒鳴ってしまったが、奴は私の行動が予想通りだと言わんばかりに、満足そうに笑っただけだった。
「【保健室の死神】は、願いを叶える代わりに、それと同等の対価を求める」
願いを叶える……?
その噂はとても『頭を潰されて殺される』という噂とは比にならないような、魅力的なものだった。しかし、“死神”と名のつくものが、そんな親切なものだろうか。
「疑うなら、試してみたらどうかな?」
「試す? 何言ってるの、【保健室の死神】なんてどこにもいないじゃない」
そう、この保健室には誰もいない。
こいつ以外には。
「――――気付いた?」
目の前の男は、笑みを作り上げた。
確かに、変わった奴だなとは思っていた。けど、まさか……
私はとっさに、掴まれていた手を振り払った。
「その目は、畏怖だね。君は本当に分かりやすい」
不敵な笑みを浮かべている。その表情からは、何も感じ取れない。まるで、笑っているのに笑っていないようだ。
駄目だ。こんな奴と一緒にいてはいけない。
そう思っても、足がすくんで動くことさえままならない。
「君に願いはないの? 今なら30%オフで叶えてもいいけど」
「結構です!」
こいつは、なおも笑顔を崩さない。
「人間の限界の一歩先まで。それが僕のテリトリーだ。たとえ君やその周囲の人が叶えられなくても、僕が叶えてあげるよ」
「私に、あなたに叶えてもらうような願いはありませんので……さようなら!」
私は、怒りに任せて保健室から飛び出した。
「さようなら、またね」
あんたと会うことなんてもう二度とない!
背中にかけられた言葉を心の中で断ち切り、それにとどめをさすように私はドアを思い切り強く閉めた。
最低で、最悪な放課後だった。
なぜ私はあの時、保健委員の当たりくじを引いてしまったんだろう。おかげで、すっかり【保健室の死神】に気に入られてしまった。
「先生に手紙、渡せなかったし……」
私は大きくため息をつき、再び住宅街を歩き出した。
夕飯時ということもあり、住宅街を歩く人の姿はどこにも見当たらなかった。普段は、田舎町ということもあるのか、主婦たちの井戸端会議やら、子供たちが自由に遊びまわる姿などを容易に見かけることができる。この街の人間は、皆ご近所付き合いを尊重しているのだ。
私は、通学路である住宅街を通り抜けた先にある、この団地に住んでいる。団地も人が密集して暮らしている場なので、住宅街同様いつもはにぎやかである。もちろん、ここももれなく今は閑静な団地と化しているが。
そんな団地の集合ポストへと足を運ぼうとすると、どこからか人の声が耳に届いた。
その声はメロディーを刻み、悲しげな唄を奏でていた。
「どこからだろう……?」
それはどことなく、団地の裏のほうから聴こえていた気がした。私は歌声のほうを目指してみることにした。
よく考えれば団地の裏へ行くのは初めてかもしれない。この団地に暮らし始めてから日が浅いので、まあ仕方ないだろう。とりあえず、私は辺りを見回してみた。
手入れが行き届いていないのか、辺り一面に膝丈ほどに背の高い雑草が鬱蒼としていて、私の足をむずがゆく刺激する。奥の方には壁を成すように木々が立ち並んでいた。よく見ると、木々の隙間から階段のようなものが覗いている。私は雑草を足で掻き分けながら、それの元へ歩み寄った。
雑草の海を抜けると、そこには石でできた階段が確かにあった。階段は一段一段が低く、そして広い。私は階段の先を見上げた。するとそこには、同じく石でできた鳥居が見えた。
「神社かな……?」
まさか団地の裏に神社があるとは、誰も思わないだろう。もしかしたら近くに墓地もあるかもしれない。そう思うと少し、今夜寝るのが怖くなってしまった。
歌声は確かに神社のほうから聞こえているようだ。それを確認すると、私は何故か足音を潜めて階段を上った。
もし歌っているのが幽霊だったらどうしよう。とりあえずは謝っておこうか。すいませんでした、ただの出来心だったんです、探検心がくすぐられちゃっただけなんです……って、ただの馬鹿か。幽霊に謝る人間なんて私ぐらいだろう。
階段を上りきった途端、爽やかな風が頬を撫でた。
目に飛び込んできたのは、黒く艶めく、きめ細かな髪。
そこにいたのは、神社の社に向かって歌う、セーラー服を着た黒髪の美しい少女だった。
少女が着ているセーラー服は、私が去年まで来ていた中学のセーラー服だ。ということは、少女は中学生か。
少女は私に気がついていないのか、涼やかな声で歌い続けていた。
それにしても、なんて綺麗な歌声なのだろう。どこか悲しさを含ませたその歌声から、私は耳を離せなかった。私がその場で立ち尽くしていると、やっと私に気がついたのか、少女はこちらを振り返った。私は思わず言い訳を始めた。
「ああ、ごめんなさい! 歌の邪魔をするつもりはなかったの! 綺麗な歌声が聞こえたからつい……」
今、私はうまく喋れていただろうか。最近では全く人に話しかけられることなんてなくなったから、ろくに人と言葉を交わしていなかった私には、コミュニケーション能力なんてものはなかった。なので、とりあえずは謝ってみたのだが……
できるだけ間を作らないように言葉を続けようとしたその時だった。
「……あ、あの」
「……え?」
か細い声で、少女が話しかけてきた。
「歌……聞いて、しまったんですか……?」
聞いて、しまった?
少女は、今にも消え入りそうな声で確かにそう呟いた。自分の歌に自信を持てていないということなのだろうか?
「ご、ごめん、聞かれたくなかったのかな……?」
彼女の肩が、かすかに震えていた。少女を怖がらせてしまったのだろうか。今更だが、申し訳ない気持ちに苛まれる。
「すごく綺麗で上手かったよ? だから自分に自信を持って! ……あー、私はこれで帰るから――――」
「ごめんなさい……私のせいで……、お姉さんが……死んじゃう……」
…………ん?
おいおい、今なんて言った?
お姉さん?
今まで一度もそんなこと言われたことがないから、なんだか照れくさ――――じゃなくて。
死んじゃう?
誰が? 私が? 何で?
「本当に……ごめんなさい……!」
そう言いながら、少女はわたしの横を逃げるように走り去っていってしまった。
ごめんなさいって、一体どういうこと?
というか、歌を聴いたら死ぬって、意味がわからないのだが。
私は、なにがなんだか分からないまま、疑問だけを抱いてその場を後にするしかなかったのだった。
4月23日(月)
あれから三日が過ぎた。正確に言えば、二日と十時間二十三分だ。
団地裏の神社で出会った少女と別れてからというもの、彼女の言っていた『死んじゃう』という言葉を忘れたことは、ひと時も無い。いつ訪れるか、本当に訪れるかも分からない自分の死の瞬間を、ただただ怯えて生活していた。私の唯一落ち着ける瞬間、花の週末を返してほしい。今はちょうど二限目の体育の時間なのだが、少女のおかげで一睡もしていないため、非常に疲れきっている。唯一の救いは、先生が出張のため、自習ということだろうか。自習の内容は生徒に一任されているため、自由参加型のドッジボールという、なんともグダグダしたものとなっていた。
私はもちろん参加する気など無いので、不参加組と共に花壇の辺りで座り込んでいる。
横には何故か前田さんと友人が絶妙な距離感を保ち座っていた。当然、だからといって会話はない。とりあえずは暇つぶしにはなるだろうと、前田さんの噂話に耳を傾けていた。
「ねえ、『呪いの歌』って知ってる?」
「呪いの歌? なにそれ?」
歌、という言葉に思わずドキリとした。
前田さんは友人の反応を待ってました、といわんばかりに、快活に話し出した。
「住宅街の方に団地があるの、知ってる?」
知ってるも何も、私の住まいです。
「あそこらへんでね、たまに歌声が聞こえるんだって。その歌声はどこか不気味で、気味が悪いらしいの。で、その歌はあまりにも不気味で聴いた人の頭から離れなくなって、一週間ずっとその人のことを不幸にするんだって。そして、一週間後には……」
一週間後には?
「――――死んじゃうんだって」
「えー、本当に? もう、理恵の噂話っていつも信憑性にかけるんだよねー」
信憑性どころか、もう体験してます! というか、前田さんの名前って、理恵だったんだ……
前田さんの話が本当なら、私は一週間後――――今週の金曜日に死ぬってこと?
不幸にするって、もしかして怯えるしかなくなったこと?
どうしよう、エンディングノートでも書いたほうがいいのかな……
「そういえば、クラスに不登校の人いたよね? あの人ももしかして……」
「なんだっけ……紅蓮次、だっけ? あの人はただの不登校じゃないのー?」
彼女たちが話している紅蓮次とは、私の隣の席の男子生徒で、入学式当日から学校へは来ていない。私は一度も彼の姿を見たことがなかった。彼の出席日数は大丈夫なのだろうか。
彼には悪いが、私には彼のことを考えている余裕はない。今、私にとって一番重要なのは、どうしたら金曜日に死なずに済むかということなのだから。
こんがらがる頭を整理していると、突然横から声がかかった。
「――――宮代さん」
前田さんだ。
「え、あ、はい」
突然すぎて、そしてまさかの出来事すぎて、声が裏返ってしまった。まさか、前田さんに話しかけられようとは、しかもこのタイミングで話しかけられるとは思いもしなかった。ああ、恥ずかしい。数秒前まで戻してください神様!
「危ない!」
そうだね危な……危ない?
そう言われて振り返った頃にはもう遅かった。むしろ振り返らないほうがよかった気がする。
振り返った途端、今まで向こうのコートで跳ね回っていたボールが、高速スピンしながら私の顔めがけて飛んできた。もちろん、避ける術も無く。
「宮代さん、大丈夫!? すごい音したけど……」
しいて言うなら、駄目だ。
だが、もちろんそんなこと答えられるわけも無いので、
「大丈夫、全然平気」
などと、笑顔で常套句を言ったりしてみる。多少の自分への慰めも含めて。
「本当に……? あ、おでこから血が出てる!!」
私は額に手を当ててみた。確かにジンジンしているし、手には赤い血がついた。
ふと気付けば、周りには人だかりができていた。これが世に言う野次馬か。彼女たちは口々に「大丈夫?」を連呼している。私はそれに、何回答えればいいというのだ。
「保健室行ったほうがいいよ! 一緒に行く?」
そう言ったのは、すぐ横の前田さん。だが、前田さんには保健室に行ってほしくない。なにせ、彼女は噂好き。【保健室の死神】について調べ始めるのは目に見えている。前田さんは誰にでも優しいし、私にすら声を掛けてくれる。そんな彼女に、あいつの魔の手を近づけちゃいけない。
「大丈夫、一人で行くよ」
心配そうに覗き込む前田さんを尻目に、私は足早に保健室へ向かった。
本当は、一人の方が気が楽なだけなのだ。
前田さんのことなんて、ただ自分への言い訳がしたいだけなのだから。
今頃クラスメートたちが『何あれ、愛想悪―い』とか言っていたとしても、文句はない。何も言えない。言うことなんてない。
保健室の外ドアを、軽くノックしてみる。すると、程なくしてドアは開いた。
「んー、どうした?」
中から現れたのは、白衣を着た若い女性だった。
彼女の風貌は、『保健室の先生』と聞いて思いつく人物その二『エロい先生』そのものだった。大胆に胸元まで開けたワイシャツに丈の短いスカート。こんな漫画の住人みたいな格好をした保健医が、まさかこんな田舎町にいたとは……
「おーい、聞いてるの?」
「は、はい」
「で、どうしたの……って、あらー、おでこ擦りむいてるな。靴そこで脱いで、上がっておいで」
先生の言うとおり、私は靴を脱いで保健室へと上がった。
「ほい、とりあえずここ座ってなー」
ソファーを指差しながら、先生は卓上の箱から消毒液を取り出す。私はソファーに座り、先生の様子を伺ってみた。
あの口調、そしてかったるそうな動き。これはエロいと言うよりかは、だらしがない。その一言に尽きるだろう。
「前髪しっかり抑えててなー」
そう言うと先生は、消毒液をガーゼに含ませ、私の額の傷口にポンポンと当て始めた。
「今時、おでこを怪我する高校生はなかなかいないからなー、こうしてやるのは初めてだよ」
はっはっはっと笑う先生。
高校生じゃなくとも、おでこを怪我することはなかなか無いと思う。
一通り終わったのか、先生は絆創膏を取り出して、紙を一枚一枚剥がしていく。
「そういや、お前さん一年の宮代茜だろ? 保健委員の」
「はい、そうです」
体操服の名前が目に入ったのだろうか。でも、まだこの先生とは顔合わせをしたことが無かったはずだが。
「【大和撫子】っていう噂が出回っているが、お前さんはずいぶんとすごいらしいね」
そっちか。
「それでなんだが、お前さんには“裏”委員長をやって欲しいんだよ」
「……裏?」
「そうそう。表の委員長には当然表立ったリーダーをやってもらうんだが、裏の委員長には別の仕事をしてもらう」
いい予感はしない。
「通常は普通の平委員として働いてもらうが、その他の時は常に保健室に来てもらい、“あいつ”の相手をしてやってほしい」
「あいつ……?」
まさか――――
「【保健室の死神】とか呼ばれてるらしいが、まあ、とって食ったりはしないよ。昼休みと放課後だけでもいいからさ」
「え、ちょっと、なんで私なんですか!」
「だって、会ったことあるんだろ? ……よし、綺麗に貼れたぞ。じゃ、そういうことで」
早口にそうとだけいって、先生はさっさと保健室から去っていってしまった。
なんてこった、勝手にあいつのお世話役を言いつけられてしまった……! というか、先生は【保健室の死神】を知っているどころか、知り合いだったなんて。
あの様子からすると、【死神】は人を殺したりはしないのではないだろうか……
いやいや、安易な目測はやめておこう。寿命を縮めるだけだ。まあ、金曜までの命だが。自分で言っておきながら、私の脆いハートに傷がついた。
ふいに、あの言葉が脳裏をよぎる。
『人間の限界の一歩先まで。それが僕のテリトリーだ。たとえ君やその周囲の人が叶えられなくても、僕が叶えてあげるよ』
人間の限界の一歩先。
人の“死”を司るという【死神】なら、もしかしたら――――
私は、気が付くと一番奥のベッドのカーテンに手をかけていた。
カーテンを掴む手が、震えているのが分かる。
どうせ死ぬのなら、ひと時でも長く生きていたい。
手の振るえを抑えるように、唾を飲み込む。そして私は、そっとカーテンを開けた。
そこには、穏やかな寝息をたてながら眠る【保健室の死神】がいた。
上着を掛け布団の上に無造作に脱ぎ捨て、ネクタイを外さないままに無防備に寝ているその姿からは、到底【死神】なんてワードは出てこないことだろう。
やはり目を引く、紅蓮の髪。白い肌にかかったきめ細かいそれが、お互いをより印象的にしている。
……寝ているのなら、今日は帰ったほうがいいだろう。それに、今は体育の時間だ。早く帰らないと授業が終わってしまう。
そう思って踵を返そうとしたとき、彼の枕元に置いてあった本が目に付いた。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だ。
そういえば、昔はよく読んでいたような気がする。話はあまり覚えていないけれど、主人公のジョバンニとカムパネルラの旅した銀河に行ってみたいと、ずっと憧れを抱いていたものだ。
私はその感動のままに、思わずその本を手に取ろうとした。
その時。
「それ、好きなの?」
突然の声に、私はその場でパッと手を離してしまった。その本は音を立てずに、ベッドの上に着地した。
声を掛けたのはもちろん、【死神】しかいない。彼は先程までの姿勢を崩すことなく、目だけをこちらに向けてほくそ笑んでいる。
「貸そうか?」
「結構です!」
残念だ、と呟きながら【死神】は頭の後ろで両腕を組んだ。
「君、今はまだ授業中じゃないのかい? もしかしてわざわざ僕に会いに来たの?」
「そんなわけないです」
寝起きでも相変わらずの減らず口である。
「そうだ、あと少ししたら授業が終わるし、今から戻ったところで自習だからすることないだろ? なら授業が終わるまでここで僕とおしゃべりでもしないかい?」
確かに、時計の針は三十分を指しており、授業が終わるまで十分しかない。今から気まずい空間に戻るのも気が引けるが、ここで【死神】と仲良くおしゃべりというのも癇に障る。
私がどうしようかと選択を渋っていると、【死神】は勝手におしゃべりを始めてしまった。
「そういえば近頃、物騒な噂をよく聞くね」
「物騒な、噂?」
そういわれて今思いつくのは、もちろん私にかけられた呪いについて。
「『呪いの歌』の噂、知ってる? 住宅街の方にある団地で聞こえてくるらしいんだけど、その歌声を聞くと――」
「……一週間後、死んでしまう」
私は思わず、引きつった声で答えた。【死神】は少し間をおいて言葉を繋いだ。
「……どうやら、そうらしいね」
そういった彼の声音は、いつも私を冷やかしてくる時のものとはまるで違っていた。低くて、平坦で、なにも感じることができなくて――――
【死神】は、戸惑う私の腕を強く引いた。
「君、何か知っているね?」
私は、腕を強く引かれた反動でベッドの上に手をついてしまった。彼の、真っ直ぐ私を見据える瞳がすぐ側に迫る。彼は、よほど顔を近づけるのが好きなのだろうか。
しかし、私は前回のように、胸をときめかせていられる状況ではなかった。むしろ恐怖すら感じる。
私は掴んだ手を振りほどこうとしたが、今回はほどくことが出来なかった。【死神】は自らの意思で手を離すと、そのまま私の両肩を掴んだ。
――――いや、決して掴んでなどいなかった。
その手はまるで、私の震える肩を包み込むかのようで。抱いているかのようで。
私の、彼への恐怖心は、その手のぬくもりで溶かされていく。
「隠す必要はない。僕は君に危害なんか加えないし、むしろ君が巻き込まれているなら助けてやりたい」
それは、【死神】の甘い誘惑なんてものではなかった。
力強い、まっすぐな言葉。
それは優しさというより、確固たる意思のように感じられた。
そして、私はいつの間にか、『呪いの歌』のことについて口に出していた。
「歌を……聞いたんです」
「どこで?」
「団地裏の、神社で……」
「神社……?」
私は意を決し、この間のことを話す。
「そこに行ったら、女の子が歌っていたんです。それでその子、私に『死んじゃう』って言って、どこかに逃げちゃって…… 私、『呪いの歌』のことなんか知らなくて、それで……!」
私の口は止まることなく、とにかく言葉を吐き出そうと喋り続けると、口からあふれるのは支離滅裂なものばかりで、感情ばかりが込み上げてきた。
「とりあえず、僕の話を聞いてはくれないか?」
【死神】はこちらに体を向け直してあぐらをかき、腕組をした。そして手を付いたままの体勢の私に、ベッドの上に座るように促してきたので、私はベッドに腰掛けた。
「君が、実際に呪いをかけられたのかどうかは今の段階では判断できない。だが、呪いにかかっている可能性は低いと思う」
「どうして……?」
「君、身辺でなにか異常なことはなかったか?」
「しいて言うなら、おでこに怪我したくらいですかね」
そう言いながら、前髪をかき上げてみせる。
「おっちょこちょいだな、可愛い」
笑いながら、こいつは馬鹿にしてくる。案外真面目だった私の勇気を返せ!
「二日以上経ってそれだけなら、一週間不幸に見舞われるという噂には当てはまらない」
確かに。
「だが、呪いにかかっていないと言い切ることもできない」
私は思わず、唾を飲んだ。【死神】はそんな私の様子を見るや、いつもの、何かをたくらんでいる様な意味深な笑みを作った。
「君、その呪いを解きたいか?」
「!」
来た。こいつの甘い誘惑。
「『願いを叶える代わりに、同等の対価をもらう』、でしたっけ?」
「覚えていてくれたんだ、嬉しいな」
笑顔で答えるこいつが、本当に喜んでいるかどうかは分からない。正直どうでもいい。私はとにかく、決心したのだ。例えこいつがどんなに最低な奴でも、私を救うことができるのは【保健室の死神】唯一人なのだから。
「どんな対価でも払う。だからお願い、私を助けて!」
『呪いを解いて』と言うつもりだったのに、なぜあんな風に言ってしまったのだろう。そんな後悔をする暇も与えず、【死神】は微笑んでこう言った。
「もちろん」
そう言った時の彼の笑顔には、一体どういう意味があったのだろうか。
その本当の意味を知ることができるのは、ずっと先の話なのである。