2章――雨と小さな依頼人――
雨が降っていた。
真夏の煩い虫の声はとっくに聞かなくなり、だんだんと冬が近付いてきた夜のこと。まだ夜中という時間でもないので町の明かりも途絶えることは無いが、此処は閑散とした住宅の跡地である。子供達の遊び場であった昼間とは打って変わって、夜の常闇と静寂に包まれていた。唯一の音である雨音もこの清冽な空間によく調和されている。
この幻想的な雰囲気の中ではどんな生物でさえ存在が赦されないような気さえ感じさせる。神聖というか、決して踏み込んではならない領域と言った空気が、ここにはあった。
誰も居ない。
誰も、入ない。
それが崩れたのは、その刹那だった。
こつこつ、というともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さい音が、一定のリズムを刻んで聞こえる。それと共に暗闇に白い影がほんやりと浮かび上がってきた。
小さな影だった。
百三十センチほどの背丈に真っ白のレインコートのフードを深く被っている。それだけでは性別や年齢は判断し辛く、漠然と子供だということぐらいしか分からない。
影はきょろきょろと辺りを見回しながら、挙動不審な様で歩いていた。それを不審に思う人間など、無論ここには居ないのだが。
一度、歩みを止める。
「このへんだったはずなのに……」
ぽつりとそう呟くと、再び足を踏み出したのだが、二三歩歩くとまた足を止める。それを何度か繰り返したところで、完全にストップしてしまった。
「どうしよう……」
「どうかしたの?」
「!」
突然背後から独り言だったものに言葉を返されて、影はびくりと大きく身体を震わせた。気配など読める訳も無く、影もまた此処に誰かが居るなんて思っていなかったのだ。
ふと、そこまでして先程からフードを被っている頭にぼつぼつと落ちてきていた雨がなくなっている事に気付く。そしてその理由を即座に理解すると、影は恐る恐る背後の声の主に視線を向けた。
そこには、深い青色の傘を自分に傾け、優しそうな表情を見せる少年が立っていた。
『――ったく、―――は』
『だ――うが、はやく――』
「また、やってるよ……」
途切れ途切れに聞こえてくる怒声と騒音。一体何をやっているんだか……容易に想像出来てしまう。
凪砂は右手に買い物袋、左手に影――小さな少女を連れて自宅まで戻っていた。元々買出しは自分の仕事なのだが、何もこんな大雨の夜に買いに行かせなくてもいいだろう、と少し愚痴っぽくなる。
しかしながら、そのおかげで丁度この事務所を探している少女に会えたのだから、まあ良しとしよう。
こつこつ、と音を立てて階段を上がって行くと、少女が凪砂の手を掴む力が強くなる。どうしたのかと言いかけて、すぐに得心がいく。
あの二人の声や音を怖がっているのだ。
凪砂にはもう聞き慣れたもの――それはそれで悲しいが――であっても、やはり子供は大きな音を恐れることが多いようなので、怖がっても仕方のないことである。
凪砂は、少女を安心させるようににこりと微笑み、そうこうしている間に着いた、我が家の扉を開いた。
「ただい――」
「これでも喰らえ」
「え……」
バシャッと大きな音がしたと思うと、次に感じたのは全身に冷たい衝撃が降りかかったことだった。
霧香が奥の方ではっと息を呑むのを聞きながら、状況を一瞬で理解するとだんだん胸の奥底から何かが湧き上がってくるのを感じた。
『あ』
零堵と蒼一が声を合わせる。
それに答えたのは滅多に表すことのない、怒りだった。
「い、いい加減にしてください!」
結局何が起こったのかというと。
またいつものように、零堵と蒼一が喧嘩を始めた。発端は勿論蒼一が零堵をからかうところからだ。無視しておけばいいものの、何故か律儀に言葉を返すのが、零堵の良い所であり悪い所だった。
そうこうしているうちに、いつも間にかヒートアップしていたようだ。霧香が止める間も無く、零堵が蒼一に水をぶっ掛けようと一体いつ用意したのか、大量に水が入ったバケツを蒼一に向かって振りかぶり、
見事に外し、なおかつ命中させた。
丁度水か掛かりそうになったとき、蒼一は《存在の干渉》をしたのだ。そしてそこにタイミング悪く扉を開けた凪砂は、元々蒼一が立っていた場所、入り口付近で蒼一の代わりに水を全身に掛けられることになった。
「華城麗乃ちゃんね」
はい、と霧香が少女、麗乃にココアの缶を渡すと、とまどったような表情をした後、温まっている缶を手に取った。
余談だが、そのココアは怒った凪砂が零堵のだったのを取り上げたものだ。零堵は意外に甘党であり、ちなみに蒼一は辛党である。つくづく対極な二人だ。
しかし麗乃は手に取った缶を穴が開くほど見つめるだけで、なかなか開けようとしなかった。
「どうしたの?」
「あ、あの、開け方が分からなくて……」
おろおろしながら理由を話されると、凪砂は目を瞠って驚いた。開け方が分からない人なんて初めて見たのだ。ひとまず缶を預かって開けてあげた。
珍しい子もいるんだな……
「それで……」
凪砂はタオルで頭を拭きながら、ちらりと掛け時計を見る。時計の短針はすでに十を指しており、子供が、それも小学生が家に帰っていない時間ではない。
「どうして、こんな時間に? それに」
「どうやって此処を知った」
凪砂の言葉を遮るように、零堵の低い声が威圧を含んで紡がれた。彼の声に驚いたのか、麗乃は怯えたように身を震わせる。
《記憶屋》は広告を出していない(表沙汰に出来るわけが無い)上、顧客も殆どが善良な人間とは言えない。麗乃のような普通の子供がこの仕事を知ることは、殆ど不可能なのだ。
「あの、家のメイドさんたちが、記憶を操ってくれる不思議なお店があるって噂してて……」
どうやらこの子は相当お金持ちの家の子のようだ。日本の一般家庭でメイドが居る家など無いだろうし、先程缶を開けられなかったことを考えると、それは明確だった。
零堵は眉間に皺を寄せると、ややあってから「まあいい」と言った。
「それで、依頼は?」
「このお兄ちゃんは顔は怖いけど、《魔法使い》だから嬢ちゃんの願いもすぐに叶えてくれるぜ」
「あることないこと、余計なことを話すな」
零堵が蒼一をぎろりと睨むと彼は肩を竦めて苦笑する。
麗乃は蒼一の言葉に安心したのか、少し緊張を解いたように力を抜き、一度深呼吸してから意を決して言葉を口にした。
「私の、記憶を消してください!」
その日は彼女の十歳の誕生日だった。
日曜日ということもあって、朝から夕方にかけて誕生日パーティーが盛大に執り行われた。麗乃は父親から贈ってもらったふわふわの髪の人形を片手に持ち、随分とはしゃいだ。
普段は夕食後、宿題をして早々と寝てしまうのだが、特別な日だけあってパーティの興奮が冷めきれず、眼が冴えてしまっていた。一時間ほどして結局眠れなかったので気分転換と思い、麗乃は部屋から出た。
ゆっくりと、普段とは違った雰囲気を醸し出す廊下を歩きながら、麗乃はふと駆け出した。普段は決して行けない場所、地下室に行こうと思ったのだ。父親は絶対に入ってはならないと言っていたし、いつもではメイド達が忙しなく歩き回っているので近付くことすら出来なかった。
少しだけ……そう考え、麗乃は地下室への階段を音を立てないように降り始めた。
半分ほど降りると扉から光が漏れているのが分かった。麗乃は静かに扉に近付き、ほんの少しだけ扉を開けるとそこには異様な光景が広がっていた。
等身大の子供の人形が無数にあったのだ。
そこまでなら彼女は別段可笑しいとは思わなかっただろう。彼女の父親の人形好きは周知の事実だったのだから。しかしその人形が大きな鉄格子の中にまとめて放りこまれていたら、誰だってその異様な光景に首を傾げるだろう。ましてやその前を白衣姿の男が闊歩していたら。
麗乃が息を潜めてそのまま様子を見ていると奥の方から声が聞こえてきた。彼女は、はっとしてその聞き覚えのある声が近付いてくるのを待った。
死角から現われた人物は、彼女の予想通りの父親と、先程とは別の白衣の人間、そしてその腕に引きずられてきた先程同様の等身大の人形だった。
父親は静かに格子の中を一瞥すると人形を持った男に声をかけた。
「――また、失敗でしたか」
「隼人様、申し訳ありません」
「いえ、それよりもより完璧でないと、麗乃も喜びませんから」
突然聞こえてきた自分の名前に驚き、危うく音を立ててしまうところだった。
(人形を作ってる、のかなあ)
父親が再び奥へ消えると、人形を抱えていた男が憤慨したように鼻を鳴らし、鉄格子の扉を開く。
「……あの、狂人が」
苛々したままその人形を他の物と同じ場所に投げ入れると、ガシャン、と勢いよく扉を閉める。
そのまま立ち去るかと思いきや、男はその鉄格子の扉を蹴り始め、その度に呪詛のような恨みの篭った言葉を吐き出していた。
「……うっ、ぁ……」
男の罵倒に混じって呻き声が聞こえたが、決して男が出した声ではない。麗乃は声の発生源を探し、それを理解したときそこで漸く男の言葉が意味を成した言葉に聞こえた。
「こ、の、失敗作め!」
「うあぁ……」
呻き声は彼が怒りをぶつけている鉄格子の中の、人形から発せられていた。
いや、人形じゃない。
あれは、人間だった。白すぎる肌の色、だらりと倒れている様は糸が切れたマリオネットに酷似していて、何より父親が持っている人形と似ていたので分からなかったが、あれは、あれらは人間だった。
――怖い!
そこまで考えて麗乃は体が震えるのを押さえ切れなかった。あんな幾人もの人間を積み重ねるようにして鉄格子の中に入れるなんて狂気の沙汰だ。それを平然と眺める人間もまた同様に。
――怖い怖い怖い! あの白衣の男も、積み上げられた人間達も、そして自分の父親さえ。
かたん、と震えるあまり音を立ててしまった。
「――誰だ?」
よほど耳が良いらしい男は罵倒をするのを止め、辺りを見回す。それは奇しくも扉の隙間から見ていた麗乃の視線と、しっかりとあってしまった。
見られた。どちらも同時にそう思った。
彼女は急いで踵を返すと一目散に逃げ出した。
気付かれた。背後で何か言っているのが聞こえたが、彼女はあえて聞かないように耳を塞ぎ、足を動かすスピードを速めて慌てて自室に戻った。しっかりと鍵を掛けて。
「……それからずっと家が怖くて、いつ口封じに殺されるか分からなくて、それでメイドさん達がここの話をしてるのを聞いて……」
「記憶を消しに来たという訳か」
「はい、今日は何か家で騒ぎがあったみたいで、その隙に逃げてきたんです」
「騒ぎ?」
「あー、それ多分、俺だ」
「――何だって?」
霧香が質問した言葉を何故だか蒼一が返した。彼は相変わらずへらへらと笑って、いるのに対して、零堵は液体窒素並みの温度の視線を向ける。
「華城ってどこかで聞いたかと思えば、今日俺が仕事に入った家なんだよね……」
一瞬、沈黙。
そして、零堵は蒼一の頭を思い切り殴ると仕事という言葉に?マークを出している麗乃を放ってずるずると台所まで引きずった。
「痛ってーな、頭が可笑しくなったらどうするんだよ、レイちゃん」
「安心しろ、お前はどう頑張ってもこれ以上可笑しくはならない。……盗みに入った家の人間の前で堂々と公言する馬鹿がどこにいる」
「まあまあ、ていうか俺を庇ってくれるんだなー、零堵君。ホントにお人よしというかなんというか」
「黙れ、お前と一緒にされるのが嫌だっただけだ」
冷てー。と蒼一がシニカルに笑うのと同時に服のポケットからピピピと電子音が響いた。
「あ? 誰だろ」
蒼一は携帯電話を取り出すと、そこに表示されている名前を見て、訝しげに眉を潜めた。零堵はなんとなく相手が分かり、興味を無くして(絶対に興味があったなんて言わないだろうが)リビングに戻った。
「たく、面倒なこと押し付けやがって」
「お母さんが死んでから、お父さんが変わったの。でも優しかったし、普通にしてたけど、この間から怖く見えてきて、あの白衣の人がお父さんに言ったかもしれないし」
凪砂と霧香は麗乃の話を聞いていた。
「それで、地下室で見た記憶を消して欲しかったんだね」
零堵が戻ってきたのに凪砂が気付くと、彼が座るのを待ってから「記憶、消してあげない?」と言った。
が、零堵の答えは酷く淡白だった。
「駄目だ」
「え……」
麗乃はショックを受けたように顔面を蒼白にしながら俯いた。何せ命が掛かっているのだ。期待を上乗せしてきたに違いない。
「レイ! どうして?」
「考えてみろ。ここで記憶を消したところでそれをどうやってその父親や白衣の奴に証明するつもりだ」
「あ……」
「無意味だ。他人の記憶を見られるなんて俺か……凪砂ぐらいだからな。だから今、現状では何の解決にもならん」
正論だった。ここで彼女が記憶を失ったところで得るものなどひとつもないのだ。
麗乃がそれを理解してそして更に困惑したとき、玄関のインターホンが鳴った。
「今日は客が多いな」
「もしかして、夕方の――」
凪砂は自分で言った言葉に、はっとした。夕方の奴等は蒼一を追いかけてきたのだ(ちなみにその時の追っ手には蒼一が居ないことを無理矢理納得させて帰した)が、その追っ手は麗乃の家の人間だ。もし、蒼一を見つけるついでに麗乃を発見されてしまっては最悪だ。
霧香も零堵もそれに気付いていたのか、真剣な表情でどう出るべきなのか考えようとしていた。
もう一度、インターホンが鳴る。
「おいっ、蒼一いるんだろ! とっとと出て来い! お前の所為で俺がどれだけ残業してると思ってやがるっ」
ドアの向こう側から聞き覚えのある大声と、リズミカルにドアを叩く音が聞こえた。
「……凪砂、とりあえず静かにしてもらえ。俺はアイツを捕まえてくる」
「うん……」
緊張感が一瞬にして氷解する。まだ現状を理解仕切れていない麗乃は霧香に任せて、凪砂は玄関の戸を開けた。
そこにはやはり見知った顔。
「葉月、蒼一はいるんだろうな」
「……お願いですから静かに来て下さい。何時だと思ってるんですか……」
凪砂はあえて質問には答えず、目の前の男――鎖神深哉を家に上げた。
能力者といえども、法律を守るのは当たり前だ。しかしながら、例えば蒼一のように能力を使って犯罪を起こす人間もいる。が、普通の警察が能力者に対抗するのは少しばかり荷が重過ぎる。そこで設置されたのが、《能力者対策機関capacity measure institution》通称CMIだった。
警察官から構成されているが、その力は独立しているため、さまざまな非合法な手段を実行できる。
CMIでは危険だと判断された能力者に担当者をつけ、出来うる限り監視させて犯罪を防ぐものだった。
しかし、蒼一の能力のように監視の目を掻い潜ってしまう能力者は実に厄介なものだ。
鎖神深哉はそんな不幸な役回りになった詩冬蒼一の担当者だった。三十台半ばといった様子で常にいつもサングラスを掛けている(今は夜なのに見えるんだろか)。
凪砂が深哉をリビングへと連れて行くと、丁度零堵が蒼一の襟首を掴んで連れてきたようだった。
深哉は零堵から蒼一を引き渡されるとがしりと腕を掴んで凄い形相で凄んだ。
「蒼一、お前自分がやったこと、分かってんだろうなぁ!」
「深哉さん、娘さんは元気?」
「ああ! 最近自転車に乗れるようになって、ますます可愛くなっちまって……って、話を逸らすな! お前の所為で深波に会う時間が無くなっちまったじゃねえかぁ! もう十時半だぞ、寝てるに決まってる! お前の所為で俺はなあっ!」
深哉は自他ともに認める親馬鹿だった。
彼には深波という小学一年生の娘がいる。自分の名前を取ってつけた名前は自慢らしい。深哉がCMIという危険な仕事に就いているのは彼女の事が理由らしい。
鎖神家は父子家庭だった。母親は深波を生んですぐに亡くなっており、一人で育ててきた。おまけに深波は幼稚園の頃から病弱で、なんでも詳しくは聞いていないが思い病気を抱えていたらしい。今は治まっているが、治療費をはらうためにわざわざ危険だが給料の高いこの仕事に志願したらしい。
「とにかく、本部まで来てもらうからな」
深哉はそう言うと、零堵のように蒼一を引きずり「邪魔したな」とだけ言って玄関から出て行った。
嵐が去ったようだった。
それと共に先程の重苦しい空気が戻ってきてしまった。
「麗乃、だったか」
零堵に名を呼ばれ、麗乃はびし、と背筋を正す。そうしたい気持ちは分からなくない、と凪砂は密かに思った。
「はい」
「お前は、何を望む?」
「え?」
「ここが、仮に記憶屋でなかったとしたらだ、何でも叶えて貰えるとしたら、お前は何を望むんだ?」
「何でも……?」
麗乃は考えるように目を閉じたが、ややあってから目を開け、しっかりと零堵を見た。
「あの地下室のことを、お父さんが何をやっているのかを知りたい。あんな……あんな酷いことをやってるお父さんを止めたい!」
「もしそれで、父親が警察に捕まってもか」
「…………はい」
お父さんを止めたいから、と麗乃ははっきりと言った。
「……強いね」
「え?」
霧香が何か言ったのを凪砂は聞き取れなった。
零堵は、相変わらずの無表情で頷くと霧香の方を見た。
「霧香、情報屋に連絡入れとけ、明日そっちに行くって」
「え、じゃあ零堵」
「報酬はそれ相応に頂く。それに……今更ほっとけないだろ……」
やはり零堵は優しいと思った。蒼一に言わせればただのお人よしなのだが。
ちなみに零堵が霧香に電話を頼んだのは、彼が機械類の扱いが酷いからだ。凪砂もあまり得意ではないので必然的に霧香に回ってくる。家事は凪砂が、パソコンなどの機械類は霧香が、そしてその他の交渉などを零堵がすることによって、この記憶屋は運営されている。
「よろしくお願いします」
「依頼、承りました」
物語が、紡がれる。