1章――日常――
「記憶とは、酷く曖昧なものだ」
彼は淡々と語る。
「思い出そうとしては忘れ、忘れたいと思っても忘れられない。大事な記憶もそうでない記憶も等しく、だ。いつしかそれが本当だったかさえ、分らなくなってしまう」
語るものに背を向け、全てを拒絶するようにして。
「だが」
「記憶は性格を、人格を形成する。失敗の記憶から成功を学び、傷ついた記憶からはトラウマを呼ぶ。記憶を改竄するということは、その人物の人生を捻じ曲げると言っても決して大袈裟ではない」
「忘れるな。俺達はそういう事をしているのだと」
誰も、彼のことは分らない。
あなたに消したい記憶はありますか。
あなたに思い出したい記憶はありますか。
あなたに変わってほしい記憶はありますか。
「もう少し、かな」
夕暮れが空を赤く染める東京郊外の名も知れぬ小さな町。それがこの水森町だ。その更に狭い路地の一角に立つ二階建ての建物がある。特に新しい訳でも寂れている訳でもない、ごく普通なもの。それゆえに気を掛けていなければ途端に日常に埋没してしまう、そんな建物だ。
その建物の二階・台所で葉月凪砂は底の深い鍋を掻き混ぜながら、味見をしていた。
十代後半の割に平均よりも少し低めの身長、あちこちに自由に跳ねた茶髪の髪は元々の顔つきと相俟って幼い印象を与えていて、コンプレックスを持っている。
シチューの味を調整しながら、ふと壁の時計に目をやる。時刻はまもなく十八時になろうとしたところで、少しすれば騒がしい声とともにお腹を空かせた同居人が帰ってくるだろう。そう思いながら再び味見をしようと小皿を取り出した。
「どうかな……」
「丁度良いと思うぜ」
「そうですか……って、えぇっ!」
お玉を持ち上げたところで漸く自分の背後に人がいるのに気付いた。胸に落ち着けるように手を置くと、凪砂はゆっくりと振り返った。
そこには、小皿を手に取った青年が面白そうな笑みを浮かべ、青いコンタクトレンズの入った瞳を細めている。銀髪の髪に片方だけの三連ピアス、服にはチェーンが付いていて何処ぞの不良かと見間違えるが、凪砂にとって良く知った人物だった。
「詩冬さん」
「よう、凪砂君。丁度通りかかったもんだから、勝手に入らせてもらった」
あのへんからな、と冷蔵庫の隣の壁を指差しながら尊大な口調で言った。この青年――詩冬蒼一はいつもながら神出鬼没だ。凪砂ははぁ、と嘆息して少し呆れた表情をしながら蒼一を見上げた。
「いつも言ってますが、入り口から入ってくれませんか」
「普通に入るとあいつに逃げられるじゃねえか……そういえば、零堵の奴は?」
「部屋で寝てると思いますけど……」
起しますか、と訊くと、蒼一は妙に嬉しそうな顔をして頷いた。
凪砂は怪訝そうに首を傾げエプロンを取ると、リビングを通ってこの家の主の部屋へ向かい、扉をノックした。もう一人の同居人だ。
「零堵、詩冬さんが――」
言葉を言い終える前にいきなり勢い良く扉が開き、わずかに開いた隙間から何かが投げられる。それは凪砂の斜め後ろに立っていた蒼一の顔面に凄いスピードで向かうが、意外にも蒼一は何事もないかのように涼しげに片手でそれを受け止めた。
受け止めたのはハードカバーの分厚い辞書だった。当たっていたらさぞかし痛いだろうなどと凪砂が考えていると、開かれた扉からゆらりと黒髪の青年が出てきた。
「おはよう、零堵君。ご機嫌いかが?」
「最悪だ」
ふざけたように蒼一が言うのを零堵は思いきり睨みつけながらぴしゃりと言い放つ。
この家の主にして凪砂達が生計を立てる《記憶屋》の所長、それがこの不機嫌全快の男――雨岸零堵だった。外見年齢二十歳前後、長い前髪に隠された黒い双眸は見る者を怯えさせるように底知れない深みを持っており、おまけにややつり目なので見た目の凶暴性は増すばかりである。
そして何故かいつも黒い手袋をしている。
「せっかく親友が来てやってるのに、失礼なやつだな」
「誰が親友だ、誰が。お前なんか知人以下だ。それに来てくださいと頼んだ覚えもない」
頼まれても願い下げだ、と零堵が苛々を吐き出すように言うが、蒼一は特に気を悪くした様子もなく寧ろ楽しそうにリビングのソファに座った。
蒼一は零堵の古い知人だ。彼曰く親友らしいが、零堵がそれを認めたことは未だ嘗てない。以前、蒼一がはじめてこの家に来たときは丁度零堵が不在だった為にその《親友》発言をもう一人の同居人と共に真に受けてしまったことがある。その時は、二人そろって信じられないとばかりに目を丸くして、帰って来た零堵を問い詰めたものである。
零堵と蒼一という組み合わせが実にミスマッチだったのである。
「だいたい、今日は何処から入ってきた? 不法侵入で国家権力に突き出してやろうか」
「台所から。いやーせっかくこんな能力あるんだから使った方が得だろ?」
「……そういうことだったら、俺も容赦なく消すぞ」
一触即発――否、触れるまでもなく爆発しそうな感じだ――といった雰囲気が辺りに充満すると、凪砂はまたか、と肩を竦めて二人を見た。零堵が消す、と言ったのは比喩でも何でもない。ただし消すのは蒼一自身ではなく“彼の記憶”だ。
彼らは特別な能力を持っている。零堵の能力は《記憶操作》だ。《記憶操作》とは文字通り他者の記憶を操作できる能力で、時に消し、時に改竄する力である。一方で蒼一の能力は《存在の干渉》と呼ばれる。蒼一自身の存在を強めたり弱めたりする、存在を弱めれば気配も希薄になって姿が見えなくなり、更には壁まで擦りぬけられるらしい。先ほど台所の壁から入ってきたというのはその力の所為だ。故に神出鬼没、その気になれば壁に耳あり障子に目あり、である。プライバシーなんてあったものではない。
さしずめ超能力者ではあるが、潜在能力というよりはただの体質と言った感じなので超能力と言うのには少々語弊があるかもしれない。記憶を改竄したり存在の干渉をするなどはすでに一般的な超能力さえも逸脱しているように感じる。
かく言う凪砂も能力者の一人だ。その力は《心眼》。生きているものの記憶と感情を読み取ってしまう力だ。普段は決して力が発動しないようにコントロールしているものの、制御出来なかった頃は人前に出ることは出来なかった。人ごみなんて論外で悪意を向けられることに酷く怯えていた。
それを救ってくれたのが、未だ一方的な睨み合いを続けている雨岸零堵である。
彼の心だけは、何故か読むことは出来なかった。
『来たければ、勝手に付いて来ればいい』
そう言われて、凪砂は後から拾ったもう一人の少女と三人で生きていくことを決めた。それが《記憶屋》のはじまりだった。
能力で記憶を消したり取り戻したりする仕事だ。一般的には胡散臭いことこの上ないが、実力は本物だ。
二年前、零堵に遭わなければどうなっていたか分らない。凪砂は零堵を尊敬している。が、それと同時に強い劣等感も感じていた。自身と似ている能力、それなのにまるで違う――凪砂は見ることしかできない――ことで無力感に苛まれていた。
そんな風に見ているのに零堵は優しい、と思う。無愛想で、無感動で、滅多に表情を変えたりしないが、それでも他人のことを考えている。今だって本気で蒼一の記憶を消そうとはしてないだろう……多分、おそらく。
「凪砂」
地獄の底から響いてくるような低い声に、考えに耽っていた凪砂は驚いて飛び上がりそうになった。
「こいつを追い出せ」
「凪砂君はそんなことするわけないよな」
「え、え?」
殆ど同時に自分に言葉が振られ、困惑する頭を整理しようとする。憮然とした態度で言い放つ零堵とにこやかに念を押す蒼一、表情は正反対だが二人の背後でブリザードが吹き荒れているのはまったく同じであり、凪砂は思わず悲鳴を上げそうになった。が、ギリギリのところで飲み込んだ。
――怖い、しかしどちらに従えば良いのか分らない。家の主として零堵に従った方が良いのか、しかしそれだと詩冬さんにあることないこと暴露されてしまいそうだし……
二つの意見が頭の中でぶつかり合い、拮抗状態になっている。どうしたものかとおろおろしていると、遠くで玄関のドアの空く音が聞こえた。まさしく救世主だ。
「ただいまー」
「霧香ちゃん!」
部屋の空気をものともせず悠々とリビングに入ってきた少女――霧香に凪砂は助かったとばかりに駆け寄った。
春川霧香はこの家の紅一点にして唯一の肉体派だ。運動神経が優れており、体術も使いこなす。肩より少し過ぎたくらいの手入れなされた金髪とエメラルドグリーンの瞳は蒼一とは違い天然のもので宝石を彷彿させる。この家の誰よりも感性が強く、少々――でもないが大雑把なところを除けば普通の女の子に見える。
しかしこの少女もまた、能力者なのである。凪砂と同じように拾われた霧香の能力は、《念動力》だ。サイコキネシスと言ってもいいが、物質を動かしたり波動で破壊する能力を持つ。
「霧香ちゃん、助けて……」
「何の話? 零、凪砂ただいま。あ、蒼一さん来てたんだ」
「おかえりキリちゃん。今日はちょっと用事が――」
「ないんだろうが。さっさと帰れ」
不機嫌オーラが二割増しで放出される。すると、蒼一は何か含んだような笑みを見せ挑発するように口を開いた。
「そんなこと言ってもいいのかな、零堵?」
「……どういう意味だ」
「今日とある豪邸に“仕事”しに行ったんだけど」
「何が仕事だ、こそ泥が」
彼の職業は所謂泥棒。現金には一切手を出さず、珍しいものばかりを収集しているらしい。最初は凪砂達も止めたものの、本人曰く『一番能力を生かせる仕事』らしい。
もう何も言うまい。
「酷いなー。それで俺は取るつもりはなかったんだけど、いつの間にかまぎれ込んでて……」
がさごそと袋を数秒漁った後に蒼一は一冊の古びた本を取り出した。その刹那、零堵の表情が一変した。古びた本を凝視しながら、そう言うことは早く言え、と手を出す。
まるでおもちゃを欲しがる子供みたいだね、と霧香が言ったのに激しく同意したくなった。
「ただし」
「何が条件だ」
「そこの豪邸のセキュリティーが意外に凄くてさ、結構な人数に追っかけられたんだよ」
今現在進行中。
本当にそういう事は早く言ってくれ。
「はぁ……つまり匿えと言いたいんだな。凪砂、こいつの夕食も追加できるか」
「あ、うん。大丈夫だけど」
「零ってばすっごく態度変わったねー。そんなにその本大事なの?」
「ああ」
霧香が何気なく訊くと、零堵は間髪いれずに即答した。それに驚く。物に執着しない彼がここまで言う本というのは一体どんなものなのだろうか。凪砂は台所へ、零堵は自室に行ってしまった後、霧香は蒼一にその事を問いただした。
「何、そんなに気になんの? あの本」
「だって零があんなに必死になってるの初めて見るんだもん、気になる」
「あー……と言っても、俺からはちょっと、な」
何とも微妙な表情をする蒼一に霧香は首を傾げる。
「言っちゃいけないことなの?」
「……じゃあ、零堵には内緒でヒントな。あの本には、零堵がずっと探しているものがあるかもしれないんだ」
「ずっと探しているもの?」
まったくピンとこない。それどころか、謎は深まるばかりだ。
「それってどういう……」
言いかけたところで、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴る。それもかなり焦っているのか何度も何度も続けて押されるそれに、思わず眉間に皺が寄る。それに外がやけに騒がしい。
「あはは、もしかして来ちゃったかな?」
「人事みたいに言わないでください!」
「まったくだ」
ばたばたと、面倒臭そうな表情を隠そうともしないで、零堵が部屋から出てくる。
「お前は一応隠れてろ。霧香は一緒に来てくれ、もしもの時は頼む」
「了解」
凪砂が台所の方がわたわたとしているのが見える。霧香はそれをくすりと笑いながら、玄関の扉を開いた。
はじめまして。椎葉奏という者です。
せっかく連載を書き始めたのできちんと更新出来る様に頑張ります。