翼の民の襲来
王城の兵士達は、空からの襲撃に混乱して慌てふためいていた。実際に飛来しているガーゴイルの数は、実は数十体に満たなかったのだが。上空を威圧するように埋め尽くす浮舟の姿を見るだけで、精神的に追い込まれた気になるのは、致し方の無いところなのだろう。
ベイクは彼らほど慌ててはいなかったが、青竜のデリッドは制空権を奪われている事態に明らかに苛立っていた。そんな青竜ごと王城の中庭に着陸する際に、またもいらぬ騒ぎを起こす事態になったりして。
それはまぁ仕方がない、目立つ図体なのは彼のせいでは無いのだし。
本当は下町に直行したかったベイクだが、いかんせん竜の巨体が余裕をもって降りられる場所がほとんどない。愛する地元を無用に混乱させたくなかった理由もあって、王城の中庭に降下して貰った訳だ。
ここまで掛かった時間は、ざっと1時間ちょっと程度か。その間に、王城の兵士が具体的な対策をとっていないのは、あの慌てようを見れば分かるけれど。
この調子では、敵の正体すら判明していないんじゃなかろうか。
ガーゴイルの奇襲には、がっつり聞き覚えがあったベイク。確かリーメイムが一度、外出先で襲われたとの報告を受けていた気が。
その時はリーゼとシーナが魔法で撃退したそうだが、今回はそうも行かない様子。そもそも、今妻は間が悪いことに帰省中の身である
せめて早急に、ケイリー達と合流したいところ。
「敵の姿は見えておるのだ、こちらから討って出れば良いではないか!」
「しかし……我が軍の浮舟は数が限られている上、戦闘用に出来てはいません、隊長。相手の素性も戦力も、未だ分かっていない状況ですし、」
青竜のデリッドを中庭に待たせておいて、作戦指令本部室のある建物へ入って行くと。白髪の年長者の近衛隊長が、士官達に怒鳴り散らしている場面に出くわした。
恐らくは、情報の整理も命令系統の統一もままならぬ状態なのだろう。何かしら情報を得られればと寄ってみたが、とんだ無駄足だったようだ。
ベイクは何食わぬ顔で、背を向けて部屋を出て行こうとする。
「おおっ、ベイク殿……いつの間に戻って来られた? 国の危機に直面して、そなたの力も必要なのだ。ぜひ、忌憚無き意見を聞かせてくれたまえ!」
「あぁ、いや……俺は作戦会議より行動派だし、群れて戦うよりソロ戦闘向きだから。王城も無事なようだから、こちらの警護はあんた達に任せるよ」
運の悪い事に、ベイクは白髪のヴェンス近衛隊長に目敏く発見されてしまった。どうぞ英雄殿もご一緒にと、大声で会議への参加を求められる。
彼は仕方なく立ち止まり、覇気の無い言い訳でこの場を立ち去る言い訳を探す。他の士官たちも、不審な目でこちらを見つめているのがアリアリと分かってしまう。
いかにも不味い事態だ、こんな場所で油を売ってる時間など無いと言うのに。
兵士の中からは、こんな時こそ高給取りの貴様が先陣切って働くべきだとの、物言わぬ圧力がひしひしと伝わって来る。彼らこそ緊急時以外には役立たない癖に、自分達の事は棚上げしている様子。
王宮の次元通路の状態を質問するも、緊急時に使える通路はたった1つだけとの答えが返って来た。しかも標準設定に、かなりの魔力と時間が掛かるらしい。
つまりは、こちらから攻め込むにはまだまだ準備が必要との事。
「そんなら頑張って、王城と一般市民を護る手段を講じればいいだろう? 悪いが、俺は別行動を取らせて貰うよ」
「ふざけて貰っては困る! 貴殿の持つ“英雄”の称号は、国王から賜ったものなのだぞ!? それに見合った働きは、しっかりとして貰わないと!」
「士官達に怒鳴り散らせばいいのか? それでいいんなら、俺でなくても……あんたが適任だ、任せるよ」
「なっ、かっ……ばっ! もう我慢ならん!」
壮年のヴェンス近衛隊長は、髪の毛を逆立てて怒り心頭の様子。腰に差した剣の柄に手を掛けて、抜刀にまで至ってしまう。あぁ、まただ……ベイクは軽く嘆息する。
自分も悪いが、彼らもいとも簡単にプライドから剣を抜く。喧嘩なら拳を使えばいいのに、しかも何故か加勢と称して半ダースの兵隊まで参加する始末。
いつもこの調子で、下町の成り上がりの自分は疎まれてしまう。
丁々発止の騒ぎの末、部屋の入り口から誰何の声が上がった時、ベイクは近衛隊長に関節技を掛けている最中だった。周囲には下級仕官が半ダース、気を失って倒れている。
国の大変な時に呑気だなと、ベイクは内心思う。まぁ、やったのは自分だが。
「何事ですか、この騒ぎは? おや、ベイク殿……まぁ、中庭の青竜を見てましたから、戻って来ていたのは知ってましたが」
「ベイク……お年寄りに関節技は感心しませんね。こっちに来てキスを」
途端にベイクは笑顔になって、言われた通りに妻にキスをした。最初に発言したメーフィストはまるっと無視、リーゼとの長かった別離の時間を埋め合わせる。
隣に立つメーフィストの咳払いが、いい加減うるさく感じ始めた頃。2人はようやく身を離し、多少の気まずさを誤魔化すために近況報告の交換など。
それに真っ先に応じたのは、今まで蚊帳の外だったメーフィスト。
「実はイヒター国王から、緊急防衛指揮官の権限を賜りまして。これで多少自由に、外敵に対応が可能になった筈ですよ」
「おぅ、それは良かった……これで、味方の兵隊を掻き分けて進む必要は無くなった訳だな。他の連中とも合流しないとな、それから作戦会議を開こう」
「あら……一緒じゃなかったの、あなた?」
リーゼの不思議そうな問い掛けに、ベイクはしまったと途端に緊張した表情に。助け舟のつもりか、メーフィストが最近の事情をかいつまんで説明する。
サラはどうしたのと、妻の問い詰めるような一言に。ベイクはみんなと一緒にお留守番してましたと、逃げ口上に徹するほか無く。メーフィストも、ここに至ってリーゼの逆鱗に触れたと気付いた様子。
またもや味方同士の争いに、時間を費やすのかと思われた矢先。
「こんな所にいたか、ベイク……青竜が王城に降りて行くのを見掛けたから、戻って来てるのは分かっていたが。リーゼも戻って来てたんなら丁度いい、かなり不味い事態になっている」
「ケイリー君、どこから入って来たんですか?」
「ケイリー、サラはどこにいるのっ!?」
どうやってか城内に入り込んで来たケイリーに、メーフィストは驚き呆れ顔。そんな事に構っていられないリーゼは、我が子を案じて詰問口調。
不味いのはサラでなくリーメイムの方なのだがと、胸中で複雑な思いのケイリー。それでも今の状況を、彼なりに勘を交えて分析してみると。どうやらここも、修羅場をむかえているっぽい。
ベイクの冷や汗混じりの顔と、リーゼの頭から突き出てる角がその証拠だ。
「サラなら大丈夫、今はシーナと一緒にこの建物の下にいる。リーメイムがガーゴイルに攫われて、一時期錯乱していたが、今は落ち着いている」
「リーメイムが攫われた? あの、上に浮いてる連中にか?」
「……なるほど、これであの子の出生の秘密の謎は、大体分かって来たわ。でも、どうしてリーメイムが攫われて、サラがそんなに取り乱してるの?」
リーメイムが攫われた事実を聞いて驚いていたベイクだが、サラが錯乱した件では完全に憔悴した表情に。自分が振ったネタとは言え、こんな結果になろうとは。
どうやらサラは、必要以上に今回の事態に責任を感じてしまったらしい。自分も責任を感じるべきだが、それより事の顛末を知った妻のリアクションが怖い。
ベイクは必死な面持ちで、ケイリーに内緒にするよう念波を送る
「あぁ、つまり……サラを助ける為にリーメイムは……攫われてしまったから? それよりリーゼ、攫った連中に心当たりがあるのか?」
「そうね……詳しい話は、落ち着ける場所に移動してからの方が良いかしら。メーフィスト、どこか適当な場所を用意して下さるかしら?」
「そうですね、了解しました……早速用意しましょう、皆さんこちらへ」
優雅なしぐさのメーフィストに案内されて、一行は城内を移動する。落ち着いた先の部屋は小さいが、整頓されていて窓が大きく日当たりは良さそうだった。
ケイリーが仲間を呼びに行き、程なくしてオットーとシーナも合流する。シーナが抱きかかえていたサラは、今は泣き疲れて眠っている様子だった。
兎にも角にも、小さな会議室で一行は合流を果たす。
「サラ……」
「今は泣き疲れて眠ってます……宿に置いて来るより、こっちの方がサラも落ち着くと思って……」
心配顔のリーゼに、そっと席に着いたシーナが応じる。その隣の席のオットーは、場違いな城内の雰囲気に、明らかに居心地が悪そうだ。
ケイリーは相変わらずのポーカーフェイスだったが、非常事態に奔走したせいか焦燥の色が濃い。リーメイムを目の前で攫われた不手際もあり、一刻も早く救出に向かいたい事だろう。
ベイク夫妻も着席し、ようやくリーゼが重い口を開く。
「リーゼ嬢、早速ですが風の部族から持ち帰った情報の公開をお願いします。リーメイム君が攫われたそうですが……上に居座っている連中は、彼と何か関係が?」
「そうね、何から話せばいいか……最初は彼に起きた、異変の収拾の依頼での里帰りだったのだけど。リーメイムが“翼の民”と呼ばれる、好戦的な戦の民の一員なのは、恐らく事実なのでしょう」
「それを上の連中が突き止めて、連れ戻したついでに宣戦布告して来たのか? 好戦的と言うより、何も考えてないんじゃないのか?」
一応メーフィストの進行で、作戦会議との名目で情報交換は開催されたのだが。リーゼの報告で敵の正体は知れたのだが、その目的は未だにはっきりしない。
腕の中の赤ん坊をあやしながら、彼女はなおも言葉を続ける。
「翼の民は、遥か以前は風の民に従属しており、主に戦闘任務を担っていた民族でした。民の数は元から多くはなかったのですが、彼らは風の民との離別後、それを禁呪で補って独特の社会制度に至った模様です」
「戦の専門部族ですか……それはまた厄介ですねぇ」
「禁呪ってなんだ? 独特の社会制度って?」
メーフィストの呟きは、恐らく場の誰もが内心思った事だろう。そんな事よりと、妻に話の先を急かすベイク以外は。宣戦布告もなしに奇襲を仕掛けて来た、相手の真意と実力を測りたいのだろうが。
せっかちな相槌に、リーゼもため息を交えつつ応じる。
「彼らは生来の戦闘本能に逆らえず、結局は私たち風の民と袂を分かちました。そして人手不足を補うために、女王社会へと禁呪により自らの社会構造を変えて行ったのです。丁度蜂や蟻のように、女王とその僕と言う構図ですね……女王は一度に、何百何千と卵を産むそうです。そのほとんどが男で、兵士か労働力になるようです。稀に生まれる中性の子供が、次の女王候補として大切に育てられるそうなのですが……」
「…………ちょっと待て、リーメイムはひょっとして……?」
ベイクの嫌な予感混じりの呟きに、リーゼは恐らくと頷きを返す。あいつはどこまで不幸なんだと、ここに至っては同情すら困難な窮地に追い込まれている元少年に。
オットーなどは、あいつは女王だったの? とベクトル違いの発言を繰り出してるけど。そしたら不味いじゃんと、敵の戦力増強の心配をし始める始末。
卵がどの程度で羽化するかは別として、確かにその通りではあるのだが。
「リーメイムの心配もしてやれ、オットー。とにかくあいつを連れ戻せば、これ以上敵の戦力が増えるのを阻止できる訳だ。いまいち燃えない救出作戦だが、何とかデリッドを焚き付けて俺は陽動で突っ込んだ方がいいかな?」
「リーゼの魔法素養なら、王城の次元通路の調整に大して時間は掛からないだろう。俺たちで救出班を作ろう。リーゼは後方支援で、リーメイムを救い出したら再調整して道を作ってくれ。その後の敵の反撃は、水際防御でメーフィストの手腕だな」
「こちらの兵隊は飛べませんものね、水際防御も致し方ない。了解しました、ケイリー君の作戦で行きましょう……ついでに念のため、こちらからも突入班を出しましょう」
メーフィストの提案に、一瞬ケイリーは迷惑そうな顔をしたものの。囮役程度にはなると思ったのだろう、無言で頷いてこの件はお終いに。
身内同士での阿吽の呼吸のせいか、あっという間に作戦会議は終了して。一行は会議室を出て、それぞれ準備の為に慌ただしく駆け回り始める。
廊下の窓越しには、相変わらず宙に漂う無数の箱舟の群れが。
ベイクは妻と並んで歩きながら、突入のタイミングの打ち合わせなど。ついでに労わりの言葉を掛けつつ、リーゼの腕から赤ん坊を預かり取る。
リーゼは旦那の危険度の高い役割に、無茶はしないでと釘を刺すのを忘れない。そうは言っても、青竜を操れるのは彼しかいないのでは仕方がない訳で。
適材適所、救出班の危険度もかなり高いのも確かである。
「そっちも充分気をつけろよ……リーメイムが敵方に回っているとは思わないが、向こうの戦力もまだ知れないからな」
「あいつが女王ねぇ……そんな大物には見えなかったけど」
「あの子が箱舟で授かった強大な魔力、あれは卵を大量に産む為のものだったようですね。その為にアイテムが介在した筈なのですが、それを解析して魔力を取り除いてやれば、あの子も普通の生活に戻る事が出来るかも知れません。可能なら、それの回収もお願いします」
この情報を入手するのに、あちこちに借りを作ってしまったリーゼとしては。正直、全てを正常に取り戻して、ハッピーエンドで締めたいと願わずにはいられない。
上空に居座ってガーゴイルをけし掛けて来る敵の本意は分からないが、姿を眩まされるよりは数段マシと思った方が良いのだろう。彼らは自身の魔法技術、そして戦闘能力に過剰な自信を持っている。
そこに付け込む余地がある、苦労して仕入れた情報を有効活用しなければ。
旦那のベイクは、相変わらず喧嘩負け知らずのガキ大将のような表情を浮かべている。リーゼは気を引き締める言葉を捜したが、結局は言葉にするのを控えてしまった。
長い廊下を抜け、広い吹き抜けに出ると、太い柱越しにどんよりとした空と再び浮舟の群れが窺えた。その中央に、大きな浮島のような浮遊物体。恐らくは、彼らの居住区になっているのだろう。リーメイムがいるとしたら、十中八九ここにいる筈。
かつての同盟部族に何を感じたか、リーゼは悲し気に目を逸らした。
残りの面々も、どこか不安そうな面持ちではある。これから敵の本拠地に乗り込むのだから、当然の反応ではあるのだが。サラだけが、未だシーナの胸に顔を預けて夢の中。
ベイクに抱かれていた赤ん坊が、小さくむずかり始めた。慌て気味にあやし始めるベイクだが、何かを訴えるように一向に効果が上がらない。
リーゼがそれを見て、何かを決意したようにその場を締める言葉を発する。
「それじゃあ、あなた……赤ん坊のオムツを替えてあげて頂戴。私は今から、皆の通る次元通路の調整を始めるわ」
王城の中庭で散々待たされた青竜のデリッドは、やっぱり不機嫌そうだった。その大きな頭が、接近する人の気配を感じてゆるりと動く。
気配の主の一つがベイクだと知った青竜は、露骨に嫌な顔をする。だが、その隣のリーゼの存在に気付くと、途端にシャキッと表情を改めた。
それから甲高い共通語で、流暢に喋り始めた。
『リーゼ、久し振り! ボクの鱗、綺麗だよね? トカゲなんかと違うよね?』
「古い話を……お前は俺に負けた事より、トカゲって言われた事の方を気にしてるのか? 分かった、お前は立派な竜で、鱗が特に素晴らしい……これでいいか?」
「お久し振りね、デリッド……今日は主人をお願いします。敵は好戦的な翼の民です、事を構えるのは危険でしょうが、大事な任務なの」
青竜のデリッドは、長い首を廻らせて上空を見上げた。今からあそこに飛んで行くのかと、頼まれた厄介事には左程感心が無い様子。
彼の口調は、大きな身体の割には幼さが漂っていた。翼を広げてリーゼに見せびらかせながら、お辞儀するように身体を伏せて見せる。
それによって、青い鱗が陽光に綺麗に反射した。
『ゼンゼン構わないさ、でもぉ……ちゃんとおシゴトしたら、ボクに風のマホウ教えてくれる? 今度フタリっきりでさぁ……』
「人の女房を口説くんじゃねぇ、爬虫類の癖にっ! ……うおっ、危ねぇなっ!」
急に身体を反転させた青竜の、その反動で飛んで来た丸太のような尻尾を器用に避けて。ベイクは大声で、デリッドに抗議する。
しれっとした表情で、大きなバッテン傷付きの顔をこちらに向ける青竜。乗るなら後ろからがいいデショと、済ました口調で言ってのける。
ベイクは罵り声を上げながら、乱暴に青竜の背に跨った。
威勢よく掛け声を放って、白銀の英雄と青竜デリッドのコンビは地上を飛び立って行った。青竜の大きな翼がはためいて、王城の中庭から見る見る遠ざかって行く。
内心は、このコンビは果たして大丈夫なのかしらと、不安に思わないでもないリーゼだったけれど。その姿を見送りつつ、自分の役割に思いを馳せる。
残されたこちらも、大事な役割を担っているのだ。
彼ら凸凹コンビをサポートするのは、この自分の役割に他ならない。王城の地下へと降りて行きながら、決意を新たに練り直すリーゼ。
地下の魔力安定室の前では、シーナが彼女の到来を待っていた。サラと赤ん坊は、近くの別室で王城付きの侍女に面倒見て貰っている筈だ。
リーゼの姿を見て、どこかホッと身体の力を抜くシーナ。
「次元通路への魔力供給は始まってます、後は座標調整と物体通過時の揺らぎ補正を行うだけです。王国の兵団が百名ほど追加されるそうですが、大丈夫ですか?」
「百名の兵団は辛いけど、やるしかないわね。あなたたちも無理しないで、危ないと判断したらすぐに連絡を。私が責任を持って、通路を開いて回収します」
凛と響く声で、リーゼが指示を出す。魔力が充満する部屋の中では、ケイリーとオットー、メーフィストと百名余りの襲撃兵団、それから魔法技師と魔術師が数人ほど作業に従事していた。
百名の兵団は、鎧を着込んで暑苦しい雰囲気を周囲に漂わせている。ベイクの幼馴染たちも武装し終えて、緊張気味に隅で待機している。
二人の女性を見付けて、メーフィストが抜かりなく近付いて来る。
「リーゼ嬢、兵団の用意は整いました。この最初の襲撃が成功すれば、全面戦争を回避する可能性が見込めますよね?」
「主人たちの立てた作戦に、そんなに期待されても困りますけれど。向こうはいわば、指導者的な立場が弱い状況にあると思われます。それぞれが個々の全力を尽くせば、自ずと良い結果が得られるでしょう……さて、用意が良ければ通路を開きます」
メーフィストの問い掛けを軽く笑顔で返し、リーゼは稼動装置の前に立つ。部屋の奥の収束装置に、淡い光がちらつき始めた。魔力がうねり、装置の舞台の中央に揺らぎが出現する。
数秒後、次元通路は安定した六角形を保ち始め、その奥に見慣れない風景がチラチラと窺えるようになった。ケイリー達がその前に立ち、リーゼを振り返って窺う。
術に集中していた彼女は、額にしわを寄せて微動だにせず。
それでも彼女に頷きを残して、ケイリーを先頭にオットーとシーナが通路に姿を消して行く。続いてヴェンス近衛隊長率いる、百人の兵団が整然と続き。
次の瞬間、小さな影が物凄いスピードで部屋を横切って行った。兵団の進行を見守っていたメーフィストが声をあげる間もなく、その影は同じく通路に飛び込んで行く。
一瞬の出来事に戸惑うメーフィストだったが、術に集中していたリーゼは気付かなかった様子。
次元通路が閉じてしまうと、途端に地下の魔力安定室に静けさが戻って来た。メーフィストは口を開くのが嫌でたまらなかったが、今見た事実を報告しないのも後が怖いのを知っていた。
白銀の英雄の妻は、怒ると旦那以上に始末に悪いのは周知の事実。
「あの……今し方、お嬢さんのサラが次元通路に飛び込んで行きましたよ。トンカチ持って、物凄い勢いで。やっぱり、止めた方が良かった……ですよねぇ?」
リーゼの眉が、途端に釣り上がった。
青竜のデリッドよりも大きな浮舟の群れを迂回しつつ、ベイクは翼の民の浮遊都市を見下ろしていた。敵の人手不足は深刻な様子で、都市のほとんどは機能していない様子。
浮舟にしても、操っているのは魔法生物のようだ。領空侵犯しているこちらに対して、目立ったリアクションは今の所無し。拍子抜けの対応だが、熱烈歓迎よりは余程マシだろう。
悠然と空を飛びながら、青竜のデリッドは退屈そうに呟く。
『ゼンゼン反応がないのもツマンないね。どこかに着陸するかい、ベイク?』
「そうだな、適当に……いや、あの都市の中央の白い神殿がいいかな。おっと……ようやく相手のお出ましみたいだぞ、デリッド?」
姿を現したのは、ヨレヨレの年老いた飛竜だった。都市の端の森から飛び上がり、気分は浮遊都市の守護者らしいのだが。長年の酷使が祟っているのがアリアリ、翼も鱗も可愛そうな程にボロボロだ。
青竜のデリッドは馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、旋回して迎撃体制を取る。
「少しは手加減してやれよ、向こうは年寄りみたいだし。それから帰りも拾ってくれ、お前がいないと帰る手段がない」
『りょうかい~』
軽い返答を残し、デリッドは老いた紫竜を見据えつつ旋回行動に移る。その途中で飛行速度が落ちた時点を見計らい、ベイクは白い神殿の目立つ入り口に飛び込んだ。
デリッドが建物にギリギリまで近付いてくれたお陰で、何とか不恰好な着地にならずに済んだ。抜け目なく何本も聳え立つ柱の一つに身を寄せ、ベイクは周囲を観察する。
そこは浮遊都市の中で、一番高い場所にある建物のようだった。
開放感のある吹き抜けのつくりの部屋に、人の気配はごく僅かだった。馬鹿みたいに大きなベッドの周囲に、まばらな人影を素早く見て取る。
その中の一人が目的の人物なのに気付いて、思わず頬を緩めるベイク。一番怪しいと睨んだ建物だが、どうやら大当たりだった様子。だがベイクが気になるのは、ドレス姿のリーメイムよりも、強い気配を漂わせている側近達だ。
やはりこの救出劇、タフな演目になりそうな予感。
「ベイクさんっ、どうやってここに……? 助けに来てくれたんですね!」
「ほぅ……この男が、例の光の民の英雄ですか。早速、我が民の英雄の比較対象が出向いてくれた訳ですな? シャデナン、女王君に婿の素質を見せて差し上げなさい!」
「なんだ……もう嫁入りしたのか、リーメイム? いまいち状況が分からないが、やるってんなら相手になるぜ?」
翼を有する巨漢が槍を手に進み出たのを見て、ベイクも腰の剣を抜いて臨戦態勢に。シャデナンと呼ばれた男はヤル気満々で、嬉々として戦闘の始まりに高揚している様子。
一方のリーメイムは、こうなる事を望んでいたにもかかわらず。ベイクに敵をけし掛けた張本人な手前、何となく気まずい思い。
翼の民の英雄には悪いが、さっさと負けて欲しい。
先程から、神官長による『翼の民の歴史』と『素晴らしき魔法文明』の講座を聞かされていたが、一向に同胞愛なるモノが芽生える気配のないリーメイム。部屋の中に整列していた兵士達は、それぞれ持ち場に戻って行ってしまっていた。
側に控えるは護衛役のシャデナンと神官長のみ、逃げ出す機会を窺っていたのだが。
突然、周囲が騒がしくなったかと思ったら、単騎のベイクの出現である。浮かれる気分はあるのだが、申し訳なく思う気持ちも大きかったりして。
どうにかサポートしようにも、今は動きも不自由なドレス姿である。黙って見守るしかないのかなと観念した矢先、不意に空に影が差した。
続いて物凄い轟音、何かが墜落したらしい。
それはよく見たら、大きな翼を持つ青竜だった。危うく潰されそうになったベイクが、その巨体に向けて容赦ない非難を浴びせ掛けている。
その交友の広さに言葉もないリーメイムだったが、それは神官長のフォーンも同様だった様子。仕切り直しに宙へ飛び立った青竜を、呆然と見守るのみ。
その後に訪れた静寂は、嫌な予感を多分に孕んでいた。
「…………シャデナン?」
「むうっ!? 俺の相手はどこ行った、瓦礫の下かっ!?」
青竜のデリッドによって生産された大量の瓦礫の山は、黙して語らず。どうやら逃げ遅れたらしい、何とも呆気ない幕切れで不戦勝をゲットする白銀の英雄。
納得が行かないのはベイクもだが、仲間を理不尽に失った翼の民の神官長も同様な様子。衝撃はより大きかったようで、何度も名前を呼び続けている。
そしてその呼び掛けに応えるように、ひょっこりとサラ出現。
「「サラッ!?」」
今度の衝撃も、この場の全員の度肝を抜いた。瓦礫の山を軽々と越えた幼女は、父親のベイクとリーメイムを相次いで発見した様子。
張り切って父親の元に駆け寄ろうとして、途中でここに来た目的を思い出したらしく。リーメイムの方に方向変換、その場の空気なんか知ったこっちゃない。
リーメイムが慌てて進み出て、小さな闖入者を確保する。
その様子を眺めていたベイクは、娘の行動の理由に思い至って顔面蒼白。どうやらサラは、自分が辺境出張に出る際に何気無く言った『リーメイムの護衛』を忠実に遂行しているらしい。
正直、子供の純粋な思い込みのパワーを舐めていたベイク。それがサラをこの場に呼び寄せたとしたら、自分と同等の実行力を秘めている事になりはしないか?
さすが俺の子と褒めてやりたい所だが、さすがに今の状況はとても不味い。
「おいっ、リーメイム……頼むから、サラを連れて安全な場所まで逃げてくれ! ケイリー達も次元通路を使って近くまで来てる筈だから、合流するんだ」
「わっ、分かりました……サラは必ず無事に、リーゼさんの元に届けます。またみんなで揃って、酒場で馬鹿騒ぎしましょうねっ!」
力強く頷きを返しつつ、リーメイムは腕の中のサラをぎゅっと抱きしめる。それから決意も固く、少女の手を引いて崩れた石柱の障害物を回り込む。
幸い、独り残された神官長のフォーンは、追いすがって来る気配はない。例えこの手足を失おうと、サラだけは家族の下へ無事に連れ帰ってやる。
決意を込めて、リーメイムは最後にベイクへ叫んだ。
「絶対に勝って、戻って来た下さいねっ!」
「俺の辞書に、敗北の二文字は無いっ!」
目の前の唯一の敵を牽制し、小さく手を振る愛娘に手を振り返しつつ。自信に満ちた眼差しで、白銀の英雄は不敵にそう呟くのだった。
――そして光の民と翼の民の、頂上決戦が始まった。
「磁気状態が良くないからはっきりとは分からないけど、サラの事で怒ってるみたい、リーゼ。バックアップを放棄して、こっちに向かって来るかも……」
「それは困ったな……次元通路を開いて貰わないと、俺達も帰れなくなる。リーメイム救出の前に、サラの確保の方が急務だな」
「うむっ、捕まえる間もなく飛ぶように走り去って行ったからな……もし手ぶらで帰ったりしたら、リーゼに八つ裂きにされるぞ、俺達……」
あながち当て推量ではないオットーの言葉に、覚悟だけはしておこうとケイリーの相槌。持参した小型通信機を弄っていたシーナも、同様に顔色をくすませている。
現在一行がいるのは、浮遊都市の廃墟都市の外れ辺り。見渡せば、下方にこんもりした森があり、坂を上っていけば白い石造りの神殿らしき建物が窺える。
ちなみにサラが走り去って行ったのも、そちらの方向だ。
「サラが向かったあの白い建物、あからさまに怪しいんだがな……さっきの戦闘で騒がしくし過ぎたな、敵がうろついてて進もうにも苦労しそうだ」
「こっちの味方の青竜、苦戦してるんじゃねぇの? あの建物、さっき竜が墜落したけど大丈夫なのかな?」
「サラならすばしっこいから大丈夫よ、多分……青竜の事までは知らないけど」
多少カリカリしながら、オットーの呟きに返事をするシーナ。すぐにでも駆けつけたい思いはあるのだが、先程までの戦闘の激しさを考えると強行突破も難しい。
リーゼの管理する次元通路は、言ってみれば諸刃の剣みたいなものである。こちらからショートカットして出向く利便性は強大だが、繋げっ放しだと相手にもそのアドバンテージを与えてしまう。
だからこちらの利用したい時に、通信で通路を繋げて貰うのがベストなのだが。
順当な筈のその計画も、サラの闖入によって儚く幻と消えてしまった。そもそも最初の目論見は、少人数での隠密行動でのリーメイムの奪還だった訳で。
いきなり大人数の兵隊を押し付けられた時点で、その計画は頓挫してしまった。案の定、通路を出るやいなや敵の襲撃を受けてしまい。
魔法生物と有翼の兵士を相手に、激しい戦闘を繰り広げていたのだった。
こちらは何とか全員無事だが、兵士団には少なからず被害が出た様子。前もって、魔法生物の石像が相手だと釘を刺しておいたにも拘らず、兵士達の持つ武器は小剣が大半だったりする。
そんな中、オットーの大斧が惚れ惚れするほど役に立ったのは言うまでも無く。ケイリーも今回は、使い慣れない手斧を2本持参している。
適材適所、生き延びるためには必要な戦術だ。
「取り敢えずは、王宮の兵士達とは上手い具合に離れる事が出来たし。向こうが敵の注意を引いている間に、建物の影沿いにあの白い建物を目指そう」
「了解……あのでかい青竜が、俺達の真上に落ちて来ない事を祈るよ」
「そうね……ベイクは乗ってなかったみたいだし、彼もどこかで戦闘中なのかも。私達も頑張りましょう」
ヴェンス近衛隊長の隊は、未だに苦戦中らしい。それを背にして一行は、白い廃墟と化した街並みをひっそりと進んで行った。空からの敵影を気にしつつ、痛みの酷くない軒先を利用して。
それでも何度か、単騎で偵察中のガーゴイルに発見されての戦闘に巻き込まれ。そんな時のメインアタッカーは、オットーが担って数分も経たずケリをつけ。
隠されていた実力を、遺憾なく発揮してみたり。
「……ベイクに隠れて気付き難いけど、本当は二人とも凄いのよねぇ。頼りになるわ、この調子でサラの元まで頑張って!」
「向こうも恐らく、移動中なのがネックだけどな……オットー、息は整ったか? 向こうに昔の市場の通りが見えるな、あそこを通って進もう」
「おぅっ、オッケー……」
ケイリーを先頭に、未だに肩で息をしているオットーが最後尾を勤め。破れた布ばかりとは言え、市場跡の通りは空からの視界を幾分は遮ってくれると期待して。
一行は瓦礫の散乱している通りを、坂の上目指してゆっくりと進んで行く。
その歩みが止まったのは、もうすぐ市場の出口が見える階段前の広場だった。2つの人影は、今まで行く手を塞いでいた魔法生物とは明らかに違う。
フードで顔を隠した男達は、明らかにケイリー達の行く手を阻みに掛かっていた。その手にはそれぞれ、鈎付きの棒状の武器を手にしており、見間違いの無い殺気を放っている。
それを見て、シーナを庇うようにオットーが前に出る。
「ここまで出張って来るとは、随分と勤勉なんだな……白銀の英雄は、今頃翼の民の神官長と一騎打ちでもしてる筈だ。お前達が今更駆け付けても、足手纏いなだけだと思うが……?」
「そう思うなら、素直に通してくれればいい……随分と翼の民と懇意らしいが、何か裏取引でもしてたのか?」
「なに……彼らの探し物を、少々手伝っていただけさ。侵略戦争は、我々が吹っ掛けるまでも無かったよ……彼らにとって、侵略は産業なのさ。他民族から奪って生計を立てる、今や彼らも空賊にまで落ちぶれた哀れな存在さ」
断崖の遺跡での襲撃を裏で操っていた、裏切りの民のペアで間違いなさそうだ。ケイリーは舌戦を仕掛けつつ、貴重な情報を仕入れるのに余念がない。
サラやリーメイムの安否も気に掛かるが、どうやら向こうは素直に通してくれる雰囲気でもなさそう。それなら相手の裏事情を、今の内に引き出してしまいたい。
敵の動向や行動心理は、知っておけば次回の予防措置にも繋がる筈だ。
「なるほど……落ちぶれた者同士、仲がいいのは当然だな。他の連中はどうした、お前達だけ使いっ走りか?」
「そこまで親切に、お前に教えてやる義理は無いね……だが、俺達がここにいる目的くらいは教えてやろう。白銀の英雄の存在は、どうにも我々にとって邪魔なんだ。そこで、奴の仲間から削って行こうって話になってね……悪いが、この異民の地で殺されてくれ」
そこから先は、交渉不能の遣り取りへといきなりのシフト。殺気と共に飛んで来た刃先を、ケイリーは横に転がって避ける。オットーも心得たもので、大男との間合いを一気に詰めに掛かる。
対峙してみると、相手の手にする棒状の武器は、かなり厄介なのがすぐに判明した。ケイリーの手斧より間合いが長いし、手首の返し一つで刃先が自在に方向転換して来るのだ。
数度の斬撃の応酬で、浅い傷を負わされてしまった。
オットーの方の戦いはもっと派手で、巨体同士がぶつかり合う死闘だった。周囲の瓦礫は、物凄い音を立てて粉微塵に破壊されて行く。それもそのはず、互いに手に持つ武器は一撃必殺を秘める巨大サイズなのだ。
オットーの鎧と肌にも、それなりに打撲や刀傷が目立ち始めている。大男の持つ武器は、いつの間にか鉤付き棒から大鎌へと形状が変化していた。
その魂を刈り取る波状攻撃を、必死に大斧でブロックしつつ。
密かにタイミングを計っていたオットー、反撃の機会をじっと伺いながら。ローブの大男も両手武器を操っているのだが、なかなか不用意な大降りをして来ない。
オットーの戦いの型は、基本は我流である。相手に合わせて変えるなど、器用な事など出来はしない。ただし、相手をこちらのペースに引き込むのは得意中の得意だ。
試しに足元に転がっていた木片を、相手に向かって思い切り蹴飛ばしてみると。
大男の脛に、見事にヒットした模様。バランスを崩したところに、伸び上がるように一撃を見舞ってやる。体には当たらなかったものの、大男のフードが派手な音を立てて破れて行った。
瞬間、露わになる相手の地肌。
「おおっと……何で今まで隠してたんだ? 個性的な色男じゃないか、恥ずかしがり屋なのか?」
「…………!!」
怒気を孕んだ気合の呼気と共に、大振りの一撃が飛んで来た。オットーのペース崩しが功を奏した結果だが、どうやら怒らせ過ぎた様だ。大男の肌の大半は、磁気嵐によって赤黒く変色していたのだ。
次元間を行き来する導きの民は、大抵は異質な外見を余儀なくされるとの噂は聞いていたが。挑発にこんなに効果があるとは、本人達も余程気にしていたと見える。
光の民への異常なまでの遺恨も、案外こう言う所にあるのかも。
そんな感情の根源は、今のオットーには関係も無く。続いて足癖の悪さを発揮して、今度は直に大男の脛を蹴飛ばしに掛かると。明らかに顔を歪め、後方へと踏鞴を踏み崩れそうに。
その隙を見逃すオットーではない。両手斧を短めに持ち直し、体の回転でその分威力を水増ししながら。相手の懐へとぶつかる要領で、重い一撃を放ってやる。
結果は、鈍い音と共に血飛沫の飛び散る感触が。
裏切りの民の大男は、そのまま地面に崩れ落ち、やがて動かなくなった。手にしていた大鎌も、力なく離れた場所に転がって行く。それを確認して、オットーはようやく肩の力を抜く。
――生と死の境目を、心に強く認識しながら。
一方、ケイリーの戦いもこう着状態に陥っていた。相手のフード男の方も、幾つかの手傷を負わされていて、さすがに警戒心が湧き上がっている様子。
不用意に踏み込んでは来ず、消耗戦の様相を呈してきたが。相方の戦いの結果によっては、追い込まれてしまう事態も大いにあり得る訳で。
そうそう、のんびりしてもいられない状況ではある。
それはお互い同じ条件でもあり、ケイリーにしても長丁場は望まない。使い慣れない片手斧を手に、反対側には愛用のナイフを持って。
不慣れな武器を操る不利は、二刀流の回転速度で帳消しにしつつ。敵のトリッキーな刃の動きにも、非凡なセンスで即時に対応して行く。
このまま有利に、闘いを進めて行くのかと思いきや。
フードの男が、とっさに距離を置いて動きを止めた。相手は暗殺も生業とする、闇の世界の住人なのは知っているケイリー。武器の届かない間合いを取った敵に、逆に警戒心を抱く。
案の定、信じられない踏み込みの速さで懐に入られてしまった。
その斬撃を、間一髪で避ける事が出来たのは僥倖だった。ほとんど勘頼みでの危険回避に、今度はケイリーの方から転がって距離を取る。
どうやら相手は、得意の次元渡りを技の中に取り入れていたようだ。有り得ない距離からの踏み込みの一撃に、獲物は構える前に刃物の餌食になってしまう仕掛けらしい。
なるほど、不意を突くには良い手ではある。
「よく避けたな、運のいい奴だ。フム……白銀の英雄だけかと思ったが、摘むべき邪魔な存在はお前も一緒みたいだな」
「ベイクみたいな難物と、一緒にされても困るな……今度はこちらから仕掛けても良いかな、データ収集が得意のようだし」
言葉で巧みに“視る”と言う動作を意識させ、ケイリーは右手に持つ片手斧を力任せに放り投げた。フード男は、自分の頭上に投げられた斧に否応無く視線を向ける。
その一瞬の隙が、死闘の幕引きに繋がった。先程と同じ位の二人の距離に、フード男も油断していたのだろう。気付けばケイリーのナイフの刃先が、首筋を抉っていた。
頚動脈をきっちり捉えた一撃で、敵の体から力が喪われて行く。
「……何故お前が、次元斬を使える……?」
「あの技はそんな名前だったのか、俺は後で酷く酔うから嫌いなんだがな。何故使えるかなんて知らんよ……俺はお前らの言うところの雑種だしな、変な血が流れているのかも知れないな」
「ふははっ……雑種も侮れないな……向こうも終わったようだ、こちらの完敗だな。残念だ…………」
自分の最期を悟ったフード男は、言葉通りに残念そうな顔を見せ。勢い良く血の溢れ出す傷口を押さえていた手を、やがてだらりと垂らして行った。
恐らくは任務の為に生き、憎くも無い敵を何人も斃して来たのだろう。己の死にもさして執着も無いようで、疲れたようにその場に膝を屈して行き。
やがてそのまま、動かなくなった。
「大丈夫、二人とも? 応急処置するわ、怪我を見せて」
「俺は平気だ、今は先を急ごう……そっちは、オットー?」
「あぁ、何とか動くのに支障はない。でも、これ以上敵と遣り合いながら進むのは、時間を取られて下策だよなぁ?」
シーナの治療を断って、現状の確認を行って。改めて、今後の指針を練りに掛かる一行だったけれど。思わぬ襲撃に時間を取られ、焦りばかりが大きくなってしまっていたりして。
少なくない傷をお互いに負いながら、気に掛けるのはサラとリーメイムの安否。この浮遊都市のどこかにいる筈だが、未だに正確な場所は分かっていない。
出来るなら、最短時間で駆けつけたいのだが。
意外と広い浮遊都市だが、戦いの気配はあちこちから漂って来ている。最短で移動出来るルートを探りながら、建物の影から周囲を探る一行。
その時、ケイリーが妙案を思い付いた。
「……あいつに頼んでみたらどうだ? さっきまで飛竜と遣り合ってたみたいだが、今は暇そうだ」
「おぉっ、グッドアイデア! それじゃあシーナ、ちょっと行って交渉して来てくれ。あいつは確か、根っからの女好きだった筈だからな!」
ケイリーが指し示したのは、少し離れた高台で勝利の雄叫びをあげている青竜のデリッドだった。周囲の瓦礫の山が、戦いの壮絶さを物語っている。
先程まで戦っていた飛竜の姿は、近くには見えなかった。単独で交渉を任されたシーナは、やや不安そうな表情を見せはしたものの。
確かに青竜を説得出来れば、素早い移動と最強の戦力を得られる理屈だ。
「わ、分かったわ……」
いまひとつ釈然としないものの、シーナは素直にそう答えた。あの青竜は自分の絵本にも登場する、白銀の英雄との一騎討ちにも一歩も引かない、ライバル的存在の強敵だった筈なのに。
現実とのギャップに眩暈を覚えながら、それを言うならベイクもそうかと、何となく一人で納得してしまう。竜をナンパしなければならないなんて、なんて状況だろう。
そんな自分の境遇に、ほんの少し同情してしまうシーナだった。
一方、リーメイムとサラの二人は、必死に神殿に隣接する宮殿内を走り回っていた。人影は全く無かったが、警備用の魔法生物は至る場所に配置されていた。
それを避けながら逃げていたら、いつの間にか建物の中へと入り込んでいる始末。サラは単独で、良くここまで辿り着けたものだ。とにかく翼を持たぬ者は、侵入者とみなされるようだ。
女王の筈のリーメイムにも、容赦なく追っ手が掛かっている。
石像のガーゴイルの数は、今や3体にまで増えていた。その分、リーメイムの焦りは増大するのも当然の事。一刻も早く、ケイリー達と合流しなければならないのに。
何しろ、こちらの攻撃力はサラのトンカチのみ、ゼロに等しい。
「サラ、どっちから来たか覚えてる? 一緒に来たみんなの場所、はっきりと分かる?」
走りっ放しで呼吸を乱しながら、リーメイムは脱出経路の確認を行う。サラは少し考え、あちこちに小さな指先を彷徨わせた挙句、結局は困った顔で小首を傾げた。
少女もそれなりに、考えた上で安全ルートを模索してここまで辿り着いた様子。つまりは真っ直ぐここまで上り詰めた訳ではなく、ジグザグに廃墟を渡って来たらしく。
つまりは、帰りの算段など念頭に無かったっぽい。
第一、こんな大きな建物の中など、行きのルートでは通りもしなかったのだ。ここがどこかも分からず、確かなのは下の方向は合っていると言う事実のみ。
それを確認したリーメイムは、明らかに落胆の素振り。状況が状況だけに、少しでも切り抜けるカードか光明を欲していたと言うのに。
そんな訳で、さらに逃げ続ける二人組みだったり。
通路の角を素早く曲がり、既に見飽きたガーゴイルの群れから姿を隠す。周囲を確認すると、左手に小さな扉が見えた。咄嗟にそこに飛び込んで、一息つくリーメイム。
暫く前から自力で走っていたサラは、大して息を乱していない理不尽さを何となく恨みつつ。息を整えながら、顔を上げて部屋の中を確認する。
そこは小さな扉に似合わず、大きくて調度品の多い部屋だった。
観察してみた結果、そこが礼拝堂のような場所なのだと察するリーメイム。とにかく調度品が多いのが助かる、物陰に隠れて敵の群れをスルー。
こちらを追いかけていた魔法生物の群れは、幸い部屋に入って来ること無く廊下を過ぎ去って行ってくれた。それを確認しつつ、二人は四つん這いで部屋の奥へ進む。
部屋の中はステンドグラスや翼有る彫像で、隠れる場所に不自由は無い。
ところが、それが油断に繋がった。長いベンチ沿いに壁際に辿り着いた二人は、自分達を見下ろす有翼の石像に突き当たる。それが動き出したのに気付いて、泡を食って慌てて方向転換するリーメイム。
ところがサラは、もっと直情的な対応に出た。それは相手がもし人間だったら、素晴らしく気の利いた攻撃には違いなかったのだが。
つまりは、持っていたトンカチで石造の足の小指をぶっ叩いたのだ。
相手がもし神経の通った生物だったら、今頃は七転八苦の最中だっただろうが。何の痛痒も感じさせず、ガーゴイルはその巨大な手でサラを叩き潰そうと行動を起こす。
幸い、今まで眠りについていたせいか、魔法生物の動きは錆び付いた様に遅い。ただし今までの追いかけっこで判明しているが、こいつ等は疲れ知らずの化け物だ。
容易に石像の攻撃をかわしたサラ、今度はこちらの番だとばかり。
悠然とガーゴイルの前に立ちはだかる少女、何か逆転の策でもあるのかと思ったら。挑むかのように胸を張って、右手を天へと突き出した。
リーメイムが見守る中、少女の掌に集約された魔力は奔流となって……。
「……ビリビリ?」
「……残念、お母さんみたいには行かないね?」
勢い良く放たれる筈の風だか雷だかの魔法は、実際は静電気のような光を放っただけに終わってしまった。拍子抜けしたのはサラも同様みたいで、不思議そうに自分の掌を見つめている。
そもそも母親のリーゼのように、思うままに魔法を操るにはまだ無理があるのは当然だ。少しだけ期待したリーメイムだったが、次の瞬間には慌ててサラのカバーに。
こちらの事情に関係なく、魔法生物の次なる攻撃が見舞われる。
反応が遅れたせいで、石像の大きな腕が体をかすった。上腕部にえぐられる痛み、それに構わずリーメイムは、サラを抱えて転がりながら距離を稼ぐ。
動き出した石像は、2メートルに迫る巨体だった。そのリーチの長さで、リーメイムが稼いだアドバンテージもあっさりと形無しにされてしまう。
再度の叩き攻撃を、再び転がって避ける二人。
この状況で、サラもトンカチも頼れないのは分かっている。リーメイムは忙しく頭を働かせながら、現状の打開策を図ろうとする。
幸い障害物の多い部屋なので、袋小路に入り込まない限りは平気かも知れない。ただし、こちらの体力が続けばとの注釈がつくが。
石像が諦めるとも思えないし、これはとても困った状況かも。
リーメイムは、もう一度部屋の構造を調べてみた。部屋が広いのは分かっていたが、天井までの高さも意外と余裕がある。凝った形の柱が近くにあって、簡単に上まで登れそうだ。
そう思った瞬間、リーメイムはサラを放り投げていた。
サラは物凄い敏捷性で、咄嗟に柱に張り付いていた。リーメイムが続いて登ろうとするのを見て、猛スピードで上を目指し始める。
当然、ガーゴイルも真下まで来て太い手を振り回して威嚇の構え。獲物に届かないのを知ると、石で出来た翼をはためかし始める。
それを黙って見てるほど、2人は呑気でもお茶目でも無かった。
すぐ側の壁に、奥へと引っ込んだ棚状の場所があった。そこにも変な形の彫刻が置かれてあって、サラは素早くその後ろへと回り込んで行った。
リーメイムも、敵を睨み据えながらその彫像に手を掛ける。ガーゴイルに足首を掴まれても、怯む事無く作業を進める。サラなど、全身を使って彫像を蹴り落とそうと頑張っていた。
その甲斐あって、ガーゴイルの頭上に彫像が落下。
その余波を受けたリーメイムも、盛大に床に尻餅をついてしまったけれど。狙い違わず、ガーゴイルも木っ端微塵の憂き目にあっていた。
石像の重みをもろに受け、悲惨な最期を辿ってしまったガーゴイル。お尻をさすりながらそれを見届けたリーメイムは、何とか安心のため息をつく。
それを確認したサラも、器用に柱を使って降りて来た。
何にしろ、最寄りの危機は乗り切れた。ただし、騒がしくしてしまったので、新たな敵が嗅ぎ付けて来るかも知れない。用心しながら、部屋の入り口を警戒するリーメイム。
ところがサラは、全く逆の方向に興味を持った様子。床に下りてすぐ、ガーゴイルの残骸を弄って遊んでいた少女だったけれど。急に方向転換して、窓の方へと駆け寄って行き。
窓を叩いてアピール、どうやら何かを見つけたっぽい。
その隣にはバルコニーに出るガラス扉があって、サラもすぐその存在に気付いたらしい。小さな手で試行錯誤して、開いた隙間から身体を滑り込ませる。
それを眺めていたリーメイムも、慌てて少女の後を追う。何かに急かされてと言うよりも、サラを独りにさせないために。その当の本人は、誰かに合図するようにピョンピョン飛び跳ねて宙に手を振っていた。
その時、バルコニーに巨大な影が差した。
「良かった、2人一緒だったか……何だリーメイム、その格好は?」
「えっ、オットーさん……お師匠にシーナさんも? みんなして、一体なんてモノに乗ってるんですかっ!?」
「こいつは青竜のデリッドと言って、まぁ味方だよ。とにかくサラが無事みたいで良かった……あぁ、いやリーメイムもなっ?」
ボクの心配はオマケですかと、何だか釈然としないリーメイムだったけれど。眼前に降り立った巨大な生物を見た途端、そんな思いも見事に吹っ飛んでしまった。
2人がいた場所は、立派な建物の3階のバルコニーだった。あちこち不規則に石像の番人達から逃げ回っていたので、自分達の位置を把握出来ていなかったのだ。
その階まで、余裕で覗き込む事が出来るのはスゴイ。
その長い首を伝って、ケイリーとオットーの救出部隊が2人に合流して来た。その後に続いてバルコニーに登って来るシーナに、オットーが手を貸している。
再会を喜び合いながらも、リーメイムはどうしても眼前の青竜から目が離せなかった。青い鱗に覆われた、巨大な体躯の魔法生物。その額には、派手にバッテン傷が伺える。リーメイムの顔ほどもあろうかと言う瞳が、どこか親しげにこちらを眺めている。
サラなど物怖じせず、駆け寄ってペタペタと鼻面を撫で回し始めた。
「あの……このドラゴンって、白銀の英雄に懲らしめられた、例の……?」
「ベイクがここに乗り込むのに、運び役にと召喚したんだ。俺達の脱出手段も、こいつに頼む予定だ。……リーゼが逆上したせいで、彼女のサポートが当てにならなくなった」
そう言ってケイリーは、疲れた表情で呑気に竜を愛でているサラを見た。なるほど、勝手に付いて来ちゃったのか。それも多分、ボクを救出するために……。
シーナに簡易手当てを受けている間、何となく照れ臭い思いに包まれるリーメイムだったけれど。現状は敵地の真っ只中、そうそう寛いでもいられない。
オットーが皆を急かして、脱出プランの実行を提案する。
「全員が無事に揃ったんだし、さっさとここを逃げ出そうぜ。今の所、護衛の浮舟は動いてないけど、あれが全部動き出したらさすがにヤバイぜ!」
「そうだな……こいつの気が変わらないうちに、さっさと地上に届けて貰おう」
オットーの大声での提案に、気だるげにケイリーが応じる。どうやら青竜の支援は、万全と言う訳では無いらしい。多少不安になりつつも、サラを抱えたシーナの後に続くリーメイム。
何にしろ、青竜に搭乗するなんて初めての経験だ。サラの方も、かなりテンションが上がっている様子。ところが有頂天なのは、搭乗者ばかりではなかった様子。
リーメイムの顔を覗き込んで、青竜のデリッドは浮かれた口調。
『うワァ……このコが悪者に攫われタお姫様? ソウなんだよ、キレイなお姫様は攫われル運命にアルんだヨ! ……ねえネエ、今度はボクに攫われテみなイ?』
「えっ、えぇと……また今度ね?」
絶対だよとはしゃいだ様子の青竜に、一人脱力するリーメイム。これってナンパなのかなと悩みつつ、とうとう人外の生物にまで口説かれた事実に貧血を起こしそうに。
途端に怒りが湧いて来て、リーメイムは先に乗ったケイリーに小声で詰め寄った。
「この竜にナニを吹き込んだんですか、師匠? ボクの事お姫様って……まぁ、完全に間違いじゃないけど」
「そう怒るな、こいつは女好き……と言うか、偏ったシチュエーションが好みなんだ。さっきまではシーナを口説いてたが、ヤル気を出させるためにお姫様の救出に向かってる事にした。助かりたかったら、役割を演じろ」
「はあ……女好きのドラゴンですか……」
勝手に盛り上がっている青竜に乗り込んだ一行は、安心して良いものかと戸惑いつつも。改めてドレス姿を見られたリーメイムも、居た堪れない思いに捉われて。
それじゃあ飛んでくれないかと、ご機嫌を損ねないようにとオットーの変な催促に。それじゃあ行くねと、何とも軽い返答が返って来て。
それに違和感を覚えたのは、他ならぬリーメイムだった。
「あれっ、このメンバーで地上まで戻っちゃうんですか? それじゃあベイクさんは、どうやってここを脱出するんですか?」
リーメイムの素朴な疑問に、思わず固まる一同。ようやくの末に救出に成功した事で、誰もベイクに気を回せなかったようだ。無言の一同を見兼ねたように、サラが再びバルコニーに飛び移る素振りを見せる。
慌てて全員でそれを押し留めた時、どこか遠くで爆発音が響き渡った。
「……今のは魔法の炸裂音かな、ベイクか?」
「良く分からなかったが、ここより下の方角じゃなかったか?」
『ベイクのコトはどうでも良いケド、ヘンなのが近付いて来るヨ……取り敢えず飛ぶネ?』
デリッドの言葉に、慌てて周囲を見渡す一同。中庭に居座る青竜を見付けて、ガーゴイルの一団が宮殿の屋根を迂回して飛来して来ていた。
デリッドは酸のブレスを置き土産に、ゆっくりと力強く宙に浮き始める。ドロドロに溶けて崩れ行く石造を目にして、リーメイムは思わす呟いた。
その強さは、今更ながらに反則級だ。
「良くもまぁ、こんな強そうな竜に勝てましたね、ベイクさん……でもさすがに、空を飛んだりは無理ですよね?」
「風の魔法を駆使しても、さすがにそれは無理でしょうね……何とかベイクを見付けられないかしら、デリッド?」
シーナの言葉に、デリッドは飛びながら同乗者の群れを伺う。飛び立ったは良いが、やはり周囲に浮かぶ無数の浮舟の群れは心臓に悪い。
敵は人手不足らしいが、ガーゴイルのような自動攻撃手段が働かないとも限らない。幾ら青竜が最強生物だとは言え、この数に一斉に掛かって来られたらアウトだろう。
ましてやただの便乗者など、抗う手段すらない。
『マァ、やってみるケド……そう言う約束だったしネ? でも、ココの敵全部とやりアウ気はないカラ、奴らが動き出すまでネ!』
敵の神官長のフォーンに巧みに誘導されている事に、ベイクは気付いていた。抜き身の剣を手に、それでもベイクは追跡の手を緩めない。
フォーンは自前の翼を広げて、飛びながら下方向へと吹き抜けの回廊を降りていた。ベイクも半ば、跳ぶように階段を駆け抜けて行く。
時折お互いに放つ攻撃魔法は、飽くまで牽制でしかない。
相手の放つカマイタチを魔法防御で弾きながら、ベイクは焦らずに敵の動きを追っていた。こちらの攻撃魔法も、相手の素早い動きに次々とかわされて行く。
回廊はとても広く、中央に太い柱が設えてあった。外壁と中央の柱には階段が連なっているが、翼の民のフォーンには必要がない様子。
と言うより、わざわざ階段を作っているのは外敵をおびき寄せる為っぽい。
一度ならず、壁や床に設置してあった罠が作動して、ベイクに襲い掛かって来た。もっとも、そんな場所は既に嫌な色に変色してたりして、罠のビックリ度は下がっているけれど。
どうやら年季の入った施設らしい、至る所にそんな類の染みが見受けられる。それが歴代の外敵のものなのか、翼の民の戦士のものなのかは判然としないが。
立体的な動きの出来る、翼の民の優位は確立されている様子だ。
神官長のフォーンも、その辺は充分に心得ているようだ。時折トリッキーな動きで、急に思い立ったようにベイクの頭上を取りに来る。
一方のベイクも、常人では考えられない動きで相手との距離を詰めようとする。常識外れのその動きに、神官長のフォーンも一瞬肝を冷やした顔付きになる。
その攻撃で、白いローブの切れ端が宙に舞った。
そのアプローチ以降、フォーンも幾分か慎重になったようだ。回廊の景色も、下がって行くに連れて段々と変化が見られ始める。壁に小さな窓が等間隔に出現するようになって、そこから光が差し込んでいる。
その陽光は、階段や壁に不可思議な模様を作り上げていた。ベイクが何気無くそこからの景色に目をやると、案の定青い空が広がっていた。
どうやら、すぐ壁の外は中空になっているらしい。
嫌な予感がひしひしと迫り来る中、中央の柱に鎮座していた石像の襲来も加わって。風霊の剣で撃退しつつ、敵ボスの行方を視界の端で確認するベイク。
どうやら最終ステージはすぐ下にあるようだ、闘技場のような地面がすぐそこに接近している。躊躇わずにそこに降り立ち、改めて翼の民の神官長と対峙する。
浮遊都市の、完全に底に位置するらしいその場所で。
「よぉ、なかなか楽しそうな場所だな……いいのか、お前の女王様は逃げちまったぞ?」
「十五年も待ったのだ、今更そう急く事もあるまいよ。まずは、邪魔者を排除するのが先決だ……違うかね、光の民の英雄殿?」
「ほう……逃げ回ってただけの割には、随分と自信あり気じゃないか?」
「我々の元に戻って来たのは、女王君だけではないからな……そう、この剣もそうだ」
二人が対峙する場所は、闘技場のような丸い床造りの吹きさらしだった。壁が無く、8本の円柱が代わりに灰色と白のタイルで出来た床を支えている。
柱の間から窺えるのは、白い雲と蒼空の景色だった。
神官長のフォーンが懐から取り出した小剣を見て、ベイクは思わず首を傾げる。見覚えがあると思ったら、どうやらリーメイムの所有していた物らしい。
アレは確か、結局は魔力の暴走を止める手段が分からず、諦めて箱舟の遺跡に置き去りにしてしまった筈。ご丁寧に、向こうで回収してくれていた模様だ。
今も実際、嫌な魔力を周囲に撒き散らしている。
「これは我が部族の宝剣で、名を翼の象徴と言う。高貴なる血の者が使えば、計り知れない力を授けて下さる……」
「能書きはいいから、さっさと使え……せめてものハンデだ」
ベイクの不敵な挑発にも、フォーンは顔色を崩さなかった。小剣は自ら宙に浮き、眩い光と共に徐々に形を変えて行く。その脈動の凄まじさに、思わずベイクは目を眇めた。
光はやがて収縮し、それから巨大な爆風と共に翼を供えた四本足の獣の姿となった。青竜ほどではないがかなりの巨体で、表皮は光を反射する水晶のような形状だ。
その鋭い瞳が、白銀の英雄を敵として捉える。
「でっかいキメラだな、奥の手だけあって強そうだ……それじゃあ最終ラウンドと行こうか!」
「ただのキメラではないぞ、光の民の英雄よ。貴様も風の魔法を嗜むようだが、我らの守護神には全く利かぬと知れ! それからこれは親切から言っておく……勝手に端から落ちぬようにな? お主の死体は、我が女王君への貢ぎ物にする故」
翼の民の守護神は、獅子と蝙蝠の顔に真っ黒な猛禽の翼、それから尻尾が三又の蛇のキメラだった。横に仲良く二つ並んだ猛獣の顔が、いきなり咆哮を放って来る。
戦闘はそれを機に、唐突に始まった。いきなり距離を縮めて来たキメラの、牙がベイクの鼻先を掠めて行く。戦闘力はありそうだ、力もスピードも侮れないとベイクは判断を下す。
風霊の剣の放った超音波は、蝙蝠の口から放たれたそれと、空中で激しく衝突して四散した。続いて放った風の魔法は、神官長の言葉通りに表皮に弾かれて完全に無効。
有翼のキメラは、避ける手間さえ掛けずにまっしぐらに突っ込んで来る。
「人の話を聞かん奴じゃな、無駄な真似をする余裕などあるのか?」
「やかましいっ、貴様から片付けてやろうか?」
キメラの突撃を避けながら、ベイクは風打ちの魔法で空中で二段ジャンプ。優雅に天井近くを浮遊していたフォーンに、不意打ちで襲い掛かる。
虚を突かれた翼の民の神官長は、咄嗟に防御魔法を張って応戦。風霊の剣の切っ先は、それを難なく突破はしたものの。どうやらローブに自動防衛作用があるようで、一瞬剣先に絡み付く動きを見せる。
それが刃の切れ味を、幾らか鈍らせたようだった。
お互いに舌打ちしつつ、再び距離を取る両者。横槍を入れるように、真下から有翼キメラがベイクに迫って来た。それを何とか身をひねって避け、鋭い牙をかわすのに成功する。
安心するのはまだ早かった。尻尾の三又の蛇が、まだ降下中のベイクに鎌首をもたげて襲い掛かる。ベイクはそれも、キメラの背中を強く蹴った反動でかわしてみせて。
それに追従する1本を、離れる間際に切り捨てる事に成功。
キメラの絶叫を聞きつけて、フォーンの援護射撃が飛んで来た。落ち着く暇も無く、ベイクは石畳の敷かれた床を駆け回る破目に。
反撃のきっかけも掴めないまま、戦場に新たな変化が。別の奇妙な叫び声が、柱の上から降って来たのだ。見上げると、有翼の巨大サルが天井近くに開いた穴から飛び出して来ていた。
全部で四体いる援軍は、濃い灰色の剛毛で覆われたキメラの一種らしい。
一応は魔法生物のようだが、今までの石像達とは大きさも動きも段違いだ。どうやら、この最終層の番人のようだ。ベイクは再度舌打ちし、囲まれないように後退する。
各個撃破を狙いたいが、敵もシンクロした動きで追従して来る。
「ネタが尽きないな、おい? そんなに守護神様が信用ならないのか?」
「余計なお世話だ……言っておくが、我らの守護神の力はこんなものではないぞ?」
相変わらず中空に留まるフォーンに嫌味を浴びせつつ、ベイクは剣を振るう。不用意に間合いに飛び込んで来た、二体の有翼サルの腕と翼を切り落とし、数の不利はさほど感じてはいない様子。
それでも何かを感じたらしく、一瞬動きを止めるベイク。掛かって来る敵を粉砕しながら、戦場の変化を見極めようとする。違和感の正体は、敵の切り口から漂い出ているガス状の何かだった。
そのせいか、周囲の空気は膜が掛かった様に霞んでいる。
「何だ……これは?」
魔法や呪いの類ではなさそうだが、毒の可能性は大いにある。口元を覆いながら、ベイクは念の為に風の魔法で自分の周囲を覆った。
そんな防護策も、あまり効果はなかった様子。敵の有翼サルを切り捨てる度、その空気の重さは増して行くばかり。完全に雑魚の掃討が終わった頃には、見えない圧力はベイクの自由を奪い去っていた。
これはただ事ではないなと、遅まきながら敵の術中に嵌まった事に気付くベイク。
想像通り、ここから敵の猛烈な反撃が始まった。フォーンの急降下からの、衝撃波の攻撃を間一髪でかわしつつ。自分の身体の鈍い反応に、自然と苛立ちを覚えてしまう。
続いての有翼キメラの突撃は、完璧にはかわし切れず。獅子のたてがみを左手で掴んで、辛うじて背中に張り付いてこれを凌ぐ。
すぐに尻尾の蛇の襲撃に振り落とされたが、深い手傷は負わずに済んだ。
「いきなり強くなるのは卑怯じゃねぇか? 何だ、この不味い霧は?」
「既に結界の霧の威力は、その身で思い知ったようだな……我らが守護神も手傷を負わされてお怒りのようだし、その罪はじっくりと償って貰わねばな?」
神官長フォーンの言葉通り、怒り狂ったように凶暴に暴れまわる有翼キメラ。厄介なパワーの一撃に、ベイクは一気に劣勢に立たされる。
闘技場の端まで敵を追い詰めると、その圧倒的な力は柱の一本を崩壊させてしまう。床も既にボロボロで、多数のひび割れが周囲に生じている始末。
肝心の風霊の剣の切れ味も、すこぶる悪くなっている気が。
悪態をつきながら、再度風の召喚を試すベイク。乳白色の霧は、気流にほんの少し拡散しただけで払い去るには不十分。逆にフォーンの援護射撃魔法は、その切れを増して襲い掛かって来ている。
敵の猛襲に、とうとう破壊された床の一部が地上へ墜ちて行った。
落下にも気をつけないといけないベイクは、攻防の度に何度も肝を冷やしつつ。蝙蝠の口から放たれたブレスを躱しつつ、カウンターで思い切り顔に斬りつける。
風霊の剣の威力は、思っていたよりも衰えていたようだ。刃の空滑りに、斬りつけたベイクの方がバランスを崩す始末。その隙を突かれて、逆襲のカギ爪の一撃がベイクの上半身にヒット。
防具が吹っ飛び、肉の一部が抉られる感覚と衝撃。
「くっくっ、我らが最強の守護神を相手に、まぁ良く持った方だろう。だが、光の民の英雄も所詮は小物……策を労すまでもなかったかな?」
頭上から降って来る高笑いに、倒れたまま露骨に顔をしかめるベイク。胸の傷に手をやり、何やら考え込む素振りを見せ。そんな余裕も、次の瞬間には失せていた。
有翼キメラの獅子の顎が、横たわっていたベイクの胴体に噛み付いていた。床ごと削るようなその一撃は、高らかな歓喜の方向と共にその場に響く。
その白い牙を伝わって、白銀の英雄の赤い血が床へと滴って行く。
「これで残る大義は、我が女王君の帰還のみじゃな……それから光の部族を制圧して、かつての栄華を取り戻すのにもう一息と言ったところか……」
ベイクの身体から力が抜けて行くのを見て、神官長フォーンはにんまりと笑みを作った。勝利を確信した表情が、しかし次の瞬間凍り付く。
炸裂音は、むしろ淡白に白い霧で充満した空間を震わせた。驚いて目を剥くフォーンの視界に、獅子の顔を失ってのたうち回る彼の守護神がいた。
光の民の英雄は、その二つ名に相応しく白銀のオーラを纏って静かに佇んでいる。
うろたえる翼の民の神官長を尻目に、派手に血に塗れた白銀の英雄の謎の行動が。自らの流れる血を、両刃の剣の中間の隙間に滴らせて行く。
風霊の剣の透明な方の刃は、じきにその血の色に染まって赤い光を放ち始めた。
「ば、馬鹿な……お主は一体、何者じゃ!?」
「生きた竜の血を浴びると、稀に超人的な力を得られるって伝説を知ってるか? 別にこんな力、欲しくはなかったんだが……デリッドはアレでいい奴だし、ピンチの時くらいは使ってやらないとな?」
「馬鹿な……たかが人間が、竜の力を取り込んだと言うのか!? いや、しかし……」
ベイクは軽く肩を竦め、皮肉気に笑みを浮かべてしっかりと敵を見据えた。血色の失せて蒼褪めた顔で、改めて風霊の剣を握り直しつつ。
獅子の顔を失ったキメラが、半ばよろけながらベイクに突っ込んで行く。至近距離からの超音波のブレスが、床の表面を削りながらベイクに襲い掛かる。
皮肉な笑みを湛えたまま、ベイクは風霊の剣を無造作に振り下ろした。それだけで敵の攻撃は呆気なく霧散、さらに有翼キメラの巨体にまでダメージが及ぶ。
己の肉体の悲鳴を無視して、ベイクは二撃目を最大出力で放った。
血が血管内で沸騰するような感覚、細胞が蒸発して行く嫌な幻聴……光の奔流の中、人間には過分な力が体内で暴れるのを感じる。
気がつくと、キメラの姿は視界から消え去っていた。
「竜の血の力は、制御が利かないのが難点だな……少しやり過ぎた、まぁ滅多に使わないから仕方ないかな」
「……大した能力だな、お主たち光の民に戦を仕掛けたのは、実際のところ失敗だったかも知れぬ。女王君さえ顕在なら、あるいは……」
「今さら見苦しいな……まぁ、リーメイムにこれ以上ちょっかいを出さないと言うんなら、見逃してやってもいいぞ?」
「それは出来ぬ約束だ……女王君なくして、我ら部族の再建は成り立たぬ!」
浮遊都市の底に位置する闘技場の半分は、ベイクの放った力で有翼キメラの姿と共に消失していた。荒々しい風が吹き込んで来て、両者の周りで戯れている。
8本あった柱も半分を失って、ベイクの近くの足場もかすかに揺れが襲っている。崩れ落ちた床越しの遥か下方に、ベイクの故郷の大陸がくっきりと見えていた。
自分の生まれ育った故郷に、かすかな感慨を覚えつつ。
確かに、相手の言い分はもっともである。背中に背負う物、部族の期待が大き過ぎて、素直に引く事が出来なくなってしまう。
光の民の英雄の名を冠せられたベイクにも、その気持ちは良く分かった。
流血のし過ぎで、ベイクの余力はほとんど残っていなかった。それでも最後の力を振り絞って、彼は敵の総大将と対峙する。いつものように、後の事は何も考えない。仲間が何とかしてくれる事を信じ、彼はいつも無茶をして来た。
ほんの一瞬、目の前の敵に無性に哀れみを感じるベイク。相手は自分に、どんな感情を抱いているだろうか……部族再興の大儀を潰す、非道な魔物? 翼すら持たぬ下等な生物の癖に、目の前にちらつく邪魔な存在?
自分は光の民を代表しているつもりは無い、俺は俺だ……。
その攻撃は、いわば自爆に近かった。有翼キメラの姿を失った翼の象徴だが、その魔力自体はロストしておらず、ずっと周囲に漂っていたのだが。
新たな宿主に、己を負かしたベイクを選ぼうと動き出しており。それを悟った神官長のフォーンが、それだけは阻止しようと力の譲渡を邪魔しに入った。
その一撃は、まさに自らの命と引き換えにしたモノで。
実際は、ぶつかり合った瞬間に大音響を発したのだろう。中心にいたベイクには、全ての感覚が曖昧に濁ってしまっていた。膨大な魔力が渦を巻き、フォーンと言う人物だったモノが歪んで崩れて行くのが、発光する白色に支配された視界の端に伺えた。
ベイクはただ、一つの部族が滅び行く際に発する、悲しみに満ちたメロディを聞いていた。
身体中の感覚が、どこか遠くへ消失していた。闘いで壊れた柱や床と同じだと思い至った途端、ここが空中である事実を悟るベイク。
少し遅れて、ようやく浮遊感と風のうなる音が聞こえて来た。信頼する仲間達も、さすがにこれでは救助の施しようがないだろう……。
仲間達の顔が次々に浮かんで来る……お馴染みの酒場での馬鹿騒ぎ、数々の辺境での冒険、子供の頃のふざけ合い……。親がいないベイクにすれば、ケイリーやオットーとの繋がりは兄弟も同然だ。
口にこそ出した事はないが、それは皆の共通した思いだろう。
美しい少女の幻影は、ベイクの脳裏の中でも一際強烈だった。記憶は今でも鮮明で、華やかで溢れんばかりのビジョン。彼の思考の大半を独占して、離さない強烈な引力を放っている。
鼻っ柱の強いその黒髪の少女は、彼と過ごす時間の中でいつしか落ち着きを備えて行く。それから奇跡のような出来事の末に、二人の子供の母親の顔に変化した。
俺の子供達……何に変えても守り抜くと誓った、自分が手にした宝物。
大切な家族の記憶と共に、奇妙な浮遊感はまるで抱擁のような温かさを備え始めた。血を流したせいなのか、思考も次第に曖昧になって行く。
こんな自分の顛末を知ったら、リーゼは悲しむだろうか……それとも怒る?
――妻の強烈な叱り声を聞いた気がして、ベイクは絶望の中眉を顰めるのだった。