天が動く日
侭ならないわねと、リーゼは密かに嘆息した。何事も侭ならない、捨てた筈の地位だとか称号が自分に付いて回って来る。お陰で里帰りからこちら、全く身動きが取れない。
ある程度予測していた事態だったとは言え、ここまで酷いとは思っていなかった。リーゼは表面では和やかな笑顔を作りつつ、内心では苛立ちを募らせて行った。
全く、実家に戻ったのが全ての間違いだったのかも。
親しい知人に数日の滞在を乞う手も、まぁ無いではなかったのだけれど。こちらは子持ちの身の上だし、その世話まで頼ってしまうのも気が引けて。
後で家の方に帰郷がばれでもしたら、後味が悪くなると言う事実も加味した上で。総合的に判断して、実家に舞い戻ってみた結果がこの膠着状態である。
本当に侭ならない、調べ事ひとつ満足に進められないなんて。
この事態を招いたのも、風の民の複雑な政治運営の存在が理由の一つだった。風の民の政治の実権は“昇仙会”と言う、8つの氏族からなる体制が握っている。
最高位の姫巫女も、もちろんこの氏族の優秀な子供の中から選出される。知力や魔力の秀でた子供は、幼い頃から隔離されて教育と言う名のふるいに掛けられるのだ。
民を導く者として、皆の期待を一身に背負わされて。
もちろん姫巫女を輩出した氏族もまた、権力の座を引き寄せる事となる。一族の浮き沈みが絡むこの選抜イベントは、だから綺麗ごとだけでは決して済まされない。
一族の中には、平民から才能のある子供を養子に迎えるところもあると聞く。それはまだ良い方で、権力を欲して裏で暗躍する一族は少なくないのだ。
そしてリーゼの一族もまた、強大な権力を持つ氏族のひとつだった。
つまりは、権力に執着する欲望もまた強いと言う方程式が成り立つ訳で。姫巫女の座を半ば強引に捨ててしまったリーゼも、未だに有力な手駒の一つとみなされているのは間違いなかった。
リーゼの立場は、その点かなり微妙ではあった。姫巫女の座を蹴った時点で、破門も同然の通達がなされたのは確かだったのだけれど。夫のベイクが2度に渡って大金星を挙げるにつれて、何故か彼女の株も再度の急上昇を見せた様子で。
個人の力で竜と闇の王を倒すと言うのは、つまりはそれ程の事なのだ。
要するに、彼女の里帰りは権力争いの渦中に身を投じるのと同義語でもあった訳だ。これがサラを一緒に連れて戻らなかった、最大の理由でもあったのだが。
赤ん坊ならまだ良い、大人の策略や甘言に、全く聞く耳を持ちようがないのだから。だが、サラは違う。既に分別も持ち合わせており、政治的に利用される素質も充分に持ち合わせている。
何しろ白銀の英雄と風の姫巫女の娘なのだ、祭り上げようとする者だって少なからずいる筈。
そんな訳で、断腸の思いでサラを地元に置いて来たリーゼだったのだが。母親としての本能が、果たしてそれが正しい選択だったのかと常に囁くのも事実で。
ベイクは確かに、彼女にとって良き夫なのは事実だった。民にとっても救世の英雄で、その見解に間違いはないとも思う。ただし、良識のある父親かと訊ねられれば、そうだと答えるのには判断に迷うところ。
破天荒で我が侭な性格は、娘には絶対に受け継いで欲しくないリーゼ。
まぁ、決定してしまった判断を今更あれこれと後悔しても遅い。歓待と言う名目での連日のお披露目祝賀会に辟易しつつ、過ぎて行く時間に焦れる思い。
親族どころか近辺の有力貴族が押し寄せ、挨拶や談話に終われる日々を過ごし。ストレスで気が変になりそうになりつつも、一応は一族の体面も慮って。
こんな生活、逃げ出して正解だったかもとは内心の弁。
リーゼの忍耐袋の緒が限界に達しそうな頃、ようやく彼女に自由な時間がやって来た。これでもこの大陸では重鎮の身である、勝手に出歩くなど許される筈も無く。
一応空いた時間には、屋敷の蔵書を調べてみたりもしたのだが。たいした手掛かりも得られず、調べ物は早くも行き詰まりの気配を漂わせていて。
もう少し大きな図書室か、手掛かりを知る人物に渡りを付けたいところ。
結局は、子供の頃から身の回りの世話をしてくれていた、マーサと言う女性に面会の渡りをつけて。護衛の馬車を仕立てて貰い、赤ん坊を連れて屋敷を後にする。
護衛付きなど面倒ではあるが、正直赤ん坊連れなので馬車の用意はありがたい。元とは言え姫巫女の身分で、この地で勝手に出歩くのは困難極まりないのだ。
政治と言うのは、得てして不便を作り出すモノ。
例えば他の一族と一席設けようものなら、何が話し合われたのかと他者から余計な詮索を受けてしまう。そんな身分を欲した訳ではないが、今更憂えても詮無き事だ。
しかし自分の昔の世話係の老女に会うのなら、下世話な勘繰りを受ける事も無い。何よりリーゼが、風の民の中で一番心を許している相手でもある。
そう言う意味では、とても楽しみな面会ではあるのだが。
実際会ってみると、かつての乳母は最後に見た時よりもさらに一サイズ縮んでしまった気がして、リーゼの心は痛んだ。年月と言うのは残酷だ、皺だらけの掌を取りながらそう思う。
それでもマーサは、知性の衰えとは無縁のようだった。気位も昔と変わらず、リーゼとの面会のためにわざわざベッドを起き出してくれた様子。
親族の話では、最近は寝たきりの日が続いていたらしいのに。
「ああ、リーゼ様……お久しゅうございます。わざわざ赤ん坊を連れて、会いに来てくださるとは……旦那様とサラ嬢ちゃんは、今日は一緒じゃないのですか?」
「元気そうで何よりだわ、マーサ……今回の里帰りに、サラは連れて来なかったの。あの子に政治の世界は、まだ早いって思わない? ベイクは、仕事があって向こうを離れないの。もっとも、暇だったとしても同行は断ったでしょうね。あの人ったら、来る度に騒ぎを巻き起こすんだから」
「そうそう……ふふふっ、風霊の剣を巡っての騒ぎの時は、氏族の長たちが軒並み卒倒してましたわねぇ! あの顛末を耳にした時は、このお婆も十歳は若返りましたとも」
「まあ……それなら無理を言って、ベイクを連れて来るんだったわ。そしてマーサのために、もっと面白い騒ぎを引き起こして貰わなきゃ!」
リーゼの名案を思い付いた子供のような相槌に、二人は顔を見合わせて笑い出した。もっとも、リーゼの言葉は半ば以上が本心でもあったのだが。
そんな事で乳母が元気になるなら、何だって試してやるのだと。
それから二人は、他愛ない会話で時間を過ごした。時折赤ん坊の面倒に話を中断しつつ、穏やかな時間を共有する。昔話に花を咲かせていたかと思えば、家族や生活の些細な事柄を話題に取り上げたりもする。
リーゼにとっては、この世でもっとも心を許せる年配の女性である。時には甘え口調になったり、相談事を持ち掛けたり、もちろん育児のあれこれについても聞きたい事は山ほどある。
そんな感じで、時間はあっという間に過ぎて行き。
そんな話の中で一番盛り上がったのは、やはりと言うかリーゼとベイクの出逢いの顛末だった。その頃を思い出すと、今でもリーゼの感情は高まりを見せる。
乳母のマーサの目を盗み、年若くして姫巫女となったリーゼが、光の民の王族との会合の際に脱走を試み。下町の探索中に、ベイクと出逢ったのだった。
今から八年前の、若かりし頃の物語。
その後の二人の大恋愛劇では、マーサをはじめ様々な人たちに散々迷惑を掛けた。二人の仲も、決して一筋縄では行かなかったのも事実である。
出遭った年の、ベイクの竜退治の大手柄で事態は大きく前進はしたのだが。竜に連れ去られた光の民の王女を救出したと言うので、リーゼが焼き餅を焼いたと言う一幕もあったりして。
その事をマーサにからかわれると、顔を真っ赤に染めるリーゼ。
実際は、二日二晩タイマンで戦い通したベイクを、ケイリーとオットーと共に王女は見学していただけだったそうなのだが。あの頃は若かったと、リーゼは気恥ずかしい思い
それも今は笑い話だ、気を取り直しつつ軌道修正。そう言えば、氏族間に顔の広い乳母なら、何か心当たりがあるかもと尋ねようとしていた質問があったっけ。
いや、そもそも里帰りの目的はコレだった気が。
「そう言えばマーサ、翼の民について何か聞いた事はない? 特に最近、どんな活動をしているか耳に挟んでないかしら?」
「はてさて、翼の民……昔は風の民に雇われて、荒っぽい仕事を好んでこなしていましたねぇ。武力にも魔力にも長けていた民だったけれど、好戦的な性格が災いして、平和へと進んでいた風の民とは袂を分かったと言う話だったような?」
「私が拾った知識も、概ねそんな感じだったわ。問題は、今彼らがどこと繋がっていて、どんな生活を送っているかなのよ」
「彼らが風の民に力を貸していたのは、別に私たちを敬愛していたからって訳ではないのですよ。むしろ彼らは、エリート意識が強くて危うい特性を持っていました。その事を自身が分かっていたからこそ、彼らの暴走を喰い止める指導者的な存在を望んでいたみたいの」
なるほど、二つの民の結託にはそんな裏があったとは。つまりそれは、理想の指導者に風の民がなり得なかったと言う話になる気もするけれど。
マーサの話によると、彼らの仕掛ける空中戦は圧倒的な武力を誇っていたそうだ。戦闘用の浮舟を何十艘も持ち、自分達の拠点とする都さえも、宙に浮かべるほどの技術を持っており。
その代わり、民の人口は決して多くは無かったようである。それが彼らの弱点でもあり、不満でもあるらしかった。何しろ数は力だ、力が同じなら、数の多い方が勝つのが摂理なのだから。
そして彼らは、ついに禁断の魔術に手を出したらしい。
「始めはガーゴイル型の、魔法生物に頼ってたんですよ。数の差を埋めるのには有効だし、何より石像は過剰労働にも文句を言いませんからね?」
「マーサったら、勿体振らないで! 彼らは一体、どんな禁呪に走ったの? ……ひょっとして!?」
「リーゼ様の考えている事と、恐らくは大きな食い違いは無いでしょう。生体への変革魔術は、いつの時代でも不幸しかもたらしませんからね……それも、戦争の為だってんですから救われませんよ」
マーサの言う事は、一から十までもっともだ。そんな方法で力を得て、一体誰が幸せになれるというのだ? 禁呪と言うのは自然の摂理をひん曲げる、どんな民も手を出してはならないパンドラの箱だ。
それはまぁ、今は脇へと置いておこう。自分が抱えている問題は、リーメイムが今の話のどこに関わっているかと言う事に他ならない。……まさか、一番の不幸を生み出す部分ではあるまいと思いたいリーゼ。
心の中で必死に否定していると、マーサが思い付いた様に言葉を付け足した。
「そうそう、ヴィンス氏族を訊ねてみると良いでしょう。彼らは風の民の中でも武道派だけれど、だからこそ翼の民とも暫くは連絡を保っていたようですよ。恐らく今の翼の民の動向を知っているとするなら、彼らをおいて他にないでしょうね」
木槌亭の入り口フロアは、混然な上に騒然としていた。旅装束を着込んだベイクは、その中にあって完全に焦燥した表情。彼がこんなにうろたえるのは珍しく、その原因であるサラは完全にむくれていた。
その理由も当然なので、フォローする面々も強く嗜む事も出来ないと言う。
「参ったな……父ちゃんこれから仕事なんだ、それは昨日話して分かったって言ってくれただろ、サラ?」
「困ったわねぇ……サラ、聞き分け良くして頂戴? お父さんもお母さんも家を空けて寂しいのは分かるけど、私とエイダと一緒にお泊りしましょう?」
ほとほと困った調子の頭上からの父親の声にも、シーナの視線を合わせた説得口調にも、サラは頑なに首を振るばかり。ベイクのマントにしがみ付いたまま、むっつりと黙り込んでいる。
リーメイムの隣のエイダは、冷ややかな表情でベイクを睨んだまま。どうやら彼女、心情的にはサラの味方らしい。子供を放っぽり出してまでする仕事ってナニ、みたいなオーラを全身から発している。
リーメイムはと言えば、どちらの味方も角が立ちそうで悩みどころ。
ケイリーとオットーは、今回の旅には同行しないようだ。ベイクが個人的に国から請け負った仕事なので、まぁ当然と言えば当然なのだけれど。
それでも危険度が高いと感じれば、背中を預けるのにベイクは彼らを同行させるだろう。リーメイムはそう思うのだが、だからと言ってサラを連れて行く程、辺境が安全な場所ではないのも知っており。
妻のリーゼがいない今、サラを置いて行くのも苦渋の決断には違いなく。
大人連中は、その辺の心中複雑な思いを分かっているようなのだけれど。サラにしてみたら、母親に続いて父親までが自分の元を去るのは青天の霹靂な出来事である。
ごねるなと諭す方が非常識には違いなく、子供に道理は通じない良い例かも。宿の外に控えるひょろっとした身なりの旅の同行者達も、この遅延には困り顔。
さもありなん、彼らの使命は英雄の旅の同行なのだし。
サラの機嫌は一向に直らず、結局ベイクは奥の手を出す事にした。つまりはサラのご機嫌を取りつつ、信頼してるよと仕事を与えてやるのだ。
本当はやりたくなかった手段だが、もはや選り好みをしている場合ではない。ベイクはチラッとリーメイムを一瞥して、ネタの新鮮さを確認する。
確認するまでも無く、アレの不幸っ振りは現在進行形だ。
「サラ……俺も本当はお前を置いて、辺境になんて行きたくは無いんだよ。リーメイムの護衛もあるし、お前を一人にするのは心配だしな。……そうだ、お前がリーメイムを護ってやってくれないか? そうしたら俺も、安心して仕事に行ける」
「…………!?」
案の定、サラはびっくり顔で父親を仰ぎ見た。それから考える表情になって、自分に与えられた使命を吟味している様子。急に名前を出されたリーメイムとしては、何事かと事態の推移を見守るばかり。
どうやらネタにされたっぽいとは分かるのだが、どう考えても幼い子供に振るような仕事ではない気が。それでもサラは、その任務に興奮している感じ。
大仰に何度も頷いて、任せておけと言わんばかり。
周囲の大人連中は、少女の説得の成功に明らかにホッとした様子。ベイクもようやく胸を撫で下ろし、頑張るんだぞと我が子を励ましている最中。
良い感じに利用された立場のリーメイムは、何か釈然としない感情ながらも。変な空気が収まった事には、素直に安堵の表情を浮かべてみたり。
ところがリーメイムの周囲に関しては、不穏な空気は渦巻きっ放しの様子。
ようやく親子の和やかな別れの情景が終わって、ベイクがこちらに笑みを浮かべて歩いて来た。てっきりネタにした事を謝られるのかなと、リーメイムも曖昧な笑みを返してみたりして。
ポンポンと頭を軽く撫でられ、これはやっぱり感謝の証かなと考えていたら。急にその掌に力がこもって、万力に締められたような感触に悲鳴を上げそうに。
それよりも恐ろしい、耳元で囁かれたベイクの言葉。
「もしサラの身に何かあったら、お前の頭をカチ割るからな?」
「…………は、はいっ!」
傍からみたら、完全に不条理な約束事ではあるのだが。やっぱり笑顔のまま小声で返した返事は、リーメイムにしてみれば当然の決定事項でもある訳で。
例えこの場で念を押されなくても、小さい子供の安全は全力で確保する。大人の吐く大半の嘘も、裏を返せば子供を危険から護る為のものなのだ。
そう言う意味では、ベイクの取った行動も我が子を思っての事なのは確かで。
強く非難する訳にも行かず、お互い笑顔のままの変な雰囲気の中。途端にヤル気を出したサラの視線も、がっつりとリーメイムを捉えて離さない状況に困惑しつつ。
リアルなのは、割れそうに痛い頭の痛さだけと言う。冷や汗を滲ませつつ、リーメイムはベイクの去った後の日常に思いを馳せる。
――はてさて、残された面子に何が起こるのやら?
出発前の朝の大騒ぎは、ある程度は予期出来たとは言え。まさかサラにまで仕事を割り振るとは、ベイクの策略は全く予想していなかったケイリー。
これでサラに変なスイッチが入ってしまい、やり難い事この上ない。まぁ、護衛の対象が塊になったと思えば良いかと、ケイリーは開き直ってみる事に。
何しろ裏切りの民の計略は、いつ発動するか分からないと来ている。
それに加えて、空間の亀裂から来襲したガーゴイルの件もある。以前、同業者の知り合いの魔術師に訊ねたところ、稼動している魔法生物などこの大陸では滅多に見られないとの見解を聞かされて。
余程、魔法技術の発達した異界から送られて来た刺客のようで、そうなるとケイリーにも相手の見当がつかない。付け狙われるリーメイムに、一体どんな秘密があるのか。
結局は、箱舟の遺跡でも解き明かされなかった謎である。
リーメイムが遺跡で倒れた時は、大慌てに慌てた一行だったけれど。いきなり性別が変わったと知らされた時には驚いたが、どうやら体調を崩したと言う訳でもないらしく。
改めて冷静になって振り返ってみると、ぶっちゃけ自分でなくて良かったなと言う本音しか出て来ない。当人には気の毒な話だと思うが、至って真っ当な感想だ。
リーメイムなら、まだ若いのだしやり直せる的な(笑)。
とにかくベイクの留守の当面は、子供たちの身辺には気をつけないと。出発前の昨夜の打ち合わせでも、その辺の事は仲間内で話し合ってある。
むしろ辺境へ旅立つベイクの身の方を、心配する声も上がったりもしたのだが。地元で案内役を雇うし、連れて行く者も最小限に留めるとの説明を受け。
それなら大丈夫かなと、取り敢えずは納得して。
これで安心して、こちらはこちらの防衛に専念出来る。もっとも、範囲が下町全体となるととても個人の力では庇い切れるモノではないが。
出来る事からして行こうと、まずは下町の警備員詰め所に報告に行こうかと考えていたのだが。向こうから訊ねて来たようで、しかも意外と大人数。
どうやら数日前の、断崖遺跡での騒動の件らしい。
そう言えば、後始末は警備隊に任せてちゃんとした報告をしていなかった気が。ベイクが王宮に太いパイプを持っているので、おざなりにしてしまう癖がついている。
以前に見たゲルト捜査官と、その部下のイーリー捜査官。それからその奥には、豪奢な装備の王宮兵も数人窺えた。威圧的な容姿は、下町では滅多に見掛けない。
ケイリーはうんざりしつつ、会合席を整えた。
とは言っても、いつもの宿屋の地下食堂だが。開店前の食堂は、ひっそりと薄暗くて密会に適していなくも無い。適当に席について、互いに腹の内を探り合う構え。
オットーは、こんな面倒な集会を避けて早々に姿を消していた。エイダは適当に給仕をしてくれた後、そ知らぬ風で台所に引っ込んで行った。
サラもリーメイムも、恐らくは裏庭で姿は見当たらない。
「そちらが、先日断崖遺跡での騒動を起こした張本人かね? 私は王宮近衛隊長、ヴェンスと申す。その時の経緯を、詳しくお聞かせ願いたいのだが?」
「騒ぎの張本人はベイクだ、とんだお門違いだったな……奴ならついさっき、王宮の依頼で辺境に旅立ったよ」
「ああ……その英雄殿から、こちらで話を聞くように言付けられた訳なんだが。今回は下町の警備隊も、王宮兵と一緒に捜査しようと言う事になってね。何しろ騒動の陰に、裏切りの民の存在があるとの噂だから」
なるほど、ベイクに丸投げされたらしい。脱力感を覚えつつ、ケイリーはお馴染みのゲルト捜査官の説明に耳を傾ける。いつもの事なので、まぁ驚きは無いけれど。
王宮から来た近衛隊長は、壮年ながらいかにもな体型と暑苦しさを備えていた。顔も声もでかいし、態度もそれにつれて大きい。今回は合同調査と口にした、ゲルト調査官もやや持て余し気味の様子である。
ケイリーにしてもそうで、正直さっさとお帰り願いたいところ。
確かにフードの男と直接言葉を交わしたのは、自分なのは確かである。その時の様子を、ケイリーは感情を交えずに淡々とした口調で語った。
2つの組織は合同の捜査との建前ではあったが、興味の矛先はまるで違う様子だった。下町の警備隊は、どうやら最近出回っている“ビーストメーカー”を取り締まりたいらしく。その元締めの摘発に、協力して貰いたいと言うのが本音のよう。
一方の近衛隊長は、本当に近々戦争が起こるかと言う話題に終始していた。ケイリーの発言の細部を取り上げ、挙句の果てには何故捕まえなかったと詰問口調。
これにはケイリーも、自分の髭を擦りながら呆れ顔。
「あんたの言いたい事は分かった……だが俺は遺跡で起きた事を報告しただけだ、情報分析はそっちでしてくれ。それから今度そのフード男に会ったら、あんたが話を聞きたがっていたと伝えておくよ」
「なっ、かっ……ばっ!!」
この手のふざけた返しに慣れていないヴェンス隊長は、ケイリーの素の返事に顔を紅潮させて激高模様。後ろに控えていた部下連中も、不穏な空気を感じて怒気を強める。
ところが当のケイリーは全くの知らん顔、涼しげな態度で目の前に置かれたお茶を口に運んでいる。結局はゲルト捜査官とイーリー捜査官の取り成しで、その場は何とか丸く収まったのだが。
話にならんと、近衛隊長は部下を連れて早々に引き上げてしまった。それを見送る一行は、どことなくホッとした表情なのは仕方がない。
内心は皆が、良い厄介払いが出来たと喜んでいたりして。
「やれやれ……余り冷や冷やさせないでくれよ。まぁ、連中も馬鹿じゃないだろうし、備えは強化してくれるだろう。出来れば、下町にも兵士を回して欲しいけれど」
「まぁ、無理だろうな……下町は俺たちで守るしかないが、敵の正体も武力も分からないのは厳しいな」
「不意打ちを喰らうよりは大分マシだと思うしかないね……白銀の英雄が不在だと言う事実の方が、私は怖い気がするんだが」
「ベイクがこの場にいたら、確実にあの隊長と乱闘騒ぎを起こしていたさ。ベイクの不在は、連中の策略の一つだと俺たちは思ってる。ベイクは逆に、それで敵をおびき出そうと考えているみたいだな。こちらに何かあれば、仕事を放棄して空をすっ飛んで戻って来るって言ってたが……」
複雑な顔のゲルト捜査官は、そんな方法が白銀の英雄にあるのかと不思議顔。なるほど、確かに敵の計略に乗った振りをすれば、燻し出すのに最適ではあるけれど。
その結果出て来るのは鬼か蛇か、それとももっと別の厄介なモノかも。
大まかな下町警護の打ち合わせを、その後に両者で行って。それから、ふとある事に気付いたケイリーが、斜め向かいに座っていたイーリー捜査官に確認する。
彼女は確か、牢から脱走したザックの捜査のためにリーメイムの護衛に付いていた筈だ。その脅威が無くなったからには、もうこの宿に訪れる用件が無いのではないか?
それは別に良いのだが、せっかく友達の出来たサラが寂しがるかも知れない。
「もちろん、護衛の任務は終了だよ……さすがにザックの死体はばらばらで本人確認は出来なかったが、君やベイク殿の言葉を疑う理由も無いからね。下町全体の警備となると、人手が幾らあっても足りないし、彼女はこれでも優秀な人員なんだ……それとも、他に何か気になる脅威でもあるのかな?」
「いや……それで構わない」
さすがに任務を放棄して、子供たちの相手をしてくれと頼める筈も無く。イーリー捜査官にしても、必死に自分の子供を連れて来た事は喋らないでとのパルスを、こちらに向かって送って来ている。
それはまぁ、そうだろうとケイリーも思う。そんな事が上司に知れたら、大目玉を食ってしまうのは目に見えているし。それにしても困った、馬鹿正直にザックの自害を話したお陰で、サラの遊び相手が一人減ってしまう事態に。
まさかまだ小さな子供を、たった一人で遊びにやる親もいないだろう。サラがほっつき歩くのは、アレは特別だとも言える。リーゼは心配していつも小言をこぼしているが、ベイクは自分の複雑な出生のせいか、子供の一人歩きにも平然としている風である。
下町はガラも悪いし、本当は安全とも言いかねる土地柄なのだが。
そうこうしている内に、二人の捜査官はお暇を告げて宿屋を後にしていった。向こうもこれから忙しくなるに違いなく、頑張って貰わないといけない立場でもある。
すぐ先の未来に巻き起こる災厄の影に憂いながら、ケイリーはふとある思いに捉われた。ベイクが不在だと言う真実が、意外と重く心に圧し掛かる。
留守を守る者としては、しっかりと気を引き締めなければ。
妙な事になった、いや妙な立場に立たされたと言うべきか。サラの視線がとっても熱い、考えている事が透けて見える程。はやく窮地に立てと、その瞳は語っている。
サラは思いの他、父親から与えられた任務を重く受け止めているみたいだ。そのとばっちりを全身で受けるリーメイムは、ただひたすら困っていた。
幼子の期待に応える訳にも行かず、微妙な笑顔で応対するのみ。
午後の日差しをいっぱいに浴びている宿屋の裏庭は、何も考えずにのんびりと過ごすには絶好の場所だと思う。そんな場所で思い煩ってる自分は、ちょっと不幸じゃないのかなと思っちゃうリーメイム。
こうなったら悪漢役を、オットーにでもやって貰おうかななどと思ってみたりして。いやいや、アレは単純だから本気で襲われないとも限らないか。
何しろ今は♀の身の上、危険な橋は渡らないに限る。
エイダとシーナが、バスケットとポットを持って地下の階段を上がって来た。昼食を皆で、外で食べようとの事だったので、その準備をして来たのだろう。
隣ではオットーが、サラに向かって何か話し掛けていた。先程からのコントみたいな護衛術に、どうやら一言文句を述べたいらしい。
つまりは、もう少し控えめに距離を置いた方が良いと。
「サラ、そんなに最初から力んでたら、最後まで持たないぞ……? 普段はもっとゆったり、危険を感じた時に素早く動けるようにしてなくちゃ」
「そうそう、もう少し力を抜いて。ほら、お昼ご飯の時間だよ、サラ」
女性陣が、木陰で休んでいた一行に合流して来た。レネ河を見下ろす小高い丘で、まったりとランチの準備が進められて行く。気張ってリーメイムを見つめていたサラも、サンドイッチの群れを発見して気もそぞろに。
オットーが真っ先に、その一つを手に取って口へと運んで行った。サラも負けじと、欲張って両手に一つずつ掴み取る。エイダがお茶の用意をしながら、ケイリーの分も残しておいてねと皆に注釈。
貧乏くじを引いた彼は、未だに訪問客の相手中らしい。
そんな事に耳を貸さない半数の飢えた獣達は、我先にとバスケットの中身を減らして行く。リーメイムも同じく、午後からの激務に備えてパワーの補充作業。
昼食の話題は、もっぱら明るい話題に絞られた。市場に季節の旬の野菜が増えて来たとか、午後はまたビスケットを焼こうとか。間違っても、ベイクやリーゼの名前は出さないよう、一行は細心の注意を払っていた。
それはそうだ、いつ戻って来るかと訊ねられても、誰も答えを知らないのだから。
つまりはサラを気遣っての、気分転換がこの外での昼食会だったりする訳だ。今回の一連の騒ぎで、間接的に一番の被害を受けたのは、間違いなくサラだろう。
本人は呑気に、口いっぱいにサンドイッチを頬張って租借しているけれど。果たして両親不在の孤独に、少女は何日耐える事が出来るのだろうか?
それを思うと、やっぱり不安になってしまうリーメイムだった。
翌日の木槌亭も、似たような雰囲気に彩られていた。つまりは皆がサラを気遣っていて、それを本人に悟られないように苦労していると言う事だ。
サラの護衛作戦は、ある意味微笑ましくもあった。もっともそれは傍から見ていればの話で、渦中のリーメイムには迷惑と困惑のオンパレードなのだけれど。
そんな訳で、たった一日で神経をすり減らされる結果に。
例えば、一日の疲れを癒すお風呂での出来事。恐らくは護衛の任務のつもりのサラが、脱衣場に陣取ってリーメイムの羞恥心を逆撫でする。
挙句の果てには、エイダに皆で一緒に入ろうかと誘われて。ボクは男ですとの、いつものお決まりの台詞が盛大に空回りすると言う。
身体はすっかり、女の子なのが現実。
そんな暴挙は、リーメイムの寝室にまで及ぶに至って。気合の入ったサラが梃子でも動く気配がないのを悟ると、それならとエイダとシーナも同伴する事になったようで。
彼女たちにとっては気楽なお泊り会も、リーメイムにしてみれば重大イベント。何しろ密かに想いを寄せている、シーナと同室での就寝である。
お陰で完全に寝不足、健康だけが取り得だと言うのに。
ところがサラは、翌日には既にこの遊びに飽き始めていた。エイダに散々ねだって、得物にトンカチまで貰っていたのだが。今はそれで、見える範囲の突起物を手当たり次第に叩いている。
近くを通り過ぎようとしたリーメイムも、足の甲を狙われる始末。
「サラッ、そんな事しちゃダメでしょ! そんな危ない事するんなら、トンカチ返して貰うからねっ!」
「エイダさん、そんなに怒らなくても……」
サラを庇おうとするリーメイムだが、そんな心配りも幼女には通用せず。どうやら父親に担がれたのだと思い至った様子、完全に機嫌を損ねていた。
そんなサラを肉親のように叱れるのは、もはやエイダしかいない有り様。ケイリーやオットーは完全に役不足、子供の扱いにまるで慣れていないのが丸分かりである。
シーナだけが、辛うじて少女のご機嫌を取れる程度だ。
リーメイムに至っては、もはや隷属と言うか召し使い的な立場と言うか。サラの機嫌を取れそうもない時は、影から見守る事しか出来ない有り様。
それでも昼食を皆で食べ終わった頃には、少女の機嫌も良くなって来ている様子。お気に入りのシーナお手製の絵本を持ち出して、本人相手に読んでと催促の素振り。
そんな訳で、食堂の隅で青竜退治の物語のスタート。
「昔々……と言ってもサラが生まれるちょっと昔、光の民の王様には若くて美しいお姫様が一人いました。ある日、悪い奴らに唆された青竜が、その姫様をお城から攫ってしまいました!
慌てたのは王様だけではありません、竜はとても強いので、王宮の軍隊でも歯が立ちそうになかったのです。国中がざわめき、事の成り行きを見守るより他ありませんでした……」
国王の我が侭な一人娘の存在は、リーメイムも耳にした事かあった。今年二十歳になる筈だから、竜に攫われた時は十二歳程度と言う事になる。
とんだロリコン竜だが、絵本ではその事実は綺麗に隠されていた。その姫様は未だに独身であり、一説では助けられた際に白銀の英雄に惚れたとの噂も。
しかし、当の英雄は風の民の姫巫女と結ばれてしまった訳だ。
「そこで立ち上がったのが、下町で売り出し中の冒険者達でした。彼らは軍の力を借りず、たった3人で青竜の棲み家へと赴いたのです」
自分で描いた絵本のページをめくりながら、シーナは優しい声音で物語を綴る。絵本は完全に絵だけなので、語られる物語は毎回微妙に変化する。
それでもサラはもちろん、リーメイムも夢中になって話の推移に耳をそばだてていた。手持ち不沙汰の様子のケイリーとオットーも、いつの間にか聴衆に紛れ込んでいる。
彼らはこの話の登場人物でもある、何だか変な気分。
「青竜の棲み家へと辿り着いた一行は、お姫様を必死に口説いている青竜を発見しました。お姫様を連れ戻したら、王様からたくさんのご褒美が貰えます。
だけど、相手は小山のような大きな生き物です。軍もビビッて、おいそれと手の出せない最強生物です。彼らは作戦を練りました、ベイクと言う若者が一騎討ちを挑みます。
後に“白銀の英雄”と呼ばれる、若者のデビュー戦です」
おおっと、サラの興奮度がみる間に上昇して行く。普段は無表情の幼児の瞳はキラキラと輝いており、何度も聞いた筈の話の続きに身を乗り出して聴き入っている。
それはリーメイムも同じ事。8年前の戦争は、彼(彼女?)が子供だった事もあって内情をよく知らないのだ。英雄が竜を倒して、お姫様を救い出したと言うミーハーな伝承以外は。
かえってその逸話が有名過ぎて、他の歴史がうやむやになっていたりして。
「あの頃は若かったなぁ、俺達も……世間に名前を売ろうと、何か色々必死になってたっけ。ベイクも平気で無茶してたし、よく生きて帰れたよな?」
「まぁ、それなりに勝算はあったさ……竜が棲み家にしていただけあって、あの場所は地脈の龍穴が真下にあったからな。そのパワーを、魔法で無理やり横取りして挑んだからな。言ってみれば、作戦の勝利かな」
「へえっ、そんな事があったんですか……それで、その時お2人は何してたんですか?」
シーナの話を邪魔しないように、小声であの頃の感慨に耽る男衆の呟きを耳にして。なるほどそんな裏があったのかと、リーメイムは話の矛先を向けてみるのだが。
大勢が悪いと思ったのか、しきりに言葉を濁すオットーだったけど。正直なケイリーの打ち明け話によると、魔法のサポートをしたり退屈そうなお姫様の話し相手になったり、ベイクの武器が駄目になった時の交換を手伝ったりしていたそうだ。
つまりは、雑用全般と思って良さそう。
その頃のベイクは、風霊の剣も風系の魔法のどちらもまだ所有していなかった。それでよく勝てたなと思ってしまうが、ケイリーの話だと勝算はあったっぽい。
どうやら彼らの育ての親は、草原の民出身の老人だったそうで。あまり知られていないが、草原の民は生まれ付き、土系の魔法を操るのに優れているらしい。
人並み外れた才覚で、ベイクはそれらを習得して行ったそうなのだ。
「青竜と若き英雄は、二日二晩戦い続けました。お互いに死力を尽くし、意地と意地がぶつかり合います。竜のうろこはとても硬く、英雄の剣は何本も折れます。竜の身体はとても強く、どんな魔法にもびくともしません。それでも英雄は、懸命に武器を振るい続けます。己の勝利を信じ、お姫様を救い出すために!」
あの頃は物欲の方が断然に強かったよなぁと、オットーの小さな呟き。それじゃあ英雄譚に夢も希望もなくなりますよと、内心でリーメイムは抗議する。
幸い、サラの耳には欠片も届かなかった様子。シーナの朗読は、どうやら物語の佳境に差し掛かったようだ。ぺラッと自作の絵本のページをめくり、青竜の降参のシーンが語られる。
小さなサラは、手をたたいて大喜び。
実際は、その間に下町は戦火に包まれて、絵本のようにめでたしめでたしでは終わらなかったのが本当の歴史。その事実を知るリーメイムは、何となく複雑な思い。
それでも、有頂天になっているサラの気持ちに水をさす気は全く無い。多少は美化された物語だろうと、英雄の偉業に変わりは無いのだ。
それが自分の父親ならば、尚更の事に違いない。
それよりリーメイムには、先程から抱えている小さな疑問が。ベイクの戦っている姿を以前に見た事はあったけれど、土系の魔法を使えるなどとは知らなかった。
さり気無くケイリーに尋ねた所、本人は土系の魔法は地味だから好きではないとの事だった。派手好きのベイクらしい、それ以上に扱いの難しい呪文が多いらしいのも事実なのだそうだけれど。
確かに竜と戦える程の力、おいそれと平時に使うモノでも無いのかも。
そんな事もあってか、リーゼに風系の魔法を教わってからは、そちらを主力に据えているようで。有名になる頃には、すっかりその姿で定着してしまったらしい。
その有名な英雄を父に持つサラは、未だに興奮冷めやらぬ様子。エイダに貰ったトンカチを振り回し、仮想青竜とでも戦っているつもりだろうか。
何にせよ、機嫌は直ったようで良かったと周囲の面々。
そんなサラのご機嫌高気圧は、割とあっさり翌日には崩れてしまっていた。夕方を過ぎるとどうしても、家の人の不在と言うのは強く心に浮き彫りになるようで。
次の日は朝から、小さな少女は不機嫌だった。宿の廊下の窓際に陣取って、外の景色ばかり眺めている。父親か母親、どちらかの帰りを待ち侘びているように。
多分それはその通りなのだろう、哀愁の漂うその背中。
オットーの食事の後の一言も、恐らくは不味かったのだろう。それはもちろん、サラの孤独を癒そうと思っての言葉だったのだが。この前友達になった子が、遊びに来れば良いのにねぇとの何気無いコメントに。
ニーミャが来ないのは、母親が忙しくしているせいなのだろう。大きな争いが近いと言うのは、ケイリーからそれとなく聞いていたリーメイム。
そんな時に、子供を一人で遊びに出す親などいない。
同じ理由でサラも外出を禁じられていて、それもストレスの要因なのかも知れなかった。そうは言っても、やはり危険に備えるのは当然の事。
例えそれが、少女の意に沿わないとしても仕方が無いのも事実である。せめて一番仲の良いエイダが手すきならば、構ってあげて気も紛れるのだろうけれど。
雑多な仕事を抱える彼女に、それを求めるのも酷な話かも。
せめて自分が慰めてあげようと思うリーメイムだが、掛ける言葉も見つからない始末。リーゼの帰りの遅さも気になるが、それは自分が元に戻る方法が見つかっていない為なのかも知れない。
そんな考えは、リーメイムの心にも暗い影を落とすのだけれど。自分も同じく落ち込んでいても、話はややこしくなるばかり。かと言って、サラを慰める機敏も持ち合わせていないけれど。
外はいつものぼやけた天気で、それなりに過ごし易そうではあった。何となく一緒に眺めていると、遠くの雲間に一瞬、稲光がはっきりと奔るのが見えた。
それを見掛けてリーメイムが連想したのは、リーゼの魔法の効果だった。娘のサラも、もちろんそうだったのだろう。気がついた時には、宿の玄関を飛び出していた。
慌てて制止するも、既に幼女は扉の向こう。
「サラっ、待って!」
「んっ、どうしたリーメイム!?」
階下の食堂から、惚けたオットーの声が届いて来る。その時には既に、リーメイムは少女を追い掛けて街中に駆け出していた。視界の隅に、辛うじてサラの小さな姿。
少女の駆ける姿には、何の逡巡も無い様子。当然だ、それは自宅へと帰る道順なのだから。幸いリーメイムも、そのルートは覚えていたため。
何とか見失わずに、追跡出来ている感じ。
仕舞いにサラは、飛ぶような足取りで家路を駆け戻っていた。後を追うリーメイムは、その姿を見失わないようにするのが精一杯。
息も絶え絶えになりながら、サラにかなり遅れて、リーメイムはアーチのある公園の細い階段に辿り着いた。この先すぐの場所に、ベイク一家の住む白い家がある。
荒くなった呼吸を整えつつ、リーメイムがその方向を見遣ると。
サラはそこにいた。階段の一番上に座り込み、恐らくは誰もいなかった家に背を向けている。泣き出しそうな表情を見れば、結果は一目瞭然だ。
リーメイムは額の汗を拭いながら、少女に掛けるべき言葉を捜した。長い間、ただそこに突っ立った状態のままで。サラは顔をあげようともせず、必死に内なる感情と戦っている様子。
掛けるべき言葉など、結局は出て来なかった。
ボクは馬鹿だ……いくら優しい言葉を掛けようとも、ずっと一緒に過ごそうとも、自分がサラの親役になれない事は分かっているのに。
養父母を喪ったリーメイムだからこそ、知っている心の空白というものがある。その席は、他人では決して埋められず、時が浄化してくれるのを待つしかないのだ。
あの重く苦しい、空白の存在。
深く重苦しい思考に嵌まり込んでいると、人の気配が背後から近付いて来た。振り返って確認すると、ケイリーとオットーだった。何となく救われた気がして、気を緩めるリーメイム。
その瞬間、猛烈なプレッシャーが襲い掛かって来た。それと同時に思い出す、この場所は以前にガーゴイルに襲撃された場所だ。それと同じ現象が、どうやら再び起きているらしかった。
重圧はリーメイムをピンポイントで襲っていて、彼(彼女?)はその場に塞ぎ込んでしまっていた。激しい眩暈に襲われて、地面の方向さえ定かでない感覚。
って言うより、気がついたらガーゴイルに抱えられて宙に浮いている!
妙な重圧のせいで朦朧と薄れ行く意識の中、ケイリーとオットーが必死に呼ぶ声が聞こえた。迷惑掛けるなぁと、他人事のように申し訳なく思うリーメイム。
それから聞き慣れない声音の、リーと自分を呼ぶ子供の声。サラの声だ……小さな子供にまで心配を掛けてる場合じゃない、はやく戻らなきゃ。
そんな風に考えながら、リーメイムは気を失った。
王城を出てひたすら南西に馬を進め、既に3日が経とうとしていた。ベイク一行の足取りは、辺境に到達こそしたものの順調とも言いかねた。
ベイクが王宮から同行させたのは、たった3人の魔術師のみだった。メーフィストとの打ち合わせの結果、それ以上連れて行っても足手纏いだとの見解で一致して。
その代わり、辺境の町でベテランの案内人を雇って急場をしのぐ作戦に。もっとも、これが一番堅実な辺境の対応の仕方だとベイクは思う。
何故にアルゾォン卿は、そんな事すら思い付かなかったのだろう。
それはニッソの街の後詰め隊と合流して、呆気なく判明した事実のひとつだった。他にも色々、部隊の人数に対して兵糧の供えがかなり少なかったなどなど。
日帰りのピクニックにでも出掛けているつもりなのかと、ベイクは呆れつつも同行した兵隊さん達に同情する。見知らぬ辺境の地で、ひもじい思いをしていなければ良いが。
まぁそれも、まだ生きていたらの話だが。
アルゾォン卿に対しては、何の感情も湧かないのは当然として。彼が無能なお陰で彷徨う破目になった、100人の兵士達は何とか回収したいと切に願うベイク。
そんな訳で彼は、後詰めに残された半ダースの兵士に、さっさと王城に戻るよう命令して。通信手段だけ取り上げて、街の居酒屋でベテランの案内人を一人雇って。
それからたった数名で、辺境の奥地へと馬を進めるに至った訳で。
上からの命令で、仕方なく同伴と相成った王宮魔術師のクラフは、暗鬱たる気分で馬に揺られていた。彼にとっては英雄との同行は何の魅力も感じず、どうせなら後詰めの兵士らと共に王宮に戻らせて欲しいとさえ思っていた。
案内人の老人にしても、彼から見たら得体の知れない存在だった。老人の汚れたフードの奥の半身は、磁気嵐にやられたのか醜く焦げ茶色に変異していた。
こんな老人に安全を預けるなど、狂気の沙汰だ。
彼の年若い部下達も、全く同じ思いに違いない。同行する白銀の英雄の武勇伝は、確かに庶民の間では親しまれ持て囃されこそすれども。
貴族階級の間では、眉唾物のハッタリ宣伝だとの考えが根強いのも確かで。
大体、普通の人間がたった一人で竜を倒せる筈がないではないか。魔法に携わる職だからこそ、クラフはそう断言出来た。竜とはこの世に存在する生命体の中で、恐らく頂点に君臨する魔法生命体である。
それを打ち倒すなど、大法螺も良いところだ!!
その当時、白銀の英雄は二十歳前の名も無い若造だった筈だ。今や英雄の代名詞である、風の民の姫巫女から授かった魔剣すら所有していなかった状況で。
どう言う類のインチキ術を使ったかまでは知らないが、恐らくは戦わずして王女をこっそりと連れ戻したのだろう。闇の王との一騎撃ちだってそうだ、他人の目がないのを良い事に、大げさに吹聴して回ったに違いない。
規格外と言う言葉が、何より嫌いなクラフだった。
辺境の荒野は、風の渡る音が時折耳に届く程度で、恐ろしく静かで不気味だった。彼らの乗る馬の蹄の音が、唯一単調ながらもその静寂に文明の存在を知らしめている。
こんな場所に立ち寄る者など、発掘師か盗掘師以外には在りえず、つまりは自分達は規格外な存在である。その事実がクラフには許せず、彼の不機嫌を増徴させた。
こんなのは、自分の請け負う任務などではない!
恐らくは、彼の部下たちも同じ意見なのだろう。不安そうに一行の後ろを、とぼとぼと馬に揺られてついて来ている。可愛そうに、辺境に足を踏み入れた事すら初めてなのだろう。
不機嫌さで言えば、先頭を行く英雄と案内人も似たようなモノだった。ただしこちらは、不必要に緊張などはしていない様子。時折会話を交わしながら、進むべき方向を見定めている。少なくとも、進むべき道は分かっているらしい。
そうであって欲しいと、クラフは切に願う。
「少し風が出て来たな……爺っ様、磁気嵐の方は大丈夫か?」
「大丈夫とは言い切れんな……西の空の雲が、低く垂れ下がって来とるようじゃ。もう少し行けば、遺跡の谷と呼ばれている場所に出る。そこまで急いだ方がいいな」
そんな訳で、一行は遺跡の谷と呼ばれる場所を目指して馬を走らせた。幸い追跡すべき部隊の蹄の跡も、同じ道筋を辿っている様子である。
辿るべき痕跡が分かり易いのは、彼らにとって本当に有り難かった。辺境を当ても無く彷徨うと言う図式は、誰にしてもゾッとする話だ。
危険に遭遇する確率を、引き上げているだけの行為に過ぎないのだから。
急いだからと言う訳でもないが、じきに一行の目前に巨大な遺跡群が見えて来た。辺境では有名な場所なのだろう、道らしきものも何となく出来上がっている。
その“遺跡の谷”と呼ばれる場所には、確かに大地を走る亀裂が真っ直ぐに通っていた。その左右に並ぶように、年代物の遺跡群がずらっと控えている。
その入り口に辿り着いた一行は、作戦会議と小休止のために一時停止。
「空の具合はどうだ、爺っ様? 嵐はこっちに来そうかな、だとしたら避難所を探す必要があるけど」
「……う~ん、どうやら北へ抜けて行くみたいじゃな。恐らく大丈夫じゃろう、暫くは見張ってる必要があるじゃろうが」
「有り難い、磁気嵐で何日も足止めなんて御免こうむりたいからな。さっさとこの押し付けられた仕事にけりをつけて、暖かい我が家に戻りたいよ……全く、身体が2つ欲しいと思った事はないかい、爺っ様?」
「そうさな……わしは自分が嫌いじゃから、もし自分の分身を見掛けたら殺し合いになるじゃろうな」
それを聞いたベイクは大笑い、毒の効いたブラックジョークに一気にテンションも上がった模様。休憩中の他の者を残して、付近の探索に出掛けてしまった。
その彼が然程もせずに、一行を大声で呼び寄せた。遺跡は茶色い地面と同化するような土壁で出来ていて、所々に灰色の石が使われている。それも長い年月の風化によって、人工物の主張もおざなりだ。
そんな古寺院跡地のような遺跡群で、何やら目新しいモノを発見した様子。
馬の世話をしていた老案内人はともかく、若い魔術師連中は明らかに面倒そうな顔付きだ。それでも即席の上司に楯突く事も出来ず、大人しく遺跡跡の小道を登り始める。
それは谷の真っ直ぐな通路を見下ろすように作られており、半壊の遺跡を縫うように続いていた。無人の遺跡群は素っ気無い佇まいで、何人も拒む雰囲気を醸し出している。
風が吹き抜ける音すら、そら寒い威嚇のように聴こえる。
程なく合流した一行は、ベイクの見付けたトラップ転移陣の解析に取り組んでいた。どうやらコレのせいで、アルゾォン卿の軍隊は失踪してしまったらしい。
遺跡の中では、割とよく見掛ける罠のひとつである。重要な場所へ侵入者を近付けない為に、転移陣を使って相手を翻弄する仕組みである。
使う魔力が強いほど、相手を大量に遠くへと飛ばす事が可能になっている。
「そこの遺跡から魔力を引いとるみたいじゃな……そこのは有名な人喰い遺跡で、まだ生きていて魔力の供給が可能じゃしな。どうやって中に入って作業したのかまでは、わしには分からんが」
「そう言うのが得意な民がいるな、しかも光の民を物凄く嫌っている連中が……この規模だと、軍隊丸ごとの転移も可能だろう。転移された連中は、運が良ければ集団迷子、悪ければとっくに全滅しているかな」
言いにくい事実をさらっと口にして、ベイクは暫し思案顔。軍隊の消息不明のからくりは判明したが、その行き先までは分からないと来ている。
取り敢えず同行した魔術師3名に、魔方陣の解析を命じておいて。ベイクと老発掘師で、馬の世話とキャンプ地作りを担当する事に。
長く居座り続ける気は無いが、ベース拠点は必要なのだし。
ところが、そんな思惑も呆気無く数十分で終了を迎える破目に。ベイクが所持していた緊急用の通信機が、けたましく鳴り響き始めたのだ。
同時に肌に違和感が、遠くに次元の裂け目の出現を感知する。
魔法の心得のある者、辺境で長く暮らす者なら、次元の揺らぎの感知能力に長けているのだが。今回伝わって来た波動は、半端ではない数と質量を備えていた。
どうやら王城の方角らしいのだが、ベイクの持つ通信機では詳しい情報を得る事が出来ない。距離があり過ぎると、性能的に声を届ける事が難しいのだ。
とにかく異変が起きたらしい、それが何なのかまでは分からないが。
「こりゃあ……えらい数の裂け目が、同時に開いたようじゃな。偶然じゃないとすると、招かれざる客の無粋な来訪らしいな」
「ふむぅ、想いっきり王城の方角だしな……こんな所で、油を売ってる場合じゃなくなったかな?」
騒がしい割りに役に立たない通信機を黙らせて、呑気にベイクは呟いた。老発掘師の見解は、概ね当たってると彼も思っていて、つまりは非常事態である。
どうやら遠征前に立てた作戦は、功を奏したらしい。釣れた魚影の数と大きさは、ベイクの想像の遥か上ではあったけど。これを片付けるとなると、かなりしんどい作業になるかも知れない。
憂鬱になっていると、離れた場所で作業していた魔術師達が慌てて戻って来た。
「我が国は攻撃を受けている!」
「なかなか的を得た意見が出たな、だがそれは数年前から続いてる事だよ。今更騒ぎ立てる事じゃないが、対処はしないとな……今から召喚魔方陣を描くから、3人で魔力供給を頼む。大仕事の前に、余計な魔力は遣いたくないからな」
そう言いながら、器用に袋に入った魔色砂で魔方陣を描き始めるベイク。事態の推移に全くついて行けていない魔術師たちは、ただ呆然とその作業を見守るばかり。
だがその魔方陣の大きさに、次第に彼らの顔色も変わって来て。サイズ的に、確かにこれを起動させるには1人や2人じゃ辛い気がする。
一体ナニを召喚するのかと、場の空気は騒然として来るのだが。
いいから黙って魔力供給しろと、彼らの上司はどこか事態を面白がっている様子。老案内人の爺っ様には、彼らを無事に街まで頼むと言付けて。
そそくさと、自身は帰り支度を始める始末。その手際の良さは、その為に魔術師を同行させたんじゃないかと疑いたくなるレベルだったり。
次の瞬間、呼び出されたモノが魔方陣の中央に出現した。
声も出ない一同を、胡乱気に見下ろす大きな目。それ以上に大きい、小山程もある青い巨体。綺麗に並んだ鱗は滑らかで、思わず触りたくなる程だ。
それは一匹の、巨大な青竜だった。竜としてはまだ若く、額に大きなバッテン傷が特徴的だ。その瞳がベイクを捉えると、明らかにそいつは苦々しく溜息をついた。
ベイクは逆に、にこやかに前へと進み出る。
「よう、久し振りだな、デリッド……急で悪いんだが、俺を王城まで乗せてってくれ」
何もかもが夢見心地、柔らかく肌を刺激する羽毛の感触すら心地良い。薄目で伺った周囲の景色は、更にリーメイムに浮遊感を与えた。
雲の上にずらりと立ち並ぶ、白い石造りの家並み。それを見下ろす、大きな宮殿の中の、謁見の間のような豪華なフロア。記憶の繋がりが曖昧で、リーメイムはぼーっと視線を泳がせた。
ここは一体、どこだろう?
「お気付きになられましたか、女王君? その玉座が不在でなくなるのを、我らがどれだけの年月待ちわびたか……きょとんとなされて、説明が必要ですかな?」
「…………はいっ?」
確かにリーメイムは、女王が着ても不自然でないロングドレスを身にまとっていたし、今の状況を一切把握してもいなかった。ただし、そこは断じて玉座などではなかった。
見たままを形容すると、それは滅茶苦茶巨大なベッドだった。覚醒間際に感じた柔らかな肌触り、恐らくは高級品なのだろうとは思う。
けれど幾ら文化の相違を差し引いても、それは玉座には見えなかった。
自分に話し掛けている老人だが、一体何者だろうか? 神官服のようなローブを纏っており、背中には何と立派な白い翼を背負っている。
仮装ごっこだろうか、戸惑うリーメイム。
「あの、ボクは捕虜なんですよね……? これって、新手の拷問か何か?」
不自然に大きく開いたドレスの胸元を手で隠しながら、質問を口にするリーメイム。老人は立派なローブを羽織り、髪も髭も真っ白だった。
持っている剣には、見覚えがあるような?
「ふむ、順を追って説明せねばなりませぬな……これを御存じですかな? 『翼の象徴』と呼ばれる我ら翼の民のシンボルで、高貴なる者しか持つ事を許されぬ神器。赤ん坊だった女王君は十五年前、これと共にこの故郷の地を追われたのです」
老人が掲げたシンボルは、リーメイムの目の前で共鳴するように震えていた。手渡されそうになったそれを、リーメイムは頑として拒否の構え。
最後にアレに触った時の、自分の身に降りかかった悲劇が思い返される。断りも無く性転換させられて、挙句の果てにはこんな場所に拉致されてしまった。
実際、リーメイムは脱出の事しか考えてなかった。
「我ら翼の部族は、当時、強大な敵と戦争中で、その敵はとうとうこの居住区にまで乗り込んで来たのです。前女王の指示で、あなたは脱出艇で次元の彼方に、一時逃げ延びる事になりました。前女王が、敵の総大将と相打ちなさったお陰で、翼の民は全滅を間逃れました。しかし、幼い女王候補を乗せた浮舟を追跡する事もまた、困難になってしまっていたのです。強大な魔力を持つ仲間の者も、ほとんどが戦死しておりましたので」
白髪の老人はそう言って、悲し気に前女王の死を悼むように目蓋を伏せた。歴史の授業を聞くように、いつしか改まっている自分に気付くリーメイム。
ボクの本当のお母さん、ずっと昔に戦争で死んじゃったんだ……。しかし、仲間と称する人物に誘拐されてのこんな仕打ち、彼(彼女)には納得できぬ顔。
翼の民とは、かなりご無体な行動を示す民族らしい。
「それで十五年後に、やっとボクを探し出す事ができたって訳ですか……この剣と一緒に? でもボク、女王なんかに就職するつもり、全くありませんから。元の場所に帰して下さい!」
「生憎ですが、それは無理な相談ですな。光の民とは、現在交戦中にあります。女王君には一刻も早く、女王としての義務を果たして頂かなくては……」
「えっ、交戦中って……えっ、義務?」
何の事かと問い返しながら、リーメイムは油断なく広い室内を見回した。部屋の両面は壁の代わりに太い柱が天井を支えており、青い空や街の景色が一望出来る。その対面には、彫刻を施した壁がしっかりと存在する。
目の前のフロアは、玉座と称するベッドを高い場所に置き、段々に低い構え。
眼下に居並ぶ兵隊達は大抵が魔法生物だったが、血肉を持つ翼の民も何人か見受けられた。訓練の行き届いた兵士らしく、皆一様に厳格でしゃちほこばった構えで整列して頭を垂れている。
リーメイムの座っている玉座と称されるベッドは、天蓋付きでとても巨大。それに対して嫌な予感しか漂って来ないのは、何故だろうと思い悩むも。
ぶっちゃけ、いきなり交戦中の報告はどうかしてる。
不信感もあらわなリーメイムを無視して、白髪の老人は悲しそうな表情で左方の吹き抜けを指差した。リームは恐る恐る立ち上がり、外の景色を伺う。
この宮殿らしき建物は、どうやら巨大な浮遊都市の中央にあるらしい。眼下には放射状に広がる、白い街並みが見渡せた。しかしそれは、滅びた廃虚だった。破壊されて修繕も受けぬまま、何年も放って置かれている。
リーメイムは固唾を飲んで、呆然と立ち尽くした。一つの滅びが、そこにはあった。
「我ら翼の民は、ある時期からずっと女王社会なのです。女王がいないと、兵士も働き手も、次の女王候補さえ生まれて来ない有り様。……だが、ようやくあなたと『翼の象徴』が我らの元に戻って来られた。繁栄は、我らの神により約束されたのです。ささっ、一刻も早く子作りを……!」
「……………………へっ!?」
はいっ、何を作れって? リーメイムの戸惑いも完璧に無視され、老人は両手を掲げて二度手を叩く。それを合図に、兵士の中から一際立派な体躯と翼を持つ男が、悠然と進み出た。
恭しく片膝をつき臣下の礼をとる男に、リーメイムは不審げな視線を送る。老人はにこやかに説明を加えると、後ろのベッドを意味ありげに見遣った。
まるで断られる可能性など、微塵も無いかの如くな口調。
「おっと、申し遅れましたな。私は翼の司祭長、フォーンと申します。こちらは我が部族の英雄、シャデナン。15年前の戦でも、武勲を立てた強者でございます。女王君に子種を提供するため、一夜の夜伽をお許し願えれば……」
リーメイムの脳に、ゆっくりと話の内容が染み込んで行く。それを理解するや否や、ベッドの端に回り込んで必死に拒否の意味の言葉を絶叫する。
こんな……こんな窮地に立たされるなんて、ボク何か悪い事した?
「やっ、嫌ですよっ……何を言い出すんですか、一体!? 変じゃないですか、ボクの意志とか完全無視ですかっ!?」
「義務だと言った筈です、女王君。我が部族の人口は激減して久しいのです。女王君が卵を生んで、働き手や兵士を生産しない事には、我が翼の部族はかつての栄光を取り戻す事が出来ないのです」
フォーンと名乗った翼の司祭長は、滔々と語り続けた。リーメイムはその間、翼の部族の知識を溜め込みつつ、必死に打開策をひねり出そうと懸命に頭を働かせる。
彼らは好戦的な部族だ……いきなり光の民に戦争を吹っかけた事からも、それは伺える。何とかその性質を利用できないだろうか?
つまりは、何とか逃げるためにも時間稼ぎをしないと。
「は、話は分かりました……でもボクも女になって間がないし、その人が本当に英雄の器かも、ボクには分からないし。……そうだっ、光の民にはベイク・エッフィートと言う有名な英雄が存在します。彼を一騎討ちで、見事討ち果たす事が出来れば、そなたにそのぅ……夜伽を命じましょう……」
最後は小声になってしまったリーメイムの言葉に、翼の部族の英雄は自信たっぷりに頷きを返す。やれやれ、何とか急場はしのげたようだ。リーメイムは安堵の吐息を吐き出し、同時に後ろめたさを覚えてしまう。
でもまあ……あの傍若無人のベイクが一騎討ちで負けるとは、正直全く思えないし。そう結論付けてしまうと、心は随分と軽くなって行く。
ウフフ、ボクって悪女?
オトコを言葉巧みに操る手管を覚えつつ、そんな事より脱出の作戦を練らなくちゃとリーメイム。目の前に拡がる空を眺めながら、自分にも翼があればと瞑想に耽りつつ。
自由に空を飛ぶイメージは、夢の中ではあんなに完璧だと言うのに。自分も翼の民の筈らしいのだが、全く彼らの一員だと言う気がしないのは何故だろう。
何もかもが間違いの可能性も、あるんじゃないだろうか?
心の中で、例の怪しいメロディが脈動する。彼(彼女)の鼓動に合わせ、まるで今の状況を楽しむように。それは15年間、リーメイムが彼として育った性質とは、根源の異なる異質な存在だった。
あの時、自分の中に居座ってしまったモノの正体。そいつは神官長の持つ片割れを前にして、騒々しいほどに存在を主張していた。
それは執拗に力の誇示をして、リーメイムの気を惹こうと頑張っている。
気がつくと、兵隊達の動きが慌ただしくなっていた。戦争なんて、もちろん嫌だ……。
――でもそれ以上に……卵を生むなんて、絶対嫌だもんね!