反転した日常
暖かな陽だまりの中で浮遊しているような感覚、その曖昧な焦点がゆっくりと合っていく。そしてそれは、懐かしさと郷愁をリーメイムの元へ連れて来た。
希薄な存在感は、周囲の風景も本人も一緒だった。これは夢なんだなと、お馴染みの感覚に戸惑いも無い。それでも現れた人影に、リーメイムは泣き出しそうな安堵感を覚えた。
夢の中でも、養父のガイラスは大きな存在だった。
しばらくはお互い無言で、どことなく掛ける言葉を捜している風でもあった。リーメイムにしてみれば、懐かしさよりも悔恨の情の方が大きかった。
それは残された者の後ろめたさなのかも知れないし、自分の力不足を認めた上での懺悔なのかも知れなかった。育ててもらった恩を返せなかったと言う、後悔の情は意外に大きかった。
だがそれを口にすると、ガイラス養父は大きくかぶりを振った。
「それは違う、違うよリーメイム……私たち夫婦には子供がいなかった。拾ったお前を抱いて、家に戻った時の妻の顔を、私は今でも覚えているよ。お前は私たち夫婦の、唯一の宝物だった。お前が無事に育ってくれただけで、私たちはとても幸せだったんだよ……」
「父さん……」
淡いセピア色の視界の中、リーメイムの記憶よりも少しだけ若い養母が、まだ幼い自分を抱いてあやしている姿が垣間見えた。その姿は満ち足りていて、本当に幸せそうに見えた。
満ち足りていたのは、自分だけではなかったのだ。家族というのは、一つの思いを皆で共有するものなのだ。自分は、とても幸福な子供時代を過ごす事が出来た。
つまりは養父母もまた、幸せには違いなかったのだろう。
夢の中での曖昧な感覚の中、それでも感謝と喜びの感情がこみ上げて来ていた。これは自分の意識なのか、それとも周囲からもたらされたものなのか判然としないまま。
それでも何か言葉を掛けようと、リーメイムは側にいる筈の養父の姿を探す。靄掛かった視界の悪さのせいか、夢の独特の法則のせいなのか、養父の姿はもう見つける事は出来なかったものの。
それでも曖昧な存在感だけは、確かにすぐ近くに存在した。リーメイムを慈しみ護るように、固定の形を持たない意思としての形状を保っている。
感謝の言葉を口にした途端、リーメイムは強い光に包まれて行った――
辺りは妙に静かだった。夢の残滓が、こそばゆい感じにリーメイムの脳裏を刺激している。薄暗い部屋で、リーメイムはベッドに横たわった状態で目を覚ました。
辺りを見回すと、ここ数週間の馴染みの空間が目に入って来た。やや古い感じは否めないが、頑丈で清潔な造りの部屋。さらに、自分で買い揃えたガラスの小物が目に入る。
ああ、ここは宿屋の借部屋だ……ボクはとの位、眠っていたんだろう?
びちゃびちゃに濡れたタオルが、途端に顔面を直撃した。小さく悲鳴をあげて、ベッドを飛び起きるリーメイム。ベッドの隣に置かれた椅子には、サラが無表情に座ってこちらを見ていた。
どうやら看病をしてくれていたらしい。
「サラ……! あの、おはよう。みんなは?」
無表情なサラは相変わらず何も答えず、リーメイムは顔に付着したタオルを、枕元の洗面器で絞り直す。宿の自分の部屋の中には、他に人の気配は皆無の様子。
気付けばサラが、のそのそとベットに上がり込んで、彼と対面する格好。
「どうしたの、サラ……? だっこして欲しいの?」
「…………おっぱい」
きょとんとするリーメイムにお構いなしに、サラは意外な行動をとった。彼の胸元に手を伸ばし、ムニュムニュと感触を確かめるようにまさぐり回す。
感じ慣れない感触に、リーメイムは再度キョトンと首を傾げる。サラはパジャマ越しに、何の遠慮もなく彼の胸を触っている。それより何より、サラが言葉を喋るの、初めて聞いちゃった。
でも、おっぱいって……?
リーメイムは改めて、自分の胸元に目線を落とした。控えめな二つの隆起が、視界に飛び込んで来た。確かにサラの言うとおりに、正体はおっぱいだ。
男には無い筈のふくらみが、リーメイムのパジャマの胸元を持ち上げている。
リーメイムはたっぷり十秒間、呼吸するのを忘れた。それから、思い出したように絶叫。思ったより大きな声が出て、それに驚く自分を発見する。
意外に冷静な自分が、外から自分の行動を眺めているような錯覚。
「おっぱい……?」
「なっ、なんで!? ボクの身体……どうなっちゃったのっ? 何でおっぱいが……!」
急に大声を出したリーメイムを、少し驚き顔でサラが見上げていた。胸を触っていた手を引っ込めて、叫び声の原因を少女なりに懸命に考えている様子。
それを尻目に、リーメイムは恐い想像に駆られてしまい、勢い良く布団を払いのけた。彼の膝に陣取っていたサラが、コロコロと転がって行く。
無くなっていた。長年連れ添った、彼の相棒が。
「無い、無いっ! 無くなっちゃった!」
サラがもそもそと、リーメイムの視線を辿ろうとベッドの上を移動して来る。リーメイムが慌ててパジャマのズボンを引き上げるのと、部屋の扉が勢いよく開くのは、ほぼ同時だった。
「おお、やっと目覚めたか、リーメイム! 心配したぞ、丸二日も眠り込んで」
「ベイクさんっ! ボ、ボクの身体、一体どうなったんですか……っ?」
部屋に入ってきたベイクは、その質問を聞いた途端、あさっての方向を向いた。そ知らぬ顔でサラを抱き上げ、冷や汗の流れる顔を決してリーメイムに向けようとしない。
扉の向こうには、さらにオットーの姿も見えるのだが。こちらも何かを恐れている表情で、部屋に入って来る素振りさえ見せない有り様である。
事情は既に、宿屋の全員に知れ渡っている様子。
「おっぱいあるの……」
「それは言っちゃダメだ、サラ……っ!」
サラが代わりに、幼くも可愛い声音で父親に報告した。リーメイムは、他人の口から改めて自分の身体の変化を耳にして、ショックに身をこわばらせる。
ベイクはその件には、余り関わり合いになりたくない様子だった。ひたすらだんまりを決め込んで、サラを抱え上げたまま視線も思考も上の空。
この薄情さにはもう慣れてしまったが、今回ばかりはリーメイムも必死。
「ベイクさん、ボクの身体どうなっちゃったんですかっ? 二日間眠ってたって……ああっ、思い出した。あの時、浮舟の機関室でっ!」
「取りあえず、大急ぎで戻って医者には診せた。目立った外傷もなく、内臓器官も正常だそうだ。リーゼも呼んで、念の為に診てもらった。魔力の暴走の後はあるものの、特に問題はないらしい。良かったな、リーメイム……養生せいよ」
「養生してたら治るんですか? ボクの身体、男に戻るんですかっ!?」
鮮やかに気を失った時の記憶が蘇り、リーメイムは自分の身体を抱き寄せた。あの装置が急に動き出し、何故だか魔力が自分の体内へと逆流して来たのだ!
だけど、自分の身体が女になったのは、そのせいなの……?
リーメイムの叫びは、半分は自己防衛の本能が起こしたものだった。自分の身に降り掛かってきた悲劇が信じられず、精神のバランスが変になりそうな気配への防御。
しかしベイクにしてみても、そんな予想外の事態の対処法など知るべくも無く。不幸な奴だなぁと構っていた少年が、ド級の不幸を招き寄せたんだなぁと言った程度の感想しか持てず。
頼むから巻き込まないでくれ的な、こちらも自己防衛全開の開き直り。
「そんな事は知るかっ! 俺達だって、死ぬ気で夜通し馬を走らせて、お前を医者に診せてやったんだ。これ以上、俺にどうしろって言うんだよっ!?」
あっ、逆ギレしてる……。絶叫するベイクを見つめつつ、反対にリーメイムは冷静さを取り戻して行く。ええっと、大元の原因は分かっているんだ、うん。それならば、何とかなるかも知れない……腕の良い、治療師か魔術師かに頼みこめば。
治療が出来ると言う可能性に、リーメイムは縋り付くしかなかった。このまま残りの人生を女の子で通すなんて、正直まっぴら御免である。
この事態を気に入ってるのは、何故かサラだけ。
「あの、リーゼさんが診てくれたって言いました? それで……大丈夫って?」
「リーゼなら、昨日から赤ん坊と一緒に泊まり込んでる。お前が目覚めたら、もう一度詳しく診察するって言ってたな」
自分の身体を知らぬ内に診察されていた事に、何となく頬を赤らめつつ。それでもリーゼなら専門的な知識に文句はないと、リーメイムは安心感をえた。
そんな両者の、切羽詰った言い争いが階下にも届いたのだろう。ベイクの説明の終わらぬ内に、廊下を誰かが走ってくる騒がしい音が響いて来た。
それから扉越しに顔を見せたのは、エプロン姿のシーナだった。
「リーメイム、目が覚めたのね? ああ、良かったわ……みんな心配してたのよ?」
「はあ……どうやらご迷惑かけちゃったみたいで。あの、いえ……」
急に胸元をかき抱いて、リーメイムは視線を落として口籠った。シーナが心配そうに近寄って来たので、思わず取ってしまった防衛行動だ。
それを眺めながら、ベイクがしんみりと聞きたくない事実を告げた。
「シーナも知っている……他の連中も、ほぼ全員な。俺はリーゼを呼んでくるから、ここは頼むな、シーナ」
ベイクはサラを抱いたまま部屋を後にし、残されたシーナはどことなく困った表情。それはそうだ、自分の意志に反して性転換した者に、何と声を掛ければ良いと言うのだ?
それよりも……ボクのあの淡い初恋は、一体どこへ向かえばいいの? お互い気まずい思いを抱えたまま、二人の間に重い空気が充満する。
しばらくして、部屋着のリーゼが部屋へと入って来た。軽くシーナに頷いて見せ、退出を命じる。シーナはどこか安堵した顔で、静かに退出した。
残されたリーメイムは、逆に逃げ出したい心境になったけれど。
「身体にどこか、違和感はありますか? 以前と変わったと、感じる事は?」
「別にどこも、悪くなっているようには感じませんけど……。あの、ボクの身体……」
「それじゃ、服を脱いでこっちを向いて」
平然とベッドの隣の椅子に腰掛け、リーゼはテキパキと質問して行く。リーメイムは背筋を伸ばして、座った状態で自分の身体の調子を確認した。
いつもながら彼女に会うと、背中に一本筋が通るような気がする。
それでも服を脱げと命じられると、リーメイムは顔を赤らめて戸惑ってしまう。女性相手とは言え、診察って事はやっぱりそうなるんだよね……。
大人しく服を脱いでしまうと、自分の乳房がやけにくっきり、眼下に出現した。自分の胸にドキドキしてしまうのって、変態的だろうか?
いやしかし、この慣れない存在感ってば。
リーゼは事務的に、リーメイムの胸からお腹の辺りを診察して行った。かざした手から霊気のような波動を感じ、リーメイムの肌が意に反して不穏に波打つ。
自分の言葉通り、リーメイムは身体の不調を感じてはいなかった。それどころか、身体の奥から膨大な“漲るパワー”を感じている。以前は無かった、不思議な感覚。
気を失う際に感じた、魔力の回路は未だ閉じていない様子。
「魔力の安定した供給を感じます、これは以前には無かった素質ですね。医師が診た限りでは、外傷も無いし臓器にも異常は見当たらないそうです。私も同じ意見ですが……この変異ばかりは、私にもお手上げです」
「そっ……そんなっ!」
「落ち着いて、リーメイム……あなたの身体が女性に変異したのは、この居座っている魔力が原因の一つと考えられるでしょう。実は解読した古文書の記述に、翼の民の記述が存在していました。翼の民と言うのは、私たち風の民の属民だった交戦的な種族です。その攻撃性のせいか、古い昔に風の民とは袂を分かちあっていたようです。浮舟とあなたの関係から推測すると、あなたがその翼の民の可能性が高いでしょう」
「翼の民……」
そんな民が存在していたなど、リーメイムは全く知らなかった。彼の知らないところで運命が決められた気分を味わいつつ、その事実が何の役に立つのか脳内思考。
結局は、自分と言う存在が劇的に変わる訳では無いと、リーメイムは結論付けた。いつかケイリーがこぼしていたように、生きて行くうえでは余り関係のないレッテルのようだ。
って言うか、今は自分のアイデンティティの喪失の方が大問題だ。
「翼の民については、私の故郷に戻れば詳しく分かるでしょうが……あなたの突然の変異が、ひょっとして民族特有のものである可能性も捨て切れません。ベイクからも頼まれてますし、里帰りして文献を調べてみましょう。だからくれぐれも、気を落とさずに」
「は、はぁ……」
そうは言われたものの、提示されたのはかなり希薄な手掛かりのみらしく。それを期待して待つ訳にも行かないリーメイムは、やっぱり泣き出したい気分のまま。
それでも親身に心配してくれるリーゼに、これ以上の重荷を背負わせる訳にも行かず。お願いしますとか細い声で、哀願に似たエールを送るのみ。
――そんな感じで、とことん憂鬱の底に沈み込むリーメイム(♀)だった。
翌朝、リーゼはリーメイムとの約束通りに里帰りの帰路へと発った。赤ん坊を連れて行くのは当然として、サラをどうするのかと言う問題はあったらしいのだが。
調べ物をするための里帰りに、子供二人を同伴するのも辛いものがある。サラ自身も、父親の元に留まる方を望んだらしく。父子も実家をしばらく留守にして、一緒にこの“木槌亭”に泊まり込む予定らしい。
もっとも、ベイクは昼間は宮廷勤めを抱えているけれど。
そんな訳で、食事が終わるとベイクは仕事へと出掛けて行った。サラと一緒に戸口まで見送った後、リーメイムはシーナと共に宿屋の仕事を手伝う事に。
確かに、リーメイムの健康状態は良好だった。
以前と変わった点は、もう一つだけあった。下町の警備隊から、イーリー捜査官と言う名前の草原の民の女性隊員が、リーメイムを訪ねて来たのだ。
ケイリーには既に話を通してあるらしく、どうやら身辺警護に当たるらしいのだが。リーメイムに関する悩みと言えば、今のところは性転換問題しかありえず。
ケイリーの説明を聞いて、何となく納得してみたり。
それは別にして、リーメイムにとっては青天の霹靂でしかありえない内容の話だった。ザックの名前は、彼には既に過去の遺物でしかなくなっていたのだ。
挨拶をしてきた草原の民の女性に関しては、荒事が似合いそうも無い優しい雰囲気にホッとするものの。正直なところ、自分の異変で手一杯なリーメイムにしてみれば。
これ以上、煩わせないでとの思いが強かったりして。
ところがサラは、あっという間にこのネコ耳女性と馴染んでしまっていた。恐らく母親不在の寂しさを紛らわす為なのだろう、完全に甘えモードに入っている様子。
女性捜査官の方も、子供のあしらいには慣れている様だった。逆にオットーなどは、昼間の宿屋の女性率が上がって、何となく居心地の悪そうな素振り。
我関せずなのは、ケイリーのみと言う。
ケイリーに関して言えば、さすがにリーメイムとの特訓の続きには応じてくれなかった。リーメイムの心情としては、己の生き抜く力を付けたいとの願いもあったのだが。
こんな身体の変異を味わってしまってからは、人生の先行きの不透明さにますます磨きがかかり。正直なところ、何を頑張れば良いのか分からなくなっていたりして。
自分の運命の複雑さに、思わず悪態をつきそうになるリーメイム。
それでもサラの相手をするのは楽しかったし、宿屋の仕事を手伝うのも嫌ではなかった。日々の雑多な日常仕事は、リーメイムの不安や悩みを紛らわすのに一役買ってくれた。
エイダを始め、宿の親父さんや食堂の常連客は、リーメイムに対して一種独特な距離感を置いている様だった。彼(彼女?)の様変わりについては、たった一言で説明はついていた。
つまりは“変異”したのだと。
この変異と言う言葉は、そういう意味ではとても便利ではあった。ただし土地によっては差別や偏見の対象になりやすく、つまりは人々に伝染性を恐れられているのだ。
距離を置かれるのももっともな話で、それでもエイダは気を利かせてかどうか、女物の服や下着を買いに行こうと誘ってくれた。それは丁重に断ったリーメイムだったが、心遣いに対しては心底感謝してもいた。
つまりはベイクやその他男衆の態度などよりは、よほどマシ的な。
男衆の中でも、多少マシなのはやっぱりケイリーだった。彼は特訓を断った代わりに、チェスの相手をしてくれた。言葉こそ無いが、多少は気を遣ってもくれているのだろう。
この遊戯の時間も、リーメイムの気を紛らわしてくれた。
一方、皆が心の内でリーメイムに気を遣っているように、リーメイムもサラに対して大いに気を遣っていた。何しろサラの母親は、自分の調査のために家を留守にしているのだ。
サラが寂しい素振りを見せないよう、リーメイムは仕事や休憩の合間にすら少女を観察していた。もっとも、少女の表情から感情を読み取るのは、至難の業だったけれど。
そこの所を、リーメイムはエイダに相談してみた。
「遊んで欲しい時には、ちゃんと言ってくるわよ。リーメイム君、気の回し過ぎ」
「そっ、そうでしょうか……でもやっぱり、リーゼさんに用事を押し付けちゃったのはボクなんだし。せめてサラが寂しくないように、相手くらいはしてあげたいし」
「それはまぁ、そうかも知れないけど……だからって、全部一人で抱え込み過ぎるのも良くないわよ?」
そんなリーメイムの悩みは、次の日に呆気なく解消された。イーリー捜査官が、宿屋に自分の娘を連れて来たのだ。年恰好がサラとほとんど変わらず、ネコ耳がラブリーな少女。
このニーミャという名前の幼女も、どうやらほとんど喋らない性癖みたいだった。そのせいか知らないが、サラとの相性は良かったようで。二人はあっという間に仲良くなって、宿屋の中外を問わずに一緒に駆け回っていた。
その姿は、まさしく一陣のつむじ風のよう。
そんな娘たちを温かな目で見るイーリー捜査官だが、リーメイムはその感覚に疑問を感じずにはいられなかった。彼女がここにいるのは、つまりは捜査の一環である。
当然ながら、危険な荒事に出遭う確率も高い筈だろうに。それとも、本当は彼らの言う危険は、想像の中の産物でしかありえないのだろうか?
それとも単に、民族の思考の違いから来る相違だろうか?
宿の娘であるエイダは、この小さな珍客を気に入っている様子だった。サラに同世代の友達が出来たことを、恐らく素直に喜んでいるのだろう。
リーメイムとしては、サラがご機嫌ならば何も言う事は無かった。ただしこのちびっ子つむじ風、恐ろしく凶暴な竜巻に変じる事もしばしばあって。
実質的な被害を何度も受けたリーメイムは、素直に喜べない気も。
例えばこんな事があった。食堂のテーブルの下で、子供たちの取っ組み合いを発見したリーメイムは、慌てて仲裁に入ったのだが。ただのじゃれ合いだったらしく、向こう脛に思い切り頭突きを喰らう有り様で。
凶行に及んだ幼児たちは、もちろんしれっとした表情である。むしろ一緒に遊びたいのかと、自分たちに都合の良い解釈に余念が無い有り様。
そんな感じで連れて行かれた裏庭で、今度は砂塗れにされてしまって。
その後に、何故か代表でエイダに怒られるリーメイム。まぁ、彼女が怒るのも無理はない。こんな格好で皆が食事にやって来る場所をうろつかれたら、自分だって腹が立つに決まっている。
そもそもサラに限って言えば、どうもこちらを元気付けようと振る舞っている節がある気もするリーメイム。だからと言って、砂だらけの手で頭を撫でるのはやり過ぎだ。
ニーミャも面白がって参加して、そこからは泥沼の訳の分からない戦いに突入して。気付けば3人とも泥まみれ、上機嫌なのは本人達だけと言う。
叱られて反省しながらも、どこかすっきりした面持ちのリーメイムだったり。
その日は酒場の仕事が迫っており、リーメイムはやむなく簡単に汚れを落として、着替えをしてから持ち場に向かう事に。幼児たちは、呑気にイーリーに風呂に入れられていたようだったけど。
そんな慌ただしい雰囲気でのイモ剥きの最中、エイダが不意に席を立って調理場を出て行った。何となく気になったリーメイムだが、すぐに戻って来たエイダに手招きされて。
何事かと付いて行くと、お風呂場の中から可愛い歌声が聴こえて来た。
「えっ、これってサラの声ですか……珍しいですね、声を発すること自体」
「小さい頃から精霊の視える風の民や草原の民って、子供時代は滅多に喋らないそうなのよ。とってもか細い精霊の声に、いつも耳を傾けてるからだって聞いた事があるわ」
「へぇ、そうだったんですか……勿体無いですね、とっても綺麗で可愛い声なのに」
お世辞でも何でもなく、リーメイムは素直に思った事を口にした。エイダも同様らしく、邪魔したら悪いとばかりにその場をそっと去りに掛かる。
そんな彼女の後に続きながら、子供たちの透き通る声音に後ろ髪を引かれる思い。ニーミャも混ざってより複雑になった音階は、まるで森の中を駆け抜ける軽やかな微風のよう。
何にしろご機嫌なサラの様子に、リーメイムはホッと胸を撫で下ろすのだった。
そんな日々を繰り返しながら、リーメイムはひたすらリーゼの帰りを待っていた。相変わらず自分の身体の変化には慣れなかったが、その事で外野から変な目で見られないのは有り難かった。
むしろ接客中の被害は、何となく減った気もしているリーメイム。更に言えば、エイダやシーナとの距離も、何故かぐっと接近したのも間違いの無い事実で。
そのことを喜ぶべきなのかどうか、リーメイムには判然としなかった。
リーゼが赤ん坊を連れて里帰りして、もう3日が経っていた。つまりはベイクとサラの親子も、その間ずっと宿暮らしに甘んじていた事になる。
その日は朝食後も、ベイクはなかなか席を立とうとしなかった。最近の宿屋生活のお陰で、彼は王宮の仕事も真面目に通い、恐ろしく健全で規則正しい日々を送っている。
その事実が、ベイクを不愉快にさせていた。
「刺激が欲しい……」
「何か言いましたか、ベイクさん? 今日はお仕事に出掛けなくていいんですか?」
食器を片付けながら、リーメイムはベイクに尋ねる。テーブルにはいつもと同じ顔ぶれが同席しており、ベイクの我が侭が顔をもたげた事に、ほぼ全員が気付いていた。
ピリッとした緊張感が、事情を知る面子の顔に走る。
「今日もズボンか、リーメイム……? エイダから、お古のスカートを何着か貰ったんだろう?」
「あ、あれは、無理に押し付けられたんですよっ! ボクの趣味じゃありませんったら!」
その場の全員が、恐らくはリーメイムに同情しただろう。退屈しのぎの白羽の矢は、彼(彼女?)に突き刺さったっぽい。リーメイムは、頬を赤らめつつ全力で反論するも。
ベイクには、全く何の痛痒も感じさせる事が出来ていない様子。白銀の英雄はしかめっ面を作って、さも人生の大先輩のように振る舞うのに余念がない。
大仰に身振りを交え、何やら悟った物言いで語るには。
「いいか、リーメイム……幸せは、待ってるだけじゃ駄目なんだ。時にはお洒落をして、ナンパされに出掛けるくらいじゃないと!」
「嫌ですよっ、何でボクがナンパされなきゃいけないんですかっ!」
お調子者のオットーが、その掛け合いを聞いてケラケラと笑い始める。リーメイムが意識を取り戻した最初の頃こそ、どう接するべきか戸惑っていたっぽいオットーも、今では明け透けな態度に戻っていた。
朝食に同席していたシーナも、ベイクのからかい混じりの言葉には顔を引き攣らせていたものの。最近は全く外に出掛けていないリーメイムの身を案じてか。
気分転換に、外出するのも良いのでは的なアドバイスを送って来る。
「それならやっぱり、城下町まで出掛けてみるかな? いや、別に女の幸せは玉の輿と言う訳じゃないけど……あそこは隙な奴多いし、お前もあの辺りは珍しいだろう?」
「冗談は止めて下さいよっ! ベイクさんの本音は、どう見ても退屈しのぎじゃないですかっ!」
リーメイムは、ムキになってベイクに怒鳴り散らすのだが。当の本人は全くの涼しい顔で、リーメイムとサラに出掛ける支度を言い渡す。
終いには、話題を聞き付けたエイダが一緒に行くと言い出す始末。それならサラにもオシャレをさせてあげようと、シーナも話に加わって来て。女性のお洒落パワーは侮れないと、進退極まるリーメイム。
もうこうなったら仕方がない、奥の手をだそう。
「それじゃあ、ベイクさん……ボクの身に何かあったら、責任取ってくれますか?」
どうだ、少しは怯んだかっ……! 『責任取ってね』の一言は、既婚者未婚者を問わず、物凄い言霊を発するのだと以前エイダに教わっていて。何かあったら使ってやろうと、リーメイムは密かに使うタイミングを計っていたのだ。
ところがベイクは、涼し気な表情を崩さずに彼(彼女?)の言葉に同意した。
「そうだな……俺は既婚者だから、万一変な事になっても責任は取れんが。こいつらならお前も安心だろう、好きな方を選べ」
そう言って彼が指差す先には、やはり朝食を終えたケイリーとオットーが。二人は顔色を一気に失って、まるで死刑の宣告でも受けた様子。
オットーが真っ先に、掠れた声で釈明に入る。
「じっ……実は俺、生涯独身の誓いを立ててるから。どうせならリーメイムも、師匠と仰ぐ尊敬する男と結婚したいだろ? ……こいつ、本当はスケベだし」
「……………………!!」
友に裏切られ、あまつさえスケベと言い放たれた当のケイリーは。言葉も出ない様子で、弱々しく首を振った後、悪夢から逃げるように胸の前で十字を切った。
いつものクールさはどこへやら、額には大量の脂汗を浮かべている。リーメイムは何だか気の毒になって、更には人知れず落ち込んでしまっていた。
ベイクを苦しめる筈だった作戦は、何故か周囲への被害の方が甚大だったり。
「あの……今のは冗談ですから。忘れて下さい、二人とも」
「おおっ、今のはケイリーを庇った発言か? やっぱりこれは……愛?」
オットーのちゃかすような発言に、リーメイムは彼を睨み付けて反撃する。そんな事言ってると、指名しちゃうぞと言いたげな眼力で。
効果はてきめんで、リーメイムは何だか少し悲しくなった。
着替えのために一旦部屋に引っ込むと、リーメイムは大きなため息をついた。結局行く破目になるなら、変な条件など付けるんじゃなかった。
脱力しつつ、とにかく着替えをクローゼットから引っ張り出す。エイダから貰ったスカートは思い切り無視して、余所行きの上等な一張羅を。もちろん、デザインは男物だ。
着替え終えると、リーメイムは重い気分を引きずって階下へ。
エイダもサラも着替えを終えていて、ロビーで出発を待っていた。二人ともよそ行き風の衣装を、澄まし顔で身につけている。柄が同じなのは、どうやらエイダの手作りだかららしい。
サラはいまいち良く分かっていない感じだったが、イーリー親子が合流してテンションが上がった様子。イーリー捜査官はこの突然のお出掛けに驚いていたが、リーメイムも出掛けるのを知って同行を願い出た。
ベイクは王宮用のローブをまとい、いつものように帯剣していた。下町では思い切り目立つ格好だが、城下町をうろつくには至って普通である。
そのベイク、リーメイムの服装を見てチッと舌打ち。
「スカートはどうした、リーメイム? エイダ、監督不行き届きだぞ」
「いいじゃないの、無理に嫌な格好させなくっても。私はサラの着せ替えに忙しかったんだもん」
とにかく奇妙な四人連れと草原の民の親子は、断崖の方向に向かって昼前の街路を歩き出した。ケイリーとオットー、それにシーナの三人は留守番に残るとの事で。
サラとニーミャが先頭をちょこちょこと進み、時折振り返って皆の存在を確かめている。残りの者は、主にエイダの提供する話題について喋りながら後に続く。
リーメイムはこの辺りを通るのは数える程で、珍しそうに周囲を伺っていた。ベイクは一般用の登り口には近付かず、断崖の左方の、自動昇降乗り場へと足を進める。
当然のように後に続く一行と、驚き顔のリーメイム。
「えっ……ひょっとしてボク達、昇降機で上まで昇るんですか?」
「俺を誰だと思ってるんだ、愚か者。王宮での身分は、こういう時にこそ役立つんだ」
「本当にそうよねぇ……私も、昔はよくベイクにくっ付いて、城下町に遊びに行ったもの」
リーメイムの慌てた様子を横目で見ながら、ベイクは澄まし顔でそう答えた。エイダが可笑しそうに笑い声をあげて、常習犯であることを告白する。
なるほど、確かにそれは便利かも。リーメイムが最初の来訪で断崖を下った時など、確か三十分以上も時間が掛かったはずだ。まぁあの時は、珍しさも手伝ってあちこち観光しながらだったけど。
ベイクは、特に毎日通勤するんだし。
恐らくはお偉いさん専用の昇降機の乗車口は、二人の若い兵隊が警護にあたっていた。一行が近付くと、若い兵たちはベイクを目にして堅苦しい敬礼の仕草。
それに対して、鷹揚に頷きを返す白銀の英雄。
「御苦労さん。今日は娘と妹、それに妹の友人が一緒だ……動かしてくれ」
若い兵隊の好色そうな視線に、リーメイムは敏感に反応した。子持ちの癖に、若い女を何人も連れ歩きやがって、などと内心思っているんじゃなかろうか?
とにかくリーメイムは、早々と昇降機に入り込み、兵隊達から身を隠す。昇降機の内部は向かい合わせにシートが設えてあって、6人乗ると手狭な感じだ。
ベイクはサラを膝にのせ、どことなく大物振っている。
昇降機が動き出すと、リーメイムは思わず歓声をあげた。サラも驚いたように、三方向にある窓に視線を投げかける。昇降機はゆったりした速度で上昇し、じきに下町全てが見下ろせるようになった。
同じく初搭乗らしいイーリー親子も、何やら揃って興奮している様子。
「ほら、見えるかな……あそこが木鎚亭よ?」
「ああっ、本当だ……こうして見ると、大きい建物ですね!」
エイダとリーメイムと子供達は、皆で窓際にへばりついて眼下の景色に嬌声をあげていた。ゆるやかな風が、ゆったりと周囲を舞っている。何て良い気分なんだろう。
サラが今度は、左側の窓際にダッシュで移動した。リーメイムとニーミャが後を追うと、断崖の遺跡とそこで働く男達を、少し離れて見る事が出来た。
向こうも動く昇降機に気付き、乗客に若い娘が二人もいるのを知ると、切り立った通路の端まで寄って手を振って来る。下町の若い労働者達は、こんな時にも愛想が良い。
エイダが調子に乗って投げキッスを贈っている隣で、以前彼らに助けられた事を思い出すリーメイムだった。
「下町の人達って、とっても愛想がいいんですね。仕事、みんな放っぽり出してますよ」
「そうだねぇ、確かに職人気質の人達が多い気はするかな? サービス精神や助け合い精神が旺盛で、短気で粗暴なところはあるけど、仕事には手を抜かないわよね」
昇降機はすでに半分以上の高さを昇っており、若い労働者達の騒ぎ声も聞こえなくなっていた。五分も経たない内に、箱型の乗り物は終点へ。
景色を愛でていた面々も、今度は城下町の方へ興味を移して行く。
「さあ、到着したぞ……頑張ってナンパされろよ、リーメイム」
ああ、そうか。今からボク、さらしものになりに行くんだ……。浮かれた気分が霧散して、何だか足取りまで重くなった気が。そう思って足下を見たら、サラがズボンに引っ付いていた。
見慣れぬ場所に気後れするように、少女は周囲を伺いながら後に続く。ベイクの腕はエイダが抱きついて占領しており、リーメイムはちょっと考えてしまう。
これって、いいのかな~?
「あの、いいんですか……腕なんか組んで。相手は仮にも、所帯持ちですよ?」
「あら、いいのよ。今日は私達、兄妹ですもの……サラもいいよね?」
サラは小首を傾げて不思議顔。リーメイムに手を伸ばし、だっこしてもらうと、それで満足した様子だった。そうか、二人は子供の頃からの知り合いだっけ?
ニーミャも母親に抱っこされており、周囲を不思議そうに眺めている。
「こら、ちょっと待て! サラを抱いてたら、幾らめかし込んでても意味がないぞ。声を掛けてくる男がいないと、全く面白くないじゃないか!」
「それじゃ、今日はショッピングにしましょう! お昼は奢ってね、お兄様?」
不満そうなベイクの声に、リーメイムはしてやったりとほくそ笑む。確かにそれは良い作戦だ。意地でもサラを離すもんかと、リーメイムはファイト満々。
二人の掛け合いを脇で見ていたエイダが、笑いながらベイクの腕を引っ張った。ベイクの我が侭を制御出来るのは、下町広しといえども、リーゼとエイダ位のものだろう。
いかにも渋々といった顔で、ベイクがつられて歩き出す。サラとエイダに感謝しつつ、後に続くリーメイムとイーリー親子。
ラッガ=リーセント城に続く大通りは、賑やかな群集が溢れてまるでお祭りの様。一行は出店を覗いたり、小物を買い漁ったりと、忙しく店から店を移動して回る。
エイダのお買い物パワーは底知れず、リーメイムはくっ付いて回るだけでくたくたである。ようやく喫茶店で一息入れる頃には、エイダの荷物は山のごとき高さに達していた。
それを持つのは、必然的にベイクの役割に。
「少しは遠慮しろ、エイダ。荷物を持つ者の身にもなってくれ」
「いいじゃない、お店が忙しくてお小遣いを使う暇、滅多にないんだから。……あら、あそこにいるの、メーフィストさんじゃない?」
皆が一斉にそちらを向くと、向こうもこちらに気付いた様子。優雅な足取りで歩いて来るのは、確かに王宮付防衛大尽補佐のメーフィストだった。
それを見て、明らかに嫌な顔付きになるリーメイム。
「やあ、皆さんお揃いで。特にベイク殿、仕事をさぼりましたね? 私は昼食をとりに……どうしました、リーメイム? いつもと雰囲気が……」
「さすがに目敏いな、メーフィスト……紹介しよう。先週の遺跡探検の際、妙な装置の暴走で、何の因果か女に変異したリーメイムだ。良い医者か、立派な花婿を探している……そうだメーフィスト、お前、独身だったな?」
メーフィストはまじまじとリーメイムの胸元を見ていたが、急に弾かれたように飛び退いた。顔は蒼ざめ目はうつろだが、動揺の原因は他の者とは違う様子。
何となく悟ってしまったリーメイムは、複雑な胸中。
「……汚らわしい! おんな……女に? 自然の摂理への冒涜だ! あ、愛してたのに!」
泣きながら走り去るメーフィストを見送りながら、どっと疲労に襲われるリーメイム。これでこの先、あの変態に言い寄られる心配はなくなったが、本当にこんな結末で良かったのだろうか?
ベイクはと言えば、腹が捩れそうな程笑っているけど。
何にせよ、人をおちょくった事でベイクの機嫌は直ったらしい。エイダはこれ以上ないくらい買い物を楽しんだし、サラも父親達とのお出掛けにまんざらでもない様子。
イーリー親子も普通に楽しんでいたし、幼児たちはお揃いの髪飾りを、エイダに買って貰ってもいた。そういう意味では、皆が買い物と散策を満喫していた。
そう、人目を過敏に気にし過ぎていたリーメイムを除いて。
何だか自分だけが余計な気を揉んで、損な性格をさらけ出してる気がする。リーメイムはサラと一緒にピザをかじりつつ、これも運命かと強引に納得。
前にリーゼの言っていた、自分の受け入れるべき運命。あまり複雑でなければ良いが、とやっぱり独り気を揉んでしまうリーメイムだったり。
それでも、皆で食べるピザはやっぱり美味しかった。
食事が終わった後の短い歓談で、一行は次の行動について議論を交わした。って言うのは建前で、本当はエイダの我が侭をベイクが嗜めた感じだったけれど。
いつもは立場が逆なのに、振り回される英雄というのも見ていて面白い。などとリーメイムは内心思うけれど、確かにこれ以上買い物につき合わされるのは勘弁願いたい。
何しろ、エイダの荷物は既に山盛り。
結局はこれ以上は持てないと言う事で、大人しく帰路につく事に決定して。ベイクとリーメイムで荷物を分けて持ち、断崖の降り口へと進み始める。
下町へと帰るのだと理解したサラとニーミャが、朝と同じく皆の先頭をトコトコと歩いて行く。その幼い姿が、急に何かを見つけたようなリアクションに。
そして揃って、断崖通路の降り口目指して走って行く。
「あっ、こら二人ともっ……急に走り出したら危ないよ、戻ってらっしゃい!」
「ふむ、近くで異界のほつれ目が開いたようだな……こんな人里近くってのは、珍しいな」
エイダの慌てた制止の声に、ベイクののんびりした説明口調が重なる。リーメイムにも何となく伝わって来た、空気の振動のような魔力の伝播。あれがそうだったらしい、馴染みの無い感覚に、思わず息が詰まりそうになったけれど。
ベイクの言葉によると、人里近くに異界のほつれ目が開くのは珍しいみたいだけれど。危険はないのだろうかと、リーメイムは少し心配になって来る。
子供たちは、もうとっくに降り口から姿を消していた。
慌てて追い駆けるのは、身軽なエイダのみ。イーリーも戸惑っていたが、結局は我が子の後を追い駆ける事に決めた様子。荷物で両手がふさがっていたリーメイムは、心配しつつも早足程度のスピードしか出せない。
遺跡の通路は、リーメイムも一度だけ通った事があったけれど。立ち入り禁止の看板を無視すれば、簡単に断崖遺跡の中に入れてしまう造りみたいで。
好奇心旺盛な子供を放り込むには、あまりに危険過ぎるような気がする。
「ベイクさん、みんな見えなくなっちゃいましたよ……危なくないんですかっ?」
「むうっ、遺跡の中は危ないかも知れないな……それから開いた異界の向こうの住人次第では、やっぱり危ないかも知れないなぁ」
「それじゃあ、少しは慌ててくださいよっ! サラ達に何かあったら、どうするんですかっ!?」
危なかったら走って逃げるだろ、とのベイクの呑気な台詞を無視して、リーメイムは急いで階段を降り始める。先行した女性陣の姿は見えず、それでも先程の波動の感覚を頼りに歩を進めて行くと。
サラ達も、間違いなくあの感覚の震源地へと向かっている筈だ。そう思っていたら、意外とすぐにエイダの姿を発見する事が出来た。後ろをのんびりついて来ているベイクを急かし、リーメイムは瓦礫の積み重なって出来た脇道へと入って行く。
案の定張ってあった、立ち入り禁止の看板と紐を無視しつつ。
空気を引っ張るような冷たい波動は、進むにつれて強くなって来ている。恐らく以前のリーメイムなら、味わう事の出来なかった感覚なのだろう。
太陽の日差しは、辛うじて遺跡内にも届いていた。イーリー捜査官の姿も、ようやく見つける事が出来てホッとするリーメイム。そこから遠くない場所に、サラ達も揃ってちゃんといた。
そこが目的地だったらしく、空間の亀裂が壁一面に開いていた。
それは何とも言えない眺めで、リーメイムは最初幻か何かじゃないかと思ったほど。暗い壁の一面に、青光りする大きな水面が出現していたのだ。
呆気に取られて見ていると、水中を何かが横切った。サラとニーミャがすかさず手を振ると、それはこちらに気付いた様子で。悠然とした動きで、空間の亀裂に泳ぎ寄って来た。
それは体長5メートルを超す、巨大なイルカだった。
水中からこちらを覗く瞳には、明らかに知性の輝きが灯っている。リーメイムはこの遭遇に、震えるような感動を覚えていた。自分の知らない、未知の知性体との遭遇。
なるほど、子供たちがはしゃいで駆け出したのも分かる気がする。
他の面々も、リーメイムと同じく何らかの衝撃を受けている様子だ。もっともベイクだけは、危険な生物じゃなくて良かったな的な発言を口にしていたけど。
なるほど、異界には物騒な輩も当然存在する訳だ。そう考えると、この出逢いは奇跡にすら思えて来る。もっとよく見ようとリーメイムが近付くと、そいつは声を発した。
恐らくは声だったのだろう、水中ですら響き渡る音波は超ド級の迫力。
子供たちが一層はしゃぎ出したのは、その声に反応したからではなかった。いや、その声が恐らくはもたらした結果ではあるのかも知れないが。
水の中に、新たに揺らめく存在が垣間見え、リーメイムはぎょっとして目を凝らした。イルカの周囲に、透明な無数の何かが泳いでいる。
それは少しずつ形を成して行き、やがて各々が可憐な少女の姿になった。正確に言えば、若い人魚の容姿である。もっと正確に言えば、恐らくは水の精霊なのだろう。
向こうもこちらの景色が気になるのか、無邪気に眺めに寄って来ている。
異文化交流に全く物怖じしない両者、サラとニーミャも両手を振ってご満悦状態の様子。のほほんとした雰囲気に、リーメイムもようやく警戒をとく。
エイダとイーリーも、もちろんその異界の亀裂に注目していた。彼女たちも同じく緊張感からは解放されており、水中を自由に泳ぐ異国の民に目を奪われている様子だ。
当然ベイクもそうだと思っていたら、何だか様子が違う。
いきなりベイクの分の手荷物まで渡されたリーメイムは、驚いて彼に抗議を返そうとしたのだが。荷物のせいで狭くなった視界越しに見える、ベイクの横顔は真剣そのもの。
ただその視線は、皆が注目している異界の亀裂とは間逆に向けられていた。つまりは光の差さない遺跡の奥の方だ、何らかの危険が潜んでいても不思議はない。
リーメイムは、急に不安になった。
「ど……どうしたんですか、ベイクさんっ?」
「いいから皆とここにいろ、リーメイム。……ちょっと数が多いかな、大変だ」
大して大変そうでもない口調で、ベイクは身を翻して元来た方向へ。風霊の剣を鞘から抜いた途端、水の精霊たちはびっくりして散り散りになってしまった。
それに抗議するように、ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねる幼児たち。未だに呑気な表情で、顔色が変わったのは残された面々ではイーリー捜査官ただ一人。
窺うように、遺跡に居座る薄暗闇に視線を飛ばしている。
遅ればせながら、リーメイムにもその異変がようやく察知できた。暫く後に、明らかな獣臭と低い唸り声が、通路を通してやって来たのだ。それに加えて何やら物凄い爆発音、恐らくベイクは戦闘中なのだろう。
イーリー捜査官が、腰から短棒を取り出した。仕事柄、いつも持ち歩いているらしい。敵の正体は未だに分からないが、ベイクの話だと数は多いらしい。
苦戦していなければ良いがと、暗闇の向こうを心配するリーメイム。
ところが暫くして、こちらものっぴきならない状況に。どうやらベイクの脇をすり抜ける事に成功したらしい痴れ者どもが、異界の裂け目の元に辿り着いたのだ。
そいつらは、リーメイムも一度目にした事があった。怪しい薬を使って獣化した、チンピラの成れの果てだ。今回も同じだろうか、辛うじて人型のシルエットの彼らの瞳に、知性の輝きは見当たらない。
イーリー捜査官が、低い姿勢でそれを迎え撃ちに出る。
エイダは慌てて、子供たちを保護しに掛かっていた。さすがに下町育ち、こんな荒事では然程慌てた素振りも見せていない。子供たちはしかし、かーちゃん頑張れ的な興奮状態でヒートアップしている様子。
リーメイムも慌てて荷物を置いて、何か武器になるモノを探して視線を彷徨わせるけれど。短い木切れ程度しか転がっておらず、仕方なくそれを拾って中腰に構える。
幸い、抜け出せた敵の数はこれ以上増えないらしい。覚悟を決めて、壁になりに前へ。
通路の奥からは、獣に成り果てた輩の絶叫や爆発音が絶え間なく聞こえて来ている。それに怯む様子も無く、二匹の獣はこちらに突っ込んで来た。
イーリー捜査官が、真っ先に右側の獣人に突っ込んで行った。対する獣人の動きはまるで拙くて、何の策も無く組みかかって来る感じの、喧嘩の素人の動きだ。
左側の奴も似たような動きっぽい、リーメイムの右手が翻る。
ケイリー師匠との特訓を思い出し、敵の動きを良く見て自分の武器の得意な距離を保つ。獣人の動きは素人っぽいが、動きの速さと力の強さは侮れない。
恐らくはまぐれだろうが、リーメイムの初撃の突きが相手の喉元を捉えた。刃先すら無い木片のため、致命傷には程遠いが敵の動きはぐっと鈍る。
身体を起こして一息つくと、隣は既に終わり掛けていた。
「コイツ何っ!? 力が強くて押さえ切れない……っ!」
「変な薬を飲んでるせいです、ザック一味の残党かも……?」
「リーメイム君、気をつけて……! まだ元気みたいよ、目の前の奴!」
イーリーとの会話に気を取られていたリーメイムだったが、エイダの忠告に我に返って相手と再び対峙する。イーリーは一撃を与えて押さえ込んでいた獣人に、盛り返されて吹き飛ばされたところ。
自分より腕力も体力も上の相手を押さえ込むのは、当然だか至難の業である。それはリーメイムにとっても同じ事、目の前の敵をどう無力化しようかと思案しつつも。
ケイリー師匠は、こんな時にはどうしろって言ってたっけ?
もちろんそんな、都合の良い教えなど思い浮かばなかった。師匠から教わったのは、主に自分の身の護り方に他ならない。ここは大人しく、自分と皆を護りながら守備に徹していた方が良いに決まっている。
子供たちが何やら騒がしく、こちらの注意を惹こうとしていた。リーと自分の名前を叫んでいるのは、あれはサラだろうか? エイダが抑えているから飛び出しては来ないが、ほとんどそうしそうな勢いである。
獣人の力任せの攻撃をかわしながら、チラリと後ろを振り返ってみる。
異界の裂け目は相変わらずそこにあって、リーメイムは脳裏に閃くものを感じて身を伏せた。獣人の腕が、凄い風圧と共に頭の上を通り過ぎて行く。
そのまま後ろ向きに転がると、敵も何の躊躇も無く突っ込んで来てくれた。後ろに鎮座する全く異質の存在に、何の警戒も抱かないのは有り難い。
絶妙のタイミングで足を引っ掛けてやると、獣人は頭から壁の中に突っ込んで行った。
そのまま後ろから押さえ込んでやろうと思っていたリーメイムだったが、そこまでする必要も無かったみたいだ。水の精霊の友好の証か、はたまた単なる遊び心か。獣人の必死の抵抗にもかかわらず、嵌まり込んだ首はどうやっても抜けない様子。
そのまま失神まで至ったようで、残るは後一匹……と思い振り向いたら。
「おっと、そっちも終わったようだな……大丈夫だったか、リーメイム?」
「オットー、何でここにいるの?」
「ケイリーとシーナも、どっかその辺にいるぞ……シーナの占いで、因縁の襲撃ありって情報を得てな。朝からこっち、こっそりと皆の後をつけてたんだ」
エイダの間の抜けた質問に、平然とした態度で答えるオットー。いつも手に持ち歩いている彼の大斧は、既に残りの敵の一匹を屠っていた。
その結果、この場の平和度はグンと上昇したっぽいのだが。安心感と共に、たった一人で敵を迎え撃ちに出たベイクの所存が気になって来るリーメイム。
果たして向こうは、無事にこの襲撃を乗り切っているのだろうか?
一方のベイクは、物凄く焦っていた。敵の数の多さはある程度予測はしていたが、まさかここまで統率の取れた動きをしてこようとは。完全に当てが外れた上に、派手に立ち回りの出来る場所が限られていて。
お陰で囲まれる心配は無いが、敵を追うたびに死角が物凄く増えて行く。いや、奥には非力な護衛すべき子供たちもいるのだ。敵を追っている場合ではないのは分かっている。
分かってはいるのだが、敵のボスが視界に入るとつい追い駆けてしまうベイク。
あれがザックの成れの果てだと、勘の部分がそう囁いていた。その後ろにフードの人影を見付けた時、ベイクの心拍数は一気に跳ね上がった。あれが本当の倒すべき敵だ、雑魚など放っておけと本能が発破を掛けて来る。
ただし理性は、突っ込み過ぎると子供たちが危ないぞとも告げて来て。
城下町での買い物の際、ベイクは仲間が後ろを詰めていてくれているのに気付いていた。シーナが何か感知したのだろうとの推測は、恐らく間違いないだろう。
つまりはもう少し待てば、こちらも挟撃体制が整う訳だ。
そうは思っても、ちっともベイクの気は休まらなかった。今も無謀に突っ込んで来た獣人の一体を切り伏せて、挑発するようにザックの成れの果てに眼を飛ばす。
返答は魔法の炎で返って来て、ベイクは舌打ちしながらそれを魔剣で弾き返す。飛ばして来たのはフードの男で、ザック獣人は不敵な笑みをこぼすのみ。
いい加減頭に来たベイクは、そこを中心に風の爆裂魔法を叩き込む。
やってから後悔、勝手に巻き込まれた雑魚は一匹始末出来たものの、爆風で完全に視界が遮られてしまった。オマケに爆音で、聴覚も一瞬手放してしまう始末。
元から明かりの少ない遺跡内だが、獣人たちにはあまり関係のない問題らしい。周到に仕組まれた襲撃らしいが、問題は奴らの狙いがどこにあるのか分からない点。
ただの復讐なら良いのだが、フードの男には別の思惑がありそうだ。
とっ捕まえて白状させたいのだが、状況は一向に好転しない。ところが舞い上がった白煙の中近付こうとした獣人が、投げナイフによって音も無く事切れたのをベイクは目撃して。
援軍の到来を察知して、ようやく口元に笑みを広げる。
「おぉうい……そっちは狩りを仕掛けているつもりだろうが、こっちもそろそろ飽きて来た。今度はこっちが追い駆ける側に回るから、死にたくなければ全力で逃げろ?」
「クダラン戯レ事をホザクナ、白銀ノ英雄……ワシノ目的は、刺シ違エテモ貴様ノ息ノ根ヲ止メルコトヨ……!」
返答があるとは思っていなかったが、これで敵の位置がケイリーにも知れた筈。ベイクは再び風を操りながら、目晦ましにそれを通路に解き放って行く。
再びザックを視認したのは、遺跡の壁側の陽の当たる場所だった。四角く切り取られたような外の世界との接点に、ベイクは目を眇めて敵の姿を睨みやる。
ザックは躊躇する事無く、その大窓から身を翻して消えて行った。
真っ直ぐ追う事に暫し躊躇ったベイクだが、支配している風の精霊たちに結局は後押しされ。同じルートで遺跡の外に飛び出した直後に、再びやっちまったと後悔する破目に。
完全に敵の罠に嵌まってしまった様だ、しかも自爆覚悟の壮絶な相打ちに。風の精霊たちが火薬の臭いと危険を知らせて来た時には、既に相手の腕にがっちり捕まっていた。
しかも下手に逃げても、下は断崖絶壁である。
ベイクはそれでも、最後まで冷静さを失う事は無かった。面前に拡がる獣と化したザックの、絶望の底に堕ちた覚悟に縁取られた瞳さえ、しっかりと確認する事さえ出来た。
哀れな男だと、ベイクは心中であっさりと結論付ける。大いなる野望を抱くのは、それは本人の勝手なので構いやしない。だが、手を組む相手が悪過ぎた。
挙句の果てに、自分の魂まで売り飛ばす破目になろうとは。
風霊の剣が目の前で一閃、風車の羽根のように自分の手首を起点に一周する。その一太刀で、ベイクは呆気なく自由を取り戻した。それでも火薬の元火を消す暇は無く、お得意の真空呪文も唱えている時間も無い。
考えている間に、閃光を伴って爆発はやって来た。風の精霊がガードしてくれるのは分かっているが、派手に吹き飛ばされながらも、この距離を墜ちたら助からないなと結論を下す。
断崖はほぼ垂直に近く、安全に滑り落ちるのはまず不可能だった。それでも凹凸が無い訳ではない、必死に手にした風霊の剣を断崖の壁に突き立てに掛かる。
何とか苦労は実って、ベイクの滑落は何とか30メートル程度で済んだ。
肉体にダメージが無い訳ではないが、ひとまず窮地を脱して一安心するベイク。英雄と讃えられる姿じゃないなと自己批判しつつ、それでも仲間の安否を一刻も早く見なければと心を沸き立たせ。
戦闘後に訪れる高揚感は、今回は微塵もやって来ず。
手駒にされ、最後は自分の命まで弄ばれたザックに多少の哀れみを感じつつ。それでも同情などはしていられない、悪行の報いは必ずその身に訪れる物だ。
果たしてその罪と罰の重さが公正なのかなど、神ならざる身のベイクには分かる筈も無い。自分には英雄の肩書きすら重過ぎるのかもなと、自虐気味に考えてしまうのも仕方のない事なのかも。
――遺跡の崖を這い上がりながら、ベイクはそんな埒も無い考えに浸るのだった。
「さすがの英雄も、空は飛べないらしいな……始末はし損ねたが、今回はまぁいいだろう。次の手も打ってあるしな、暫くは退場願えるだろう」
「それはどうかな、奴にも色々と隠し玉があるって噂だ。下手に策を労せずに、正面からぶつかってみたらどうだ? まぁ、まずは俺が相手をするが」
安全な場所から、罠の成果を見てこぼした独り言に、返事が返って来たのは想定外だったのだろう。フードの男は驚いて振り返り、柱の側に立つケイリーに気付いた。
舌打ちをしつつ、戦闘モードに思考を切り替えつつ。更にシーナが後ろから姿を見せると、フードの男は二度目の舌打ち。彼女が漂流の民だと気付いた時には、あからさまに不快な態度に変化した。
それに気付いたケイリーが、軽くカマを掛ける。
「裏切りの民は、漂流の民を事の外嫌うそうだな……長年恨み続けている、光の民よりも。嫌う民が多過ぎて、疲れやしないか?」
「黙れ、雑種……ふらふらと尻軽に、どの大陸も選り好みせず腰を据える民を、嫌うのに道理が必要とも思えないがね?」
「あなたたちの思想には、正直反吐が出るわ……まるで誰にも受け入れられないのを拗ねている、性根の曲がった醜い怪物のよう」
シーナの反論に、フードの男は明らかに激昂した様子だった。もっともシーナも、尻軽と罵られてこの上なく頭に来ていた様子だったが。雑種と評されたケイリーのみが、一人落ち着いて状況を分析している。
フードの男が裏切りの民なのは、既に十中八九間違いないだろう。だとしたら、問答無用で息の根を止めに掛かったところで何の問題も無い。
問題なのは、裏切りの民が暗殺のエキスパート揃いだと言う事だ。
もう少し相手を激高させて、理性を曇らせてから不意を突きたいと考えていたケイリーだったが。時間を掛けたのが不味かったようで、相手にも援軍が到着してしまった。
そいつは何も無い暗闇から、急に出現したように見えた。恐らくは転移ゲートか何かなのだろう、新たな敵の出現に、ケイリーとシーナが改めて身構える。
そいつもフードを被っていて、先程からいた奴より一回り巨体の持ち主だった。
「……白銀の英雄の仲間か、一人くらいは始末しておきたいところだが。奴も近くにいるようだし、直接遣り合って被害を受けるのも馬鹿らしい……ここは一旦引くぞ」
「仕方ないな……精々、次の襲撃に怯えて暮らすがいい。お前らの町が炎に包まれるのも、そう遠くない未来だからな……」
新たに言葉を掛ける間もなく、フードの男たちは闇のゲートから姿を消して行った。追おうとしたケイリーを、シーナが首を横に振って制止する。
確かに、これ以上の深追いは危険な上に無意味でもある。ベストな手段は、奴らの計画を知った上でそれを潰すか、奴らを根絶やしにしてしまう事なのだろうけれど。
どちらも個人の力では、不可能には違いない。
それでもケイリーは周囲の探索に気を張って、危険な存在が近くにないかを感知してみるのを忘れない。フードの男たちは去って行ったが、雑魚の獣人たちは置き去りのままだ。
元が素人チンピラとは言え、それなりに危険要因には違いなく。外壁に近寄って外を眺めてみると、崖を器用によじ登って来るベイクが確認出来た。
何となく安心しつつ、ケイリーは鋭く口笛を吹いて相棒に合図を送る。
向こうもすぐに気付いて、指で合図を返して来た。墜ちた窓口から侵入するから、そこで落ち合おうとの事らしい。頷きを返して、ケイリーはシーナにその事を告げる。
シーナも明らかに安堵したようで、今度はサラたちの安否を気にし始めている。そちらはオットーに任せて来たが、酒の入っていない状態の奴なら信頼出来る。
そう言葉を返すと、シーナは急に笑い始めた。
「ケイリーってば、たまに真顔で冗談を口にするのよねぇ」
「冗談を言ったつもりはないが……何にせよ、早く皆と合流しよう」
先頭に立って歩を進めつつ、何となく傷付いた表情でケイリーがそう言葉を返す。遺跡の中は相変わらず薄暗いが、敵の気配はいつの間にか消えてしまっていた。
恐らくは背中を押すリーダーがいなくなったため、これ幸いと逃げ出したのだろう。これだけ騒ぎを起こしたのだし、城下町か下町のどちらかから、間もなく警備隊が到着するだろう。
後始末は、連中に任せておけば良い。
問題は、フード男から入手した情報の方だ。連中がこの町を狙うのに、最大の邪魔者は白銀の英雄に他ならない。何かしら策を練って、排除に力を注ぐのは当然の作戦だろう。
何とも嫌な話だが、戦争の気配はもうそこまで来ているようだ。今回の襲撃は、その布石と見てまず間違いない。本当に嫌な話だ、また自分の住む町が戦火に見舞われるのか。
陰鬱な気分に浸りながら、ケイリーはこの先の未来に思いを馳せるのだった――
何日も連続してサボれないベイクは、次の日は真面目に宮廷勤めに赴いたのだが。城内に入るとすぐ、何となく嫌な雰囲気が漂っているのに気付いてしまう。
それはまぁ良い、それが自分の身に降りかからなければ。ところがそうも行かないようで、緊張した様子のメーフィストが真っ直ぐこちらに歩いて来るのを見てしまい。
我を通して、もう少し休めばよかったかなと内心舌打ちするベイク。
「問題が起きました、ベイク。アルゾォン卿と彼の率いていた軍隊が、辺境で丸ごと行方不明になったそうです。既に3日、彼らと連絡がつかない状況のようで。国王は、この難題の解決をあなたに託したいそうです」
「それは光栄……とでも言うと思ったか? 厄介事が起こるたびに俺に持って来るのは、そろそろワンパターンだと気付くべきじゃないのか?」
「何をおっしゃるやら……こんな時のためにこそ、あなたの役職はあるのですよ、ベイク。正直なところ、アルゾォン卿は国王の遠縁ですし、何より派遣された軍隊と技術者の延べ数は100人以上です。……彼らにも、無事に帰りを待つ家族がいるのですよ?」
こちらの家族の事情も考えて欲しいものだと、内心でベイク。今は妻が里帰り中で、自分が地元を離れる事態は、正直なところ好ましくない。
この状況は、昨日メーフィストをからかった事に対する逆襲ではないかと、思わず訝ってしまうベイクだが。それにしては規模が大き過ぎる仕返しに、それは無いなと思い返してみたり。
それに確かに彼の言うとおり、100人を超す人間の失踪はただ事ではない。
「どういう状況なのか、詳しく分かっているのか? お前の趣向返しの悪戯で無いとして、どうも嫌な裏があるような気がしてきた」
「私がこんな途方も無い悪戯を企む訳がないでしょう……卿の部隊は拠点の町に後詰めを置いて、地図の遺跡の場所にアタックを掛けたそうです。それから暫くは魔法の通信手段に応答はあったそうですが、3日前から急に通信が途絶えたそうで。……こんな大掛かりな失踪事件を企める、どんな裏があると言うんです、ベイク?」
次第に声を潜めて行くメーフィストに、ベイクは軽く肩を竦めて答える。二人は周囲に人影がないのを確認して、王宮の通路の端で密談モードへ。
けだるい午前の陽光を浴びる中庭に面する通路に、それは似つかわしくない内容だった。
「ケイリーが最近の下町での一連の騒動に、裏切りの民の暗躍を疑ってる。あいつの勘は元から鋭いが、憶測の段階では滅多にそう言う事は口にしないからな。……実は、リーゼがリーメイムの件で里帰りしてるんだ。加えて辺境での、大掛かりな厄介事だ。これで俺が出向いたら、下町どころか王城も大きな戦力ダウンじゃないか?」
「それは……確かにそうですが。だからと言って、彼らを見殺しにするのも寝覚めの悪い話ですよ?」
「分かってるよ、何か策を考えてみる。正直、王城がどうなろうと構わないが、下町を何度もよそ者に蹂躙されるのは真っ平御免だからな……くそっ、サラをどうするかな?」
「あなたの優先順位は知ってますけど、ちゃんと王城も護って下さいよ。……確かに年端も行かない子供を、長い間両親から隔てておくのは気掛かりですね」
例の趣味以外は至って真っ当なメーフィストは、英雄の家庭事情について一緒に悩み始めるも。簡単に上手い案など出る筈もなく、いたずらに時間を浪費するばかり。
それはベイクも一緒で、まさか危険な辺境に4歳の娘を連れて行く訳にも行かず。必然的に宿に置き去りとなるのだが、それでサラが納得するかどうかは難しいところ。
ついでに言えば、妻のリーゼに育児放棄がばれた時の所業が怖い。
それでも仕事を放り出す訳にも行かず、先程のメーフィストの言葉は物凄く的を得ているとも言えた。つまりは、誰にも手に負えない厄介事の処理の為だけに、自分は王宮に詰めているのだ。
それで安くないお給金を貰っているのだから、いざと言う時に働けませんとの返答はさすがに不味い。信用の問題だ、自分は国が月々払い続けている保険のようなものだ。
全く、英雄家業も楽じゃないよな。
――国と家庭の板ばさみに憂いながら、身体が2つ欲しいと切に願うベイクだった。