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不幸な少年、強化月間



「サラ、待ちなさいっ! そんなもの持って、どこへ行く気なのっ?」

「えっ、何ですかっ?」


エイダの怒った声に釣られて、リーメイムは思わずそちらを見た。ボウルの中にしゃもじやお玉を放りこんで両手で抱えたサラが、裏口からこっそり出ようとしている。

サラはチラッとエイダを振り返ると、いったん荷物を床に置いて、ドアノブに手を伸ばす。明らかに警告を無視しようとする少女に、ダダッと真剣な表情で走り寄るエイダ。

扉の開く前に、何とか捕獲は成功した模様。


「またそれで砂遊びする気でしょ、サラ。この前ダメッて言ったでしょ、もうっ……何度言ったら気が済むの、悪い子っ!」

「悪びれない態度なんか、お前の小さい頃にそっくりだな。だいたい、サラが本気で逃げに掛かったら、お前さんじゃ捕まえられないよ」

「もうっ、お父さんっ! 私の過去の事はどうでもいいのよ。サラ、遊んで欲しいならそう言いなさい……夕方までは暇よね、お父さん?」


怖い顔をしてエイダが叱りつけるが、本気で怒ってないのが口調から分かった。エイダの父親のタンバが、顔を歪ませて娘の昔の素行を持ち出している。

歪んだ顔はどうやら笑顔なのだと、リーメイムは推測する。


父親の了承を得て、エイダはサラを抱え上げてにっこり笑う。それから洗い場で、律儀に朝食の汚れ物を洗っていたリーメイムに声を掛けて来た。

エイダも何となく機嫌が良さそうで、ウキウキ感が漂っている様子。


「リーメイム君もいらっしゃいよ。一緒に私の部屋で、お人形さん遊びをしよう」


リーメイムは、この歳で女の子に混じって、お人形さん遊びなどしたくは無かった。しかし、宿屋の主人がゆっくり頷くのを見て、仕方なくタオルで手を拭き立ち上がる。

厨房の裏口は暗い廊下に続いており、トイレや浴室、薪を保存する物置部屋などに通じていた。端には急な階段が設えてあって、サラを抱えたエイダはそこを上がって行く。

リーメイムは大人しく、後に続いて上階を目指す。


階段は地上の裏庭に続いていた。眩しい太陽の光を目にして、3人は一度に目を細める。裏庭はよく手入れをされており、季節の花が咲き乱れていた。

その奥はブロックが積まれたおざなりな壁があって、幅広のレネ河を見下ろす形になっていた。よく見ると、木立の間に、河に下りて行く小道がちゃんと作られている。

樹木の列が、その小道に程良い影を提供していた。


「へえっ……綺麗な景色だね。凄いや」

「こっちよ、リーメイム君」


エイダは裏庭に面した屋根だけの通路を進みながら、リーメイムを促す。短い廊下の正面に扉があって、そこを開けるとエイダは笑いながらリーメイムを招き入れた。

そこは小奇麗な部屋だった。宿の貸し部屋よりやや広い造りになっていて、壁際の二つの棚には整然と人形が並べられてある。サラがエイダの腕の中から飛び降りて、その中のひとつをぎゅっと抱きしめる。

クマのぬいぐるみで、随分と年季が入っている様子だ。


「サラはあのぬいぐるみが大好きなの。私も子供の頃、あればっかり可愛がっていたわ」

「はあ……」


何と言って良いか分からず、リーメイムは適当に相槌を打っておく事に。エイダは棚から適当な指人形をリーメイムに渡して、自分用に猫のぬいぐるみを手にした。

自分のはカエルのようだと、リーメイムは指人形と睨めっこ。


「サラ、どの遊びをしよっか? お買い物ごっこがいいかな?」


サラがこっくりと頷いて、籠の中からごそごそと小さな袋を取り出す。綺麗な色をしたおはじきが、ざらざらと音を立てて床の上に飛び出して来た。

サラはそれを無造作に一掴みほど取って、リーメイムに差し出した。あまり表情を見せない子供だが、心なしか顔付きが浮き浮きしている様子。

エイダは積み木で、商店らしき売り場を嬉々として作っている所。


「あっ、それがお金の代わりね? 今お店作るから、リーメイム君も適当に売り物並べて頂戴」

「……たくさん遊び道具持ってるんですねぇ、エイダさん」

「えへへ、子供の頃から店の方手伝ってたからね! お小遣いもその分多かったし、お店の常連さんも何かとプレゼントしてくれるのよっ」


リーメイムの質問に、エイダは浮き浮きした口調で誇らしげに答える。遊び方の説明は、その代わり至って簡潔だった。ごっこ遊びなんて、所詮は即興のおままごとだ。

こんな事、ベイク達にばれたらどうなるんだろう? その事だけが、ひたすら心配なリーメイム。絶対笑い者にされるのは分かっているが、少女達の有頂天振りを見せ付けられては後戻りも出来ない。

一抹の不安を感じながらも、その場を立ち去れないリーメイムであった。





夕方近くになって、ようやくお役御免になったリーメイム。一旦自分の部屋に戻った後に食堂に入ると、宿屋の主とベイクが話し込んでいるのが目に入って来た。

一瞬、近付こうかどうしようかと躊躇して、その理由を脳内で模索する。


こちらは特に用事は無いけれど、向こうはあるかも知れない。案の定、ベイクが抜け目無くこちらを見つけて、彼に向かって手招きして来た。

顔には、特上の満面の笑みを浮かべて。


「よう、リーメイム。お人形遊びはどうだった? それより今夜から、宿代も食事代も払わなくていいぞ。親父と話はついたから。その代わり、雑用全部と夜はウエイトレスな!」

「ベイク……男はウエイターって言うんだ、知ってたか?」

「あっ、悪りぃ、素で間違えちゃった。でも案外、女装ってのも受けるかも……?」


リーメイムはこめかみの辺りをひくつかせ、必死で湧き上がる殺意を押し殺そうとした。勝手に話を進めるのは良いが、何でボクがウエイトレス……?

少年の恨みの目線を無視して、しれっとした表情でベイクは簡潔に説明を述べた。要するに、この宿屋兼酒場は万年人手不足で困っているらしい。

宿屋の親父は、大げさに呆れ顔で首を振っていた。ベイクの茶化しを批難しているようだが、労働力の確保は大歓迎の様子。自分だって、ボクの人形遊びをベイクに告げ口したくせに! 恨みの視線は、宿屋の親父にも突き刺さる。

彼は少しだけ居心地の悪そうな表情に、どうやらベイクほど厚顔無恥では無さそうだ。


「ほら、これで頑張れ」


ベイクに手渡されたのは、手にすっぽり収まる位の小柄なナイフだった。そのナイフをしげしげと見詰めながら、リーメイムは思わず呟く。

話の流れからすると、ひょっとしての期待を込めて。


「これであなたを刺して良いって事ですか?」

「あほっ、何考えてるんだ。その恨みに満ちた目はやめろ、冗談の分からない奴め! 今から、芋の皮むきするんだよ!」

「ああ、そうですか、ボクはてっきり……。いえ、ボクの方も冗談ですから、気にしないで下さい、ベイクさん」


真面目な表情で一息にそう言うと、リーメイムは器用に指先でナイフをくるくると廻して見せた。ああっ、冷たい刃の感覚が気持ち良い……。

自慢ではないが、彼は手先だけは人一倍器用なのだ。


「ボク、こう言った指先の芸事、昔から得意なんです。でも、たまに失敗して、変な方へ飛んで行く事もあるかも……」


固まった表情で何も言い返せない二人を無視して、リーメイムはさっさと厨房に入って行った。それから芋の入った籠を見て、その量の多さにはさすがにたじろぐ。

籠の配置決めを苦心していたら、エイダがひょこっと裏口から入って来た。彼女は既にエプロン姿で、どうやらこの仕事は一人じゃない事に安堵するリーメイム。

エプロンを貸して貰い、腰を下ろすと二人で早速作業に取り掛かる。


「あら、なかなか上手じゃない、リーメイム君。手先が器用なのねぇ」

「ええ、まぁ……家事全般は、一通りこなせますよ」


エイダに誉められて、リーメイムも悪い気はしないのだが。だが、さすがに後に控える野菜の山を見てしまうと、うんざりする気持ちは否めない。

しばらくして厨房にシェフが現れると、作業は奇跡的にそのスピードを増した。シェフは四十過ぎの太った大男で、気の良さそうな顔付きをしている。

エイダの話によると、ここに10年以上勤める、腕の良い料理人なのだそうだ。


かまどに火が入ると、忙しさは加速度的に上がって行った。リーメイムは、今まで一人で仕事をこなして来たエイダに対して、尊敬の念を禁じえなかった。

それほど大きくない厨房を、素材と人間が飛ぶ様に行き交う。いつの間にか、エイダが厨房から姿を消していた。と思ったら、客の注文を持って戻って来る。

リーメイムの知らない内に、食堂に客が入っていたらしい。


サラは時々やって来て、ちょろちょろその辺を歩き回り、それから出て行った。リーメイムとエイダが、交代で夕食休憩を貰っている時にも、サラはやって来た。

なんだかひどく眠そうな気配を、少女は漂わせていた。みんなとの昼食後にも、少女は好きな場所でお昼寝を始めたのを目撃していたリーメイム。

案の定サラは、野菜の入っていた籠の中にのそのそと入り込んでしまった。それからほとんど間をおかず、スヤスヤと寝息を立て始めてしまう。

何も、こんな場所で寝なくても……。


「……いいのかな」


リーメイムは何となく心配になって、辺りをきょろきょろと見回した。間違って料理される事は無いだろうけど、包丁や火の燃えるかまどがある厨房は、安眠するのに良い場所とは思われない。

ひとり気を揉んで、ひたすらエイダの戻って来るのを待っていると。何故かそれより先にベイクが厨房に入って来て、籠の中で眠っている我が子を発見した。

さすがにちょっとだけ、驚いた表情で。


「ようっ、リーメイム。元気でやってるようだな? 俺は帰るけど、ちゃんと仕事しろよ。オットーが護衛用に、お前の隣に部屋を取ったから、夜は勝手に出歩くなよ?」

「出歩きませんよ、さすがに今日は帰るんですか。ちゃんとクビになった言い訳、考え付いたんですか?」


腰に帯剣してマントをはおり、サラを抱き上げた英雄は、妙にしっくりとしているようにリーメイムの目に映った。子供を守る、正義の味方という感じだ。

リーメイムに辛らつな言葉を浴びせられても、ベイクは怯まなかった。サラが無意識に抱きついてくるのを、優しく抱え直してリーメイムにカギを渡す。

朝の食堂で、皆に見せた父親の遺産の1つだ。


「俺が古文書を持って、オットーとケイリーが遺跡の地図を持つ事にした。お前は、これを持っておけ。奴らがどれを本当に欲しがっているのか分からないが、取り敢えず予防処置だ。オットーの話だと、番所の襲撃者は何者かの手引きで、既に逃げた後だったらしい。明日からは、俺とオットーが交代でお前さんの護衛に当たる」


ベイクの説明にいちいち頷きながら、リーメイムは話を聞き終えた。案外手馴れた措置に、何となく安心感を覚える。エイダが入って来ようとして、戸口に突っ立って通行の邪魔をしているベイクに向かって罵声を浴びせた。

リーメイムは、それに対してもうなんとも思わなかった。こんな性格の人を終始英雄と褒め称えていたら、絶対鼻持ちならない人物に豹変するに決まっている。

初めに抱いていた憧れの念は、彼の中で綺麗に霧散していた。


白銀の英雄は、げらげら笑いながらその場を去って行った。さらば勤労少年少女、という退場文句が、笑い声のフェードアウトと共に聞こえて来た気がした。

エイダはなおも悪態をついていた。


食事が終わると、汚れ物の山がリーメイムを待っていた。これじゃウエイターと言うよりも、下働きの皿洗いだ。心の中でぼやきつつ、再び仕事に取り掛かる。

夜はゆっくり更けて行き、永遠に来ないのではないかと思われた閉店時間がやっと訪れた。汗だくになりながら、厨房での仕事をこなしていたリーメイムは、少し楽な気持ちになって後片付けをこなし始める。

初日にしては良くやった方だと、リーメイムは自分に及第点を与える。


「よく頑張ったわね、リーメイム君。最初にしちゃ、上出来よ! 失敗も無かったし」

「いつもこんなに忙しいんですか? ひょっとして、今までエイダひとりで、注文受けと皿洗いこなしてたんですか?」

「まさか、でも似たようなものね。皿洗いは後から親父とやってるの、いつもはね。お皿が足りなくなったら、その場でちゃっちゃと洗って使うの」


エイダは笑いながら、苦労でも何でもないという感じてそう話した。それでもいつもは、後片付けにもっと時間が掛かると言う話だ。リーメイムにエイダの代わりをしろと言われても、絶対に無理だと言わざるを得ない仕事量である。

一言挨拶を残して、お先にとシェフが巨体をゆすって仕事場を後にして行った。シェフにも働き者だと誉め言葉を貰い、リーメイムはくすぐったい気持ちになる。

厨房の後片付けがようやく終わって、その片隅でリーメイムは疲れを癒す事に。エイダに風呂の準備が出来ていると言われたが、リーメイムは素直に順番を譲る。

正直言うと、一歩も動きたくない程だ。


食堂兼酒場は人気が無くひっそりしていたが、よく見るとカウンターの隅にオットーが座っていた。照明はほとんど落ちていて、カウンターの側だけに灯っている。

動く気力が少しだけ戻ったリーメイムは、何とかそちらに移動を果たす。


「もう寝るのか?」

「いえ、お風呂に入ってから。今エイダが入ってるんで……」


オットーが話し掛けて来たので、リーメイムは力無く返事を返した。彼の隣には装飾を施されている、巨大なアックスが立てかけてあり、それが彼の武器らしい。

夜も更けているのに、オットーは珍しくしらふな様子だ。その顔は面白く無さそうに、目の前に置かれた水の入ったグラスを見詰めていた。

その瞳が、エイダの入浴と言う言葉で豹変する。


途端にオットーはそわそわし始め、厨房の奥に視線を送ってグラスの水を飲み干した。そっと腰を浮かせ、また座りなおす。厨房の奥の扉の向こうには、物置の他にトイレと、風呂が設置されている。

エイダと父親の、家族用のだが。オットーもそれは百も承知。


「だめですよ。そんな事しちゃ」

「分かってるよ、そんな事……その代わり、ちょっと一杯飲んでもいいか?」


リーメイムは、さり気なく彼の覗きのプランにクギを差しておく。諦めたように、オットーがため息をついた。本当に覗きに行くつもりだったのだろうか、この男は……。

否定しきれない心の声が、ちょっと悲しい。


その代案と言う感じで、オットーは期待に満ちた目で酒樽に視線を注いだ。その風変わりな提案に、リーメイムは混乱した。なんで自分に断わりを入れる必要があるのか、その理由が良く分からない。

自分は店員と言うわけではないし、聞くなら店の主人にだろう。


「別にいいですけど、何でそんな事ボクに聞くんですか?」

「いや、一応仕事中だし、お前の護衛って言う……。ベイクにも帰り際に、素面でいろってクギ差されてるんだよなぁ」


そう言われて、改めて自分の今の状態を認識してしまうリーメイム。だがオットーは、嬉しそうにカウンターに廻り込んで、空のグラスにエールを注ぎ始める。

不意に厨房の扉が開いて、パジャマに着替えたエイダが顔を出した。湯上りの彼女は血行も良さ気で、濡れた髪にはタオルを巻きつけている。

その不意の登場に、ぴたりと動きを止めるオットー。他人の家の台所に、盗みに入ったのを見付かった猫のようだとリーメイムは思った。

エールの泡立つ音が、寂しげに周囲に響き渡る。


「オットー、何やってんの、勝手にカウンターに入り込んで! ベイクから言われてなかったっけ、一生懸命に真面目に仕事しろって?」


日照り続きでしおれた葉っぱのように、涙を誘うほどしゅんとなったオットー。憐憫を誘うその表情に、思わずリーメイムは彼を庇ってしまう。

オットーの代わりという訳でもないが、リーメイムは口を開いた。


「ボ、ボクが飲んでいいって言ったんです。一杯くらいなら、寝酒みたいなものだし」

「駄目よ、そんなに甘い顔しちゃ。リーメイム君の命に関わって来ることなんだから!」


そう言うと、エイダはすたすた歩み寄って、オットーのグラスをひったくると、グビクビと一気に飲み干した。オットーは涙目になってそれを見ている。

空のグラスをカウンターにでんと置き、エイダは酷く満足そうな表情。


「ああっ、風呂上りの一杯って、とっても美味しいわー! リーメイム君も、早く入っちゃいなさいよ。こいつは私が見張ってるから」

「う、うん」


何も見張っておくこともないだろうと思いつつ、リーメイムは着替えを持って、風呂場へと向かった。服を脱いでお湯に浸かると、疲れがゆっくりと染み出して行く気がする。

ふと、故郷を離れてこの宿の敷居をくぐってからの出来事を思い浮かべる。まだ、丸一日とちょっとしか経っていない。もっと、ずっと長く感じていたけど……。


どうしてこんな境遇になってしまったのか、リーメイムにはさっぱり分からなかった。平穏だった田舎での日々は、一体どこでひん曲がってしまったのだろう?

頼り甲斐があるのかないのか、全く分からない護衛役を得て、これから先の未来へ思いを馳せる。それはリーメイムにとって更に、現在の境遇よりも理解の及ばぬ事だった。

それは当然だ、だけど不安しか見当たらない気がするのは何故だろう?


風呂から上がって、沈んだ気持ちで自分の部屋へと戻る。もっと沈んだ表情のオットーが、後から付いてきた。部屋に入る前に、一応お休みの挨拶をして、リーメイムはベットに入った。

先ほどの思考が眠りを妨げるのではないかとリーメイムは心配したが、仕事疲れはそれに勝っていたらしい。たちまち眠りの淵へと誘われて、その前にふと不安の一端に思い至る。

眠りの誘惑に負ける前に、リーメイムはポケットから大振りなカギを取り出した。ベイクから預かったと言うか、返して貰った例の紋様入りのカギだ。彼はそれを、枕の下へと突っ込んでおく。

このカギは、何を空ける為の物なんだろう……?


暗闇へと急速に沈んでいく思考の中、一瞬リーメイムは、開かれた巨大な扉の向こうを見た気がした。それは、銀色に光って――。





次の日は、リーメイムは朝から雑用に追われていた。朝食の後も、昼食の後も、廊下を掃除したり使われていない部屋の掃除や換気をしたりして、彼は忙しく動き回った。

仕事で体を動かすのは、全然嫌ではなかった。エイダもその親父さんも親切で、無理なスケジュールを決して与えたりせず、大抵は彼らも何らかの雑用をこなしていた。

シーツの交換やら、洗濯や薪割りやら、やらなければいけない仕事は幾らでもある。


うるさいのは、第三者だった。いや、一応は関係者かも……とリーメイムは心の中で不機嫌に思い直す。この仕事を、事前承諾もなく持ち込んだのは彼だったし。

ベイクは護衛と証して、彼のまわりにへばり付き、野次ったり仕事にケチをつけたり、余計な指示を与えてリーメイムを終始イラつかせていた。その癖自分は、窓際の席に座って欠伸などしている始末。

リーメイムで無くても腹が立つその所業。


サラは今日も、宿屋にその小さな姿を見せた。父親の後を追うように、ベイクが来てからしばらくした後、ひょっこりと音も無く遊びに訪れる。

エイダはもちろん歓迎したし、リーメイムも少女の存在には癒される思い。ただ、そんなに居心地の悪い実家なのだろうかと、リーメイムは訝しがった。

ベイクの言葉を借りると、母親から逃げて来たと言う事になるのだろう。


「エイダさん……サラ、また来てますよ」

「あらっ、今日も一緒に遊ぶ、リーメイム君?」

「いえ、今日はいいです……」


昼休みの後は、今度は酒場の準備で忙しくなる。昨日の慌ただしさを思い出し、リーメイムは体に気力を貯めこむと、酒場の床のモップ掛けを始めた。

もうすぐ夕方で、そろそろ料理の下準備に掛からなければいけない時間だ。掃除が一通り終わった頃、リーメイムはフロアの入り口に人影を感じた。

モップを両手に、リーメイムはエイダを探しに行こうかと一瞬の躊躇。


その女性は、酒場に寄り付くような女性には見えなかったからだ。自分で用件を訊ねれば良いのだろうが、何となく声を掛け辛い雰囲気と言うか、オーラを放っている。

胸元に赤ん坊を抱えたその女性は、まだ若く、そして美しかった。


「あの、何のご用でしょうか……」


直接話し掛けるのを躊躇うほど、その女性は整った容貌を持ち、毅然とした高貴な雰囲気を放っていた。青みがかった黒髪を長く伸ばし、澄んだ切れ長の瞳は蒼く、見詰められれば視線を逸らせなくなるのではないかと思われるほど深い。

背が高くほっそり見えるが、抜群のプロポーションをしていた。赤ん坊を抱いているのが不自然に見える程、若く毅然とした態度を崩さない。

リーメイムは、少しだけ不安になった。


「……サラはどこ?」


その女性は簡潔に問いを口にすると、リーメイムに赤ん坊を預け、厨房へと歩いて行った。リーメイムはしばらく、モップと赤ん坊を器用に両方手にして、棒か何かのように突っ立っていた。

女性に手渡された腕の中の赤ん坊を、リーメイムはボーっと覗き込んだ。その生き物は小さくてフワフワしていて、まるで幸せの塊のようでとても可愛らしかった。

赤ん坊はすやすやと寝ており、リーメイムを陶酔させた。


「いないわ、どこなの……? ベイクでもいいわ!」

「ベイク? あっ、あなた、ひょっとしてベイクの奥さんですか……?」


女性が再び戻って来た事に気が付くのが遅れ、リーメイムは驚いて視線を上げた。ベイクの名前をその女性の口から聞き、リーメイムは二度びっくりする。

彼のあまりの驚きように、ベイクの妻は訝しげな表情を作った。リーメイムの腕から我が子を取り戻して、凛と響く声でリーメイムに言い放つ。


「そうよ、リーゼ・エッフィート。サラの母親です。あなた、私の赤ん坊をその汚いモップと、一緒にしないで下さる?」


リーメイムは顔を赤らめ、慌ててモップを後ろ手に隠した。この人も、自分勝手な事言ってる。自分で赤ん坊、ボクに押し付けた癖に……。

それでも言い負かされそうになるのは、女性の放つ威圧感の為せる業か。


「あ、あの、失礼しました。ボクはリーメイム・カーソンって言います。メジの町の出身で……」

「ああ、ベイクから聞いてるわ。ケイリーの恩人の息子で、遺跡探掘の後継者――別名、不幸の代弁者? ……あなた、変わったふたつ名を使ってるのね?」


それ、自分の意思じゃないです、悪意ある第三者の戯言です……。リーメイムは心の中で、滝のような涙を流しながら、自分自身を庇ってみたのだが。

……かなり、虚しいだけだった。


「あなたみたいな若い子が、ベイクを頼って辺境からやって来るなんて……。確かに不幸の代弁者のふたつ名は、伊達や酔狂じゃないみたいね?」


真面目な顔で変な感心の仕方をされ、リーメイムはもうどうでも良くなって来た。投げやりに乾いた声で返事をしながら、同情気な視線を送るリーゼの前でちょっと脱力。

夫婦で、ちょっと似たところが垣間見える性格のようだ。高圧的なところなど特にそう。


「いえ、それ程でも……」

「依頼の内容は、ベイクから聞きました。古文書も見せて貰ったから、私も関係者と言う事になります。その事で話がありますが、もう少し解析が進んでからで良いでしょう。今はとにかく、サラをここへ連れてきて頂戴!」


この人絶対、高貴な生まれな上お嬢様育ちだよね……。命令する態度が、あまりに堂に入ってるので、直感でリーメイムはそう思った。

皆のいる場所は大体分かってたので、リーメイムは足早に裏口伝いに外へ出た。裏庭の端の木立の中に、ベイクとオットーが何やら真剣に話し合っているのが見える。

そちらへ近付いて行く途中、何かが上から降って来て、リーメイムの頭にこつんと当たった。地面に落ちたそれは、小さくて硬い木の実だった、続いてもう一個。

つい頭上を見上げると、木の枝にまたがったサラと目が合った。


「サラ……! そ、そんな高いとこ、どうやって登ったの? とにかく降りておいでっ!」

「どうした、リーメイム……サラなら大丈夫だ。それよりオットーが昼間、付近の捜索をしたんだがな、収穫無しだそうだ」

「正確には、その辺のチンピラごついて、昨日捕まった奴の事聞き出そうとしたんだが、全くの無駄足だった。明日もこの手で行こうと思うが、当たりがあるかどうか……」


サラもベイクも、その場はリーメイム以外の皆が平然としていた。それでも、サラが動いて木の実を摘もうとするたびに、リーメイムは悲鳴を上げそうになる。

オットーがそれを見て、ケラケラ笑いながら尋ねて来る。


「どうしたよ、エイダに留守番頼まれてたんじゃなかったのか?」

「ああっ、そうだ! お客さんなんですよ、って言うか、サラを連れて行かないと……」


ベイクが不吉そうな顔付きになって、リーメイムの正面に来る。サラは自分の名前が出たのを聞きつけたのか、前のめりになってリーメイムを見下ろそうとしていた。

サラを支える枝が、柳のようにしなっている。少女の体重に適うほど、傍目からも太くは見えない。どうしてそんな細い枝を選んだのか、リーメイムには理解不能だった。

猫か何かでも、もう少し賢いぞっ!


「何でサラを、いや、誰が来たって……?」

「だから奥さんですよ。ああっ、サラッ! そんなに身を乗り出しちゃ、駄目だって……!」


ベイクの顔に急に玉の汗が吹き出て、頬を伝って落ちていった。やにわに身を翻すと、サラを見上げながら急いで手招きする。サラは父親に向かって小首を傾げている。

ベイクの顔には、既に先ほどの余裕は無いよう。


「サラッ、降りて来いっ、早く……! お前が危ない遊びをしてるとこ見付かったら、この俺が半殺しにされる……!」


それを聞いて、サラは身を乗り出した姿勢のまま、父親に向けて照準を絞った。父親が両手を上げると何の躊躇いもなく、勢いよく宙に身を投げ出す。

リーメイムは思わず悲鳴を上げたが、ベイクは完璧に娘のキャッチに成功した。あまつさえその勢いのまま懐に我が子を隠し、妻に見られなかったかと慎重に辺りを窺う。

その一連の動作は、慣れ親しんだモノのよう。


人間技じゃないよね……親子二人とも。リーメイムは呆れ返りながら、内心そう思った。こっちの方が、今も心臓がドキドキしてるくらいだ。

ベイクが振り返りつつ、慎重にリーメイムに訊ねて来る。


「……で、何の用だって言ってた、リーゼの奴?」

「さあ、とにかく急いだ方がいいですよ。なんか怒ってたし」


リーメイムは、ベイクが余りにおどおどしてるので、急に悪戯心を刺激されて、虚言を口にした。ボクの知らない所で、勝手にふたつ名を付けてくれた仕返しをしてやる。

案の定、ベイクはサラを抱えたまま、狼狽えまくっている。


「ど、との件で怒ってるんだ。サラの事か……それとも他の?」

「さあ? 不幸の代弁者のボクが口にすると、ホントになっちゃうかも知れないし……酒場で待ってますよ、奥さん。本当に綺麗な人ですよねぇ」


リーメイムが澄まして言うと、ベイクは唸りながら頭を抱えた。サラが心配気に、父親を覗きこむ素振り。相変わらず無表情なのだが、身体の動かし方や素振りで、何となく伝わるから不思議だ。

そう言えば、リーメイムはサラの喋っている姿を一度も見た事が無い。今更ながら気付いたが、この年代の子供ってそう言うものなのだろうか?

後でエイダにでも、聞いておいた方が良いかも。


「ベイク、どうせ今日はもう交代だし、このまま帰っちまえば?」

「そうする……後は頼んだぜ、オットー」


武器も持たずに戦地に臨む兵士のように、絶望の二文字を漂わせながら、ベイクは歩き去っていった。サラがひょこっと父親の肩口から顔を覗かせ、二人に向かって無表情に小さな手を振って来る。

振り帰す二人は、何となくほのぼのとした感じ。


「骨は拾ってやるぜ……」


オットーが、爽やかな笑顔で胡乱なセリフを口にする。乗りやすい人だな、全く……。サラに手を振り返しながら、リーメイムは自分もちょっと遣り過ぎたかなと軽く反省。

取り敢えず、ベイクが奥さんに、酷く叱られませんように。





次の日も、その次の日もケイリーは戻って来なかった。メジの町までリーメイムの足で、徒歩で三日の距離なのだから、当然と言えば言えるのだが。オットーの方も、下町での情報収集に関しては、芳しい情報は得られていない様子だ。

街のチンピラは、ザックファミリーのザの字も知らず、当の襲撃者の姿もあれ以来足取りは掴めないままらしい。いらついた感じのオットーの報告に、不安感だけが募る一行。

そんなに簡単に、人ひとりの足取りを消せるものだろうか?


順調と言えるのは、リーメイムの仕事の上達振りくらいだった。三日目に初めて注文聞きにフロアに出たが、誰が何を注文したか、彼は正確に覚えておけた。

仕事の進行が以前より随分楽になったと、エイダにはとても感謝された。フロア受けも妙に良いようで、その点は彼自身微妙な受け取り方なのだが。

何しろ、酔っ払いが彼を見る目が、かなり退くくらい助平心に彩られているのだ。エイダの調教が行き届いているせいか、お尻を触ってくるなどのセクハラは今の所無いけれど。

いや、触られても困るのだが。


リーメイムも、この仕事は自分に向いていると密かに思っていた。ただ、採掘師になるという夢を諦めた訳では、決して無いのも事実である。養父の後を継ぐという想いは、彼の中では大きな位置を占めていたのだ。

それから心の中に圧し掛かる不安と、養父を失ったばかりの悲しみは、決して無関係ではないのであろう。口には決して出さなかったが、リーメイムが時間を忘れる程の忙しさを好む要因の大きな部分を占めていた。

手先の器用な彼も、まだ15歳。心はそこまで器用ではないようだ。


リーメイムはベイク達と一緒に、遺跡の探検へと行く夢を、未だに心の中で暖めていた。だから、ベイクがちっとも彼に剣術の指導をしてくれない事に、ずっと不満を抱いていた。

養父も彼には、決して荒事を教えようとはしなかった。リーメイムの仕事は養母がこの世を去って以来、家事や牧場の家畜の世話、家の裏の小さな畑の面倒を見る事に限られていたのだ。

その他、買い物やら近所の付き合いやらで、彼の暇な時間と言うのがほとんど無かったせいもあるのだが。性格的に向いていない事を、早々と見抜かれていたのかも知れない。

こうして暇な時間が出来ると、リーメイムは何となく焦りを感じてしまうのだった。



「どうしても今日は、剣術を教えて貰いますからね。あなたはボクと約束したんだから」


ようやく雑用仕事の空いた、夕方近くの休み時間。それを利用して、リーメイムは側でサラとあやとりをしていたベイクに、怖い顔を作ってそう詰め寄った。

手には父の形見の、やや古びた細身の剣を携えていた。遺跡の地図と一緒にベイク達に見せたのだが、彼らはこれには見向きもしなかったのだ。

でも、古びていようと剣は剣だ。


「親子の憩いのひとときを、邪魔しないでくれたまえ……」

「何言ってるんですか、死ぬほど暇そうな癖に。いいよね、サラ、お父さん借りても?」


おざなりな態度で、ベイクは娘のあやとりに付き合っていた。そんな彼にリーメイムは喝を入れるように、何度も約束という言葉を口にする。

サラはきゅっと目を細めて、こんがらがった紐をリーメイムに指し示した。次は自分の番らしいが、それはもはや紐の部分はほとんど失われていて、悲惨な物体へと成り果てていた。

これを何かの形に戻すのは、光の民の技術者でも不可能では?


「あなたがボクを鍛えてくれるって言ったんですからね。忘れないで下さい、あなたが言ったんですから。だいいち、鍛錬しないとボク、本当に足手まといになっちゃうじゃないですかっ!」

「あのな、俺が剣術を教えようと思っても、お前がついて来れなきゃ何にもならないじゃないか。せめてもう少し、基礎体力をつけてくれ。俺は剣の型なんか知らないから、実戦で教えて行くしかないんでね……」


面倒そうにそう言うベイクを見て、リーメイムは彼が言い逃れをしているのだと、腹を立てて言い募った。見た目で損をするのは、もう飽き飽きしている。

自分もやれば出来るって事を、他人にも、そして自分自身にも確かめる時だ。


「そんなの、やって見なくちゃ分からないじゃないですかっ! ボクだって、見かけほどひ弱じゃないですよ。こう見えても、体力には自信あるし……」


ケンカ腰にまくし立てるリーメイムを見て、ベイクはむっくりと起き上がった。お腹の上に乗っかっていたサラは、毛糸で出来た破滅的にこんがらがった輪っかに悪戦苦闘中。

両手が塞がっていたサラは、コロコロ転がってリーメイムの足元へ辿り着く。目を回しているのか、両手が塞がっているせいか、何度も起き上がろうとしてはリーメイムの脛に頭をぶつける少女。

正直、ちょっと痛い。


「ふっ、体力に自信があるだと……? それじゃあ、今お前の足元に転がっている、そのおチビとかけっこで勝つ自信があるかな?」

「うっ……!」


リーメイムは、その言葉に一瞬たじろいだ。サラの物凄い足の速さは、みんなが知ってる既成の事実だ。だが、五歳の女の子に挑戦されて、断わる訳には行かない……。

これがベイクの罠だと知りつつ、教えを請いたい一心で、リーメイムは勝負を承諾した。


「いいですよ、かけっこ勝負、受けてたちましょう! その代わり、ボクが勝ったら、毎日きっちり稽古つけて貰いますからね!」

「いいだろう、その根性だけは認めてやる。ただし、お前が負けたら、俺がいいと言うまで毎日筋トレだからな?」


起き上がろうともがくサラをひょいと小脇に抱え、ベイクが不敵な笑みを浮かべる。対するリーメイムも、何とか努力して余裕の笑みを作ってみせた。

足の速さには結構自信があったし、何よりサラが父親の思惑通りに動くとは限らない。


ところがサラは、やる気満々だった。父親の怠惰な遊び相手振りよりも、リーメイムとのかけっこ遊びの方がはるかに面白いと思ったのだろう。

宿屋の表に出てベイクがルールを説明する頃には、サラは鼻息も荒く、クツを脱ぎ捨て臨戦体制。時折チラッとリーメイムを見上げて、敵に不足は無さ気な表情。

正直、これは勝っても負けても大勢が悪いのではと思い始めるリーメイム。


それでも、リーメイムもチビっ子に負けてはいられない。彼は懐からスカーフを取り出し、凛々しい顔つきで額に巻いた。負けられない……負けたらまた、からかわれるネタが増えてしまう。ベイクが通りの彼方の、中央広場を指差していた。

そんなに広くはないが、そこだけ舗装が施されており、中央に魔法で涌き出る噴水がちょこんと設置されてある。市民の憩いの広場だが、今は人通りも少ないよう。

片道100メートルは軽くある。しかも、予期せぬ障害物付きのかけっこだ。


「あの噴水を回って、この宿屋の前がゴールだ。言うまでもないが、先にたどり着いた者が勝ち。いいな、サラ?」

「ボクもそれで構いませんよっ。結構長い距離ですけど、サラのスタミナは平気なんですか?」


サラはこくんと勢い良く頷いて、リーメイムを見た。リーメイムは緊張した面持ちで、同じく頷きを返す。噴水とこの場所は、往復で二百メートル以上。これなら、体力勝負に持ち込めるかも……。

リーメイムがひとり作戦を練っていると、ベイクが娘に何やら語りかけていた。


「いいかサラ、相手は負けそうになると、何をして来るか予想出来ないからな。くれぐれも油断するなよ。相手が呼び掛けても、立ち止まっちゃ駄目だぞ。逆に脚を引っ掛けてやれ、分かったか?」

「そんな事、しませんよ……」


実はそういうのも有りかな、と考えていたリーメイムは、むすっとして言い返す。サラはぴょんぴょんとその場で跳ねながら、父親によーい、ドンを催促している。

ああっ、ボクがこんなに真面目を取り繕っているのに、この親子ってば……。


「そんじゃ、行くぞ。用意はいいな? よーい……ドン!」


ベイクの掛け声で、同じ瞬間に飛び出すリーメイムとサラ。二人のスタートは、ほぼ同時だった。リーメイムは手足を大きく躍動させて、スタートダッシュを図ろうとする。

だが、サラはちょこまかとした動きで、たやすくリーメイムの前に出てしまう。


「うそっ、何でっ……?」


たちまち1メートルほどのアドバンテージを取られ、焦りが顔に出てしまうリーメイム。まばらな人影が、何事かと二人の競争を、好奇心から見守っている。

観衆からサラに、応援のエールが飛んだ。周りの景色、周囲に立ち並んだ町並みが、風の中を物凄い勢いで過ぎ去って行く。スピードは、これ以上ないくらい出ている筈だ。

なのに、差は縮まらない。リーメイムは付いて行くのが、精一杯。


サラは文字通りに、飛ぶように駆けていた。時折チラッと後ろを振り返り、リーメイムの様子を伺っている。その表情は、いつもと変わらずに、全くの無表情。

前を行く通行人が、立ち止まってこちらを見ている。


「サラッ、ちゃんと前見てっ……!」


思わず、対戦相手の心配までしてしまうリーメイム。競技場を兼ねている大通りは、当たり前の事ながら貸切りなどでは無い。通行人は、そのまま障害物になり得るのだ。

ところがサラは前へ向き直ると、最小限の動きで立ち塞がる白髪の老人をパス。


「すっ、済みませんっ!」


荒い息で、ぶつかりそうになった非礼を詫びつつ、足を止めずに疾走するリーメイム。老人はフガフガ言いながら、目を丸くして二人の追い駆けっこを見詰めていた。

いつの間にか、舗装された道に足が掛かっていた。サラは既に、噴水を回ろうとしている。妨害をするなら、すれ違う時しかない。ベイクは遠い彼方で、多分何が起こったか分からないだろう。

ああっ、でも……!


まばらな拍手が、リーメイムの耳に届いた。無関係な観衆が、にこやかに傍観を決め込んでいた。激励の声が二人に送られ、リーメイムは覚悟を決めた。

意地でも、サラに追いついてやる……!


サラに続いて噴水を回り切る頃には、近所の子供達が、はしゃぎながらリーメイムの後に続いて駆けっこに興じていた。全く、人の気も知らないでっ……!

サラとの差は、開く事は無かったが、縮まる気配も無かった。いつの間にか膨れ上がった競技人口に、サラはびっくりしたように振り返って目を丸くした。

再び、サラのスピードが上がる。


「ああっ、もう駄目……」


リーメイムは息も絶え絶えに、それでも足を止める事無く走り続けた。頑張れねーちゃんと隣を走る男の子に励まされ、こいつには絶対負けないと、再び気力を振り起こす。

先程の十倍くらいの闘争心。十歳くらいの子供達の集団の、トップでゴールをくぐって、リーメイムは完走した自分に拍手の雨を浴びせ掛けた。

やった、勝った……!


「やーい、負け負け、弱虫。五歳の娘に負けるとは。あー、恥ずかしい……!」

「で、でも……」


この子達には勝ちました、と言う言葉を、リーメイムはかろうじて呑み込んだ。勝利を勝ち取ったサラも、さすがに額に汗を浮かべながら荒い息をしていた。

自分はと言えば、もう立ち上がる気力もないが……。


「どうしたの、みんな。家の前で、何の騒ぎ……?」

「勝ったんです、ボク……」


丁度買い出しから戻って来たエイダが、戸惑いながら輪の中に入って来た。未だに騒いでいる子供達と、へたり込んでいるリーメイムを見比べ、戸惑った表情を浮かべている。

サラは父親の上着を掴みながら、子供達の群れをこわごわ見ている。


誰かに認めて欲しくって、リーメイムはエイダにそう言った。駆けっこしたのと、子供達の群れから援護射撃が飛んで来た。下町の子供は、どうやら屈託の無い性格揃いらしい。

人情の絆は根付いているが、リーメイムの勝ちとは誰も口にせず。


「何を現実逃避してるんだ、お前。負けたんだよ、君は。五歳の女の子に」

「あら、みんなに遊んで貰ってたの。良かったわね、サラ。みんなここで待ってなさい、お姉さんがジュース持って来てあげるから」


子供達が、やったぁと大声で歓声を上げて飛び上がっていた。これじゃ、どっちが勝者だか分からない。いや……ボクはサラに負けたんだ、潔く負けを認めなきゃ。

リーメイムはようやくのろのろと起き上がり、吹き出る汗をスカーフで拭いた。負けを認めた今は、心の清々しさと肉体の疲労だけが鮮明に感じられる。

そこにベイクが近寄って来て、にやりと笑った。


「まっ、確かに根性はあるようだな。負けず嫌いなとこもいい。明日から約束通り、しっかり筋トレに励むように!」

「分かってますよ、約束ですから……」


まだ荒い息をゆっくり整えながら、リーメイムはかえってさっぱりした口調でそう言った。急ぐ事はない、遺跡は逃げたりはしないんだから……。

エイダが数人分のコップと、ジュースの入った瓶を持って、宿屋の入り口から姿を現わした。彼女はリーメイムを目で招き寄せ、それから小声で彼に耳打ちする。


「悪いけど、先にフロアの掃除と厨房の片付け、しといてくれないかな? こっちが引けたら、私もすぐに手伝いに行くから……」

「お安いご用ですよ。大丈夫です、手順はもう覚えてますから」


涼しい風が、リーメイムと一緒に建物の中まで入って来る。地下への幅広の階段を降りながら、リーメイムは我知らずため息を付いていた。

不意に上着の裾が引かれ、びっくりして振り返ると、サラが無表情に突っ立っていた。気付かない内に、一緒に建物に入って来ていたらしい。

サラは自分を指差して、こぶしをぐっと固める仕草。


「へっ、何……? もしかして、一緒にトレーニング受けてくれるって?」


サラはコクコクと頷いて、小さな腕でガッツポーズを作る。ああ、サラも父親と一緒に冒険したいんだ。リーメイムは苦笑いを浮かべつつ、サラのこぶしと自分のそれをコツンと打ち合わせる。

小さな乾いた音が、地下の暗闇に響く。


「それじゃ、明日から一緒に頑張ろう……!」





笑いながらリーメイムが告げると、サラは大真面目な顔で、再びコクリと頷いた。希望に満ちた目を、爛々と輝かせながら――






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