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14、自分の創作論を笑うな

(ドラゴンボールのナレーションを脳内再生してください)

 お客さんの喧嘩を仲裁した丸屋。しかし、そのお客さんから痛いところを突かれて絶体絶命のピンチに陥った。丸屋に秘策はあるのか否か……?

(ナレーション終わり)


 え、お客様、今度は自分の創作論もバカバカしくなってきた、ですって? っていうか、創作論そのものがバカバカしいものに思えてきた、と。

 ああええ、今聞いてた範囲ですとお二人の議論、稚拙もいいところだったのでバカバカしいっていうのはお客様方だけの感想じゃないですけどハハハ。あいえ、なんでもありませんとも。

 お客様、ちょっとお客様にはお説教が必要ですねえ。

 水でも飲んで、正座してお聞きくださいね。


 前回、「他人の創作論を笑うな」という話をしました。

 その論旨は、他人の創作論はその作者さんの個性そのものであるし、そもそもその創作論で面白い小説が書けるか書けないかが創作論の正しさを決めるものなんだ、というものでした。

 こんなことを言うと、時々、こう思っちゃう人がいます。『じゃあ、そもそも創作論なんて小説を書くにおいて必要ないんじゃない?』と。

 はっきり申し上げますが、これは間違いというものです。

 世の中には、創作論なんてものを持たずに小説を書いている人はいます。が、それらの人は世間一般には「天才」と呼ばれる人々です。まるで呼吸をするように小説を作り出すこれら天才の人たちは、言語化されていない創作論のようなものを持っていて、それが原動力となっているのでしょう。でもですね、そもそもこの「創作駆け込み寺」に興味をお持ちの方というのは、申し訳ないんですがそういった天才とは無縁な、つまりは普通の感性の人たちです。わあ、何を怒り始めるんですか! え、「普通の感性」ってところが気に食わない? いやいや。小説っていうものの面白さは、天才じゃなくとも戦いようがある点ではないかと思うんですけど。

 ともかく。

 創作論というのは、作者にとっては重要なものです。

 なんでかというと、小説作りというのが技術でありながら、きわめて抽象的な作業だからです。

 たとえば、彫刻家という職人さんを考えてみましょう。彫刻家さんが石膏から像を切り出す際には、きっと様々なセオリーがあることでしょう。横から見た輪郭を石膏の表面に書いてやって削り、次は前から見た輪郭を書いてやって削り……、という風に。それに、大体これくらいの力加減でノミを叩いてやると一番いいんだな、と手加減を覚えたりするのもその一つでしょう。これら一般の職人さんというのは、自分の身体体験が技術と密接に関わっているのです。つまり、「体で覚えている」ってやつですね。

 でも、小説家は違います。

 小説を書く時、小説家はあまり体を動かしません。昔なら万年筆とかペンを握って字を書き、今はキーボードを叩くという作業であるという差はありますが、とにかく昔から現代に至るまで、小説家の作業はあまり体を動かさないですし、体で覚えるような作業ではありません。小説家が覚える「技術」というのは、むしろ頭の中に「留めておく」ものたちなのです。

 なので、頭の中に留めるために、「言語化」が必要になってきます。

 つまり、「こういうときはああしたほうがいい」とか、「ああいうときにはああいう風に作った方がいい」という風に言葉にしておくことが、小説の技術を身につけることなのです。

 もっとも、小説に関するセオリーの中には、到底言語化不可能なものもあります。もちろんそれは一職人たる丸屋も持ち合わせています。でも、それは言語化出来た様々なセオリーの上にしか存在できないものです。そして不思議なもので、言語化できないセオリーの方が、はるかに有用なセオリーだったりします。

 実は丸屋、随分前に別名義で創作エッセイを書いたことがあったんですが、実はあの時、「あんなに手の内を明かしてしまっていいんですか?」というご質問を頂いたことがありました。でもですね、そのエッセイで説明できること、すなわち言語化できたものというのは、丸屋からしたら大したことのないものだったりするんですね。

 そして。

 さっき、「言語化できないセオリーは言語化出来るセオリーの上にしか存在できない」と書きました。つまりこれっていうのは、小説というメディアの大きな特質の一つなのではないかと思うのですよ。

 小説というのは感性一辺倒だけではないけれど、かといって技術が大きくモノを言うわけでもない。実はフィフティフィフティくらいなんじゃないかなあ、と。

 というわけで、小説家のはしくれならば、技術についての思索を巡らすことは馬鹿にしてはならない作業の一つなんではないか、というのが丸屋の結論です。ただし、他人の迷惑にならない程度にね、と付け加えておくことにはしておきます!


 創作論っていうのは、自分だけの道具箱なんですよ。分かりましたかお客様。

 ああ、分かっていただけましたか。それは何より。

 ふう、これにて一件落着ですねえ。

 え、なんですかお客様。お前の創作論をツッコんで聞きたい、ですって?

 あいやーすいません、わたし、天才なのでそういうものの持ち合わせがないんですよ。

(――聞えますか? 今、直截あなたの心に呼びかけています。……そういうのが、一番成長のないパターンです。悔い改めなさい)

 うわお、なんか今神様の声が聞こえた気がした!

 よし、創作論、練るとしますか。明日から。

(そういう態度が、芽が出ない原因なのですよ)

 ああ、また神の声が!


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