第四話 シルベスター (終)
11 帰還
少女が異変に動揺した隙に、エノラ・グリードは反攻に出た。
ナイフを持つ手を掴み、もう一方を少女の首に伸ばす。とても細く頸動脈がかすかに見える、くびれを押さえ一気に締め上げた。
虚を突かれ、オッド・アイの瞳はあらん限りに広がる。よもや、当人も反撃に出るとは思っていなかったのかもしれない。
「テメエ……!」
苦悶の幼顔が、怒りに変容する。
構う気はなかった。肉を引き千切るぐらいの勢いで、指先を首に食い込ませる。握力ならば、大人のこちらが有利だ。
ウィノナの右手からナイフが落ちた。金属が弾ける音が耳元に響く。少女が手を伸ばそうとするのを、エノラは首に掛ける力を一層加えた。
顔の上に、液体が垂れる。ウィノナが苦しさのあまり唾液を漏らしているのだ。ナイフを手に入れて脅せば、殺さずに済む。
エノラが空いた左手で落ちているナイフを拾おうとした。突如、右手に激痛が走る。少女が顔を無理やり動かし、手の甲に歯を立てたのだ。
顔をしかめるだけに留めたが、一瞬の隙を許した。
「ふざけろ!」
顔に血管を薄く浮かせ、ウィノナがみぞおちを強かに膝で蹴った。予想外の激痛が下腹部から脳天へ走り、エノラはたまらず呻く。
衝動的に彼女を睨み、渾身の掌底を胸付近に叩き込む。ウィノナは、頬を膨らませた口から唾液と吐瀉物を散らせて後方へ倒れた。
エノラは立ち上がろうとしたが、みぞおちを蹴られた時の余波が腰に走った。たまらず、手をついて横に転がる。
ウィノナがナイフを拾おうと歩き出した。反吐のこびりついた唇を勝利に歪める。エノラは――結ばれた足を滑らせて、彼女の眼前に突き出した。
足を払われた。少女はバランスを崩して床に転倒する。近くの鉄柱に手をついた際、その角に頭を強く打った。
代わりに、エノラはナイフを手中に収めた。ダブルバレルの代用としては心もとないが、無いよりましだ。
頭上から嘲笑がこだました。トタン屋根や鉄柱が軋む。天井の形が、薄っすらと人の顔に見える。レイナードに似た丸顔だ。
楽しんで見物し、強敵の自分が死ぬのを期待している。
「畜生めが!」
柱にもたれていたウィノナが振り返った。額から左目にかけて血を流れる。猛獣のように、歯を噛みしめてむき出しにする。
「ウィノナ、勝負は終わりよ。手当てをしましょう」
エノラの懇願に、少女はケラケラ笑う。瞳孔が定まっていない。頭を打ったせいで、とうとう本当の気違いになってしまったのかもしれない。
途端、ウィノナ・ウォーカーは顔を歪め、しゃくり上げて泣き出した。
「そうさ、もう終わりだよ。全部、エノラのせいだ。皆、死んじゃった。車も家も壊れちゃった。化粧もひどいよ。頭も痛い。胸も苦しいよ。頭もスゴく痛いよ。ねえ、どうしてくれんのさ――」
腰に差していたダブルバレルを振り上げて、ウィノナは走り出した。
「クソッタレの貪欲野郎のエノラァァァ!」
目を瞑り、エノラは片手で庇った。図らずも、右手のナイフを突き出したまま。ウィノナの体が、エノラにぶつかった。
ドツッと小気味の良い音が聞こえ、同時に、反動が手に加わる。ナイフに肉が刺さる手ごたえがある。
少女の体が離れると、刃先が赤く染まっていた。ウィノナは腹の上を手で押さえている。腕の隙間から、赤い染みが広がるのが見えた。
「ほら見ろ。あんたとあたしは違わない」
ウィノナは膝を崩し、うつ伏せに倒れたまま動かなかった。
震える手からナイフを落し、エノラは跪く。人を殺したという実感は生まれなかった。ただ、少女の懐を漁り、ペンチは探そうとした。どこにも見つからない。さっき逃げた時に、落したのだろう。
仕方なく、ダブルバレルとナイフを持って、そのまま三番のシャッターへ目指して飛び跳ねた。雪上車を燃やす炎も沈下しつつある。
また、遠くから鉄の軋む音が聞こえてくる。彼が嘲笑っているのだ。無駄な足掻きだと、太鼓腹を抱えてながら。ウィノナ達と並び、ある意味、生き返らせた自分もまた復讐の的であるかもしれない。
途端、金属がひしゃげる音がした。少しして、風を切る音。薄暗い中に目を凝らし、エノラは息を飲んだ。
柱が何本も宙を浮き、こちらに向かって飛来してくる。どれも先がねじ切られ、鋭く尖っている。
咄嗟に身を屈めた。頭上を通過し、壁を抜けて消える。風穴から、降った雪が入ってくる。
彼女は傍に立つ柱の陰に隠れた。一本が貫通し、真横をかすめる。頬に刹那の熱が走った。頬から流れる黒い血をナイフに塗り、エノラは柱から飛び出した。
天井から嘲笑と共に、トタンが縦に向けて殺到する。次々と地面に突き刺さる、即席のギロチンの群れ。
鼻先で後退して回避し、真横に落ちたトタンが肩を裂くが構いやしない。地面に転がるガラスを踏む痛みも同様だった。余裕など何もあったものじゃない。
両足ケンケンの要領で、前後に跳んで、左右に避け、迂回しながら目的の三番シャッターを目指す。なぜか、笑いたい衝動に駆られた。
いっそ、曲芸師にでも転職すべきだろうか?
しだいに、息が切れかける。喉が渇いた。足の感覚が疎くなる。アンヨをしない歩行が、こんなに難儀だとは思わなかった。
シャッターの前に差し掛かると、物陰から何かが躍り出た。死霊と化した長身、首のなくなったトールが両手を広げて襲いかかる。
呆気なく押し倒されたエノラは、目の端にもう一体の死霊を捉えた。小男のスワイブである。下半身から臓物を引きずらせながら、足元まで這ってきている。
「てんで冗談じゃない!」
思わず叫んだエノラは、両足でトールの腹部を抑え、脚部に最大限の力を込めた。バネで跳ね返すようにして押し上げた。
死霊は柱にぶつかり倒れるが、早くも起き上がろうとする。
エノラは、持っていたウィノナのナイフを投げた。ナイフは死霊の掌に突き刺さり貫通する。柱に引っ掛かったのか、白目を剥いたスワイブは身動きが取れない。二体に向かって、エノラは傷口から流れる血を振り掛けた。
死霊達は人ならぬ悲鳴を上げ、顔中から煙を立たせる。
相手が苦痛でうずくまっている隙に、エノラは表面の蛇腹に手をかけて、シャッターを一気に上げた。
倉庫の奥に商人が倒れていた。急いで、シャッターを下ろし、エノラは彼に駆け寄り、頬を叩いた。生きていたら、足の束縛を解いてもらえるかもしれないと期待した。
浅黒い肌をし、黒い髭を蓄えた商人は、カッと目を開けると悲鳴を上げて逃げようとする。首を吊られそうになった記憶がぶり返したのだろう。
「落ち着きなさい!」
彼女を振り切り、商人はシャッターを上げた瞬間、聞き慣れた風を切る音と共に、その首に矢が突き刺さった。
崩れる体を蹴って、ウィノナ・ウォーカーが躍り出る。
――なぜ! まさか、死霊に……?
彼女の心中を読み取ったのか、少女は血みどろの腕を突き出した。
「詰めが甘すぎるよ、エノラ」
さっき刺したのは、少女の腕だった。腹を庇うように腕を乗せていたのも、傷を分からなくするためであった。
矢が装填されたボーガンを左手に構え、ウィノナは言った。
「一緒に逃げよう、エノラ。これが最後のチャンスだよ」
「まだ分からないの、ウィノナ・ウォーカー? 私とあなたの関係は破綻しているのですよ。いいえ、最初からないようなものだわ」
「だったら、今から築いていけばいいじゃん」
「ウィノナ……あなたは、私の目の前で三人も殺めた。そんな人と一緒に旅ができると思って?」
「遊びでやってるんじゃない! あたしだって、本当はしたくなかった!」
ウィノナに悪意はない。少なくとも、本人はそのつもりだ。単なる殺人狂ではない。楽しんで人を殺しているのではない。何かしらの道理のため、自分が生き残るために仕方なくしてきたのだろう。
目の前にいる少女は生きる限り、障害となる者、排除すれば自分が得をする者に手をかけていくだろう。
いくら知り得ても、決して共感はできない。どこまでも相容れない。
「ウィノナ、私は、あなたと並んで旅路は歩けない。歩きたくない」
眼の端に血を流し、無表情のウィノナに、エノラは本音を吐き出した。
「そうかい分かったよ……さよなら、エノラ・グリード。クソッタレのパパとママとあたしを向こうで待ってな」
ボーガンを向ける少女の足元を何かが這い、毛皮のブーツを掴んだ。
スワイブだった。さらに覆い被さるように、トールも襲いかかる。
「チキショウが、離せ!」
ウィノナが叫ぶのを聞きながら、エノラはナイフを取りに戻ろうとした。
予期せず、首に圧迫を感じた。足が宙に浮く。天井から延びた鎖が首に巻きついたのだ。意味なくダブルバレルを振り回すが、鎖が一気に締め付ける。
意識が早くも朦朧とする。切りつければ、黒い毒の血を出すと分かり、こうやって殺せば、刺し違いにならずに済むと踏んだのだろう。
ダブルバレルの弾丸はない。ナイフも突き刺さったまま。レイナードの死霊はまだどこにいる。ウィノナも捕まり、自身も首吊りの状態に陥った。
複数の死霊を相手に太刀打ちできる手立てなどない。せめて、あと一発でも黒い空包があれば活路は開けるものを――。
エノラは視界が漆黒に包まれる寸前、またも、男女の幻影を見た。
――嫌だ……ここまで来て、私は死ぬの?
その時、重い響きが耳朶を打つ。何かと思い、朦朧したまま薄く目を開けると、入り口の鉄扉が開けられ、白い雪景色の背景に誰かが立っているのが分かった。
その格好を捉え、エノラに笑みを漏れた。
分厚い防寒着に身を包む人物は、エノラを見るなり叫んだ。
「エノラ!」
聞き覚えのある、男の声。やはり聞き違いではないと、エノラは手を伸ばして首の隙間をつくると大声で答えた。
「銃の弾を投げなさいな!」
男が待っていたように、腕を振って何かを投げた。ゴムで結ばれた二発の弾丸。一つは、弧を描いたそれらは、エノラの手に収まった。
あらかじめ銃を折っていたおかげで、装填は二秒で済んだ。エノラはすぐさま、上に向けて、実包を放った。耳をつんざく銃声。鎖が切れて、彼女は転びながら地面に倒れたが、すぐさま起き上がった。
狙いは、レイナードだった死霊。
機会は一度。やり直しはない。外せば、今度こそ死ぬ。
構えた先は、死霊の取り付いた物。それは――。エノラは周りを見渡した。
部屋の中心に置かれた、大型のバッテリーが妖しく光り、まるでダンスをするように小刻みしている。
――馬鹿な子。死霊のなりたては、隠れるのが下手だ。
引き金を引こうとするエノラの背後で、ウィノナが叫んだ。
「エノラ、助けて!」
少女に覆い被さるように、四肢のねじれたトールと、下半身のないスワイブが牙をむいている。思わず、指先が硬直する。人差し指が動かない。
少女の命乞いが引き金を重くしているのか。
標準はどちらも正反対にある。込められた弾も一発。
「エノラ、早く撃て!」コートの男が叫ぶ。
「お願いだから助けて!」後ろからウィノナが叫ぶ。
巨大なバッテリーが空を浮き、真ん中から上下に割れる。歯車と突起になって並び、エノラに向かって飛来する。
もう一度、エノラは少女を一瞥した。右手に血を流し、左手で抵抗するものの限界が近い。怪物はウィノナの喉笛に噛みつこうとしている。
一瞬、オッド・アイの瞳と合った。唇を固く結んだ少女は無表情になる。
ふいに――頭の中に、二人の人間が浮かぶ。霞みが薄れ、若い男女の顔をこちらに向けて……手を振った。こっちへ、と彼らは呼びかける。
エノラは、目の前に迫る怪物に向かって発砲した。
轟音と共に放たれた、赤い散弾が無数に飛び出し、バッテリーに取りついた死霊を蜂の巣にする。怪物は断末魔を上げ、バッテリーが丸く膨張するや否や、爆発した。部品が辺りに飛び散る。
顔を庇い、エノラは後ろを振り返った。
二体の死霊が、少女の細い首に齧りついていた。苦悶に満ちた呻きが上がる。感慨も後悔もなく、エノラはただ、柱に刺さったままのナイフを抜いた。
ただ、黒い瞳は切なく光沢を放っていた。
12 おやすみのキス
エノラは、自由になった足でウィノナの元へ向かった。もう一度、ナイフに自分の血を塗りつけ、少女に覆い被さるように、首元に噛みついている長身の髪をわし掴む。そして、乱暴に引き剥がすと、その喉笛に黒い刃を一閃させた。
間髪入れず、腹部を喰らうスワイブの脳天にナイフを突き刺す。
首に赤い線が浮き、鮮血のシャワーを撒き散らせる。血泡を口から吐いて、トールは呆気なく果てた。頭からナイフの柄を生やしたスワイブも同様だった。
エノラは膝を屈し、横たわるウィノナを眺める。細い首や腹部からから溢れる血だまりが床に広がる。もはや、助ける手立てはなかった。
「ウィノナ」
彼女の呼びかけに、少女は弱々しく眼を開ける。
「エノラ――あたしは、死んだらどうなるの?」
「死後、あなたは仲間のように死霊となって、私に殺されるでしょう。あなたの餌になるほど甘くはない」
ウィノナは唇を歪めた。開いた口から、血で汚れた歯が覗く。
「それでいい。エノラはやっぱ、そうでなくっちゃ……」
少女は、血反吐と共に咳を出す。
「もう、人を傷つけてまで生きる必要なんてない」
手を伸ばし、頬を擦る。化粧は落ちているが、柔らかく、すべすべする感触はまだ子供のそれだった。
「今更さ、同情なんか買わないよ。……でも一度ぐらいはいいかな」血みどろの右手を中空に上げ、「ねえ、最期にお願い、聞いてくれる?」
「なんですか?」
「キスして、くれる? ディープじゃなくてもいいから、さ」
エノラは少し考え、口の端を噛んだ。溢れる血を渇いた舌で舐めて十分に潤すと、体を屈めて、顔を少女のそれに近づける。
唇をウィノナのそれと重ねた。柔らかい感触と、強烈な鉄の臭い。
エノラに感慨などなかった。恥じらいも不快感も麻痺している。
彼女が唇を離すと、少女は舌で口を舐めた。口紅のように付着した、エノラの黒い血を吸い上げる。
「おやすみのキスです、ウィノナ」
ウィノナは微笑を浮かべる。「ありがとう。エノラは本当に――甘いよね!」
突然、顔を歪め、少女は一方の手を伸ばして、自分とエノラの手首に手錠をかけた。それは、子供が遊ぶのに使う、ブリキ製の玩具だった。
「これで、あんたは動けない。あたしが死んで死霊になったら、一番初めにあんたを喰ったげる」
エノラ・グリードは動じなかった。銃で破壊するなり、力づくでも壊せるだけではない。そもそも勝負はついているのだ。
「ウィノナ、言ったはずですよ。おやすみのキスだと」
「はあ?」
「さっきのキスで、私の血を付けました。あなたはそれを口に含んだ。あなたは普通の人間のまま死に絶えるのです」
呆然としていたウィノナだが、黒い血が死霊を殺す毒である事を悟ったのか、力なく溜息を吐く。
「あんたの勝ちだよ。もう、完敗」
「私が勝ったのではありません。あなたが多大なミスを犯したのです」
冷静さを欠き、忠告を無視してレイナードを殺した時点から、彼らの運命は決まっていたのかもしれない。
「あたしの自爆か。言えてら……」
少女が咳を繰り返す度に血反吐が顔にかかるが、エノラは気にしなかった。
「ねえ、エノラは、正義と欲望のどっちにグリード(貪欲)なの?」
前に聞いた質問だ。不思議にも、今度は答えがすぐに浮かんだ。
「両方です。目的地へ向かう夢もありますが、人の道を外れるのも嫌です」
「ホント、厚かましい答え」
「グリード(欲張り)ですから」
少女は空笑いした。声にもならず、空気が抜けていく。大きなオッド・アイの瞳から涙が溢れて出る。
「どうして……二人は、あたしらをもっと愛してくれなかったの? 他人を踏み台にしてでも大事にしてくれなかったのさ? そうすれば……あの家で暮らせたのに……学校にも行けたのに。友達も……皆とずっと、ずっと、一緒にいられたのに――」
そこまで言うと、震える手でエノラの腕を握った。とても、弱く、消えゆく命をエノラは実感した。
「エノラもあたしを見捨てる?」
何も言えなかった。彼女はただ、顔を俯けるしかなかった。
「あんたの正義なんて、所詮はハリボテさ。教会に通う小悪党と変わらない。絶対に本物にはなれないし、その方がいい。あたしが保証する」
ウィノナは彼女の手を握る。掌の中で固い感触があった。
「エノラ……パパやママと会いたいなら、全部踏みにじっていきなよ。じゃないと、あんたみたいな、お人よし――」
言葉は途中で止まり、握力が弱まっていく。生気のない二色の瞳が虚空を見上げる。
緩んだ手の中に、手錠の鍵があった。
エノラは手を自由にすると、少女の頭に巻いてあるバンダナを外した。豊かな金髪を下ろしてやり、迷彩色のバンダナを小さな手を持たせ、少女の胸の上に重ねる。そして、虚ろな目を閉じさせた。
生前とは異なる、どこにでもいる子供の寝顔がそこにあった。
「ウィノナ・ウォーカー、憎しみを解き放ち、眠りなさい。どうか、幼き魂に慈悲と安穏を――」そして、一呼吸を置いてから一言を続ける。
「光あれ」
少女の遺骸は、死霊と化す事はなかった。
エノラは祈りを唱えしばらく目を閉じていたが、ゆっくりと立ち上がって近づく男に声をかけた。
「助かりましたよ。よくご無事でしたね、シルベスター」
「ああ。我ながら幸運だったよ」そう言って、彼は防寒着――胸の辺りに穴が一つ開いている――を脱ぎ始めた。
すべてを脱ぎ捨てると、そこには骸骨の体しかなかった。否、彼がそんな体である事は、エノラには重々承知である。
「体がスカスカじゃなかったら、即死だったな、こりゃ」
骨の手が突き出したのは、くの字に折れたボーガンの矢であった。ウィノナに撃たれた時のものだ。
シルベスターは、以前、旅の孤独に苛まれた彼女が甦生させた再生者であった。しかし、儀式の際、肉体の代用となる肉を使わないまま敢行したため、骨だけの体で生き返ってしまったのだ。
以来、負い目と便利の半々と、妙な腐れ縁で彼は旅の道連れとなった。さすがに、ウィノナに撃たれた時は半信半疑だったが。
すべき事を先に思い出し、エノラは頭を下げた。
「あなたの警告を無視したために、自分だけでなく、あなたを殺してしまうところでした。本当に、ごめんなさい」
「辛気臭い事はいいから、早くここからずらかろうや」
「待って下さい」
エノラは、死んでいる商人を起こした。取り戻した道具からナイフを取り出す。器となる肉を回収するための小刀で、いつも洗浄してある。
「少し、道草を許してもらえますか?」
頭蓋骨を頷かせて背を向けた。彼は、グロテスクな光景には奥手である。
「事情は後で聞かせてもらうぜ」
13 売り切れ御免
その男は瞼を開けると、虚ろな目をエノラに向けた。
「私は……一体何を……」
彼は寝ぼけ眼のまま体を起こすと、見覚えのない部屋にいるのに気づいて、「ここは一体どこなんだ? 私は、なぜこんな所に?」
エノラは、商人に彼自身の名を告げた。
「あなたは、ここから遠い東にある、レルサームという町の出身の商人です。リンゴを揚げた菓子を売り歩いていた。違いますか?」
エノラが商人の経歴を事細かに淀みなく説明していく。万が一の事態のためか、彼の荷物の中から、名前と身分、住んでいる村の名前や位置、娘の事などが書かれた手帳があったのだ。
商人は目を丸くして何度も頷いた。当然の反応である。
「そうだ……私はアリエッタを養うために、旅を……」
野盗や異常気象に見舞われる荒地を旅する者は、常に死と隣り合わせにある。危険を承知で、旅人が集落の外へ繰り出す。開拓、出稼ぎ、交易、逃避……理由は様々。当然、彼らが、自身を証明できる遺言めいた物を常備するのは珍しくなかった。
リンゴ揚げの商人が、命がけの行商を続けていた理由も手帳に記されてあった。町に子供が減少した事で、以前より売れなくなったという。六世代から続く家業のため、業種を変える訳にもいかない。
仕方なく、レルサームよりも大きな集落を求めて、村から村、町から町へと売り渡いて来たのだとか……。
「あなたは、雪の中で倒れていたのです。私が見つけた時には、ほとんど虫の息でした。幸い、近くに村があったので、ここへ運んだのですよ」
商人は頭に手をやり、複雑な計算を解こうとする顔になる。しばらく、同じ反応を続けていたが、合点がいったようにゆっくり頷く。
「そうだ、私は吹雪の中で遭難して、死にかけて……」
エノラは心底、息を吐いて安堵した。目覚めたばかりの再生者は、生前の記憶については説明しない限り、混濁しているケースが多い。嘘の記憶を彫り込むには、最適な機会であった。
「神様が、あなたと娘さんを引き離すのを、是としなかったのでしょうね」
エノラは手を伸ばし、商人の浅黒い手を優しく擦った。
「アリエッタが家に待っています。早く帰ってあげなさいな」
「そうしたいのは山々なんだが……」言葉に詰まり、商人は顔を落した。
「何か、問題でも?」
「実は、商品がなかなか売れないんだ。揚げリンゴなんて、故郷以外の場所で売った事がなくて、誰も見向きもしてくれない」
事実、木製の背嚢に入っている揚げリンゴは、蓋を押し上げるほど余っていた。
「そうですか……」とエノラは立ち上がり、部屋のドアを開けた。
瞬間、隣室に詰めてかけて聞き耳を立てていた大勢の村人が、将棋倒しで部屋になだれ込んできた。
目の前の少女を捉えた途端、彼らは一斉に揃って平伏する。
エノラは、村人達に手を広げて一礼し、仰々しい作り声を出した。
「皆々様方。ご覧の通り、ワタクシは再び奇跡を起こしました。ワタクシの神通力により、この者は、新たな生を得たのです」
ははあ、ありがたや、と頭を下げる村人達。最前列には村長と、数日前に甦生させたばかりの息子もいる。
奇々怪々な光景に、商人は口を半開きにしたまま呆然としている。
「しかし、今回は甦生だけではありません」エノラは咳払いをし、「この商人には、聖の御利益があるように御力を注入しました」
「つまり、どういう意味ですか?」
オニギリ頭をした村長の息子が遠慮なく質問した。隣で膝をつく、年配の村長が慌てて、「コレ、無礼であるぞ!」と青年の頭を小突く。
「よくぞ聞いてくれました! すなわち、この男に関係する物、強いて言えば、商品の揚げリンゴにご利益があるように御力を授けたのです」
頭を下げたまま村長が恐る恐る聞いてくる。
「女神様。このお方の揚げリンゴを食べると、あなた様の御利益があると?」
待っていたとばかりに、エノラは満面の笑みで声高に宣言した。
「左様。買って食べた分だけ、ワタクシの聖なる力が宿るでしょう」
14 弱い人間
二人は、一度来た時と同じく、逃げるようにアムールの村から出た。背後から、喝采と喧騒がかすかに聞こえてくる。
あの後は、空前絶後の大騒動だった。
背嚢の揚げリンゴを求めて、押し合いへし合いの行列が連なった。何が起きたのが理解できない感じで、商人は対応にてんてこ舞いであったが、繁盛したと分かると、笑顔になって、大勢の客に対応した。
その間、混乱に乗じるようにして、エノラとシルベスターはアムールの村を後にした。これ以上留まっていたら、どうしようもなくなる。
道中、シルベスターは頻りに、「その手は思いつかなんだ……」とつぶやくので、「乱用はしません。これっきりです」と釘を刺しておいた。
しばらく歩きながら、お互いに何があったかを話し合った。
シルベスターはあの時に倒れた後、ずっと気絶していたらしい。意識を取り戻してから、雪上車の轍を辿るまではよかったが、吹雪のために一度中断、彷徨っているうちに廃工場を避けてしまったという。しばらく行ったり来たりした後、偶然、工場へ戻る雪上車を目撃し、轍を歩いて一時間、工場の近くまで来た途端、ダブルバレルの銃声を聞いて只事ではないと分かり、念のため、銃弾二発を持っておいたという。
「よくタイミングが分かりましたね」
本人曰く、なんとなくと投げやりな答えだった。
エノラは多くを語らなかった。ウィノナ率いる野盗に拉致され、手荒い歓迎を受け、レイナードの甦生を強要され、やむなくそれに応じて……。表層的な内容だけを話した。ウィノナとの間であった事は黙っておいた。
エノラ・グリードは少女の事を思い出していた。数時間前まで生きていた人間の一挙手一投足が、今ではすっかりおぼろげになりつつある。
あの子は、一体、自分に何を求めていたのだろう? 時には、同性愛に似た接触を求め、ある時は気を許した仲間のように話し合い、時には子供のように甘え、最後には本気で殺し合いながらも、共存を要求するのを止めなかった。
ウィノナは、自分を受け入れてくれる他人を欲したのかもしれない。肉体的にも精神的にも拒絶せず、だからと言って一方的に従属しない、確固たる意志を持つ、自分と似た他人。そんな好都合な者が実在するどうかは、彼女にはどうでもよかったのだろう。
唯々、それを欲していたのだ。自分と同じぐらい貪欲に。
ぼんやりと思案に耽ると、エノラの足取りは遅くなる。その癖を、シルベスターは知っていた。なので、あまり話しかけないように心掛けている。
しだいに、雪が徐々に浅くなってきた。もうすぐ、山間部へ入るかもしれない。緑もなく、実りのない、枯れた林の続く、白銀の山々が遠くの視界に映る。
今歩いている白い大地と大差はない。何もなく、何かが生まれ出てくるというイメージではない。むしろ、すべてが死に絶えた後の荒野でしかない。
忘れかけたウィノナの言葉が脳裏に甦る。
――パパやママと会いたいなら、全部踏みにじっていくんだよ。
乱れた金髪を揺らし、吐血しながら少女の幻影が嘲笑する。
――ほら見ろ。あんたとあたしは違わない。
エノラは、いつの間にか立ち止まっていた。黒い瞳を伏せ、その場にしゃがみ込む。前方を歩くシルベスターが、異変に気づいて戻ってきた。
「どうした、エノラ?」
何もない眼窩が問いかける。一度は死んだと思っていた相棒の有り難味が今になって沸き起こり、抑えようもなく目柱が熱くなる。
「気分でも悪いのか? まさか、アノ日か?」いつもならば、平手を張る。
代わりに、エノラはさめざめと泣きだした。
「私は強い人間じゃない。今日みたいに命の危険に晒されたら、あなたを見捨てて、自分だけ逃げ出すかもしれない」
事実、監禁されている間、シルベスターの無事を祈ったことは一度もなかった。自分はそんな人間なのだと自覚している。卑怯で、エゴで、名前の通り欲張り。少なくとも、ウィノナを全否定する資格など自分にはない。同じ境遇にあったなら、彼女のようになっていたかもしれないのだ。
顔を下げて唇を噛みしめ、エノラは卑屈な思いに嗚咽を漏らした。彼女の前まで戻って荷物を下ろすと、シルベスターが悠然と腰を捻り、体中の関節を鳴らす。
「エノラ、俺がいつもお前の荷物まで持ってやってる理由が分かるか?」
無言のまま首を振る。本音は、答えを知っている。以前、勝手について来るのなら、荷物運びぐらいしろと、自分が命じたのだ。
「それはな、もしもお前が窮地に陥ったら、金と食料を持って、俺だけいつでも逃げられるためだ。手ぶらでトンズラしても意味ないからな」
そして、串に刺さった揚げリンゴを荷物から取り出して、エノラに渡した。彼は何事もなかったように歩き始める。いつ買ったのか、揚げリンゴを頬張りながら。骨格だけの体なので、当然、咀嚼されたリンゴの残滓がボトボトと地面に落ちていく。
――はしたない。そう思いつつ、エノラは小さく笑みをこぼした。
「人間は弱い。弱いからこそ、人間でいられる。違うか?」
シルベスターが、空に向って頭蓋骨を傾けて言った。
揚げリンゴを片手に持ち、エノラ・グリードは立ち上がると、泣きはらした顔を手で拭き、軽やかな歩みで相棒の背中を追う。
今日で幾度目か、灰の空から雪がぽつぽつと降り始めようとしていた。
【To be continued?】
まさか、本作が(全四話とはいえ)連載として『砲台守の太一郎』より先に完結するとは、夢にも思いませんでした。
とりあえず、二人の旅は今後も続きます。しばらくは、残酷児童物語シリーズとの双頭体制(?)で細々と書いていきます。
なお、2月24日(金)21時に、本作の後日談にあたる第三弾を投下します。当日は仏滅らしく、彼らもそれ相応の憂き目に遭う内容です。